惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

8-5b (ver. 0.1)

2010年04月15日 | MSW私訳・Ⅲ
8-5 言論の自由の権利(承前)

言論の自由についての現実の正当化に戻ろう。最初の一歩はとても単純である。我々は言語行為を行う動物である。我々は二足歩行し、飲み食いし、地球の大気を呼吸する動物である、それと同じように言語行為を行う動物なのである。言論の自由の権利は、人間存在が言語行為を行う動物であり、自己表現する能力をその種に生まれつきの特徴として持っているという事実の自然な帰結である。言論の自由の認識は我々の生のこの特徴の中心を認識することの一部である。

わたしはこれが言論の自由の第一の正当化だと言った。しかしそれで十分だとは思わない。ほかに、この権利と調和しない多くの自然な傾向があるからである。たとえば若い人間の男性は明らかに、他の若い人間の男性を打ち負かしたいという自然の傾向を持っている。おそらくは女性を巡る競争においてである。しかし他者を打ちのめす権利などというものはない。言論の自由は何が特別なのだろうか。わたしの考えでは、他者に対する暴力の例はそれほど扱い難いというものではない、というのもそうした暴力の概念は他者に危害を加えることにかかわるからであり、他者の権利を侵害することなしにそのような権利を持つことはできないからである。権利の平等の概念は他者に暴力を振るう権利の概念を禁じている。しかし、それでも我々はまだ森の中から出て来てはいない。なぜなら我々は、それが他者に危害を加えなくても[通常否定的と考えられるような]多くの傾向を持っているからである。たとえば麻薬を摂取し愉悦し耽溺するといった傾向である。そうする権利はあるだろうか?ここではそれを論じないことにしよう[笑]。わたしはそれは単純なことだと思っていない。しかし我々が他者に危害を加えないという自然な傾向を持つという事実は、それ自体だけで件のことを行う普遍的な人権を十分に保証するものではない。

しかしそうすると、言論の自由は何が特別なのだろう。わたしの考えでは、我々が言論の自由の議論において必要とする二番目の特徴は、合理的な言語行為を行う能力に我々が特別な重要性を附与しているということである。我々が言論の自由の傾向を持っているというのは、我々が親指を咥える傾向を持っているというのと同じことではない。そうではなく、言論の自由の行使において我々は我々の人間存在としての潜在能力を十全に発揮するということが特別に価値のあることで、なにがしか本質的なことだと考えている。

アメリカ人にとってそれはそうだろうが、これだけではいかにも苦しい、と日本人のわたしは感じる。わが国の人々が、それを「特別に価値のあることで、なにがしか本質的なことだ」と考えているかというと、それはすこぶる怪しいという場合が多々あるからである。もちろんわたしが言っているのは、わが国では東京都とか大阪府とかの恥知らずな自治体が画策している言論表現抑圧条例のことである。これらの自治体の行政や議会は揃いも揃ってひとり残らず恥知らずな連中には違いないが、しかし、彼らが知らないのは恥だけではないのかもしれない。

だから我々は少なくともふたつの特徴を言論の自由の権利について認識しなければならない。ひとつは我々が言語行為を行う動物だということであり、もうひとつは我々の言語行為能力にはある特別に重要な、あるいは価値が存在するということである。わたしがここで言っていることにはある重要な暗示が存在するが、それを明らかにしておこうと思う。人権の正当化は倫理的に中立ではありえない。それは我々がいかなる存在であるのかの単なる生物学的な概念にかかわる以上のものである。つまりそれは、現実的にであれ潜在的にであれ、我々のまさにこの存在について何が価値であるのかにかかわっている。

ここにも例の外人4コマの写真を貼りたいところだ。よかれあしかれ、この節でのサールは哲学者として以上に言論の自由(free speech)の思想家としてものを言っているとわたしは思う。

我々が言語行為を行う動物であるということから言論の自由の権利ということに賛成する議論を行うのに最もよい方法は、言論の自由に反対するさまざまな主張のことを考えてみることである。現在流行の主張は次のようなものだ。「最良の言語理論にしたがえば、言語は行為のいち形態である。言語行為である。しかし言語における行為は、他の行為と同様に、他の人々を傷つけうるものである。したがって我々は他のあらゆる行為と同様に、言語行為も制限(regulate)する権利を持っている。わたしの言語行為はあなたを、一般に他者を傷つける力を持つがゆえに、社会はわたしの言論の自由をさまざまな形で制限する権利を持ち、また責務を負っている」と。

実際にこんなことを言ってる連中がいるに違いない。以下、自らの言語行為論を逆手に取られたサール先生の、怒りの反撃。

なるほど言語行為は行為のいち形態である。にもかかわらずこのような主張は誤りである。なぜか?もしわたしがあなたを傷つけるようなことを言ったとすると、あなたはわたしがあなたを打って身体的に傷つけたのと同じように傷つくかもしれない。それでもやはり、そこには大きな違いがある。重大な違いは、言語行為の場合、発語媒介的な効果は聴者の心理状態に対するものであって身体的な損害の形態ではない。わたしはあなたの言葉に怒るかもしれないし、腹を立てるかもしれないし、激怒するかもしれないし、あるいは単に傷つくかもしれない、しかしいずれにせよ血が流れるわけでもなければ骨が砕けるわけでもない。昔のコドモの決まり文句、棒と石のアレである。

さすがはgoogle先生、検索一発で答が出てきた。「Sticks and stones may break my bones, but words can never hurt.」言葉通りに訳すと「棒や石じゃあるまいし、言葉で骨が砕けるかよ」となるが、実際のところは「勝手ニ言ッテヤガレ」というような捨て台詞なのだろう。・・・しかし、この例はちょっと本気で主張するには厳しいのではないだろうか。すべての制度的現実が言葉から創出されると言っておきながら「たかが言葉じゃねえか」と言ってるようなものだからである。

さらに、そしてこれが同じくらい重要だが、聴者に対する発話媒介効果は大部分たかだか聴者に及ぶだけである。もしわたしがあなたの言葉に怒ったり腹を立てたり激怒したり単に傷ついたりしたとしても、それにもかかわらず、わたしが怒ったり腹を立てたり激怒したり傷ついたりした理由と、実際にわたしが感じた感情の状態の間にはスキマ(gap)が存在する。言語行為の特別な特徴は実際、我々は言語行為を行う動物であるだけでなく、言語行為を行うゆえに合理的な動物でもあるということである。言語行為はいくらでも攻撃的でありえようが、人はその発話媒介効果を決定することにおいて言語行為を合理的に評価する選択肢を持つ。[つまり、]わたしはその言語行為を無視してうろたえないことを決意することができる。再び言うが、言語はたとえ攻撃的であっても、打ったり縛ったり、あるいはその他の肉体的な打撃によるものとは大きく異なるのである。

発話媒介効果が聴者にとどまらない場合──つまり合理的な操作の余地がない場合──それは確かに法律家、裁判所、立法府は、言論の自由に対する無理のない制限をかけようとする場合となってきた。これらは二種に大別される。ひとつは、合理的な思考のまったくありえないところでは、発話媒介効果はハメツ的でありうる、そうした場合があるという考え方である。紋切型の例は満員の劇場で「火事だ!」と叫ぶような場合である。もうひとつは言論の実際の標的に対する発話媒介効果と、他の聴者に対する発話媒介効果、特定の個人に対してもつかもしれない効果を区別すべきだという考え方である。後者の発話媒介効果の特徴は誹謗中傷の法則を導くことである。あなたがわたしに対して敵対的なことを言ったとして、わたしがどれだけ傷つくにせよ、ある重要な意味でそれはわたし次第のことである。しかしあなたがわたしについて言う場合、しかもそれがまったく根も葉もないことを故意に悪意で他者に告げ口する場合、それはわたしがそれをまったく制御できないやり方で大きなダメージをわたしに与える。これが誹謗中傷の法則の基盤である。わたしは、誹謗中傷の法則は合衆国において、どちらかと言えば過大評価されていると思う。

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