惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

年の納めに厄神さま

2010年12月31日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
今年最後の書き込みは、除夜の鐘のかわりに「雛さんの厄除け画像」。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」/石っころ様)
※トリミング・縮小済
→pixiv/石っころ

原寸大画像はリンク先でどうぞ。

なお、以上の他に作者blogが存在するが、さっきアクセスを試みたら某ワクチンソフトが「厄いんじゃね?」警告を表示した。pixivを眺めていてもこの作者の人や作品に問題があるとは思えない、たぶんそのサイトに張られたリンクの何かに問題があるものと思われるが、さしあたりそのリンクを張るのは控えておく。

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因果ということ(2) ─スキマ(gap)があるわけではない─

2010年12月31日 | 心身問題・自由意志
スキマ(gap)があるわけではない。もしもスキマ(gap)が「ある」のなら、「ある」スキマ(gap)はそれを埋めることが、少なくとも論理的には可能でなければならないのではないだろうか。「埋めることができないスキマ(gap)がある」ということは、だから、本当はスキマ(gap)など存在しないのであって、ただスキマ(gap)とは何かを解釈しようとした場合にそう前提せざるを得ない(必然的にそのような命題を前提として置かなければならない)だけなのかもしれない。存在しないもの、ないし存在すると言うことができないものは、その属性について考えることもできないからである。



考えてみたい、あるいは考えてみなければならないことのひとつは、我々が論理的な因果ということを考える、考えざるを得ないように存在するものだとして、そうせざるを得ないということには根拠があるはずだ、というか、根拠がなければならないということである。この「なければならない」ということに願望の意味を込めているつもりはない。そうではなくて、ごく表面的な比喩で言えば、我々がそのように自身の存在を理解するものとして存在するということは、端的に我々自身の生物学的な生存に関して、それを制御(安定化)するような、機能(この機能は必ずしも物理を意味しない、機能主義という場合の機能である)における効果を実際に持っているのかもしれないということである。

こうした考えはもちろん、我々が意識を持つ存在としての自身の物理的な対応を、対象ならざる対象すなわち非コンパクトな超対象と見なすところから自然に導かれる考えである。生物学的な機能主義のもとで眺めた場合の組織(体制)の複雑性がある閾を上回ったとき、それは自身を単に制御されるべき対象であるところを超えた何かとしてしか存在できなくなったということが、我々が意識を、とりわけ主観的な意識を持って存在するということの理由でなければならない。

それとも、そうではないのだろうか?

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TRW-S07d (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実(承前)

ここまでの議論からは興味深いパズルが浮かび上がる。すべての意識、意志、意図的な行為はその行為を行う欲望の表現である。そうすると、欲望によらない行為遂行理由がどうやって存在しうることになるのだろうか。欲望によらない理由がどうやって欲望を表現する行為を動機づけることができるのだろうか?答はちょっとばかり複雑であるが、基本的にはこうだ。欲望によらない行為理由の正当性を認識することは、読者が行為を行うことを欲することの基礎を持つことである。人が喜ばしい目標を達成する手段として喜ばしくないことをする欲望を形成することができるという事実は原理的にすこしもフシギではない。わたしにとって歯医者に行くことは嬉しくも何ともないことだが、わたしは歯医者に行こうと欲する、なぜなら実際に欲する何かが存在する。つまり健康な歯をである。歯医者に行くことのわたしの欲望は派生的な欲望である。他の欲望から派生した欲望である。[一方、]約束を守りたいというわたしの欲望はやはり派生的な欲望であるが、別の欲望から派生したものではなく、権利義務的な事実──わたしは責務を負っている──の正当性の認識から派生したものである。

読者がもし、欲望によらない理由に基づく欲望を持つなんてことがあるのか、フシギな言い分だと思うなら、理論的な理由を考えると、それが明らかに起きることが判るであろう。そんなこと信じたくないと思うようなことがわたしにはある。しかしもし一方で、それが真だと判っているならば、わたしはそれを信じることの、欲望によらない理由を持つ。わたしはそれを信じたいと望まないにもかかわらず、それを信じることの根拠を持つのである。実践理性の場合においてはすこしもフシギではない。わたしはさもなくばそうしたいと欲しないあることをする根拠を持つことができるし、またその根拠は、わたしがその正当性を認識するならばそれをすることを欲することの基礎をもたらしうる。

わたしはそれがわたしに欲望の根拠をもたらしうると言っていることに注意しなければならない。しばしば人々は、彼らが欲望によらずにあることをする理由をもつことを認識しつつ、なお彼らがそれをする理由をもつそれをしないものである。欲望によらない行為理由の認識は常にその行為を行う欲望を生み出すわけではない。たとえそうすることの正当性を認識した後でさえ、である。つまるところ、そうした認識は欲望をもたらしうるのであり、したがって行為を合理的に動機づけることができるのである。

かくて我々は等式と導出のひと揃いを得る。我々はこの節の議論を次のような関係にまとめることができる。

  制度的事実=地位機能→権利義務力→欲望によらない行為理由→行為について可能な動機

平易な英語で言えば、制度的事実のすべては地位機能であり、かつ制度的現実だけが地位機能である。地位機能は権利義務力を含み、権利義務力はその正当性が認識される限り、欲望によらない行為理由をもたらす。そしてこれらは行為についての可能な動機となる。

(第7節おわり)

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TRW-S07c (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実(承前)

そして権利義務力はなぜそんなに重要なのか?権利義務力は、わたしが知る限り、人間の社会ならざるところには存在しないあるものを、つまり、欲望によらない行為理由(desire independent reasons for action)を我々に与える。約束をしたとか、あるものが誰かの私有財産であるとか認識した人は彼がある責務を持つことを認識する。その他の権利、義務、責務、必要、権威等々においてもそうである。カリフォルニア大バークレー校の教授として、わたしはありとあらゆる地位機能をもっており、そしてそれらは正負の[権利機能の]いずれにせよ例外なく権利義務力として授課されている。わたしはこの教授室を使用する権利をもち、これから1時間のうちに講義を行う責務をもつ。制度的現実は制度的事実の体系が地位機能を創出し維持することにおいて合理性に封入(lock into)されている。制度的現実において地位機能はさまざまな種類の権利義務力を具現化する。

ふたたび、なぜ権利義務力はそんなに重要なのか?それらは人間の社会をまとめる糊である。糊の力とは何か?人々が地位機能の正当性を認識すれば、彼らはそれが権利義務的な地位を持つものとして認識し、そしてそのことによって、彼らはそれを彼らの直接的な傾向によらない行為理由を与えるものとして認識する。それが糊の力である。わたしはこの考えを地位機能は欲望によらない行為理由をもたらすという言い方に縮めよう。例を挙げてみれば明らかである。もしわたしがミュンスター大学の世話人に対してこの本に寄せる原稿を書くことを約束したら、わたしはわたしの他の傾向がどうであるかにかかわらずそうする責務を持つことを認識する。約束をしたその時点でそんな気になっていたかどうかにかかわらず、自分の傾向にかかわりなくそうする理由があると認識する時はやってくる。わたしが知る限り、人間以外の動物でそんな[欲望によらない行為理由の]ようなものを持つものはない。わたしがわたしの犬を訓練するとき、わたしは彼をわたしの望むところに適合する傾向を持つように訓練するわけである。わたしは彼を、わたしが彼を呼ぶのを聞いたら、わたしが彼にそうしてほしいと思うことをする傾向を彼が感じるであろうように、わたしが彼を呼んだ方角に向かうように訓練する。わたしが[犬に対しては]しないし、できないが、人間に対してなら可能ではあることは、彼に責務の感じを与えることである。もし誰かがある時刻にわたしと会う約束をしたら、わたしの犬とは違って、彼はそれをする理由を持ち、それは彼の傾向によらないものとしてある。なぜ犬は責務によって行為しえないのだろうか?答は、責務によって行為するためには、彼は責務から理由づけられ得なければならず、責務から理由づけられるためには、彼は責務の概念を持たなければならず、責務の概念を持つためには、彼はその概念を表現する言語的な手段を持たなければならない。彼は「責務」ないしその同義語を実際に持たなければならないということはないが、彼は件の概念を表現するための言語的ないし象徴的な装置を持たなければならない。これには複雑な理由が存在する。しかし基本的な考えは、ケモノ(beast)がもつことのできる直接的な感覚的経験からは、責務の概念を表現するための言語的な手段をとうてい持ち得ないということである。

(つづく)

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たこイカ

2010年12月31日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
てなわけでちょっとテスト。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」/Miracle様)
※背景色調整済

「背景白」の原画像はリンク先でどうぞ。この作者の人に関連するWebページはニコ静の他には見つからなかった。

テストと言って、これ自体十分いい絵なのだが、サイズがもとから小さいのでここに貼るのは控えていたものである。

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むう

2010年12月31日 | miscellaneous
gooブログの編集画面が勝手に新バージョンに切り替えられてしまっている。旧バージョンに戻そうとしても戻らない。新バージョンの編集画面を強制された格好であるが、要は「前のバージョン」ボタンが正常に機能していないので、アップデートの手違いだと思われる。とはいえさっそく「嫌がらせかゴルァ」とばかり運営に怒鳴り込んでいるユーザが何人かいる(笑)ようだから、そのうち戻るだろう──戻らなかったら正真正銘の嫌がらせで、驚くべき陰険さだということにはなる。何度も言うがわたしは有料の「アドバンス」ユーザである。

下の「TRW-S07b」は仕方がないのでその新バージョンを経由してうpしたものである。予めテキストエディタで本文を作って、必要なタグも自分で打っておけば、とりあえず問題なく表示はされるようである。ただ下は画像を入れていないので、画像を入れても大丈夫かどうかは定かでない。ちょっと「他人様の絵」探してきて試してみるかな・・・

(Jan.01,2011追記)
上の不具合は年明け前には直っていた。

不具合に乗じて新バージョンでの書き込みテストをやり直してみたわけだが、記事のすべてをテキストエディタで作成→そのままコピペの手順をとる限り、現在のやり方を特別変える必要はなさそうだということが確認できた。ということで、新バージョンの仕様が今以上に悪化しない限り(互換性の意味で)、このblogは3月以降も存続できそうである。

わたしは自分でhtmlタグが打てるのでそういう風に切り抜けられるわけだが、専ら編集画面の機能に頼っていた人にとっては、相変わらず新バージョンへの切り替えが災難であることに変わりはないのだろうと思う。20年前、いや10年前でもPC関係のソフト/ハードのメーカは普通に製品の「下位互換性」に配慮しながら製品開発をやっていたものだが、最近ではこうした言葉は意図的に忘却しているか、どこかからそう指示されているのではないかと思うくらい、どこの企業もユーザの都合を体よく無視するようになっている。

こういう、ユーザ志向に対する「反動」傾向は今後もそう簡単には元に戻らなそうな印象を、わたしは持っている。わたしが生きている間はずっとこんな調子のままであるかもしれない。こうした風潮やその変化の分析には当分届きそうもないわけだが、いずれは分析をその水準まで届かせることが、わが素人哲学にとって最大の目標のひとつであることに今後とも変わりはない。

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TRW-S07b (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実(承前)

これらの地位機能はどうやって創出され、また維持されるのか?簡単に答えるなら言語的表象によって創出され維持される。そしてそれは常に明示的な言語行為の形態ではないが、同じ論理的構造を下敷きにしている。それらはすべて前述した意味における宣言型言語行為の形態を持っている。だから我々が誰かを大統領にする、あるいは誰かに学位を授ける、何かをお金として扱うとき、我々は彼を大統領、学士号、お金として表象することによって事態を成立させる(make it the case)。これらの地位機能宣言(Status Function Declaration)──とわたしは呼びたい──は双方向の適合方向をもつ宣言型言語行為すべてがもつ特徴をもっている。それらは事態を表象することによってその事態を成立させるのである。

地位機能宣言の効果(effect)は権力(power)の創出である。我々はお金、政治的構造、私有財産を持つことによって権力を増大させる。地位機能を研究する単純なモデルは人間のゲームである、というのもそれらは人間の生活のそれ以外の側面と切り離して理解することができるからである。たとえば野球における投手、打者、走者はすべてゲームの外では持たないような何らかの権力※を持っている。

この場合「権力」という訳語はどうにも適切ではないわけだが、かといって「力」なら適切だというわけでもない。この文脈におけるpowerはサールにおいて確かに普通の意味での「権力」も含んでいるので、さしあたって訳語は「権力」のままにしている。

これらの権力はどんな種類のものなのだろうか?さよう、それらは「権利」「義務」「責務」「必要」「権威」「許可」などの語でしるしづけられるような、ひとつの特異な力※の集合である。

この「力」もpowerだが、ここはこの訳の方が適切であろう。

これらを表す一般名詞(general label)として、わたしはこれらを「権利義務力(deontic powers)」と呼ぶ。また、これらの権利義務力を具現化するような事実、野球の試合で走者であるとか、合衆国大統領であるとか、ある紙切れは20ドル札であるとかいった事実を「制度的事実(institutional facts)」と呼ぶ。我々は今や関係の状態の集合を設定することができ、さまざまな能力を除いたところの、人間の文明の構造の骨組みを理解することができる。制度的事実の形態における制度的現実は地位機能宣言の形態をもつ言語行為によって創出される。そうした言語行為は地位機能の創出し維持する。また地位機能は例外なく権利義務力をもつ。機能を創出する実際の言語行為は明示的な宣言型言語行為の形態をとる必要がないということを強調することは、たぶん重要である。人はリーダーとして扱われることによって、あるいはそうと認識されることによって、あるいはリーダーとして表されることによってリーダーにされてしまうということがありうる。ただ肝心なのは、そうは言ってもある表出の形態は問題の制度的事実を創出する上で本質的だということである。

(つづく)

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石段ぴょこぴょこ

2010年12月31日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
たまにはこういうのを。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」/ketn様)
※縮小・背景色調整済

原寸大画像はリンク先でどうぞ。

この作者の人に関連するWebページはニコ静の他には見つからなかった。

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TRW-S07a (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実

人間は合意、認識、承認によってのみ存在する現実を創出するために言語を用いる。現実はそのように創出される現実──家族、私有財産、お金、政府、大学等々──は人類を他の(わたしが知る)あらゆる生物種から区別する。人間は明らかな(distinctly)人間の文明であるものを創出するために言語を用いると言っても過言ではない。ここからわたしはその考え(notion)について説明しよう。人間(と、他の動物種のいくつか)は対象物に機能を授課(impose)※する能力を持っていて、だからたとえば対象物は道具として使うことができる。

imposeに対する「授課する」という訳語はこのblogの私訳に固有の訳語(つまりは訳者の造語)である。これは、サールの社会的存在論におけるdeontologyが単に「義務」論ではなく、権利と義務が本質的に対としてあるような「権利義務論」と訳すべき語であることに関連している。地位機能として義務や責務をimposeすることは「課する」であるが、権利をimposeするという表現がサールのテキストには実際に存在して、そのばあい訳語は「授ける」が一番合っているように思われる。そうすると地位機能一般についてそれをimposeすることは、権利と義務の両方を包摂する語や概念が日本語に存在しない──と訳者には思われる──以上、「授課する」と訳すのが適切であると考える。

この意味における機能は常に観測者相対である。道具としての機能、家、ボート、武器などは機能が授課された実体の物理的構造として(in virtue of)はたらく(あるいははたらきうる)機能である。だが言語を所与として、人間は対象物や人々に機能のあるタイプを授課する能力を持っている。それは物理的構造としてはたらく機能には似ていない。人が遂行する機能の多くは、たとえば合衆国大統領の機能、お金として使われる(serve)対象物の機能などは、実体の物理的構造としては、あるいは少なくとも実体の物理的構造としてだけではたらくことができないものである。ただの紙切れのうちにお金としての価値が存在するわけではないし、ただの金属片のうちに硬貨としての価値が存在するわけでもない。その男のうちに彼を大統領たらしめている物理的構造が存在するわけでもない。ごく大雑把に言って、お金はそれが価値を持つと人間が考える限りにおいて価値を持つのである。そして、お金の価値の割り当てがとる形態は人間が紙切れや硬貨に割り当てるある地位であり、またその地位によって、その地位の集合的な承認としてのみはたらきうる機能である。わたしはこれらを「地位機能(Status Functions)」と呼ぶ。地位機能は人間の社会を束ねている糊であり、ある意味でそれらは人間の文明の本質的な要素である。お金、財産、政府、結婚、大学、弁護士、医者、夏休み、カクテル・パーティなどはみな地位機能である。これらのすべては制度的事実であり、それらの事実のすべては地位機能の事例である。そうした事例において実体、個人、個人の集まり、過程は地位をもち、またその地位によって、その地位の集合的承認としてはたらく機能である。

(つづく)

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帰省先から書いてみるテスト

2010年12月30日 | miscellaneous
わざわざテストしてみるほどのことでもないわけだが、このblogを帰省先から書いたことがなかったので、まあその記念ということで。

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今日の検索語(Dec.29)

2010年12月30日 | miscellaneous
検索語のトップは、実にまあ何というべきか「因幡てゐ 壁紙」だった。

ここんとこ、てゐやうどんげの絵を貼るときは年賀状がどうとかいった話をしていたわけだが、すでに年賀状を書く時期ではないのである。いま検索している人はたぶん、来年がウサギ年だからそれに因んだ絵を探しに来ているわけである。家に神棚や床の間があるわけではなくてもPCの壁紙くらいは正月らしくしたいと考えるわけであろう。まあ考えることは皆同じだというか、これこそは日本人らしさというべきで、微笑ましいのである。とはいえ件のブツは、このblogで探すよりは、ニコ静とかpixivとかでタグ検索した方がよほど早いのではないだろうか(笑)。


(「てゐっ!!」ニコニコ静画/剛郷様)
※縮小調整済:原寸大画像はリンク先でどうぞ

もうひとつ東方ネタの検索語で「霊夢 寒さ対策」というのがあって吹いた。世の中には検索語でギャグを飛ばす人がときどきいる。

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厄いですね

2010年12月30日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
(このblogのここんとこの記事を眺め返して)ええ、まあ、ご覧の有様でして。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」/ゆずガム様)
※縮小・色彩等調整済:原画像はリンク先でどうぞ

上の画像の原画像は、このblogに貼るには明度的に暗かったので、色彩や明度を調整した。また、この作者の人に関連するWebページはニコ静の他には見つからなかった。

絵の方はニコ生か何かで描いたのだろうか、ラフなタッチで描かれているが、しかしこんだけラフに描いても一見してそれを感じさせないほど「だいたいつかんでる」絵が描けるのだからたいしたものである。

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感想

2010年12月30日 | miscellaneous
コピペ再構成と転載だけして感想を書かなかったら文句を言われそうな気がしてきたので、ごく簡単に感想らしきものを書いてみる。

いや、まず最初に、何しにこれを転載しようと思ったのかについて書く。別にたいした理由ではなくて、togetterにまとめられた形でも「なんか読みにくいな」と感じたから、少なくとも自分にとって読みやすい形にしたのである。同じことを感じる人がどのくらいいるかは知らないが、このblogを眺めに来る人の中にそういう人が、わたし以外にひとりかふたりくらいはいるだろうと踏んで、そのくらいでも役に立つなら結構なことだし、もともとtwitter上で無料公開された文章なのだから、高橋源一郎氏が損するということもまずないだろうと思われた。

で、なぜ再構成する必要があったかと言えば、ざっと読んでみても論旨はいくぶん錯綜したところがあって、引用するにも文脈を外れた引用になったら嫌だなと思ったのである。実際下をうpする前に自分で読み返して、わたし自身が基本的に同意見だということを確認した。

基本的に同意見だから、あとは同意見でないところについてだけ書く。同意見でないというか、誰がどう見ても高橋氏が錯綜したことを書いているとわかる箇所がある。たとえば「ポルノチックなものを(だけではないが)取り締まるあらゆる試みに反対」だと言いながら、しばらく後では「家庭でゾーニング、学校でゾーニング、それで十分じゃねえか」などと書いていたりする。わたしも「ポルノチックなものを(だけではないが)取り締まるあらゆる試みに反対」だが、よって当然、あらゆるゾーニングにも反対する。高橋氏の主意はこちらの側にあるだろう、とわたしは勝手にそう見なしている。

ちなみに親がコドモに「まだ早い」などと言って見せないのは、わたしならその親がケチだというだけだ。親のケチが目に余るようならコドモは反抗すればいいし、それほどでもなければ黙っていればいい、それが親子関係だろう。いずれにせよ、そうしたことを「ゾーニング」などという気持ちの悪い言葉では呼ばないだろう。

都知事の遣り口が「チンピラヤクザ」のそれと同じだというのは、わたしもそうだと思う。ただ、どうなのだろう。わたしはそれほど詳しくないのだが、チンピラヤクザがチンピラヤクザとして生きしのいで行く上で最も重要なことを文字にして書くと、一言「なめられるな」ということだと何かの本で読んだことがある。それが本当だとすると、高橋氏がここで示した方針は、この件を単なるチンピラヤクザの抗争にしてしまいかねないのではないか。そんな危惧を持たないでもない。

ちなみに、わたしの都知事の態度に対する評価は数日前に「酒飲み話」として書いた一文の冒頭に知人の分析として紹介した通りである。あれがそのままわたしの評価でもあると思ってもらって構わない。つまり本当のところこの件の鍵を握っていて、しかも最悪の難物なのはPTAとかの圧力団体のオバハン達に象徴されるような連中の性的欲求不満なのである。それに比べたらチンピラ都知事の作家的嫉妬のごときは放っておくがいいと思える。

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高橋源一郎氏の長い呟き

2010年12月30日 | miscellaneous
以下は小説家の高橋源一郎(takagengen)氏がtwitter上で「午前0時の小説ラジオ・『東京都青少年の健全な育成に関する条例』なんかで青少年が健全に育成できると思ってんのかよ」と題して呟いた、例の破防法適用相当某自治体の某条例改正についての呟き(計39回)をまとめ、わたしが勝手に段落分けしなおしたものである。主に記号類について若干の変更を加えたほかは内容には手をつけていないが、段落分けや字下げについてはわたしが勝手にやったもので、高橋源一郎氏のものではないことをお断りしておく。

「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の「改正」案・・・って長すぎるだろ、これ・・・が都議会で可決、成立した。みなさんは、どのような感想を持たれただろうか。

おれはもちろん「改正」案には反対なんだが、その論拠は、多くの反対者のそれとは、少々異なるかもしれない。おれが、この件に関してほとんどツイートしなかった理由はそれだ。そもそもおれは、今回の「改正」案にだけ反対なのではない。20年前の「有害」コミック指定にも反対だった。いや、「改正」前の「条例」にも反対だ。というか、ポルノチックなものを(だけではないが)取り締まるあらゆる試みに反対だからだ。

そういうと、おれは「表現の自由」を守るために、反対していると思われるかもしれない。もちろん、おれは、他人の「表現の自由」は守るべきだと考える。だが、おれ自身に関してはあまり「表現の自由」を主張しようとは思わない。おれは書きたいものを書く。規制したいやつがいたら勝手にするがいい。おれはあらゆる手段を駆使して、ひとりでもやる。それだけだ。この問題に関して、常套句のようにいわれる言葉がある。「あなたは、こんな作品を子どもに見せられますか?」。バカいうな。「こんな作品」はおれたちが見せるものじゃなくて、子どもが勝手に見るものだろう。いや、おれは、「こんな作品」を子どもたちにぜひ見てもらいたいと思っている。おれの立場はこうだ。「青少年の健全な育成」のために、ポルノチックな作品を読むことは絶対に必要不可欠だ。おれは、4歳と6歳の子どもを育てている父親として、そう断言する。

そのようなおれの意見が、圧倒的な「公共性」を持つかどうかは、おれにも判然としない。一つの「意見」が「公共性」を有するには、平準化が必要だ。そのためには、他人の意見や感想に合わせなければならない。その重要性をよくわかりつつ、それでも、おれは、おれの「肉体」を通して正しいと思える思想を捨てるわけにはいかないと考える。そもそも、おれはいい子じゃないし。たとえば、「児童ポルノ」はさすがにまずいと、「改正」案に反対する人間も思うかもしれない。おれは、どれほど醜悪な作品、最低の作品もまた同じように必要だと考える人間だ。そういった劣悪な作品は、子どもに悪影響を与えるのか? ここからは、おれの個人的に体験について書いてみる。

おれが生まれて初めて「極悪ポルノ」にぶつかったのは、小学校2年の時だ。おれは父親が隠していた「看護婦レイプ小説(挿絵入り)」と「近親相姦少女レイプ小説(挿絵入り)」を発見したのだ。正直、天地が裂けるほどの衝撃を受けたね。よく意味はわからなかったが、ヤバイと思った。まだ幼い性欲がいたずらに刺激されたのも事実だった。それまで、一重だった世界が二重に見えた。おれがそれを読んだことは絶対に誰にもいってはならない「秘密」だった。そう、おれは「秘密」を知ったのだ。そして、おれは、しばらくして、小説や文学と呼ばれるものを読むようになった。そこでいったい何が起きたのか。おれの考えでは、「光と闇の分離」が起こったのである。劣悪な作品、ポルノチックな作品は、「罪」であり「闇」であり「毒」なのかもしれない。では、「闇」は不要で、危険なものなのか? 断じて違う。「闇」はなくてはならないものだ。「闇」がなければ、誰も、光り輝く世界を知りようがないのだから。最初のうちは、誰も「闇」を知らない。「闇」を知らないということは、「光」を知らないということだ。おれは、子どもたちに「光」と「闇」の世界があることを知ってもらいたい。そのために、ポルノは必要不可欠なのだ。

子どもが「なんで、ダメなの?」と訊ねたら、「まだ早い!」でお終い。子どもは不満を感じるだろう。それでいいのだ。後は自分で探せばいいのである。家庭でゾーニング、学校でゾーニング、それで十分じゃねえか。彼らは数少ない時間と、狭い空間をぬって怪しいものを見つけるだろう。

ポルノや暴力が子どもたちに悪影響を与えると信じるやつがたくさんいる。おれの考えでは、そいつらは、自分がきわめてポルノチックな人間なので、他人もそうなるに違いないと思い込んでいるのである。はっきりいって、それ、ビョーキですから。医者に行った方がいいと思うぜ。そいつらは、子どもを信じていないのである。子どもの能力についてなにも知らないのだ。おれは、そういう人間こそ、青少年の「健全な育成」に害をなしていると思うね。もちろん、ポルノチックなもの、「闇」は危険だ。成長を促すだけではなく、取り込み、破滅させることもあるだろう。それがこわい、というなら、子どもたちになにも見せるな。あらゆる文化は、光と闇でセットになっているのだ。危険なものばかりじゃないか。テレビも本もみんな奪い、部屋に閉じ込め、オナニーできないように、後ろ手錠にでもしておくことだ。彼らのほんとうの希望は、それなのだ。

「性的」なものが青少年に害毒を与える、という意見が、如何に現実離れとした妄想であるかを膨大な資料で立証した『青少年に有害! 子どもの「性」に怯える社会』の中で、著者は、こんなことを書いている。

「放送電波から情報やセックスが消え去ることなどありそうもない。どんな法律も、インターネット用のどんなフィルターも、どれほど用心深い両親も、二歳を超えた子どもの目に触れるまえに、すべてのページ、すべての画素に注意を払うことはできない。高校の新入生ローラ・メギヴァーンは、こうした方法で子どもを『守る』べきで、それが可能だと考えている親たちに向かって鋭い、哀れむような調子で語りかけた。地元ヴァーモントの新聞にこう書いたのだ。『あなたがたが興味を持ちそうな物を知っています。鍵のかかるクローゼットです』子どもをそこに押しこめておけばいいというのである。子どもがメディアを利用するとき、ローラが考えている以上に、大人は影響力を持つことができる。しかし、検閲は保護ではないという点で、彼女は正しい。それよりも大人は、性の世界に進む子どもに戦う機会を与えるために、正確で現実的な情報と、愛とセックスをめぐる豊穣なイメージと物語で、その世界をいっぱいにしてやらなければならない。」

必要なのは、規制することではない。性の「闇」が横溢するなら、それに抗する、豊かな世界を与えることが、彼らをサポートする最大の力なのだ。だが、やつらは、「規制」するだけで、なにも与えようとはしないのである。なぜって? バカだからだよ!

これで、まだ半分ぐらいだね。ゆるゆる行こう。

おれが、今回の「改正」案反対側に明確に立たなかったのは、いままでツイートしたように、そもそも、考え方が違っているからだ。だが、もう一つ理由がある。おれは、「改正」案への反対側の人たちが、少々紳士的すぎると感じているからだ。青少年保護育成条例(っていうが、ぜんぜん、保護にも育成にもなっていないことはもういった)の「改正」案に対して、反対論者たちは、ていねいに、精密に、論陣を張った、とおれは思う。でも、それでいいのかな。だって相手にしなきゃならないのは、あの「都知事」なんだぜ。

今回の「改正」案は、性に関する、微妙な内容を含んでいる。ところが、それを自分の名前で提出している「都知事」が、性(だけでなく)差別発言をどかどかしている。それって、どうよ。ふつう、周りで「こういう改正案ですから、発言を謹んでください」と注意するだろう。というか、本気で子どもたちのことを考え、本気でポルノ的表現の横行が問題と考え(横行してないけど)、本気で対話し、本気で合意をはかろうとするなら、あんなアホ発言、連発しないだろう。では、どういうことなのか。なめているのである。誰が? 「都知事」がだ。誰を? 我々をだ。あの男は、論理的でも倫理的でもないことを平気でいう。反論されると、恫喝する。今回だけじゃない。ずっとそうだ。なぜか。それが楽しいからだ。「正しくない」ことをいって、誰かが反論する。そういう時、デカイ声で「バカ!」というと、みんなおとなしくなる。それが嬉しいのである。おれは、あの男と同じ精神構造の人間たちとしばらくつきあったことがあるのでよく知っている。チンピラヤクザだ。ああいうやつは、自分でぶつかっておいて、「この野郎、ぶつかったな」と因縁をつける。むちゃくちゃだ。しかし、そのむちゃくちゃが、恫喝で通るから、嬉しいのである。ああいうアホは、説得のしようがないのだ。無駄なんだよ。だって、他人の話を聞く意志がそもそもないんだから。それにもかかわらず、ていねいに説得しようとする人達に、おれは深い敬意を払う。マジな話。でも、おれは、いやだね。高橋家の家訓は「なめられるな」だからさ。おれはおれのやり方で好きなようにやる。それだけだ。

ところで、前回の改正案、「非実在青少年」が問題になった時、東京都が出した「条例改正質問回答集」の中に面白いQ&Aがある。「『非実在青少年』は生きている青少年ではないのに、なぜ規制する必要があるのですか?」への回答だ。そこにはこんなことが書いてある。

「これまでも、子供が読んだり見たりした場合に、性的な刺激を強く受けるような漫画などについては、その子供の健全な成長が妨げられるのを防ぐため、条例により子供に売らない、見せないための取組(いわゆる「18禁図書」として「成人コーナー」に置くこと)を行ってきました。今回の改正は、漫画などのうち、18歳未満のキャラクターに対する強姦(レイプ)や近親相姦(親子や兄弟姉妹間のセックス)など、実社会では社会的に許されない悪質な性行為について、読者の性的好奇心を満たすため、あたかも楽しいこと、社会的に許されることであるかのように描くような漫画などは、性的判断能力が未熟である子供が読んだり見たりした場合に『このようなことをしてもいいんだ』『このようなことをしてみたい』などの誤った認識をしてしまうおそれがあるため、子供への販売を行わない対象に追加しするものです」

おれがウケたのは「『このようなことをしてもいいんだ』『このようなことをしてみたい』などの誤った認識をしてしまうおそれ」という部分だ。そういう考えになるものを規制するのが、どうやら「青少年保護育成条例」の役目のようなのである。だったら、まず規制すべきものがあるだろう。「都知事」の数々の性(を含む)差別発言だよ。「このような差別的なことをいってもいいんだ」「こういうむちゃくちゃなことをいっても誰も反対できないなら、ぼくもこういうことをいってみたい」などの誤った認識をしてしまうおそれがあるじゃないか。こっちの方が遥かに被害甚大です。

「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の(変わっていなければ)、第4条の3はこう書いている。「都民は、青少年を健全に育成する上で有益であると認められるもの又は青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認められるものがあるときは、その旨を知事に申し出ることができる」いわゆる「都民の申出」条項である。おれは、6歳と4歳の子どもを育てているひとりの都民として、「第4条の3」に基づき、次のように「申出」たい。

「拝啓 東京都知事殿。昨今、石原慎太郎と称する男が、性(だけではない様々な)差別発言を繰り返しております。これは、青少年の育成を妨げる明白な行為でありますので、厳重に取り締まるようお願いいたします。

平成22年12月29日
東京都民・高橋源一郎」

以上です。おれは、いい子ではないので、真似しないでください。ご静聴、ありがとうございました。.

(takagengen)


以上の再構成は、直接的には以下のサイトにまとめられたものからコピペしてきて作成した。

Togetter - 「作家高橋源一郎氏が東京都青少年健全育成条例改正に反対する理由 」

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ヴワル魔法図書館とラクトガール~少女密室

2010年12月29日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
毎時ランキングだけ見てニコレポの方はチェックしないでいたら、そばかす魔理沙の人の新作BGMがうpされてるのに気づかなかった。


「東方まんが」シリーズの方だけじゃなく、このオリジナルアレンジBGMの系列の作品も評価は高いし、近作では絵自体が実にぬるぬるとよく動く(笑)のだが、なんでか再生数がそんなに伸びないのは勿体ないことである。

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