惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

(番外編)哲学は役に立つか

2008年08月02日 | 素人哲学の方法
まず一般的な見通しで言って、それは「ほとんど役に立たない」はずだ。特に素人哲学ということになったら、それはもう99.9%以上の確率で何の役にも立たない、ムダな時間潰し以外の何かになるとは思えない。現にわたしはそれ以外のつもりでやっていない。

何でそんなことが断言できるのかといって、別にどうってことではない。身近な範囲でも、あるいはネットの中でも、素人哲学というのはいくらでも見つけることができるけれど、哲学的思考なり素養なりを身につけていて、またその方法や知識がインチキやデタラメでなかったと仮定した上で(わたし自身のそれを含めて、素人哲学がこの前提を満たすこと自体が極めて難しいのだが)、そのことによって有為な何かを得ていると言えそうな人物は、ただのひとりも見当たらないからである。

そういうわけで哲学は役に立たない。人を幸福にするどころか、ほとんど例外なく不幸にしかしない何かだ──当人だけではなく、彼にかかわるほとんどすべてを、である──と思っていて、まず間違うことはないと思う。

やってる当人がわざわざこんなことを書くのだからお判りだろうが、だから、そういうことは必ずしも問題ではないのである。いかにも哲学は何の役にも立たないのだが、それを言うなら、そもそも我々(人間)の存在自体が何の役にも立ちはしないのだ。役に立つというのは道具一般の性質であって、我々の存在は道具ではないのだから、当然の話である。そして哲学というのは、根本的には、その我々の存在それ自体か、あるいは我々の存在にかかわって初めて成立するような種々の概念について深く思考することにほかならない。深いも浅いもありはしない、役に立たないものについて何をどれだけ考えたって、当然それ自体も役には立たないのである。

そうそう、「百害あって一利なし」というやつだ。コドモのころからいったい何億回聞かされてきたか知れやしない、などと、昔を思い出してニヤニヤしながら、わたしはタバコに火をつけることができるのである。

追記:太字部分のことをどう書こうかとつらつら考えていたらこんな文章になってしまった。どうにも分類不能で困ったものだが、これ以上カテゴリを増やしても面倒になるだけなので、とりあえずここに入れておく。

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自由意志はどこにあるのか (1)

2008年08月01日 | 心身問題・自由意志
仕事の忙しさにかまけていると、数日前に考えていたこともキレイさっぱり忘れてしまって、自分のblogを自分で読み返すようなことになってしまっている。まあ、もともとそのために作っているようなものだからいいのだが。

自由意志は一番突っ込んで考えたいと思っているテーマなのだが、なにしろ考えが進まないので書くこともあまりない。いずれにせよ当分はアイデアやイメージばかりになってしまいそうだが、とにかく書いてみよう。

意識に関する概念はだいたい何でもそうなのだが、特に自由意志の場合に、それが存在すると主張できるかどうかは議論のスケール(縮尺)のようなものに依存しているということが理解されるべきだ。たとえばそれをミクロな脳神経活動のスケールで眺めると、どこにもそれらしいものは見当たらないし、さらに指一本の動作というような小さな行為の意識的な選択ということに局限してしまうと、時間的順序に関して矛盾した実験結果が得られることにもなったりする。

もともとこの種の議論は機械論的なものなので、そこに自由意志が見当たらないとか、矛盾した結果が得られたりするのは、当然と言えば当然のことだ。上述のような実験結果が示していることは、わが国の脳科学バカが言挙げしたがっていることとはまったく逆で、自由意志を論ずる上で脳という対象を置くことが、議論のスケールとしていかに不適格であるか、ということなのである。雑誌のグラビアを顕微鏡で拡大して眺めて「インキの染みしか見えませんよ?」などと主張するようなものだということだ。

これとは逆に、あまり指摘されないことなので書いてみるのだが、話を大きくしても、つまりマクロに眺めてもやはり自由意志は消えてしまう(見えなくなる)、ということがある。たとえばわが国の中学生や高校生を全員集めて、一律に同じ内容の学力テストを受けさせたとすると、結果のヒストグラムは情けないほど美しい正規分布曲線を描くことになっている。個々の生徒は、特に成績のいい方は、自分の成績がいいのは意志してたくさん勉強したからだと思いたがるわけだが、実のところは大きく見れば、その意志するしないも含めて、サイコロを振るのとまったく同じ種類の偶然の中にいるだけなのである。

さて、そうだからと言って、この事実から「自由意志なるものはいかなる意味でも存在しない」と結論できるかと言えば、それはそうではないわけである。上の話を中学生が真に受けたら「どっちみち偶然だというなら、その偶然を寝て待っていればいいではないか」とばかり怠けて勉強しなくなるに決まっているわけなのだが、そうするとどうなるか、これはもう火を見るよりも明らかなのである(笑)。

いや笑いごとではない。奇妙なことではないか。(続く)

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