第6章 自由意志、合理性、制度的事実
6-5 我々はロボットのように振る舞うようにプログラムされうるか
ここまで、わたしは制度的現実を一定に保った上で異なる人間本性を構築すること、それはつまり、実際についこの間まで現代の認知科学の大部分によって自明の仮定とされていたこと──わたしはこの何十年かそれを攻撃してきたものである*──の思考実験を試みてきた。
しかしここで思考実験の設定をひっくり返してみよう。我々が通常の既存の思考過程をもち、スキマ(gap)の上で決定と行為をなすものであるとする。我々はまったく異なる種類の制度的現実を想像できるだろうか。また我々に、いま持っているようなタイプの選択の自由を許さないような、機械的かつ算法的な制度的現実を想像できるだろうか。うむ、これはほとんど間違いないと思える。たとえばあなたがこの文を読むとき、あなたの脳は自動的にそれを構文解析(parse)し、あなたは自動的にそれらがある意味論的な内容を持つものとして理解する。いかなる自由な選択もありえない。すべての処理は脳によって自動的に行われる。さて、それではなぜすべての制度的現実はこのようではないのだろうか。制度的現実の中での適切な行動は言わばあらかじめプログラムされている。あなたは自動的に約束を守り、財産権を尊重し、あなたがそれを聞いた時に文を自動的に構文解析して得た真理のそのままを話す。だがこの仮説における困難は、我々が普通の人間の意識と意志決定をもってそれをするという仮定に死ぬほど背いている(runs dead counter to)ということである。
人々がどう行動するかについての一群の規則を置けば、彼らは地位機能も権利義務力もその他諸々も何も持たない、ただただこれこれの状況に対してどう反応するかの一群の規則にすぎない。ここから直ちに問題が生じる。人々は規則に逆らうかもしれない。彼らは「規則なんざクソ食らえだぜ」とか言ってやりたいようにやるかもしれない。算法的な規則の場合はスキマ(gap)がまったくない場合には機能する。たとえば認知過程だけがあって意志的な行為が行われない場合には機能する。最初の思考実験において我々は、スキマ(gap)を、自由意志を必要とする体系において動作するロボットの社会を想像した。するとそのような社会において体系は意味を失うということがわかった。二番目の思考実験では、我々は我々に似た人々に対してロボットには適切であるような一群の規則を課した場合を想像した。そうすると人々は「規則に従うべし」の欲望によらない動機づけを持たないから体系は全然機能しない[笑]ことがわかった。仮に規則に従うように彼らをプログラム[!]したとしても、彼らが自由な動作主であれば彼らはプログラムに逆らうことができる。規則に従うことはあなたがいま読んでいる日本語文を構文解析している、その構文規則に無意識に従っていることとはまったく違う。我々は動作主は時間の中で自由に活動すると仮定したので、彼らは規則に従うか逆らうかの選択肢を持つ。しかしながら、あなたはあなたがいま読んでいる文を構文解析している、その構文規則に従うとか逆らうとかいう意識的な選択肢は持っていない。
ここまでわたしは我々の権利義務力の体系が、我々がスキマ(gap)の感覚を持つ、つまり伝統的な語彙でいう「自由意志(free will)」の感覚を持つ存在である場合に限って意味を持つということを主張してきた。しかし逆に言えば、彼ら(ロボット)がいったん自由の感覚を持てば、彼らは規則に従うようにプログラムされ得ないのである。彼らはいつでもプログラムされた規則を破ろうとするだろう。あなたは制度的現実を持たなくても意識とスキマ(gap)を持つことができる(それは厳密に人間以外の高等動物が置かれた状況である)。しかしあなたは意識とスキマ(gap)を持たずに制度的現実を持つことはできない。なぜならそれは機能を持たない制度の場合だからである。そしてあなたがいったん意識とスキマ(gap)を持てば、規則の体系はある動機づけの構造を伴う場合にのみ機能するようになるであろう。予め書かれた行動の規則を持つだけでは、それは機能しない。なぜなら自由な動作主はいつでも規則を破ろうとするからである。
6-5 我々はロボットのように振る舞うようにプログラムされうるか
ここまで、わたしは制度的現実を一定に保った上で異なる人間本性を構築すること、それはつまり、実際についこの間まで現代の認知科学の大部分によって自明の仮定とされていたこと──わたしはこの何十年かそれを攻撃してきたものである*──の思考実験を試みてきた。
※ | 「ついこの間まで」?・・・今もってそうではないだろうか、というか、昔は多少なりともあった含みや懐疑の姿勢が消え失せた分だけ、それはいっそうタチの悪い形で猛威を振るっているのではないだろうか。 |
しかしここで思考実験の設定をひっくり返してみよう。我々が通常の既存の思考過程をもち、スキマ(gap)の上で決定と行為をなすものであるとする。我々はまったく異なる種類の制度的現実を想像できるだろうか。また我々に、いま持っているようなタイプの選択の自由を許さないような、機械的かつ算法的な制度的現実を想像できるだろうか。うむ、これはほとんど間違いないと思える。たとえばあなたがこの文を読むとき、あなたの脳は自動的にそれを構文解析(parse)し、あなたは自動的にそれらがある意味論的な内容を持つものとして理解する。いかなる自由な選択もありえない。すべての処理は脳によって自動的に行われる。さて、それではなぜすべての制度的現実はこのようではないのだろうか。制度的現実の中での適切な行動は言わばあらかじめプログラムされている。あなたは自動的に約束を守り、財産権を尊重し、あなたがそれを聞いた時に文を自動的に構文解析して得た真理のそのままを話す。だがこの仮説における困難は、我々が普通の人間の意識と意志決定をもってそれをするという仮定に死ぬほど背いている(runs dead counter to)ということである。
※ | どうもこの「runs dead counter to」という言い回しはサール先生の十八番のようなものであるらしい。run counter toで「~に反する」または「~に背く」という訳は普通に辞書に載っているわけだが、deadを挿んだ例は載ってない(笑)。まァ、こういうのはたぶん強調の口語的表現だろう、とはいえ一応念のためググって調べてみたら、何のことはない、ほとんど真っ先に出てきた例は「Rediscovery of the Mind」の中の一節であった。 |
人々がどう行動するかについての一群の規則を置けば、彼らは地位機能も権利義務力もその他諸々も何も持たない、ただただこれこれの状況に対してどう反応するかの一群の規則にすぎない。ここから直ちに問題が生じる。人々は規則に逆らうかもしれない。彼らは「規則なんざクソ食らえだぜ」とか言ってやりたいようにやるかもしれない。算法的な規則の場合はスキマ(gap)がまったくない場合には機能する。たとえば認知過程だけがあって意志的な行為が行われない場合には機能する。最初の思考実験において我々は、スキマ(gap)を、自由意志を必要とする体系において動作するロボットの社会を想像した。するとそのような社会において体系は意味を失うということがわかった。二番目の思考実験では、我々は我々に似た人々に対してロボットには適切であるような一群の規則を課した場合を想像した。そうすると人々は「規則に従うべし」の欲望によらない動機づけを持たないから体系は全然機能しない[笑]ことがわかった。仮に規則に従うように彼らをプログラム[!]したとしても、彼らが自由な動作主であれば彼らはプログラムに逆らうことができる。規則に従うことはあなたがいま読んでいる日本語文を構文解析している、その構文規則に無意識に従っていることとはまったく違う。我々は動作主は時間の中で自由に活動すると仮定したので、彼らは規則に従うか逆らうかの選択肢を持つ。しかしながら、あなたはあなたがいま読んでいる文を構文解析している、その構文規則に従うとか逆らうとかいう意識的な選択肢は持っていない。
ここまでわたしは我々の権利義務力の体系が、我々がスキマ(gap)の感覚を持つ、つまり伝統的な語彙でいう「自由意志(free will)」の感覚を持つ存在である場合に限って意味を持つということを主張してきた。しかし逆に言えば、彼ら(ロボット)がいったん自由の感覚を持てば、彼らは規則に従うようにプログラムされ得ないのである。彼らはいつでもプログラムされた規則を破ろうとするだろう。あなたは制度的現実を持たなくても意識とスキマ(gap)を持つことができる(それは厳密に人間以外の高等動物が置かれた状況である)。しかしあなたは意識とスキマ(gap)を持たずに制度的現実を持つことはできない。なぜならそれは機能を持たない制度の場合だからである。そしてあなたがいったん意識とスキマ(gap)を持てば、規則の体系はある動機づけの構造を伴う場合にのみ機能するようになるであろう。予め書かれた行動の規則を持つだけでは、それは機能しない。なぜなら自由な動作主はいつでも規則を破ろうとするからである。