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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

6-5 (ver. 0.1)

2010年04月28日 | MSW私訳・Ⅰ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-5 我々はロボットのように振る舞うようにプログラムされうるか

ここまで、わたしは制度的現実を一定に保った上で異なる人間本性を構築すること、それはつまり、実際についこの間まで現代の認知科学の大部分によって自明の仮定とされていたこと──わたしはこの何十年かそれを攻撃してきたものである*──の思考実験を試みてきた。

* Minds, Brains and Science, Cambridge, Mass.: Harvard University Press 1984.
 [土屋俊訳「心・脳・科学 (岩波モダンクラシックス)」(岩波書店, 2005)]
"Minds, Brains, and Programs," The Behavioral and Brain Science 3 (1980): 417-57.
 [D・R. ホフスタッター他「マインズ・アイ〈下〉」(阪急コミュニケーションズ, 1992)所収]
The Rediscovery of the Mind, Cambridge, Mass.; MIT Press, A Bradford Book, 1992.
 [宮原勇訳「ディスカバー・マインド!―哲学の挑戦」(筑摩書房, 2008)]

「ついこの間まで」?・・・今もってそうではないだろうか、というか、昔は多少なりともあった含みや懐疑の姿勢が消え失せた分だけ、それはいっそうタチの悪い形で猛威を振るっているのではないだろうか。

しかしここで思考実験の設定をひっくり返してみよう。我々が通常の既存の思考過程をもち、スキマ(gap)の上で決定と行為をなすものであるとする。我々はまったく異なる種類の制度的現実を想像できるだろうか。また我々に、いま持っているようなタイプの選択の自由を許さないような、機械的かつ算法的な制度的現実を想像できるだろうか。うむ、これはほとんど間違いないと思える。たとえばあなたがこの文を読むとき、あなたの脳は自動的にそれを構文解析(parse)し、あなたは自動的にそれらがある意味論的な内容を持つものとして理解する。いかなる自由な選択もありえない。すべての処理は脳によって自動的に行われる。さて、それではなぜすべての制度的現実はこのようではないのだろうか。制度的現実の中での適切な行動は言わばあらかじめプログラムされている。あなたは自動的に約束を守り、財産権を尊重し、あなたがそれを聞いた時に文を自動的に構文解析して得た真理のそのままを話す。だがこの仮説における困難は、我々が普通の人間の意識と意志決定をもってそれをするという仮定に死ぬほど背いている(runs dead counter to)ということである。

どうもこの「runs dead counter to」という言い回しはサール先生の十八番のようなものであるらしい。run counter toで「~に反する」または「~に背く」という訳は普通に辞書に載っているわけだが、deadを挿んだ例は載ってない(笑)。まァ、こういうのはたぶん強調の口語的表現だろう、とはいえ一応念のためググって調べてみたら、何のことはない、ほとんど真っ先に出てきた例は「Rediscovery of the Mind」の中の一節であった。

人々がどう行動するかについての一群の規則を置けば、彼らは地位機能も権利義務力もその他諸々も何も持たない、ただただこれこれの状況に対してどう反応するかの一群の規則にすぎない。ここから直ちに問題が生じる。人々は規則に逆らうかもしれない。彼らは「規則なんざクソ食らえだぜ」とか言ってやりたいようにやるかもしれない。算法的な規則の場合はスキマ(gap)がまったくない場合には機能する。たとえば認知過程だけがあって意志的な行為が行われない場合には機能する。最初の思考実験において我々は、スキマ(gap)を、自由意志を必要とする体系において動作するロボットの社会を想像した。するとそのような社会において体系は意味を失うということがわかった。二番目の思考実験では、我々は我々に似た人々に対してロボットには適切であるような一群の規則を課した場合を想像した。そうすると人々は「規則に従うべし」の欲望によらない動機づけを持たないから体系は全然機能しない[笑]ことがわかった。仮に規則に従うように彼らをプログラム[!]したとしても、彼らが自由な動作主であれば彼らはプログラムに逆らうことができる。規則に従うことはあなたがいま読んでいる日本語文を構文解析している、その構文規則に無意識に従っていることとはまったく違う。我々は動作主は時間の中で自由に活動すると仮定したので、彼らは規則に従うか逆らうかの選択肢を持つ。しかしながら、あなたはあなたがいま読んでいる文を構文解析している、その構文規則に従うとか逆らうとかいう意識的な選択肢は持っていない。

ここまでわたしは我々の権利義務力の体系が、我々がスキマ(gap)の感覚を持つ、つまり伝統的な語彙でいう「自由意志(free will)」の感覚を持つ存在である場合に限って意味を持つということを主張してきた。しかし逆に言えば、彼ら(ロボット)がいったん自由の感覚を持てば、彼らは規則に従うようにプログラムされ得ないのである。彼らはいつでもプログラムされた規則を破ろうとするだろう。あなたは制度的現実を持たなくても意識とスキマ(gap)を持つことができる(それは厳密に人間以外の高等動物が置かれた状況である)。しかしあなたは意識とスキマ(gap)を持たずに制度的現実を持つことはできない。なぜならそれは機能を持たない制度の場合だからである。そしてあなたがいったん意識とスキマ(gap)を持てば、規則の体系はある動機づけの構造を伴う場合にのみ機能するようになるであろう。予め書かれた行動の規則を持つだけでは、それは機能しない。なぜなら自由な動作主はいつでも規則を破ろうとするからである。

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6-4 (ver. 0.1)

2010年04月25日 | MSW私訳・Ⅰ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-4 無意識ロボットは制度を持つことができるか

さて、それらに対して、わたしが記述してきたような種類の制度的現実を与えるとしよう。まずは言語からである。我々は時間と空間を表象するための記号的メカニズムのひと揃いを与えることになるだろう。それによってそれらは直接的な経験そのものだけではなく、時間や空間について伝達することができるようになる。今やそれらは、たとえばそれらがいまここで欲したり信じたりしていることばかりではなく、未来や他の場所でのそれについても言語的に表象することができる。我々はまた、現実に存在する事柄の状態を表象するための言語的なメカニズムのひと揃い(たとえば言明のような主張型言語行為)をもそれらに与える。さらにまた他のロボットを存在させるようにする事柄の状態を表象する言語的メカニズム(命令や指令のような命令型言語行為)も与える。さらにさらに、それらがどう振る舞うべきかのある種の行為の道筋を表象するメカニズム(約束のような約束型言語行為)も与えるものとしよう。さて、ここで重大な困難が顕われる。それらのロボットが言明をなすとか、命令するとか、約束をするとかそれを守るとかいったことを、我々は厳密にどのような意味で言うことができるのかということである。ロボットAはロボットBの未来の必要の一部を認知するようにプログラムされているとしよう。つまりAはBに対して未来に適切な助力を行うと「約束する」。わたしがその場合を記述したことを所与としても、これらの語が何を意味するのかは明確ではない。Aはプログラムのある特定の状態にあって、それはBの未来のある特定の状態に整合(match)する。Aの状態がBの未来の状態を表象するとさえ言えないことに注意。なぜなら我々は、この場合における表象の概念に何の意味も与えていないからである。我々に言えるのは整合関係があるということだけである。AはBに信号を送る。それはAの引き続く行動に体系的に関連づけられている。しかしわたしがこの状況に見出すことのできないものとは、人間の形態における制度的現実において本質的な権利義務論である。約束をしたり約束を守ったりすることの概念はスキマ(gap)を前提とする。それは約束が約束をなす側の口から無意識に決定論的に機械論的に発せられたパクパクではないことを前提とする。また約束を守ることもまた約束をした側の無意識に決定論的に機械論的に行う動作ではないことを前提とする。要点をかいつまんで言えば、約束をしたり約束を守ったりするには、約束をなす側と守る側のエージェントの双方に意識と自由の感覚を必要とする。さらに、いったんエージェントがわたしがこれらの語で意図した文字通りの意味で意識的・意図的に約束をなすと、それはすでに、先にわたしが記述した権利義務論を伴うふたつの水準の志向性を持つ。つまり、信念を持つことと傾向性を持つことに加えて、それはその信念や傾向性をその約束事の創出の光のもとで、その欲望によらない行為理由の創出の光のもとで鑑定する(appraise)方法のひと揃いを持たなければならない。

約束することについて成り立つハナシは一般の制度的現実についても成り立つ。財産ということを考えてみる。各々のロボットに対してそれがある特別な関係のもとにあるような一群のブツ(objects)が存在するということをプログラムしたとする。ロボットはそのブツと相互作用する一方で他のロボットのブツとは相互作用しない。他のロボットも同様に自分のブツと他のロボットのブツを区別して反応するようにプログラムされているものとする。この模造ブツ(ersatz)は私有財産を我々に与えるだろうか?わたしはそうは思わない。そこにはいかなる意味にせよ財産の権利が欠けている。ロボットは雨に対して反応するようにそれらのブツに反応する。それらはそれがそうあるように反応すべくプログラムされている。似たようなことはお金についても言える。それらの必要を満たすためにそれらが用いる代用貨幣(counter)を与えられたロボットを考えてみよう。それらは燃料が減ってきたら燃料プロバイダのところへ行って燃料と代用貨幣を交換するようになっている。しかしこうした記述における困難は、その特徴は純粋な交換の構造をいまだ持っていないということである。そこには「買うこと」も「売ること」もない。なぜならそれにかかわる財産の権利義務責務も何もないからである。完全な機械論的宇宙において売買することは、1ドル札を突っ込まれたら4個のクォーター貨を吐き出す機械の動作と厳密に同じである。

我々が親しんでいる種類の制度的現実は本質的に権利義務力を含んでいる。たとえばレストランで食事することを考えてみよう。メニューと価格表はその定位(establishment)によって提供物(offers)を構成し、わたしの注文と注文した料理を平らげることは支払いの責務の保証を構成する。しかし権利義務力の概念はあなたが意識とスキマ(gap)を前提していなければ意味をなさない。あなたがその動物を認知科学においてよく知られている計算モデルのように見なしたなら、その場合あなたは我々が言う意味での制度的現実を持つことができない。わたしにはそう思える。あなたは機械をいくつかの制度的現実の形態に似せてプログラムするかもしれないが、実質はない。ある特定の環境においてそれらが「ヤクソクスル」と出力(print out)し、引き続いてあたかもそれが約束を守っているように記述した通りに振る舞うように機械をプログラムするとする。我々は約束することの段階(stage)を単にスキップすることができる。約束を生みだしたプログラムの状態はすでに「約束を守ること」を生みだすことについて十分である。だからある意味ですでに我々は約束の段階をスキップしたのである。特に違いがないからである。それは単に、他のどれとも同じ機械表の状態のひとつにすぎない。機械はただ特定の系列を生み出すようにプログラムされるだけである。

この主張が正しい方向を向いているのであれば、それは自由の概念は我々の制度的現実の概念にとって本質的であるということを示唆している。

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6-3 (ver. 0.1)

2010年04月25日 | MSW私訳・Ⅰ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-3 工学的な問題としての社会の構築

これらの問題に取り組む上で、わたしは哲学的問題をあたかも工学的な問題であるかのように扱うという戦略を継続してみよう。この場合、わたしは社会の構築ということを技術的な問題として想像する。言ってみれば、もしこの社会をスクラッチから設計してみろということになったら、どうすればいいのかということである。

「スクラッチから」というのはゼロからという意味で、普通の辞書にもちゃんと載っている言葉である。でもこれを訳さずにカタカナ語のまま言うのが「技術者っぽい」ということに、わが国ではなっている。わたし自身が計算機のエンジニアで、事実よく使うのだから信じてもらっていいことだ。しかしエンジニアでも若い人は案外これを知らなかったりする、という意味で実はオッサンくさい言い回しでもある。そういう事実の認識が嫌でなければ(わたしはそれほど嫌ではない)、どうぞ誰でも真似していただいて結構である。

わたしの社会構築記述プロジェクトは伝統的な政治哲学に親和性を持つように思えるかもしれない。空想社会主義的(utopian)な理論家と社会契約説の理論家はともに工学的なアプローチの変種を持っていた。空想社会主義者にとっての課題は「いかに理想的な社会を設計するか」、社会契約説の理論家のそれは「どんな種類の社会と契約するのか」というものである。しかし我々の現在の観点から興味があるのは、社会的・制度的構造の装置の豊富さということについて、いかばかりを既存のものとして前提しなければならないのかということである。最悪の問題は自然状態の定式化ということのうちにある。理論家の多くは人間が自然状態において言語を持つことを当たり前のことと見なしている。しかし、わたしが何度も繰り返し言ってきたように、言語を持つためにはすでに十分豊かな制度構造を持っていなければならないのである。言明をなし約束を交わすことは財産や結婚と同じように人間の制度である。さらに、件の動物がいったん完全な人間の言語を持てば、ある特定の他の制度群は必然的なものになる。ひとたび人々が、ある物体を指して「これは俺のだ」と言うようになれば、彼らはすでにして財産を主張していることになる。この点をもっと簡単に言うには、以前の章で主張してきたことを反復することになる。もし「自然状態」という言い方が、人間がいかなる制度的構造もないところで他の動物のように生きているような状態を意味するのだとすれば、言語を用いる人間存在にとって自然状態に相当するものは存在しえない。

※「お前のような奴が味方なら敵はいらない」という言い回しに似ているような気がする。

歴史的な位置づけについて簡潔に言えばこうなろう。空想的社会主義者達は制度を当たり前のものと見なした上でその理想的な姿とは何かを問うた。社会契約説の理論家達はいくつかの制度を当たり前のものと見なした上で、政府の創出と市民の政府に対する責務はどのように説明できるかを問うたのである。社会契約説の現代版、たとえばロールズ*の場合は、制度を当たり前のものとした上で、正義の制度と不正義の制度をどうやって区別するのかを問うたのである。

* Rawls, John, A Theory of Justice, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1971. [日本語訳についてのリンクはあえて作らない。訳を知りたい人は「ロールズ 正義論」でググるがよろし]

わたしは以上の探求のいずれにも与しない。わたしの本章における問いは、制度がある特定の論理的構造を持つということを認めるとして、なぜそれらはそのような構造を持ち、他の構造を持たないのかということである。

わたしは以前の各章でやってきたように、社会の設計ということをあたかも工学的な問題のように見なしてスクラッチから設計する場合を想像してみる思考実験を続けようとしている。以前の章において、我々はまず言語の進化を想像し、その進化が言語の獲得に至れば、社会についての他の興味深い帰結のすべてがそれに続くということをみた。本章においてもわたしは思考実験を続けたいわけだが、しかし本章では人間の本性という概念に対して異なる光をあてながらやってみたい。

我々が制度的構造と人間本性の間の関係を調べようとしているだとすれば、形式的に言ってふたつの可能性が存在する。ひとつは、人間本性についてのある特定の概念を仮定し、どんな種類の制度的構造がそれに適合するかを見ることである。もうひとつは、ある特定の制度の概念を仮定し、その制度にどんな存在が適合するのかを見ることである。まずは前者の道を進むことにして、現在影響力のある人間本性の概念から始める。人間の認知は標準的な認知科学の計算論的モデルに沿って動作(operate)するという考えを大真面目に受け取ってみよう。認知は計算的かつアルゴリズム的であり、したがって意識はまったく問題にならないと仮定する。つまり意識は随伴現象的(epiphenomenal)であって、それ自身は単にもうひとつの計算的メカニズムにすぎないということである。事実としてこれは、かつて支配的であったし、現在でもそこらに普通にゴロゴロしている、認知科学における人間の認知と合理性の概念である。この計算認知科学モデル(computational cognitive science model)に沿って社会を構築してみるという想像を試みてみよう。我々はひとそろいの意識ロボットをもち、それらを刺激入力(stimulus input)に対して適切な運動出力(motor output)を反応として返すようにプログラムする。そのような体系は完全に決定論的である。我々は今やひとつの完全に「合理的な」ロボットの社会を手にしたことになる。それらロボットが行動において意識的であるかどうかはまったく問題にならない。それらの行動を決定することにおける因果的な働きのすべては実装された計算機プログラムによって果たされる。

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6-2 (ver. 0.1)

2010年04月25日 | MSW私訳・Ⅰ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-2 なぜ社会はこの構造を持ち、他の構造ではありえないのか

ここまでは制度的現実の説明を与え、また制度的事実がいかに行動を動機づけうるかの説明を試みてきた。この議論のために、わたしの説明は広い意味で正しいと仮定しよう。つまり、

制度的構造は典型的に集合的認識の形態として集合的志向性の問題である
これらは地位機能の割り当てと維持からなり、宣言型言語行為の論理的な形式をもつ表象のタイプによって創出され維持される
機能は集合的な所与の受容・認識としてのみ行われうる

そうすると自然に問いが生じる。「どうしてそうあるべきなのか?」つまり、社会を組織する道筋は他にいくらでも想像できる──だから、なぜ人間社会はこれらの特定の形態に進化してきたのか?我々はある特定の種類の生物学的動物であり、ある特定の種類の制度的構造をもつ。その種類の動物である我々はなぜ我々がもつような種類の制度をもつのか?

こうした「なぜ?」の問いはいくつかの異なる意味を持っていて曖昧である。それによって我々が問うことのひとつは、制度的現実を持つことの利点は何かということである。それはまず易しい問いだとわたしは思う。

サール先生好みの例で言えば、カクテル・パーティのない世界、プロ・フットボール中継のない世界よりは、それがある世界の方が明らかにましであって、これらは制度なしに存在しえないものだからだ。要はそういうことである。

より難しい問いは次のようなものである。制度的構造を持つことの利点は明らかであるとして、それをその特定の論理形式において持つことの利点は何か。こうした構造を持つことの必然性はあるのだろうか。他の構造でも同じような利点を与えるのではないだろうか。

以前わたしは地球に生物が存在することの熱力学的な必然性を考えなければならない、というような意味のことをこのblogに書いた記憶がある。ここでのサール先生はそれと同じように、人間社会の制度的構造が特定の論理形式において存在することの必然性が理解されなければならないということを述べている。

これらの問いのすべてに答えられるかどうかはわからない。しかし本章の目的のひとつはそれらのいくつかを探索することである。わたしが示唆しようとしている答は次のような事実に焦点を当てる。我々は強制されたものではない意志決定の感覚である特別な種類の意識、我々はひとつを選びながら一方で他の選択肢を選び得たという感覚をもつという種類の意識を持つ。

サールに限らず、この種の議論を読んだことのある人にとっては周知のことだと思うが、「他の選択肢を選び得た(we could have chosen something else)」という言い方は哲学的な自由意志論に特有のものである。

そうした場合に我々は我々の決定と行為、実際の決定と行為の間に因果的なスキマ(gap)を認める。我々は実際、理由(reason)があって行為するのであるが、理由は通常は我々の決定と行為に対する因果的な十分条件とならない。またその意味で原因と結果の間にはスキマ(gap)がある。たとえばわたしが過日の大統領選挙である特定の候補者に投票したとして、わたしが他方の候補者に投票することも同様にありえたのである。一方に投票する方へ傾く程度の理由がわたしにはあったが、そうと強制されたというほどのものではなかった。有名なライプニッツの標語(slogan; ライプニッツ自身はこれを定式として主張するつもりがなかったということだ)を用いて言えば「必然性なき傾斜(incline without necessity)」としての理由である。このスキマ(gap)の哲学における伝統的な名前は「意志の自由(the freedom of the will)」である。もっともわたしはこの、歴史の手垢に塗れた表現を用いることに抵抗がある。だから以後においてもたいてい、我々の決定と行為の間の因果的なスキマ(gap)の経験、理由と実際にそれをなし行うところの意志決定と行為の形態におけるそれを名づけるものとして「スキマ(the gap)」という表現を用いる。わたしが提示しかつ探索したいと思っている命題(thesis)は次の通りである。「わたしが記述してきた種類の制度的構造を持つことは生の可能性を著しく増大させることである」と。しかしより重要なのは我々のスキマ(gap)の経験を所与として、想像可能な他の種類の構造は決して機能しないということである。もしスキマ(gap)がなければ──つまり自由の意識がなければ──制度的構造は無意味であるとわたしは主張する。しかしスキマ(gap)があれば、それら[制度的構造]は本質的である。スキマ(gap)は幻想にすぎないということはありそうなことであるが、それはこの主張においては問題にならない。我々は決定をなすためにスキマ(gap)を前提しなければならない。たとえスキマ(gap)が幻想であるにせよ、我々はそれを振り切ることができないのである。

ひと息入れて次節にとりかかろう。自分で始めたこととはいえ、こうスキマスキマ書いていると幻想入りしてしまいそうである。

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ack(excerpt; ver. 0.0.2)

2010年04月22日 | MSW私訳・Ⅰ
謝辞

訳文を作る前に読み直してみたが、結局というか、やっぱり謝辞は謝辞だった。さすがにこれを訳す意味は、訳書を出版しようという人以外にはなさそうである。正直、英文を読んでいるうちにやる気がしなくなってしまった。

・・・そんなこと、読んでみるまで判らなかったのかと思う人がいるかもしれないが、冗談ではない。英文を目で追って読んだだけでその意味内容が判るというのは、わたしの場合、さっき習ってきたばかりの小中学生でも直ちに読解できるような、よっぽど易しい英語文を読んでいる場合に限られる。

せっかくだから人名や書名誌名がずらずら並んだこの謝辞を訳し、見つかるものはリンクを張って、ということも考えた。実際、今後残りの部分を少しずつ追加して行って、最終的にはそうするつもりである。が、今すぐそれをしなければならない必要を感じない。というわけで、今日のところは主に意味のありそうな箇所の抜粋を中心とした抄訳にとどめる。(Apr.22,2010)

本書は、わたしがこれまで著してきた他のどんな著書にもまして多くの人からの助力によって成り立っている。これにはふたつの理由がある。まず、この本はわたしが「社会的現実の構築(The Construction of Social Reality, New York: The Free Press, 1995)」で始めた議論の流れの延長線上にあるものである。同書の議論は哲学だけではなく経済学、社会学やその他の社会科学一般の学者から多くのコメントを頂戴した。もうひとつは、わたしはバークレイの社会的存在論研究会(Social Ontology Group)の一員であり、そこでは週1のペースで社会的存在論と関連する諸問題が論じられている。わたしを助けてきた人々のすべてに対してここで感謝を述べることは、[あまりに多すぎて]とてもできそうにないが、少なくともそのうちの何人かのことはここで言及しておかなくてはならない。

わたしは素晴らしい助手達に恵まれてきた。わたしの知的生活に対する彼らの貢献に対して、彼らを「研究助手」と呼んだのでは、適切な概念を与えたことにならないだろう。彼ら全員は言葉のあらゆる意味でわたしの共同研究者である。その中でわたしは特にジェニファ・フディン、アシャ・パシンスキ、ロメリア・ドラガ、ベアトリス・コボウ、マット・ウォルフ、アンダース・ヘドマン、ヴィダ・ヤオ、ダニエル・ヴァサク、ビスキン・リー、フランチェスカ・ラタンツィに感謝している。

彼らはほとんど全員、バークレイの社会的存在論研究会の構成員でもある。同研究会の他の人々の中で特にわたしの助けとなってきたのはサイラス・シアヴォシ、アンドリュー・モアゼイ、マーガ・ヴェガ、クラウス・ストロー、マヤ・クロンフェルド、アスタ・スヴェインドッタ、ディナ・グセイノヴァ、ラファエラ・ギオヴァノリ、アンディ・ワンドである。

「社会的現実の構築」の議論は数多くの学術雑誌や論集の貢献によって成立している。わたしはこれらの貢献の中で特に「アメリカ経済・社会学誌」の特別号*、「社会的現実についてのジョン・サールの考え:拡張・批判・再構築」の編者であるデヴィッド・ケプセルとローレンス・S・モス、寄稿者であるアレックス・ヴィスコヴァトフ、ダン・フィッツパトリック、ハンス・バーナード・シュミド、マリアム・タロス、ライモ・トゥオメロ、W・M・メイヤーズ、フランク・A・ヒンドリクス、レオ・ザイバート、イングヴァー・ヨハンソン、ネナド・ミスチェヴィッチ、フィリップ・ブレイ、バリー・スミスに感謝したい。この号は結局書籍として発行された。

* The American Journal of Economics and Sociology 62, no. 1 (January, 2003). また、同号は別冊として再発行された。Koepsell, David and Laurence S. Moss (eds.), John Searle's Ideas about Social Reality: Extension, Criticisms, and Reconstructions, Malden, Mass.: Blackwell, 2003.

「人類学理論」の特別号*「サールの制度論」の編者および寄稿者ロイ・ダンドレード、寄稿者スティーブン・ルークス、リチャード・A・シュヴェーダ、ナイル・グロス。「意図的行為と制度的事実:ジョン・サールの社会的存在論についての試論集」**の編者兼寄稿者サヴァス・ツォハツィディス、寄稿者マーガレット・ギルバート、カーク・ルードヴィヒ、スーマス・ミラー、アンソニー・メイヤーズ、ハネス・ラコジ、マイケル・トマセロ、ロバート・A・ウィルソン、レオ・ザイバート、バリー・スミス、イグナシオ・サンチェス・クゥエンカ、スティーブン・ルークス。

* D'Andrade, Roy (ed.), "Searle on Institution", Anthropological Theory 6, no. 1 (2006)
** Tsohatzidis, Savas (ed.), "Intentional Acts and Institutional Facts: Essays on John Searle's Social Ontology," Dordrecht: Springer, 2007.

(中略)

公刊された書籍の中で論じることに加えて、わたしは文字通り世界中で行ってきた講義や講義シリーズの中でわたしの考えを開陳する機会を得てきた。わたしにとって、わたしの考えが検証されたり評価されたり、あるいは攻撃されることでさえ哲学を行うことの本質的な一部である。わたしの得てきた教訓はこうである。「明確に言えないことは理解できていないことであり、公開された論争の場で擁護しきれないような自説はそれを出版すべきではない」。そうした発表の機会のすべてを、あるいは大部分でも、ここで列挙してみるつもりはない。しかしいくつかは特に言及するに値する。

(中略)

その他の友人、同僚、学生達もまたわたしの助けとなり支えとなってきた。ブライアン・バーキー、ベン・ボードレ、マイケル・ブラットマン、グスタヴォ・ファイゲンバウム、マハディ・ガッド、マルチア・ガロッティ、アン・エノ、ジェフリー・ホジソン、ダニエル・モヤル・シャルロック、ラルフ・プレッド、アクセル・シーマン、アヴラム・ストロル、ジム・スウィンドラー。

本書の編集段階で途方もない努力を傾けてくれたロメリア・ドラガ、索引の準備をしてくれたジェニファ・フディンに特に感謝する。

感謝すべき人々がもっとたくさんいることはわかっている。以上は少なくともその始まりではある。わけてもわたしはわが妻ダグマー・サールに感謝したい。彼女はわたしを助け、支え続けてもう52年になる。わたしは本書を彼女に捧げたい。

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3-7/8 (ver. 0.1)

2010年04月19日 | MSW私訳・Ⅰ
第3章 集合的志向性と機能の割り当て

3-7 機能の授課

人類は他の種と同様に、対象物に機能を授課する能力を持っている。ただし機能の授課は志向性相対の現象を創出する。典型的に対象物は、それがある特定の目的に用いられる場合に授課された機能をもつ。わたしはこれを「動作主的機能(agentive function)」と呼んでいる。*

* この語を最初にわたしに示唆してくれたのはジェニファ・フディンである。

まったくジェニファときたら、訳者泣かせのことをしてくれるぜ、とか思いながら一応日本語のサイトを「agentive function」でググってみると、一箇所だけ、英文学会誌のページが引っかかってきた。しかし関係があるのかないのかは判らない。

人間はその道具のすべてを駆使してめざましい範囲で動作主的機能を創出する。しかし人間以外の動物もある機能を果たす対象物を持つことはできる。そこでの機能は対象物の使用者によって意図されたものである。要は鳥の巣とかビーバーのダムとか、地面を棒でほじくり返して食物を得る霊長類とかである。ここでの目的について言えば、機能は常に志向性相対であることを指摘しておくことが重要である。このことは、生物学において我々はしばしば自然の機能を発見するという事実によって我々を偽るものである。我々はたとえば、心臓の機能は血液を汲み上げること(これは17世紀まで誰も知らなかったことである)だとか、前庭‐眼球反射(vestibular ocular reflex)の機能は網膜画像を安定化させることだとかいったことを発見する。しかし我々が自然の機能を発見するとき、我々がやっているのはある原因がいかにしてある目的を果たすように機能するかを発見しているのである。だが目的の概念は心と無関係に自然に内在するものではない。それは我々の価値の集合に相対的なものである。だから我々は心臓が血液を汲み上げることを発見することはできるが、心臓の機能は血液を汲み上げることだという場合、生命体とか生存とか再生産といった概念がプラスの価値を持ち、生物学的な器官がこれらの価値をもたらしているということを当たり前だと思っている。しかしそんな価値がどこから来たのか?機能の概念に対する規範的な構成要素が存在することの手がかりは、我々があることを機能として記述すると、ひとつの規範的な語彙を導入することができるということである。我々は事物を「この心臓はあの心臓より良い」とか「この心臓は故障している」とか「この心臓は病気に罹っている」とかいうことができる。しかし我々は石に対してそんなことは言わない。石は故障したり病気になったりはしないのである。しかし我々が石に機能を割り当てた場合──文鎮にするとか、投石機にセットするとか──すれば、我々はそれを評価することができるようになる。かいつまんで言えば、いな、ひどく大雑把にであるが、機能は目的が果たされることの原因である。そしてその目的はまたどこかからやって来たものでなければならない。この場合、それは人間存在から来ている。この意味で機能は志向性相対であり、したがって心依存なのである。

この本はおおよそのところわたしが「地位機能」と名づけた機能の特別なクラスを扱うことになる。あらゆる機能と同様に、地位機能も志向性相対である。しかし他の多くの機能とは異なり、地位機能はふたつの特別な特徴を持っている。ひとつは我々の探求にとって重要な場合となるもので、それは集合的志向性を必要とする。その最初の創出においても、その存在の持続においても集合的志向性が必要である。もうひとつは、地位機能は人間や他の実体が物理的構造によるものではなく、あるいはいかなる比率にせよ物理的構造によってのみあるものではなく、地位の集合的な授課と認識によって持つ機能だということである。実体はある地位をもち、その地位の集合的な認識は実体をして地位機能を果たすことを可能にする。人間の制度的存在論の創出において、集合的志向性と機能の割り当ては手に手を取って進行する。というのも問われている重大な機能は集合的志向性を必要とするからである。個人の立場でも「私的」な制度と「私的な」制度的事実を、彼または彼女自身の用向きのために創出することができる。たとえば個人はひとり遊びのゲームを発明するかもしれない。しかし我々の探求にとって重要な場合とは、つまり社会的世界を作り出す(making the social world)ために重要なのは、お金や政府のような場合であり、それらは集合的志向性を必要とするのである。

3-8 結論

本章は主に3つの目的を持っている。

(1) なんと言っても最重要なのは集合的志向性の構造を基本的事実に矛盾しないことを示せる形で記述することである。我々は個人の心の外に存在する思考過程というような神秘的なタイプを置いてはならない。すべての志向性は、集合的であれ個人的であれ、個人の心の中に存在する。しかしそれと同時に、我々は協同にかかわる集合的志向性の強い形態が「私」志向性に還元されないということを認めることができる。さらに、これが本章の最重要の目的であったわけであるが、我々はわたしが第2章で与えた志向性の一般的な説明に対して集合的志向性をいかに吸収させうるかを示すことができる。
(2) わたしは協同と集合的認識・受容の区別をつけた。両者はともに集合的志向性の形態であるが、協同はより強い形態である。なぜならそれは参加者が単に相互的信念とともにある態度を共有するという以上のことにかかわるからである。
(3) 我々は機能の授課が集合的志向性とどう関係するかを示した。わたしは機能は常に志向性相対であると主張し、機能の授課が集合的志向性にどのように関係づけられるかを示すことを試みた。我々は今や社会的・制度的現実の説明を構築するために必要なほとんどの素材を組み立て終えた。しかしまだ全部ではない。

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3-5/6 (ver. 0.1)

2010年04月16日 | MSW私訳・Ⅰ
第3章 集合的志向性と機能の割り当て

3-5 分析の直観的な動機づけ

こうした分析は複雑に思えるかもしれない。そこでもっと簡単に、同じことを繰り返すコストを払うことにはなるが、分析の直観的な動機づけを説明してみたいと思う。集合的志向性の構造を分析する方法はこう自問してみることである「集合的に『やってみている』ことは厳密に何であるか?」。「やってみている(trying)」とは普通の日本語[原文は英語]でいうところの行為中の意図である、というのを思い出してもらいたい。もうひとつ、「やってみている」とは常に「やりおおせてみようとしている(trying to succeed)」ということではあるが、「やってみている」と「やりおおせる」ことは違うことだということも思い出してもらいたい。行為中の意図とは「やってみている」ことであって、それがすべてである。

個々人のアタマの中に存在しうるのは志向性だけである。集団の構成員の個々のアタマの中のナカミを超えた集合的志向性などというものは存在しない。そこで次に問うべきことは「では、個々人は何を集合的に達成しようとしてみているのか?」である。因果的手段関係の場合を考えてみれば、構成員の各々は彼または彼女の個人的な分担を果たすこと「によって」共通の目標を達成しようとしてみている。しかし個人的な分担はただ他の構成員も彼らの分担を果たしているという仮定のもとで果たされる。これが集団の一員として行為するということの意味である。他の構成員が各々の分担を果たしているというのは誤りであるかもしれないが、個人的な努力に伴う本質的な信念もしくは前提である。その場合、個人的な努力は集合的な努力の一部としてなされるのである。だから我々は我々の集合的志向性の分析において少なくともふたつの要素を必要とする。まず意図の表象それ自体である。その場合意図は動作主が達成できる(達成できると思う)ことだけを参照することができるのであって、他の動作主の行為を参照することにかかわることはできない。そしてそのとき我々は信念の表象を必要とし、また信念は他の動作主がやっていることについての信念である。

個人的な志向性が集団の他の構成員の志向性を参照できる場合が存在する。それはたとえば、軍隊の司令官が命令する場合である。[そうした命令は]集団の他の構成員に志向性を創出すべく作られている。もうひとつの場合はアメフトのチームのクォーターバックがハドルでプレイコールを行い、チームの構成員の各々にプレイ実行中のアサインメントを実行する意図を創出する。

要は後者は前者と同じことをアメフトについて言っているだけである。もともとアメフトというスポーツには軍隊の類比がふんだんに盛り込まれている。

しかし通常の場合、つまりわたしとあなたが一緒に何かしようとしている場合、たとえばあなたが注ぎわたしが撹拌することによって我々がソースを混合しているという場合、わたしの志向性はあなたが注ぐことを被覆することはできない。「あなたが注いでいる」というのはまさにわたしが持つ信念にすぎない。つまりそれはわたしの行為中の意図の意図の内容の一部ではない。そうすると動作主はあたかも他の人々の行動を被覆する意図を持たなければならないかのようである。それはわたしの以前の分析による言明に対する批判が煩わされていたそのことである。だがもちろん、それはわたしの分析の一部でもなければそこから導出される何かでもない。それは単に集団の他の構成員の所与の分担にすぎない。動作主は彼がすることだけを達成することができる、にもかかわらず彼の意図は共通の目標を達成しようと試みる。わたしが政治的候補者に投票するとき、わたしはその候補者が選ばれるようにしてみている。たとえわたしの一票が何百万票のうちの一票にすぎないとわかっていてもである。

3-6 協同と集合的認知の区別

ここまでは集合的な先行意図と集合的な行為中の意図においてあらわれるものとしての完全な協同の構造を説明することを念頭に置いてきた。しかし、もっと弱い形態の集合的態度だが、我々の社会の分析にとって同じように重要な形態がある。それはわたしが「集合的認識(collective recognition)」と呼ぶものである。*

* 集合的認識という術語はジェニファ・フディンによって最初に示唆された。

たとえば、わたしが誰かから何かを買って彼の手にお金を渡し、彼が受け取るといった現実のやりとりにおいて、我々は完全な協同をもつ。しかしこの志向性に加えて我々は、やりとりに先行し、やりとりの後も継続する、わたしが売り子の手にお金を置くタイプの紙切れに対するひとつの態度を持つ。それは紙切れをお金として認識し受け入れることであり、実際、我々は一般的な貨幣制度と商業の制度を受け入れる。一般的な要点として、制度的構造はそれを機能させるために制度内の成員による集合的認識を必要とするが、制度の中の特別なやりとりは上で記述したような種類の協同を必要とする。婚約しているカップルは、結婚に先立って結婚の制度を受け入れている。こちらは行動の形態において協同の場合ではなく、単に制度に沿って何かをするという場合である。しかし現実の結婚式は協同のひとつの例である。わたしの記述した種類の完全な協同的集合的志向性はしばしば制度の創出を必要とする。たとえば独立宣言の時の合衆国の創出を考えてみよう。本章においてわたしは協同を分析してきたが、協同が制度的構造の中で起きるためには、制度の一般的な集合的認識・受容がなければならないが、能動的(active)な協同は必ずしも必要ではないということを強調したい。

集合的認識・受容の構造にかかわるものは厳密に何であるのか。先に、わたしがただ受容の概念を用いたら、多くの人々がそれは賛同のある水準を意味するものだと考えたが、わたしの方ではそんなつもりはなかった、という話を書いた。人は制度の中で認識し行為する。たとえその制度が悪いものであると考えている場合でさえそうである。わたしはときどき「集合的認識・受容」という混合的な概念を用いる。そしてわたしはそれが熱狂的な支持から構造にただ同伴することまでのすべてに共通する、ある連続体(continuum)を標識するということを明確にしたいと思う。たとえばナチ体制の時代、ナチ党の党員達は第三帝国の制度的構造を熱狂的に支持した。

「ナチ体制」「ナチ党」と訳したところの原文は「Nazi regime」「Nazi Party」である。つまり文字通りに訳したのである。

しかし当時のドイツの人々の中には少なからずその制度的構造を支持しない人達もいた。彼らはナショナリズム、無関心、思慮分別の結果として、あるいは単なるアパシーとして同伴しただけだった。協同は連続体の上にも存在する。しかしこの連続体は集合的認識・受容の連続体を横断する。わたしは協同の場合、集合的志向性は一般に個人的志向性と相互的信念に還元され得ないと主張した。しかし集合的認識の場合はどうだろうか?集合的認識は個人的認識と認識者の間の相互的信念に還元されうるだろうか。その見通しは輝くばかりに明るいと思われる。能動的な協同は必要でないからである。能動的な協同の場合において、単に個人的な意図と他者の意図についての相互的信念を持つだけでは十分でないことは、ハーバード・ビジネス・スクールの場合で説明した通りである。集合的認識の場合についてよく似た反例を構築できるだろうか?ビジネス・スクールの場合においては協同は存在しなかった。しかし集合的認識の場合、成員が集合的認識に対立するものであったとしても、結局は各々が個人的に現象を認識し、彼らがそのように認識する相互知識が存在するなら、我々は集合的認識を持つというのとよく似ている。ふたつの場合のどこが違うのか。協同は協同することの集合的な意図を必要とする。しかし集合的認識は協同の形態を必要としないし、したがって協同することの集合的な意図も必要とはしない。

前述のハーバード・ビジネス・スクールの場合を考えてみよう。協同があるのとないのと、いずれの場合においても、ビジネス・スクールの場面の参加者達はお金の存在と有効性を当たり前のものと見なしていた。彼らは単にそれを認識している。集合的認識は何からできているのか。それは協同を必要とするようには、わたしには思えない。そうではなく、それが必要とするのは、各々の参加者が他の参加者の相互的受容が存在するという信念においてお金の存在と有効性を受け入れていることである。ここに興味深い結果が生じる。つまり、ある制度の存在は協同を必要としないが、単なる協同的な受容・認識は必要とするのである。制度の中の特定の活動、売り買い・結婚・選挙運動は協同を必要とする。これは重要な点である、というのも集合的志向性の中には「私」志向性と相互的信念に還元可能な形態のものが存在するということを示しているからである。あなたがお金のようなものの集合的認識を持つならば、集合的認識は、各々の人がお金を認識し、かつその全員がお金を認識する人々の間の相互的知識が存在するという事実によって構成されうる。

* 本節の主題における議論についてはジェニファ・フディンとアシャ・パシンスキのお世話になった。さらなる議論についてはフディンの論文"Can Status Functions Be Discovered?"(The Journal for the Theory of Social Behaviourに掲載予定)を参照されたい。

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3-4c (ver. 0.1)

2010年04月13日 | MSW私訳・Ⅰ
3-4 「我々」志向性はいかにして個体へ移行するのか(承前)

構成的経由関係の場合の考察に戻ろう。二重奏の演奏でわたしがピアノを、あなたがヴァイオリンのパートを受け持つという場合である。わたしはわたしのピアノ演奏だけを引き起こすことができる。わたしはあなたがヴァイオリンを演奏するということを前提しなければならない。したがってわたしの意図の内容は

個人の行為Aを経由した集合的な行為Bのia(このiaは行為A=ピアノ演奏を引き起こし、集合的な行為B=二重奏の演奏を構成する)

そして因果的な場合とパラレルな相当する信念は

信念(集団におけるわたしのパートナーは次の形の行為中の意図を持つ(個人の行為Aを経由した行為Bのia(このiaはヴァイオリン演奏を引き起こし、二重奏の演奏を構成する)))

ふたたび普通の日本語[原文は英語・・・やれやれ]で読み下せば次のようになる。わたしはわたしの分担(個人の行為A)をこなすことを経由してBを達成するための集合的な行為中の意図をもつ。その意図の内容は、この行為中の意図はピアノ演奏(を行為Aとして)引き起こし、それはその文脈において二重奏の演奏の場合を(集合的な行為Bとして)構成する。信念についての追加節は次のように読み下される。わたしは集団におけるわたしのパートナーもまたわたしが持つのと同じ形の行為中の意図、つまり、集合的な行為Bを個人の行為Aを経由して達成する、その場合行為Aはヴァイオリンを演奏することであり、その文脈においてそれは二重奏の演奏(集合的な行為Bとして)の場合を構成するという行為中の意図を持つ、という信念をもつ。

反復するに値する重大な特徴がひとつ。両方の場合において、わたし個人の志向性の内容は、あなた個人の志向性に対する本質的な参照を行わない。わたしは単に、その文脈において、わたしがわたしの分担を果たせば我々は目標達成を試みることになるということを当然だと思っている。なぜならわたしはあなたがあなたの分担を果たすという仮定のもとでそれを行うのだし、あなたはわたしがわたしの分担を果たすという仮定のもとでそれを行うのだからである。これに対しては認識論的な基礎が存在する。しばしば人は集団内の他の成員の心の中の個人的な志向性がどうなっているのかを知らない。わたしはある目標を達成しようという集合的志向性を持つかもしれない。[持つ場合には]わたしが持つのと同じ作業目標をあなたが持つという仮定のもとで持つのである。アメフトの試合で言えば、パスプレーにおいてブロックを行うオフェンスラインの選手は、ワイドレシーバーがどんな経路をたどるか、あるいはクォーターバックがパスを投げる前に何歩下がるかといったことを知る必要がない。

・・・アメフトの知識がアメフト中継観戦以外で役に立ったのは、生まれて初めてだ。

彼が知るべきすべては、彼が[プレー中に]どういう動きをすることになっているのか(アメフト・コーチの隠語で「アサインメント」というやつ)であり、後者の記法[控室で黒板とかに書くアレのことか?]は彼の意図の充足条件をとらえる試みである。

この分析が成功しているならば、わたしは、それがどうやって集合的志向性が個人の心の中に存在し、同時にその集合的志向性が(本質的に集合的であったとしても、それにもかかわらず)個々の身体動作を引き起こすことができるのかを示すことができたということになるだろう。わたしの身体が動かなければ行為は行われない。またこのことは集合的な意図の内容の中に反映されなければならない。たとえ集合的な意図の内容のすべてが、わたしやあなたや集団の他の構成員の脳の中に存在するとしてもである。

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3-4b (ver. 0.1)

2010年04月10日 | MSW私訳・Ⅰ
3-4 「我々」志向性はいかにして個体へ移行するのか(承前)

我々はこれらの場合を「因果的」と「構成的」の関係の双方にかかわる集合的な行為中の意図の例を考えることによって解く(work out)ことができる。「因果的」関係の例として、あなたとわたしが両方ともクルマのエンジンを始動させようとしている場面を考えてみよう。わたしの方はクルマを押すことによって、あなたの方は運転席に座ってクルマが動き出したらクラッチを切ることによって[エンジンを始動しようとするわけである]。因果的に言えば、我々は始動キーをオンにしている間、わたしが押し、あなたがクラッチを切ることによってエンジンを始動しようとしている。もうひとつ挙げてみる。これは以前の著作で紹介したものだが、ベアルネーズ・ソースを作るとき、わたしが注ぎ、あなたが撹拌する場合である。

ベアルネーズ・ソースとは何なのか、そんなことはわたしにはどうでもいいことである。名前からして、また辞書によれば「卵黄を使った濃厚なソース」とあるから、まあマヨネーズみたいなものなのではないだろうか。

因果的に言えば、我々は、わたしが注ぎ、あなたが撹拌することによってソースを作っている。

以上を、わたしがピアノのパートを、あなたがヴァイオリンのパートを演奏する二重奏の場合と比較してみよう。我々の演奏は行われるべき二重奏を引き起こさない(原因とならない)。わたしの演奏とあなたの演奏は単に二重奏を行うことを構成するのである。だから、わたしの観点からは、わたしはわたしはあなたが当然ヴァイオリンを演奏していると思っているという文脈において我々わたしのピアノ演奏を経由して二重奏を演奏する」という集合的な行為中の意図をもつのである。

志向性が集合的であるということが意味することの部分は、各々の動作主が「他の構成員は各々の分担を行っている」と仮定していなければならないということである。しかしそれは、厳密には何を意味するのだろうか?各々は他もまた同じ目標に向けた行為中の意図を持つ、つまり、各々は彼自身の行為Aだけを行い、したがって各々のAは異なる、けれども同じ「集合的なB」に向けた行為中の意図を持つのである。

以上を我々の正準記法(canonical notation)に沿って志向性の構造をあらわすとどうなるだろうか。因果的な場合はこうである。[iaは行為中の意図]

個人の行為Aによる集合的な行為Bのia(前者のiaは「A クルマが動く」を引き起こし、それは「B エンジンが始動する」を引き起こす)

普通の日本語[原文は英語]ではこうなる。「わたしは集合的な行為B中の意図を持つ。集合的な行為B中の意図において、わたしはわたし自身の分担として個人の行為Aを行う。そしてその意図の内容は(その文脈において)後者つまり行為A中の意図がその場合を(Aとして)引き起こす、つまりクルマが動く(その文脈において)ことは集合的な行為Bの場合を引き起こす、つまりエンジンが始動する」。自由変項「B」と「A」はそれぞれ動詞句「クルマが動く」および「エンジンが始動する」によって括弧の内側で束縛されることに注意。

わたしの集合的志向性の背後には「わたしは、あなたがあなたの分担を行い、我々は一緒にクルマの始動を引き起こそうとしている、という仮定のもとでわたしの分担を行うならば」ということが仮定されていることに注意。また、わたしの行為中の意図の命題的内容の内側には、あなたの志向性や行動に対する参照は存在しないということにも注意。なぜなら、それらはわたしが因果的な影響を及ぼす位置にいないような現象だからである。集合的志向性においてわたしは他の人はわたしと協同するだろうということを前提しなければならないが、彼らの協同は集合的志向性のわたしのパートの命題的内容の一部ではない。そうではなくて、それは括弧の外側で、集合的志向性の形態において特定される。「集合的なB」という表現は、行為Aを行うことにおいてわたしはひとりで行為するのではなく、集団の一部として行為するのであり、またBを達成するという目標は集団の他の構成員と共有されている、という前提を暗黙に表現する。この点はわたしの批判のいくつかによって誤解されてきたことである。*

* 議論のためにBardsley, Nicholas, "On Collective Intentions: Collective Action in Economics and Philosophy," Synthese 157 (2007): 141-59を参照。

誤解を防ぐ最も単純な方法は他の人達が協同しているという信念についての明示的な表象をつけ加えることである。

信念(集団におけるわたしのパートナーも次の形態の行為中の意図を持つ(個人の行為Aによる集合的な行為Bのia(前者のiaは「A クルマが動く」を引き起こし、それは「B エンジンが始動する」を引き起こす)))

普通の日本語[原文では英語・・・またやるのか]では、この追加節は次のようになる。わたしは集団におけるわたしのパートナーもわたしのそれと同じ形態の行為中の意図を持つという意味の信念を持つ。つまり、個人の行為Aによって集合的なBを達成するには、彼(パートナー)の場合においては(行為Aとして)クラッチを切るということであり、それはその文脈においてエンジンが始動する場合を(集合的なBとして)引き起こす。

この追加節についてふたつのことが強調されなければならない。

(1) それは集合的行動の観念においては暗黙の信念であって、わたしの行為中の意図の内容の一部ではない。わたしの行為中の意図の内容はわたしが引き起こすことのできること(あるいは少なくともそう信じられること)だけを参照することができる。集合的行動にかかわるために、わたしは他の人がわたしと協同していることを信じ(あるいは仮定、もしくは前提し)なければならない。そして彼らの協同は、彼らはわたしが持つのと同じ目標を特定するが、同じ目標を達成する手段を特定する必要はないような行為中の意図を持つということに[彼らの協同ということの]本質がある(consist in)ということになるだろう。わたしは彼らが協同していることを信じなければならない。ただし、その協同を引き起こすことがわたしの行為中の意図の内容の一部だというような場合は例外である。
(2) もうひとつの特徴は、わたしは彼らの分担が何であるかを知る必要がないということである。つまり、わたしは彼らの行為中の意図の形態における「A」の値(value)を知る必要がない。ここで考察している特定の例においては、わたしは「A」の値を知っているが、大規模な集団の複雑な行為では誰も他人が何をしているのか知らない。

(つづく)

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3-3/4a (ver. 0.1.2)

2010年04月07日 | MSW私訳・Ⅰ
第3章 集合的志向性と機能の割り当て

3-3 集合的志向性に関する他の考え方

集合的志向性の論争にかんする明らかな解決不能性の多くはふたつの誤解の源から出ている。まず、人々は分析すべき概念について異なる概念を持っている。集合的志向性の場合、この語の普通の用法で我々が訴えることのできる広く受け入れられた常識といったものはない。典型的に哲学では真理とか知識のような概念とともに「真である」とか「知っている」という語の通常の用法に関する常識があり、分析は少なくともいくつかの通常の用法において答えなければならない。しばしば、タルスキの有名な真理の定義における場合*のように、自己意識的に語の通常の用法のいくつかの様相から離れることはあるかもしれない。しかしそれでも訴えるべき共通の中核的概念というものはあるのである。

* Tarski, A. "The Semantic Conception of Truth and the Foundation of Semantics," Philosophy and Phenomenological Research 4 (1944):341-76.(飯田隆訳「真理の意味論的観点と意味論の基礎」,坂本百大編「現代哲学基本論文集〈2〉 (双書プロブレーマタ)」(勁草書房, 1987)所収 (Amazon/7net))

しかしハナシが「集合的志向性」となるとそうはいかない。この表現に相当する共通に用いられている概念は存在しない。そうした例のいくつかを列挙してみよう。まず、わたしがあることをしようとし、あなたが同じことをしようとするとき、我々は「ともに(both)それをしようとしている」ということには少なくともひとつの意味がある、というのが普通の日本語[原文では英語]の特徴である。たとえば、わたしがサンフランシスコまでクルマで行こうとしていて、あなたがサンフランシスコまでクルマで行こうとしているというとき、それを「我々はともにサンフランシスコまでクルマで行こうとしている」と言うのは正しいということになる。しかしこれが集合的志向性である必要はない。あなたはクルマで行くかもしれないし、わたしはあなたがそうしようとしていることを知っているかもしれないし、わたしは同じことをしようとしているかもしれないし、あなたはわたしがそうしようとしていることを知っているかもしれないが、集合的志向性は必要でない。相互的な知識が存在してさえも、それは我々が「協同」しているということを意味しない。さらに、我々は共有された共通の目標(goal)の達成を、いかなる協同もないところで試みている場合すらある。それはたとえば、いまわたしが環境[環境問題の環境である]を改善することを試みるためにいろんなことをするとしよう。たとえばわたしは大気汚染を最小化するために、自分にできるあらゆることを試みるとしよう。しかしわたしはそれをするのに、いかなる意味でも誰とも協同などはしていないのである。同じ目標を持っていても、その目標が他に多くの人が共有する目標と同じものであったとしても、わたしが彼らと目標を共有しているということを知っていたとしても、わたしの考える意味においては、それ自体ではそれを協同と呼ぶに十分ではないのである。わたしがこの形の集合的志向性について話をするとき、わたしは人間と実際にその活動において協同する他の動物の能力について話している。協同は共通の知識や共通の信念の存在を意味する(imply)が、逆は成り立たない。つまり共通の目標を達成する個々人の意図に結びつく共通の知識や信念は、それ自体を協同と呼ぶには十分ではないのである。

わたしが読んできた限りで、その著者らの説明に見られる第二の共通の特徴は、彼らが分析している集合的志向性は、言語を用いる大人の中から生じてくると仮定する傾向がある、ということである。もちろんこれは多くの理論的な目的には妥当な仮定である。しかしわたしに言わせれば[言語を用いる大人に限定することは]人間社会を分析する基礎概念たりえない。なぜならそれはすでに言語を前提としているからである。あなたが言語を持つなら、わたしが次章[第4章]で述べる理由によって、あなたはすでに社会を持っている。もしあなたが集合的志向性が会話の中で引き受けた約束事に結果するということを仮定するのであれば、あなたはその約束事に結果する会話を始めるためにさえ集合的志向性を前提しなければならない。集合的志向性の一階の形態が存在する。それは言語の存在に先行して存在し、それが言語使用を可能にするすべてである。わたしにとって既知の文化であれば、人がどんな余所者にでも近寄ってある種の会話を行うことができるというように、人間の「背景」能力は重大である。それは我々が社会の機能と考えるものの本質である。人はたとえば「すいません、Dwinelleホールへはどうやって行けば」と問うことができる。余所者はどうでも答えるだろう。「知らん」とか「アホみたいなこと訊くな」とか、ひどい場合は「わたしは英語を話しません」とさえ言う。それでも集合的志向性はよく進行(well under way)している。

最後の例は日本のことだろ!・・・それはともかく、Dwinelleホールというのはバークレイにある建物で、John W. Dwinelleという人を記念したものであるらしい。で、実際、これはどう読むのか、まったく判らない。

あなたは集合的志向性を持つために約束する必要はない。実際、まさにその約束をなす会話において、それが受容されようと拒絶されようと、それはすでに何らかの集合的志向性の形成である。会話は「会話にかかわる『背景』能力」を前提とする。そして「背景」能力はより基礎的な集合的志向性の前言語的形態を持つことに依存している。会話の開始はそれ自体高度な集合的志向性である。だからわたしの観点からは、約束することによって約束事を創出するはすでに集合的志向性の階段を二階分も上がったことになる。あなたは言語的形態を構築するために集合的志向性の前言語的形態を持たなければならないし、また約束事をなすための会話の集合的志向性を持たなければならない。

3-4 「我々」志向性はいかにして個体へ移行するのか

「我々は意図する」「我々は信ずる」「我々は欲する」等々が「わたしは意図する」「わたしは信ずる」「わたしは欲する」等々および相互的な信念に、必ずしもすべては還元されないという事実を受け入れた場合、集合的志向性にはさらなる問題がいくつか存在する。「我々」の内容が、集合的な試み(effort)の一部を行うことを構成する「わたし」の内容と同じでないなら、いかにして「我々」志向性が個々の身体に宿る(move)のか。それは深い問いである。我々がピアノとヴァイオリンの二重奏を演奏しているとして、わたしはわたしのパートであるピアノを、あなたはあなたのパートであるヴァイオリンを演奏する。そうすると我々の集合的志向性はどうやってわたしの身体に宿るのであろうか?「我々は二重奏を演奏している」からどうやって「わたしはその[二重奏の]ピアノのパートを演奏している」がわたしの口から、また「わたしはそのヴァイオリンのパートを演奏している」があなたの口から出てくることになるのか?

何度も述べてきたとおり、意図はふたつの種類に分けられる。ひとつは先行意図であり、行為開始に先立って生じる。もうひとつは行為中の意図で、行為の意図的な構成要素である。先行意図も行為中の意図も、いずれも自己参照的である。

単純な例、わたしの腕を挙げるというような場合を考えると、それらの事実は次のような表記で表される。ただしカッコの中身は意図の命題的内容を、またカッコの前は志向状態のタイプをあらわす。

  先行意図(この先行意図はわたしがわたしの腕を挙げる行為を行うことを引き起こす)
  行為中の意図(この行為中の意図はわたしの腕が挙がることを引き起こす)

先行意図を「pi」、行為中の意図を「ia」、身体運動を「BM」、行為を「a」と略称すると、(これは第2章で行った分析の復習である)これらの関係の一般形は次のような図式で与えられる。

  pi(このpiはaを引き起こす)
  ia(このiaはBMを引き起こす)
  a=ia+BM, ただしiaはBMを引き起こす

人間の行為はまたいくつかの非常に特別な特徴を持っている。このことは典型的に、わたしがただ単に腕を挙げるというような行為を行うばかりではないという事実から示される。わたしはある別のことを行うことを経由して、あるいは、別のことを行うことによってそれを行うのである。これらの関係は第2章で述べたようなアコーディオン効果を起こす。たとえばわたしは引き金を引くことによって銃を撃つとか、わたしはわたしの腕を挙げることを経由して委員会の議決に投票するといった風にである。引き金を引くことは銃の発射を引き起こすが、腕を挙げることは投票が行われることを引き起こさない。それは投票を構成するだけである。わたしはこれらの行為の内的構造のふたつのタイプを因果的手段関係(causal by-means-of relation)および構成的経由関係(constitutive by-way-of relation)と呼ぶ。これらの関係は次のような表記で表すことができる。

  Aによってia B(このiaはBを引き起こすようなAを引き起こす)
  Aを経由してia B(このiaはBを構成するようなAを引き起こす)

今や我々の現在の議論に対するギモンは「すべての装置はいかにして集合的意図と行為を継続するのだろうか?」である。もし我々がある集団的な努力において協同し、個々人の貢献がさらなる効果を引き起こすならば、我々は因果的手段関係を持つのである。そしてもし我々がある努力において協同し、個々人の努力が欲された効果を構成するならば、我々は構成的経由関係を持つのである。

* John R. Searle, "Collective Intentions and Actions."における議論の続き。

(つづく)

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3-2b (ver. 0.1.1)

2010年04月04日 | MSW私訳・Ⅰ
3-2 集合的志向性についての目下の説明(承前)

この章の初期の草稿で、わたしはこれらの著者の議論の多くを含めていた。しかし今やこれらに対する完全(thorough)かつ適切な仕事をなすにはもう一冊の本を必要とする、あるいは少なくとも、ハナシがわたしの主たる目標(objectives)からの大きな逸脱(digression)になってしまうように思われる。そこで他の著者を相応しい詳細さで論じるかわりに、わたしは単に(わたしの目に触れた限りでわたしの説明が他の著者とどう違うのかということで)一般的な特徴について述べようと思う。

プロジェクト全般は先行意図の文形「我々は行為Aを行おうと意図している」と行為中の意図の文形「我々はいまAを(意図的に)行っている」を分析することである。最もありふれた試みは「我々は」を除去して「我々」文を「わたし」文の集合に還元(reduce)することである。わたしが見てきた説明の多くは先行意図だけを扱っている。その著者たちが先行意図と行為中の意図の間の区別を認識したらどうなるのかが明確ではない。それらの典型的な分析は次のように始まる。

XとYは一緒に庭を掃除しようと意図している
Xは庭掃除の彼の分担を意図し、Yは庭掃除の彼の分担を意図し、各々は他方の意図について相互的な信念を持つ。

「⇔」は同値すなわち「if and only if」の記号である。だから「の必要十分条件は」と書いても同じである。しかし、ここではただの記号でたくさんだろう。実際、本当は「=」を使っても故障は生じない。ただ一応、これが厳密に論理的な同値性として主張されている(「だいたいあってる」程度のイコールではない)ことを明確にしておきたい。

各々がそう意図するとき、ふたりの人の間に意図についての相互的な(共通の)知識(または信念)が生じる。そして各々が他の意図するところを知る。そして各々が他の知るところを知る。そして各々は各々が他方の知るところを知るところを知る・・・これが延々と続く。

思うにこうした分析のパタンを動機づけているものは基本的事実に関連している。この場合の基本的事実は、すべての志向性が個人の脳内に存在しなければならないということである。もし「我々」志向性が個々人の脳内にのみ存在するのだとしたら、すべての「我々は意図する」文は、我々がA,B,Cの三人だとして「わたし(A)は意図する」「わたし(B)は意図する」「わたし(C)は意図する」、それに加えてA,B,Cがお互いに対して持つ信念に還元されなければならない。

こうした分析のパタンに対してわたしはふたつの事柄を主張したい。ひとつは、基本的事実に関して「我々は意図する」文が「わたしは意図する」文に還元されなければならない必要はない、ということである。もうひとつは、こうした還元は失敗するということである。

他の著作の中で、わたしは基本的事実に関して、こうした場合において、すべての志向性は個々人のアタマの中に存在しなければならないという事実は、「我々」志向性が「わたし」志向性に還元できるということを必要としない、と主張した。*

* Searle, John R., "Collective Intentions and Actions," in P. Cohen, J. Morgan, and M. E. Pollack (eds.), Intentions in Communications, Cambridge, Mass.: MIT Press/Bradford Books, 1990, reprinted in Searle, Consciousness and Language, Cambridge: Cambridge University Press, 2002.[もしどちらかを買おうとしているなら、後者の方がよいだろう。前者はハードカバーしかないから。]

協調的行為にかかわる際に我々の各々のアタマの中に還元不能な「我々」意図を持ちえないという理由はない[そういうものがあっていい]。もちろん「我々」意図は体系的に特定の「わたし」意図に関連づけられなければならない。「我々」意図が各々の身体(body)に乗り移れるならば、である。これらの関係についてはこの章の後の方で論じよう。しかし、しばしば「方法的個人主義」と呼ばれているものの一般的な要請は「我々」意図が「わたし」意図に還元されうることを必要とはしていない。なぜならすべての志向性が個々の脳内に存在するという要請は個々の脳内に存在する内容が複数形の構文として存在しえないということを意味するわけではない。我々が一緒に庭を掃除するとき、わたしはわたしのアタマの中で「我々は庭を掃除している」と思っているし、あなたはあなたのアタマの中で「我々は庭を掃除している」と思っているのである。

3-2-1 「『我々』志向性を『私』志向性に還元すること」への反論

以前から、わたしはわたしの見て来た限り「我々」志向性を「私」志向性に還元するようなすべての試みに反対すべく、一般的な反例を提出してきた*。それはこんな風なものだ。

* 上掲書を参照。これ以下の例において、わたしはアダム・スミスやハーバード・ビジネス・スクールに対して含むところを持っているわけではない。歴史上実在した人物としてアダム・スミスが通常彼のそれとされている信念を持っていなかったということは、ありそうなことであるし、ハーバード・ビジネス・スクールが巷間そう思われているようなビジネスの概念を持っていない、ということもありそうなことではある。もしもそうなら、わたしはこの誤解のまま先を続けることを彼らに対して謝りたい。わたしの意図はただ明確な例を与えたいということだけである。
[先生! フォローになってないような気がします(笑)!]

・ビジネス・スクールの場合(1)

ハーバード・ビジネス・スクールの卒業生の集団を想像してほしい。彼らはアダム・スミスの「見えざる手」の理論を教わり、それを信じるようになったものだとしよう。卒業式の日から、各々は実社会へ出て行って、つとめて利己的であることによって、また個々人があらん限り金持ちになろうとすることで人類に貢献しようと試みる。彼らの各々は、他の皆もそうしているという相互知識のもとでそうするのである。したがって各々が持つ目標が存在し、各々は他の皆が各々目標を持つことを知っているということを、また彼らは各々が各々目標を持つことを知ることを知っている。

わざわざ言うまでもないことだが、上は笑うところである。ひょっとすると訳文は入れ子になった複文のひとつふたつを脱落させてしまっているかもしれないが、それも笑って済ませていただきたい。

まあとにかく、彼らが協同するということはないのである。協同あるべからずのイデオロギーさえ存在する。この場合、彼らは目的を持ち、他の連中もその目的を持つという共通の知識を持っている。しかしそこには、わたしが言う意味での集合的志向性は存在しないのである。

・ビジネス・スクールの場合(2)

もうひとつの場合がありうる。この場合では、卒業式の日、彼らは全員集合してひとつの厳粛なる協定をとり結ぶ。各々は社会に出たら、その能力のあらんかぎりを尽くして金持ちになり、かつ、とことん利己的に振る舞って人類に貢献するよう努めるべし、云々。

可笑しくて訳す手が止まってしまう。まあこんな調子でやられたら、いい加減ムッとする者があるのかもしれない。

これらの一切が人類に貢献するために行われる。この場合には純粋な協同と純粋な集合的志向性が存在する。たとえそれが、低水準の協同なかるべくしてなされる、より高い水準の協同であるとしてもである。わたしは最初の場合は集合的志向性の場合ではなく、二番目の場合は集合的志向性の場合だと言いたいのである。

しかし誰かはこう反論するかもしれない。「どう違うんだ?」と。結局のところ、彼らの行動はふたつの場合において厳密に同じである。どちらの場合も、個々人は彼または彼女の力の限りを尽くして金持ちになって人類に貢献しようとするのである。だが両者の間には途方もない違いがある。二番目の場合には各々によって誓約された責務が存在する。最初の場合には、個々人は行為についていかなる協定も約束もしていないのである。もし誰かが彼または彼女の心を変えさせたとして、その人があらゆる点でドロップ・アウトして平和運動とかのために働いたりしても、それは自由なのである。しかし二番目の場合には、卒業生全員が各々交わした厳粛なる約束が存在する。

どうもサール先生のジョークの論理においては、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得することと、ドロップ・アウトして平和運動のヒッピーか何かになることが両極端の生き方だということになっているような気がする。しかし計算機の歴史において、その草創期にパソコンのハード/ソフトを、またその市場を創造することにおいては、この両者が等しく貢献してきたという事実は指摘しておくべきである、というか計算機屋のわたしは指摘せずにはおれない。


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3-1/3-2-0a (ver. 0.1)

2010年04月01日 | MSW私訳・Ⅰ
第3章 集合的志向性と機能の割り当て

3-1 集合的志向性を分析する

前章でわたしは、それらの論理的性質のいくつかを記述することを試してきた。本章では引き続き志向性の論理的構造を記述するが、わたしが人間の社会的存在論と人間社会一般すべての、基礎的な積み木(building block)であると信じるものに焦点を当てる。人間は(他の社会的動物もそうであるが)集合的志向性の能力を持っている。ここまでは、「わたしは信じる」とか「わたしは欲する」というような、一人称単数の文で表現される個人的な志向性だけを考えてきた。しかし本章では「我々はこれこれを信じる」とか「我々はこれこれを行おうとしている」「我々はこれこれを信じる」といった、一人称複数の形態の志向性を考えることになる。わたしはこれらのすべてを「集合的志向性」と呼んでいるが、この本の目的について言えば、集合的志向性の最も重要な形態は計画と行為における集合的な意図、つまり集合的な先行意図と集合的な行為中の意図ということである。しかしそうした中には信念や欲望のような集合的志向性の形態もまた存在する。たとえば宗教的な信仰の信者として、我々がそれを信じることの部分としてのみ、我々の信仰の部分としてあることを信じるというような場合である。あるいは政治運動の部分として、我々がそれを欲することの部分としてあることを欲するという場合である。そうした場合は実際に集合的志向性の場合であるが、本章において集合的に意図するということで扱うのは大部分、一緒にピクニックに行くことを集合的に意図するとか、一緒にクルマを押してみようと集合的に試してみるとかの場合である。本章におけるわたしの主な目的のひとつは、協同的(cooperative)な計画や行為において厳密に何が集合的志向性を構成するのかについて述べることである。

さらに、集合的志向性のひとつの重要な応用は人々や対象物に対する集合的な機能の割り当てである。機能は常に志向性相対であり、機能の重要なクラスのひとつ(本書の説明装置にとって本質的なひとつ)は、集合的志向性によって授課される機能を含むクラスである。本章はそれらの機能についての議論でしめくくることになるだろう。

集合的志向性をどう扱うかについて、それは単に前章と「まえがき」で与えた個人的志向性の説明における「わたし」を「我々」に置き換えるだけのことではないかと考える人がいるかもしれない。「わたしは店に行こう」のかわりに、「我々は店に行こう」と言って、あとは「わたし」の場合について行った志向性の厳密な分析を、これについても行えばいいのではないか、と。この方法にはいくつかの問題がある。そのうちのいくつかは深刻(serious)である。

(1) 我々は基本的事実を尊重する限り、人間の志向性は個々人の脳内にしか存在しないということを認めなければならない。また志向性の分析において「わたし」を「我々」に置き換えると、我々は「我々」志向性が存在するのが厳密にどの個人の(あるいは複数の)脳であるのかを言う必要がある。人間の脳内を除いて他に志向性の存在する場所はない。
(2) わたし個人の個人的志向性はわたしが個人的に引き起こせる行為の幅でしかありえない。協同的行動の場合に典型的であるように、わたしの因果の範囲を超えた志向性が存在する。
(3) ひとつの行為において協同する際の集合的行動には多くの形態が存在する。我々が一緒にやろうとしていることを達成するためには、わたしが行っていることの内容はあなたが行っていることの内容と異なっていなければならない。

最後の例は、野球か何かの試合でチームの一員としてプレーするような場合、チームの各選手は互いに異なる行為を行わなければならないという場合で説明される。もうひとつの例は楽団の一員として楽器を演奏する場合である。ひとつの単純な場合はわたしがピアノのパート、あなたがヴァイオリンのパートで二人奏を行う場合である。こうした場合のすべてにおいて純粋な協同行動が存在するが、個々人の意図の内容はそれぞれ異なる。彼らが野球の試合や曲の演奏を完遂するという最終目標を共有しているとしてもである。以下において我々はその問題を解こうとしている。集合的志向性につぃてのすべての説明が出会うことになる適切性の条件がいくつか存在する。それは我々が、これらが何であるか知っている、ちょうどその通りのものである。それを以下に列挙してみよう。

1. 先行意図と行為中の意図を明確に区別しなければならない。このことは集合的な行為と意図においても、個人的な行為と意図の場合と同様に重要である。
2. 先行意図と行為中の意図が自己参照的であることの充足条件を絶対的に明確にする必要がある。
3. 集合的と個人的とを問わず、すべての志向性は個々人のアタマ(head)の中に存在しなければならない。
4. 集合的志向性の場合、わたしが個人的に引き起こせることについて、どれがわたしの意図した内容の充足条件の部分でありうるか、どれがわたしの共同行為者(collaborators)による集合的志向性の中の貢献として当然視されるかが区別されなければならない。もし交響曲を演奏しているならば、わたしは実際にわたしの個人的な演奏(performance)を引き起こすことができる。しかしわたしはそれを集合的な演奏全体に対するわたしの貢献としてそれを行うのである。
5. 充足条件の特定について、命題的内容において何が可能で、何がそうでないかが明らかにされなければならない。命題的内容が表象できるのは意図の充足条件だけである。一般的にある志向状態の命題的内容は常に充足条件をその状態のタイプとは区別される形で特定する。後者は命題的内容の外側で特定される。先行意図と行為中の意図はともに、因果的に自己参照的であるから、命題的内容は動作主が因果的に影響を及ぼすことができる(あるいは、できると動作主が考える)場合にのみ要素を表象することができる。
6. 集合的志向性において、他者の志向性が何かについての個々人の志向性は必要とされえない。チームワークや集合的な挙動の複合的な形態において、個人は典型的に他人が何をしているのかの詳細を知らない。集団内の誰もが集合的目標を共有しており、また目標達成に向けて各々が各々の部分を行おうとしていると信じる必要がある。

3-2 集合的志向性についての目下の説明

集合的志向性は近年の分析哲学における家内工業のごときものになってきた。「集合的志向性」と題した2年に1度の(biennal)会議さえ開催されている。この主題に関するいくつかの重要な著作も出版された。たぶんそう思われることだろうが、主題をめぐる論争が活発に行われている。集合的志向性について一般に受け入れられている説明など確かにない。

もしこの本がこの分野の歴史的なサーベイになろうとするなら、わたしはマーガレット・ギルバート*やライモ[?]・トゥオメラ**のような先駆者の重要な著作や論文について、何章も割いて説明しなければならないだろう。

* Gilbert, Margaret, On Social Facts, London: Routledge, 1989.
および"Walking Together: A Paradigmatic Social Phenomenon," Midwest Studies in Philosophy 15(1990): 1-14
** Tuomela, Raimo, "We Will Do It: An Analysis of Group-Intentions," Philosophy and Phenomenological Research 51(1991): 249-77.
およびTuomela, Raimo, and Kaarlo Miller, "We-intentions," Philosophical Studies 53(1988): 367-89.
あるいはTuomela, Riamo, The Philosophy of Sociality: The Shared Point of View, New York: Oxford University Press, 2007.

必読というべき最重要の著者たちについてはマイケル・ブラットマン*、スーマス[?]・ミラー**、デイヴィッド・ヴェルマン[?]***によって詳しく紹介されている。

* Bratman, Michael E., Faces of Intention, Cambridge: Cambridge University Press, 1999.
** Miller, Seumas, Social Action: A Teleological Account, New York: Cambridge University Press, 2001.
*** Velleman, David J., Practical Reflection, Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1989.

名前の後の[?]はテキトーにつけたカタカナ表記で、ググっても確認できなかったものである。ただしどの著者も国内のサイトで参照・紹介されていたり、著書がどこかの大学図書館等に所蔵されているのが確認できた。つまりいずれも名の知られた学者・研究者だということである。当たり前っちゃ当たり前だが。


(つづく)

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3-0 (ver. 0.1)

2010年03月29日 | MSW私訳・Ⅰ
第3章 集合的志向性と機能の割り当て

我々のプロジェクトはただ単に人間社会の本性を説明することではなく、その特徴が基本的事実に矛盾しないこと、また基本的事実から自然に発達するものであることを示すことであったのを思い出してもらいたい。基本的事実は物理・化学・進化生物学やその他のいわゆる「ハード・サイエンス」によって所与とされる。ここまで、わたしはいかに我々が志向性を興味深い論理的性質をもつ自然な生物学的現象であると考えることができるかについて説明を与えようとしてきた。自然の脳過程は記述のある水準において論理的な意味論の性質をもつ、ということを記憶しておくことが、我々自身にとって重要である。それらは真理条件やその他の論理的関係の充足条件をもつ。そしてこれらの論理的性質は神経伝達物質のシナプス間隙への分泌と同様に我々の自然な生物学の一部である。そう、あなたは他の脳過程と論理的に矛盾する脳過程を持つことができる。いまあなたがこれらの語を読んでいるあいだ、あなたの脳の中には進行するひとつの電気化学的過程が存在する。その過程はあなたがいま気づいていることの意味論的な内容を持っている。二元論の伝統においては自然な生物学的現象は論理的性質を内在させているものとしては考えられて来なかった。論理的性質はぐにゃぐにゃした(squishy)生物学とはかけ離れた、ある抽象的な領野(realm)に存在するものと考えられてきた。フレーゲは心と体に加え、永久に存続する第3の領野を仮定することさえした。わたしはそれらを地べたに引きずり降ろそうとしているわけである。わたしは、あなたがこの文を読んでいるとき、あなたの心を介して進行する思考は脳内の神経生物学的(neurobiological)過程でもあって、それらの過程は論理的な性質を持ち、厳密に思考と同じ論理的性質をもつと主張する。それらは単純に思考の神経生物学的な実現にすぎないからである。哲学においてはしばしば志向性の「自然化(naturalize)」ということを試みる人がいる。志向性を自然化するとは、彼らにとって通常はそれが実在することの否定を意味している。あるいは何か別のものが存在すると主張することを意味している。わたしの答は「志向性は実在する。他のどんなものでもない」である。志向性は(それ自体で)すでに自然化されている。なぜなら、たとえば、考えることは消化と同じように自然的だからである。

「脳を捨てよ、そうすれば哲学になる」と言うべきところかどうかはよくわからないが、そう言ってみたいところである。脳科学は滅亡しろというほど脳が大キライなわたしが、サールのこうした説明を頭から拒否することがないのは、わたしの考えにおいても「考えることは消化と同じように自然的だ」からである。サールの「生物学的自然主義」の主張において本質的なのはむしろこの一文の方であって、脳の神経生物学がどうしたこうしたの方ではないとわたしは見ている。そして実際、個体の生理的・生化学的過程の生物学を学んだことがある人なら誰でも知っている通り、消化という過程は、生物個体をどのようにコンパクトに定義したとしても、その個体に関して有界な生理的・生化学的過程であるとは限らないという意味で開かれた(open)過程であり概念でありうる。思考もまたそうした過程のひとつだとわたしは考えている。

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2-5b (ver. 0.1)

2010年03月29日 | MSW私訳・Ⅰ
2-5 志向性の一般的な構造(承前)

我々の志向性についての説明で最後にひとつ追加するものがある。それは人間の行動と社会的行動・社会的現実の両方を理解する上で本質的なものである。後にそれを証明(demonstrate)する。認知と意志の間には、表2.1には含めなかった非対称性が存在する。我々の意志的な行為の場合には、我々は、信念や欲望に対する反省と先行意図の形成(意志決定の形成)の間で因果的なスキマ(gap)という特徴的な経験をする。信念や欲望に典型的であるという意味での因果的なスキマ(gap)が存在する。それらは意志決定の理由であり、したがって先行意図の形成の理由である。しかしそれら自体は意志決定を強いる因果的な効力を持たないのである。因果的なスキマ(gap)はさらに、先行意図と行為中の意図の形成における現実行動の開始との間で典型的に経験される。何かをやろうと決意しても、その手を引っ込める(haul off)か実行するかの選択肢は以前として残っている。そして典型的に、先行意図は行為の着手(onset)を強いる因果的な効力を持っていない。わたしは努力(effort)しなければならない。さらに、ものを書くとか英仏海峡(the English Channel)を泳いでわたるとかいったような一連の行為あるいは拡張された行為を持つ場合、志向性のあらゆる段階で、行為中の意図が存在するというだけでは、それ自身過程を継続して完遂するに十分ではない。継続的な行為には継続的な努力(effort)がなければならない。そういうわけで少なくとも3種類のスキマ(gap)が存在する。あるいは、意図的な行為のあらゆる段階での意図的な現象と次の段階への継続の間に、連続したひとつのスキマ(gap)の3つの部分があると言うべきか。

(1) 理由と判断(先行意図の形成)の間のスキマ(gap)
(2) 判断と行為着手(行為中の意図)の間のスキマ(gap)
(3) 複合的な行為における、行為の着手と継続して完遂に至る間のスキマ(gap)

哲学においては、このスキマ(gap)は伝統的に「意志の自由(freedom of the will)」と呼ばれてきた。好むと好まざるとにかかわらず、我々が世界を扱う場合には、我々は意志の自由という前提を置くことを強いられる。以下の図はスキマ(gap)の出現する場所を説明している。意志的な行為のスキマ(gap)は連続的であるが、スキマ(gap)がスキマ(gap)自身を出現させる3つの特別な場所(three special places where it manifests itself)があって、それが下図で示されている。

行為理由(信念・欲望・責務・必要etc.)→(gap)判断→(gap)行為着手→(gap)完遂へ向けた継続

わたしは、我々が典型的には我々が行為理由を意志決定として、判断を行為決定として、行為着手を完遂への継続の決定として経験しないという意味で、我々が自由の経験をもつことを強調してきた。しかしわたしは、我々がこうした経験をもつということが、我々が実際に自由意志(free will)をもつということを保証するわけではない、という事実を強調しなければならない。それが実在するのか否かということは、なお開かれた問題(open question)である。

拙速をお赦しいただきたい。わたしは次章以後で本質的となるであろう装置を運び出そうとしているのである。

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2-5a (ver. 0.1)

2010年03月26日 | MSW私訳・Ⅰ
第2章 志向性

2-5 志向性の一般的な構造

ここまで、わたしは記憶や知覚についてほとんど言及してこなかった。というのもこの本は大部分行為について扱っていて、これらのより厳密な認知的現象について扱うものではないからである。しかし完全性のためには、知覚や記憶が(先行意図や行為中の意図のように)因果的に自己参照的であることを指摘しよう。あなたは対象の存在があなたの視覚的な経験を引き起こす場合にのみ、その対象を見る。あなたは、あなたがピクニックを経験した事実が現在のピクニックの記憶を引き起こす場合にのみ、ピクニックを記憶(想起)する。しかし記憶や知覚の適合方向と因果の方向は先行意図や行為中の意図のそれと鏡像対称の関係にある。記憶と知覚は下向きの、つまり「心→世界」の適合方向を持つが、これは先行意図や行為中の意図が上向きの、つまり「心←世界」の適合方向を持つこととは違っている。視覚的な経験の因果的な自己参照性と記憶の経験は、状態それ自体が状態の内容のうちに表象される事柄の状態によって引き起こされる場合にのみ満たされるような何かである。結果はここまで記述してきた志向性のタイプの間の、ひとそろいの美しい形式的な関係である。それを以下の表に示す。


表2.1 志向性

いささか古めかしい「認知(cognition)」と「意志(volition)」の語を、これらの志向状態の基本タイプの名前として用いる。(「適用不可」というのは[原文ではN/Aと表記されている]、信念や欲望はその志向内容において因果的な自己参照性の条件を持たないので、因果の方向についての問題が生じないということである。)

志向性のさまざまな構成要素の形式的な関係はこのように美しい(実際とてもキレイだ)ものなので、わたしは少なくともこの対象性が暗示するものについて言わなければならない。我々の、認知の原始的形態──つまり知覚と記憶である──を介した現実世界に対する関係の概念は絶対的に基礎的である。充足条件を構成する事柄の状態が、事柄の状態をその充足条件としてもつ、まさにその知覚や記憶を引き起こす場合にのみ、「心→世界」の(下向きの)適合方向の形態において我々は満足を達成すると我々は考える。意志によって、我々は厳密にその鏡像を得る。それは我々のやってみることや計画、行為中の意図や先行意図の成功の認知において等しく基礎的であるので、まさにその計画ややってみることがその成功を引き起こす場合にのみ(つまり、志向的現象、つまり心的現象がそれが表象する世界の中で事柄の状態を引き起こす場合にのみ)「心←世界」の(上向きの)適合方向を達成することに成功する。我々は「心←世界」の適合方向を、「心→世界」の因果の方向によってのみ達成する。

多くの哲学者は志向性の原始的形態は信念や欲望だと考えている。しかし我々はこれらを、行為と知覚における志向性のより生物的な基本形態から派生し脱色された(etiolated)形態だと見るべきである。信念や欲望においてこれらの因果関係は漂白される。信念と欲望はそれによってはるかに柔軟になっている、というのもそれらは因果的に自己参照的な構成要素を持たないからである。しかし現実に対して関係づけられる生物学的により基本的な形態とは、我々の計画(先行意図)、やってみること(行為中の意図)、知覚、記憶である。これらにおいて我々は因果的かつ表象的な構成要素を持ち、それらは厳密に、ここまで記述してきた道筋に結びつけられる。

ひとつ、先の図で除外されていた機能は想像力である。想像力は適合方向を持たないので除外したものである。状態のタイプSと内容pの区別を想像力に適用する。わたしは雨が降ってると信じることができる、あるいは望むことができるように、わたしは雨が降ってると想像することができる。しかし下向き(心→世界)の適合方向をもつ信念や上向き(心←世界)の適合方向をもつ欲望と違って、何かを想像することは、その場合何を想像したと信じるのか、あるいはその場合何がどうなってほしいのか、どちらにもわたしを束縛(commit)しない。しばしば人は何がどうなりそうかを空想したりはするが、それは欲望を形成する空想や想像の本質的な特徴ではない。人は何が起こるかを空想し、恐れや憎しみを空想する。そして実際起こりえないことを信じる。想像に適合すべき責任は存在しない。想像することに独特なもうひとつの特徴(あるいは、そうでありうるもの)は自由な意思的な行為(free voluntary action)である。わたしはわたしが信じることも欲することも意志的に意図することもできないことでも何でも想像することができる。「想像せよ」という動詞は他の動詞がそうできない場合でもいとも容易に命令法をとることができる。「ヴェニスの暮らしを想像せよ」は正しい文である。それは「ヴェニスで暮らすことはどんな風なものであるかを想像してみよ」という意味である。しかし「ヴェニスの暮らしを信じよ」「ヴェニスの暮らしを欲望せよ」「ヴェニスの暮らしを意図せよ」はすべておかしな文である。

※・・・そうなのか?特におかしな文(bad English)だとは思えないのだが・・・英米人が聞くとヘンなのか?

志向性のこの説明においては「より基本的なことからあまり基本的でないことへ」の自然な進行が存在する。志向性の最も原始的な形態とは知覚と意図的行為である。これらの場合、動物は環境と直接接触し、環境が動物に何かを引き起こす(知覚)か、あるいは動物の方が環境に何かの変化を引き起こす(行為中の意図)。これらに比べるとより基本的ではないのは、それらがそれらの充足条件としてもつ表象である。これらは先行意図と知覚的記憶である。これらの場合、我々はやはり因果的な構成要素をもつが、充足条件との直接の因果的結合は失っている。記憶は過去を表象する。先行意図は未来を表象する。そのとき次の段階は信念と欲望である。そこで我々は因果的構成要素の必要を除去する。あなたは何かを信じることができるし、信念はあなたの信じることがあなたの信念を引き起こさなくてさえ満たされうるし、あなたは何かを欲することができるし、あなたの欲望はあなたの欲望が欲望の充足を引き起こさなかったとしても満たされうる。想像においてあなたは充足条件との内的結合を失う。

(つづく)

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