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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

商家の道徳

2011年12月26日 | げんなりしない倫理学へ
商家の心得集みたいなものは昔からたくさんあるわけだが、わたしはそういう家に生まれ育っていない、共働きの勤め人の息子であるせいなのか、コドモのころからその種の心得集みたいなものを──友達の家が商売をやっていて、遊びに行ったりすると、だいたいそういうのが家のどこかには掲げてあったり、日めくりみたいなものとしてあったりするわけである──目にするたびに「まったく、どうしてこんな何でもかんでも禁欲的なんだ」と思わずに済んだということがないわけである。

「親のいいつけはよく聞いて」みたいなのを読むと「うるせえ」とか思ってしまう(笑)。そんなこと、わざわざ書かれていなくたって、親はどこの親でも口やかましいものだと決まっているわけである。それをわざわざ文字にまでして書いてイマシメに掲げておくというのは、いったいどういう悪趣味なんだと思ってしまうわけである。もちろん口にはしないけど。

それは今でもそう思う(笑)のだが、

今はそれとは別に、どうしてそうなるのかの理由がなんとなくわかるようになっている。

なんで、何がどうわかったのかと言えば、わたしは若いころ、ささやかながら何年かのあいだ物書き稼業をやっていたわけである。それは極小形態だとは言っても一応「自営業」である。もちろんものすごく貧弱な何かである、とは言っても「商売」の一種であることに違いはないのである。

それをやるとわかるのは、というかやってみて初めてわかったことは、商売をやるというのは本当に24時間休みなしでコミットしていなくてはならないような何かだということなのである。それもただやっていればいいというのではない。何をどうするにも後先を考えながらやらなくてはならないのである。文字通り脇を固めて、生活過程の全体をそれに向かって集中的に組織し、ほんとにガッチガチに固めてじりじりと、淡々と、面白くもおかしくもなく進んで行くのでなければ、ちょっと気を抜くだけであっという間に何もかもが破綻してしまうわけなのである。いや破綻はしないまでも、でもその瀬戸際まではすぐに追い込まれるのである。地獄を見たとまでは言わないけれど、その入り口くらいは何度か見たような気がする。

そういうことである。昔の人は、特にわが国の昔の人は、そういう場合に理屈で考えるということはまずしないし、なまじ考えたところで全然身についてくれない、言ってることとやってることが乖離するばっかりのことになる(笑)ので、だいたい道徳で固めようとする方向に傾くわけである。その帰結するところがあの、商家の心得集の文言なのである。個別の文言にはさしたる意味は、たぶんないので、ただもう「用心せよ節制せよ引き締めよ、遊ぶな逃げるな怠けるな、黙々と粛々と営々とやれ」なのである。

それをはっきり身につまされたのは、わたしの場合は物書き稼業の体験だったということになるわけだが、でも本当はどんな仕事であれ、始めてみれば必ずや「貧乏ヒマなし」のことになってしまう──金銭的にはそれなりに儲かっていたとしても、である──のは、たぶんそれほどには違わないことである。そんな日々の中でふと立ち止まって考え込んだりすると「なんだよ・・・生きてていいことなんか何ひとつねえな。何だこれ・・・何なんだよこれは!」という感じしかやって来ない。それは本当にそうである。

だから普通の人達は立ち止まったりはしないのである。それだけではない、病気であれ不運であれ、あるいは意志してそうなったのであれ、何であれたまさか立ち止まってしまった人に対しては、世間の人々は客観的にだけ言えばまったく無体きわまりもない悪罵を投げつけたりするわけである。不運でそうなったのが明らかだと頭から罵ったりはしないけれど、どうも何か、次第々々に態度がそういう風になって行ったりするわけである。

twitterやなんかを「うつ病」とか「怠け病」とかで検索したりすると(むろんそれは、わたし自身がこのblogの題名の通りの怠け病者で、このblogや自分の呟きのネタにするためにしているのである)、そういう悪罵はもちろんのこと、悪罵の残響やら、投げつけられた側の悲鳴やら、どうもいささか怪し気な治療法の宣伝やら、大部分がそういったもので画面が埋め尽くされる。

それはそういうことなのだろうなという気がする。つまり、そういう(本当に不運でそうなったのかもしれないとしても)不運な人の不運を罵り倒してでも心情の上で拒絶しなかったら、自分の方もたちまち空虚に晒されてしまうであろうことを、普通の人達は心のどこかで知っているというか、「sad but true(悲しいけれど本当のこと)」というやつを握りしめているのではないだろうか。

・・・もちろん、こんなことをこんな風に書くということは、わたしはやっぱりどこか普通の人達の世界からはハズレてしまっているのである。いくつになっても本質的には世間知ラズのノンキ者なのである。詩人ではないから言葉の格好いい蝶々を追いかけたりはしないけれど、素人哲学だから論理の格好いい蝶々は追いかけようとしているに違いないのである。

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なぜ命は大切なのか(4/4)

2011年09月14日 | げんなりしない倫理学へ
つづめて言えば「命の大切さ」とはもともと「自分の存在のはかなさ」の感じから出てくるものだということである。前者は虚ろなフィクションの観念にすぎないが、後者を身に染みて実感しない大人がいたら、それは大人とは呼べない種類の人であることだろう。そしてコドモがそれを感じないのは発達途上の当然にすぎない。コドモに与えるべき徳目があるとすれば、だから、取り返しのつかない暴虐を現実にするなというのが精一杯のことであるはずだ。それだってコドモはそうは簡単に納得しないことだが、それ以上の道徳教育などは、ましてやフィクションの観念を教示しようなどというのは、どのみち嘘か茶番にしかならないことである。



以上のことをもう少し詳しくやってみるとしたら──人間は人間の意識としてある限り他の存在に自身の行為的存在を延長しようとする傾向を必然的にもつ(その延長を頼りに対象世界を拡大していく)。延長である対象には心も延長されるが、その一部は投影像として認識的存在の側に観念としてフィードバックされることがありうる。それはたとえば「命の大切さ」という観念でありうる。この観念がそれ自体としては対応する現実を持たない、考究不能なフィクションであるゆえんもこの図式の上にある・・・と、この先はいずれもっと詳しくたどり直してみる必要がありそうだ。

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なぜ命は大切なのか(3/4)

2011年09月14日 | げんなりしない倫理学へ
じゃあ何なのか。なぜ「命は大切」だということを大人に限って、教わりもしないのに知っているのか。実は答は簡単なことで、ほとんどの大人は「生きることのしんどさを身に染みて知っている」からである。そのしんどさの感じは同じように命を持つと見えるものすべてに大なり小なり投影される。そうするとその命を奪うことは、あたかもいずれ我が身に降りかかる暴虐のようにさえ感じられるようになるわけである。そして暴虐の気配が(あるいは時として現実が)あるところには必ず正義が予感される。その正義の観念を言葉にしたものが、たとえば「命の大切さ」という5文字なのである。「生きることのしんどさ」は実感だが「命の大切さ」はそこから導かれたフィクションである。フィクションから実感を導くことは一般に不可能なのである。

コドモは大人のようには生きることのしんどさということを感じていない。だから虫や小動物を残酷に扱うようなことを平気でする。そうかと言ってそういうコドモは心を病んでいるわけではない。病んでいるなら人間はほぼ全員生まれつき病んでいることになる。それは現実の説明として妥当ではあるまい。

コドモに「生きることのしんどさ」を教えれば「命の大切さ」を教えたことになるのだろうか。おそらくそうなるだろう。けれども誰がそれを教えることができるのか。誰かはそれを説明的に教ええたという例がひとつでもあるだろうか。そんなことは、仮に説明することができたとしても(わたしにはできないが)、第一、問われたって教えたくないことであるはずだ。サンタクロースが本当はどこで何をしている人なのかということ以上に。

もうひとつこの説を裏打ちすることをつけ加えておくと、食い物のことになると他の生き物の命は顧みなくなるというのも、この説でなら簡単に説明できる。食べることと寝ることは人間の根本的な欲望のふたつである。つまり、生きることのしんどさの反対側にある喜びの、たったふたつのうちのひとつなのである。そしてもうひとつ他の命が顧みられなくなる典型的な状況として、自身の命が深刻な脅威にさらされていると感じている場合が挙げられる。簡単に言えば「食うか食われるか」の状況に置かれたら、人間は誰であろうと自分以外の命を顧みようとはしなくなるのである。



食い気とか生命の脅威にさらされるなどのことは意識によって拡大される以前の、動物的な身体に局限される行動と深く結びついているので、その際は人間以外の生物がすべてそうであるように他の生命を顧みることをしない、というか、そもそも思うこと自体をしなくなるのである。

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なぜ命は大切なのか(2/4)

2011年09月14日 | げんなりしない倫理学へ
じゃあ命なんぞは(少なくとも自分の命以外は)粗末にしてもいいとか、どうでもいいと思っているのかというと、実はそうではないわけである。「ただ一輪の花のために命を賭ける」デューク・フリードほどではないにしても、わたしはもちろん、たいていの大人は、大なり小なり自分以外の命だろうと粗末にすべきではないことを知っている。ただ知っているだけではなく、実際に無意味に命を奪うことを本当に忌避する。病原菌やウィルスの命になるとだんだん怪しくなってくるのだが(笑)、少なくともゾウリムシ一匹の命でも無意味に奪うことには必ず小さくない抵抗感を覚えることになっている。「大人は」である。

念のため言っておくが、普通はそれは誰かから教わったことではない。ほとんどの大人は人を殺さざるべきことを徳目として知っているが、それは年長の世代から受けた説教とか、あるいは学校の道徳の授業とかで教わったから知っているわけではない。親の説教はまだしも、道徳の授業なんていうのは、いつの時代も、やる方も応答する方もしょせん紋切型だと心得たものどうしの茶番でしかないわけで、誰も本気にしないことである。教師でも生徒でも本気にする者がいたら、その方がある種の不心得者だと言っていいくらいである。また親の説教だってそうそう聞き入れられるものでないことは、それこそ大人なら誰でも身に覚えがあることである。

何にせよそれは教わらないのに知っていることなのである。それも、大人になるといつの間にかそう心得ている何事かである。

たまに阿呆な科学者がいて、こういうのはつまり生得的形質で、大人になってから発現するのだという風に勘違いした挙句、DNAの塩基配列とか脳神経の網状組織とかの中にそれを探そうとしたりするわけだが、もちろんそうしたものではまったくない。仮にそうだとしたら、他の生物はどうして自分以外の命を(同種の個体のそれであってさえ)顧みるということが例外的な場合を除いてないのか、その説明がつかないことである。だいたい「命」ということは人間がその意識の上でしか知らないし、知っていてもそれは上述のようにフィクションの、内容のまったくない観念にすぎないのである。

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なぜ命は大切なのか(1/4)

2011年09月14日 | げんなりしない倫理学へ
我ながらものすごいシリーズ題だ。実はTHN私訳のファイルを忘れてきてしまったので、急遽代用のつもりでこれを書きだしたというのは、内緒だ(笑)。

題名のネタは先日の「土曜日の本」で取り上げた「「心」と「国策」の内幕」を再読しているうちになんとなく思いついたことだ。とはいえ、その本を読まなくても、昔から学校やなんかでイジメで自殺する人が出るたんびに「命の大切さが云々」ということが紋切型のように言われるのを、わたしはわたしなりに愉快でないと感じてきたわけである。

最初にはっきり言えば「命の大切さ」なんてことは教えられるようなことではないのである。真面目な話、それは何のことだと問われて、コドモにでも判るほど明解にパッと答えられる人は、よっぽど物知りの大人でもまずいない。科学知識ではない、徳目に属するようなことで、普通の大人だって答えられないことを教師が答えられるわけがない、というか、教師だけが答えられるとしたら、その答はまず嘘に決まっていると思っていいことである。

そういうと苦し紛れに「答が大事なのではなく考えることが大事なのだ」などと言い出す人がいる。言い逃れの詭弁である。自分で自分の心の中にこの5文字を並べてみればすぐわかる。その心の中にはいかなる輪郭のある観念も描かれないはずである。書かれた文字であれ話された音声であれ、どっちにしてもまったく虚ろに響くだけだということは、ほとんど誰がやっても同じことになるはずである。もちろんわたしがやってもそうなるわけだ。目の前でこの5文字を真顔で並べてみせる人がいたとしたら、鼻先でせせら笑うかもしれない程度にはまったく虚ろな文字である。

哲学が高尚だろうと低俗だろうと、虚ろな観念の上に哲学を構築することは決してできない。つまり答がないどころか、本当は考えることもできない、この5文字は無内容の5文字なのである。

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善悪の旧盆

2011年08月15日 | げんなりしない倫理学へ
現実において任意の人間と人間のあいだ、任意の人間と任意の規模の任意の人間の集団のあいだに起こることは、いまさら言うまでもないことながらキレイなことばかりではない。むしろ、改めて考えてみれば身の毛もよだつようなことばかりだと言った方が、たぶん、よほど正確である。一方で同じくらい確かなことは、ほとんどの人はそうした身の毛もよだつようなことを、自分自身が経験するのはもちろん、他人がそんな目に会わされていることも、それを見聞きすることも、ひどく嫌なことだと思っているものだということである。どうしてという以前に現実的な事実としてそうであるとしかわたしには思えない。どちらかしか知らないという人がいるはずがないとか、いてはいけないとは言わないが、いずれにせよそれは端的に稀な例外であるはずである。

そしてこのふたつの事実から言えることは、我々人間は誰しも他者ということについて大きな落差のある、ほとんど矛盾していると言っていいくらいの、まったく異なるふたつの態度を、双方とも人によって強弱の差はあるにしても、持っていること自体は疑えない、ということである。そして常識的に、あるいは理論的に信じられているどのような人間関係、あるいは人間とその集団の関係のモデルも、この落差ないし矛盾を説明しないし、ほとんど緩和することもないし、一般的に言ってその落差を埋めるべきことが志向されているとさえ言えないのである。つまり既存のモデルは、論理的に整合するものであれしないものであれ、すべて何かが根本的に間違っているか、少なくとも十分納得できる説明にとって必要な何かを非常に欠いているのである。

要は簡単に言ってしまえば、善と悪は両立しないどころか、いつでも誰においても普通に両立してあるということである。それが、我々がその都度その都度の我々自身についてさえ容易に認められない、どんなにしても不連続なわずかな間を置いて、しまったとばかり気づく以上のことができないのは、そのような両立が普通に成り立つと言えるようなモデルを我々が持っていないからだと、まずは考えられよう。我々が持っている、あるいはそこらのご立派な本に書いてあるようなご立派なモデルは、大雑把に言えば、仮にその上で善を定義したとすれば、悪は善の欠如として非存在だと考えるしかないようなモデルばかりなのである。そうしたモデルの上で善悪は決して両立しないし、できないのである。

抽象的な理論としてそうしたモデルを作ることは、こんなことをこんな風に言っているとそう思われるかもしれないほどには(作ってみたことはないから、たぶん)難しくない。古典的な論理学ばかりは破綻するかもしれないが、古典的でない論理のモデルというのは(20世紀の論理学者がヒマに任せて次から次へと飽きもせず作ってくれたおかげで)実は無限にあることが判っているわけである。だが、仮に作ったとしても、それはほとんど信じられない、というのも、抽象的なモデルの基本的な前提が現実的なものであると確証させるものがないからである。

(未完)

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「セシウムさん」考 続き

2011年08月07日 | げんなりしない倫理学へ
最初の「セシウムさん」考を書いて、まあこんなところだと思って、以後の経過をtwitterで眺めていると、どうも愉快でないなという感じがつのってくる。「異常」な反応を示している人ばかりが多すぎるのである。

「正常」な反応というのは、たとえばどういうものかというと

セシウムさんの話を聞き齧って思うのは、仏じゃないんだから他人の不幸を聞くキャパなんて限度あるのね、毎日毎日陰気な話にばかり触れてたら、私もふざけることでバランス取るわ、ある意味すごく正常だと思った。いけないことなんだけど。
(sawahotaru)

こんな風なものだと思う。もっとも、わたしはこの呟きを読んで「感心」してしまったのだから、単に正常なだけではない、やや上等な反応ということにはなるかもしれない。つまり普通の人はここまで達者な表現力を持たないだろう、ということだが、しかし言わないだけでだいたいこのくらいに思っているなら問題なく正常である。

異常はともかく、過剰に反応することは「もともとただのイタズラの手違いにすぎないものを、大真面目な意図を孕む何事かであると宣言してしまう」「もともとなかった事態を創出する」ことになるというのは、次のような呟きを誘発するという意味においてである。

セシウムさんは酷すぎる。youtubeで見たけどあり得ないし、謝ったってもう遅い。だいたい謝る前にそんなの作るのがおかしいし、作る意味ですよ。と昨日家でキレてました。××の皆さん、僕たちは普通に米買います。放射線セシウムなんて気にしません。
(1997mayuyuosi; 一部伏字)

こんなことわざわざ言う必要はないのである。むしろこう言うということは「××県産の米について放射性セシウム(汚染)を気にする理由が存在する」と天下に向かって宣言しているのと同じなのである。もちろんそんな理由を持つべき事実などどこにも存在しない。それを、かのテロップの文言を「大真面目に」扱ってしまうことで、存在しない事態(理由)を創出してしまうことになるのである。実際、後者の呟きの主は内心では相当の不安を持っているものだから、(それをしでかしたその時点のオツムの中身において)小学生のイタズラだと思えばその通りのものにすぎないテロップの字句に向かって「だいたい謝る前にそんなの作るのがおかしいし」などとキレることになったのではあるまいか。わたしにはそう思える。

繰り返して言うが、「イタズラだ手違いだと言って済まされない」と言って本気で怒る正当な理由を持っていると言えるのは、件の米産地の農家の人達だけなのである。あるいは、たかだかその組織(JA)や自治体なのである。ほかの人がおんなじようにキレるというのは、少なくとも過剰な反応であり、いま最も回復されなければならないものをかえって傷つけることにもなりかねないのである。

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「セシウムさん」考

2011年08月05日 | げんなりしない倫理学へ
事件報道については下の方で記事や画像を引用しているので、それをご覧いただきたい。

このblogの記事では伏字にしているが、件のテロップには実在する土地と銘柄が書かれていたわけである。その産地の農家の人にしてみれば、朝っぱらから公然と愚弄されたようなものである。しかも地域の農産物が放射能汚染の風評被害を被りはしないか、それを最も懸念しているさ中に、露骨にそれそのもののようなテロップが、手違いとはいえ公の電波に乗って放送されてしまったわけである。これを非難するのは少なくとも心情的に当然のことである。放送局はそういう非難に対しては誠実に対応しなければならない。これも当然のことである。

とはいえ、わたしに言わせればこの件はそれだけのことである。それでは済まないし済まされないと言って息巻いている人があちこちにいるが、それは見立てを誤っていると思う。件のテロップは、その字面を眺めてみれば、これは小学生じみたイタズラにすぎないことが明白である。要はエンガチョつけみたいなもの、あるいは小学生がう×こネタで笑ったり笑わしたりするあれと同根の、幼稚な心性の発露にすぎないわけである。

そんなこと、大の大人がすることかといって、テロップの作者や放送局が顰蹙されるのは仕方のないことである。顰蹙されるようなことだから笑いが生じるのだし、そんなネタで人を笑わせようとする動機を、小学生というのは持つものであろう。わたしが言いたいのは「顰蹙は顰蹙以上であってはならない」ということである。テレスクリーンの視聴者や、わたしのようにそれを又聞きしただけのただの野次馬が大真面目に怒ったり、関係者の意識だの責任だのを追及しなければならないといったようなことは、このテロップの中には何も存在していないのである。そこで変に真面目になったら、もともとただのイタズラの手違いにすぎないものを、大真面目な意図を孕む何事かであると宣言してしまうことにもなりかねない。宣言型言語行為である。それはもともとなかった事態を創出することなのである。それは、それ自体が加害行為になりかねないことだと注意しておきたい。



ところで、twitterを眺めていると果たして「セシウムさんの萌えキャラ化が待たれる」とかなんとか呟いている人がいた。それもそうだと思ってあちこち検索してみたが、これを書いている時点ではまだそれらしいキャラ絵を描いた人はいないようだ。画像の右下にある変な形のオニギリみたいなキャラをアレンジして、それを「セシウムさん」と呼んでいる絵はあったが、萌えキャラとは言い難い。そもそもセシウムさんは元素であって米粒の集合体ではない。

(このパラグラフへの追記)「変な形のオニギリみたいなキャラ」は米粒の集合体ではなく、あれは「雲」なのだそうである。東海テレビのマスコットキャラで名前は「わんだほ」。あの変な形はチャンネル番号の「1」を象ったものだそうである。

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東浩紀の弁明

2011年03月19日 | げんなりしない倫理学へ
twitterだと以下が逆順に表示されて読みにくいので並べかえてみた。

「東京はさすがに安全だと思うが、専門家でもないし子供のことを考えるとその判断が正しいかどうか迷う、そしてそんな迷いを抱えて生活するのいやだから東京から離れる」。これを言い訳だと感じるのは、<他者の生命に責任をもつ>ことの重さに対して決定的に想像力が欠けている。

<自分の生命に責任をもつ>だけであれば、判断と行動は完全に一致する。自分の判断の責任が自分で取れるから。でも<他者の生命に責任をもつ>と、ときにそれは一致できなくなるんだよ。自分の判断の責任が他者に降りかかるんだから。これがわからないひとは、ぼくのツイート読まないほうがいい。

これは哲学的で倫理学的な問題です。専門用語でも語れる普遍的な問題です。子持ちがどうこうという話ではない。しかし子持ちのほうが思考実験ではなく体感しやすいとは思う。いずれにせよ、「おれ合理的に行動してるぜ!」みたいな頭悪いやつには、このことは理解できないですよ。

これはマジレスだけど、ぼくのツイートを人々が矛盾していると捉えるのもわからないではない。なぜなら、ぼくは一方で「東京は安全」といいながら、他方では「東京は危険かもと悩むのがいやだから逃げ出しただけ」と言っているから。

でもその矛盾は、いまのツイートで記したように、ぼくが自分と娘二人の生命に責任を取らされることで不可避に生じる。子供もつって要は自分視点と娘視点の二つを抱えなければならないということで、しかも娘視点なんて本当はわかるわけないから、どうしようもなく功利主義では解けない逆説が生じる。

この逆説は屁理屈じゃなくて、きわめてリアルな経験です。またそれは論理を感情が上回るという話ともちがう。それは非論理的というより二重論理的な状況。「事実に基づき合理的に行動」なんて要請は、人間がみな、自分の生命に、そしてそれのみに責任を取ればいいときだけに適用できるものなんです。

というのを連投したのは、ぼくはもともとこういう哲学とか倫理学の逆説こそが専門だったからです(ジャック・デリダという哲学者がかつてのぼくの専門)。他人の行動をすぐ「合理的じゃない」とか批判するひとは、自分が「合理性」についてどれほどのことを知っているのか、少し考えてみればいい。

……って感じ。これ以上わかりやすく言うのは不可能。こういう議論に学問的に関心のあるひとはデリダとかレヴィナスとか読むといいです。それがだれかはググってくれ。

(hazuma)

紹介するのが目的なので、ここで悪口を書こうとは思わない。また実際、ここに引用した限りでは総じてもっともな話だと思える。ただひとつだけツッコミを。デリダが専門の東センセイが「こういう・・・デリダとかレヴィナスとか」というのは当然といえば当然なのだが、しかし最初からこの2人を読んだって何がなんだかサッパリ判らないだろうと思う。デリダはともかく、レヴィナスはわたしの好きな哲学者のひとりだが、読んで判るから好きだというわけではないし。

強いて言えば別にこんな弁明はしなくてもいいのではないだろうか。文句言ってる連中は、またその文句を自身の心情の上では正当化できているとすれば、たいていの人は妻子がいようが何しようが仕事のために東京を離れるわけにはいかないし、妻子を預けられるような親類縁者の類もいなかったら、それはもう一家揃って東京に残っているしかない、そうしたことが楽々できる東センセイのご身分を、連中はやっかんで言っているわけである。

そのお気楽なご身分(だと連中は思っているか、そう見なしたいのだ)の人物が言行不一致の上に倫理的な正当化(不当性の否定)の屁理屈まで重ねていると聞いたら、そらまあ、火に油を注ぐことになりかねないわけである。一般に他人の行動を「合理的じゃない」と批判する人というのは、その行動が実は合理的でないことを批判したいわけでも何でもなくて、単に誰それを吊るし上げる絶好の口実がここにあるぞと宣言しているだけなのである。

●(追記)

俺が同じ立場だったら「いや、だって計画停電とか正直うざいし」と言って田舎の実家にしばらく転がり込んでいただろうと思う。

実際、ちょうど先週の今頃、JRが死んでたせいで泊まり込んだ会社のPCであれこれの報道を眺めながら、マジでそんな考えがアタマを過った。いま東京を離れると二度と戻って来れなくなりそうだと思えたから、その考えは直ちに却下せざるを得なかったけれども。

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反倫理学講座(5) ─逃げなくちゃ駄目だ逃げなくちゃ駄目だ逃げ(ry─

2011年03月11日 | げんなりしない倫理学へ
「ご無用です」云々の反響を辿っているうちにこんなのを見つけた。

報告当日ゼミを無断欠席して以来数年間消息不明だった某指導学生の卒業が決まったことを知らされて安堵する。姿を消す方もつらいのだろうが、姿を見失う方もつらいのだ。たぶん違う理由だと思うのだが、ゼミ報告の準備ができなかったことぐらいでドロンとかやめてほしい。いいんだよ。人間だもの。
(odg67)

大学の先生だとこう言わざるを得ないのだろうけれども。過去にライターをやっていた俺がこれを読むと、原稿が書けない時のあの息苦しい気分がありありと蘇ってきてしまう。

「人間だもの」もへちまもない、そういう時はたぶん誰でも心の中が太宰治になっていて、実際に書けても書けなくても心の中では「人間失格」を延々と書き綴っているわけである。物書きだとホントに書いてることさえあるわけで、そんなもん綴ってるうちに気づいたらそれが肝心の原稿の何倍にもなっていたということがあったなww

「大学の先生だと」というのは、俺だったら「逃げるんだったら言ってくれよ。俺も一緒に逃げるから」と言うところだからだ。今このトシになってもだ。

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5秒でできるアル中検査

2011年01月23日 | げんなりしない倫理学へ
きのう電車に乗っていて、ふと目を上げるとアルコール依存症チェックがどうこう、というポスターが目に入った。家へ帰ってからWebで調べ直して見つかったのが以下である。各項目の頭文字を取ってCAGEチェックなどと呼ばれているらしい・・・外国産だな?

1. あなたは今までに、自分の酒量を減らさなければいけないと感じたことがありますか?(Cut down)
2. あなたは今までに、周囲の人に自分の飲酒について批判されて困ったことがありますか?(Annoyed by criticism)
3. あなたは今までに、自分の飲酒についてよくないと感じたり、罪悪感をもったことがありますか?(Guilty feeling)
4. あなたは今までに、朝酒や迎え酒を飲んだことがありますか?(Eye-opener)

以上の4項目のうち2項目以上該当する人はアル中である「可能性が高い」から、もっと詳しい検査を受けろ、ということになっているらしい。

ちなみにわたしの場合は4しか該当しない。朝酒も迎え酒もやったことがある。これがまあ、特に朝酒はそうなのだが、あまりにもうまい(笑)のである。これで身上潰した人がいるというのは実にもっともなことだと今でも思う。ライターをやっていたころ、徹夜仕事が続いた時期のある日、気がつくと癖になりかかっていた。恐れをなして、以後は意識的に朝酒はやらなくなったというものである。

ところで何しにこんなものを紹介しているかというと、閲覧者の皆様もお気をつけあそばせ、と言いたいわけでは全然ない(笑)。むろんアル中にはならないに越したことはないのだが、わたしはタバコのみである。上の4項目の酒をタバコに置き換えれば、4の他に2にも当てはまるわけで、このチェックシートの論理からすればニコ中の「可能性が高い」からもっと詳しい検査を受けろということになるわけだ。大きなお世話である。

何が言いたいかと言えば、別にこんなチェックシートからわざわざ言われなくたってわたしはニコ中だが、そのわたしに「大きなお世話だ」と感じさせるチェックシートは、本物のアル中の人がこのチェックシートで結果が出ても「大きなお世話だ」と思うことが多いのではないか、そしてそう思ってしまうことには、少なくとも内的な正当性が認められなければならないのではないか、ということである。アルコールやタバコでなくても、自分が何らかの嗜癖を持っていると思う人は(たいてい誰でもひとつやふたつは持っている、というか成人男女で嗜癖を一切持たない人がいたら、その方が異常ではあるまいか)、自分のその嗜癖に上のチェックシートの論理を当てはめてみてもらいたい。大きなお世話だとは思わないだろうか?

これはあくまでアル中の場合に特化したチェックだ、お前はアル中の悲惨を知らないからそんなことを言うのだと難じられることではあるだろう。それは確かにそうかもしれないと言っておこう。ただ、わたしの持っている哲学においては、現状でこの種のチェックシートの論理──あらゆる嗜癖は治療されるべき病気だと言わんばかりの──を正当化する根拠がないのである。

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ゆとり教育でよかったのに(2)

2010年12月10日 | げんなりしない倫理学へ
今回からは別に参照する記事はない。おおよそ「人生のある人ない人」の続きになるだろうから、カテゴリも「げん倫」の方に移す。

わたしは独身者だし、これから何かの学校に通うということもないだろうから、本当のことを言って学校教育がどうなろうと知ったことではないわけである。学校教育がなくなれば必然的に「PTA」もなくなるだろうとか、そういう副次的な効用がなくもないだろうが、そこまで学校という場所を敵視しなければならない理由をわたしは持っていない(持っている人がいても一向にさしつかえないが)。学校というのは友達と一緒に遊ぶ場所だと思えば、また実際にそう思うことができる範囲に限って言えば、決して悪いものだとは思っていない。

それで、だったら何しにこれを書き出したのかというと、ひとつには言葉の普通の意味での知識とは何なのかの問題に、これが触れているところがあるような気がすることである。

ゆとり教育が失敗したというのは、ひとえに世の中の大人の大部分が、学校は知識を学ぶ場であるとか、自分はそこで知識を学んだとか、真顔でそう信じている上に、それを肯定的なことだという風に信じてもいるからである。わたしに言わせればこれらは全部非合理的な信念だと言うよりほかにないのだが、非合理的な信念に向かってその非合理性を言いたてても、あるところより先ではそれ自体が無意味である。

学校教育というのは典型的にそうで、普段は「数学なんて何の役にも立たない」と言い切って憚らないような人物が、自分のコドモにはその無意味な知識の習得を、しかも学校だけでは飽き足らずに学習塾にまで通わせているわけである。こんな矛盾した態度が普通の大人の態度であるような学校教育について論理的な議論などする意味がないことは明らかである。矛盾からはどんな結論だって導けるからである。

それにしてもあの矛盾した態度はどこから出てくるものなのか、わたしは長いことそれが判らなくて不思議だったのだが、それについてはつい最近判ったわけである。世の中の、少なくとも大人の大部分は人生を信仰しているのである。その人生の予定表には「学校で勉強すべし」と書かれているので、信仰を裏切らないためにはそこに通わなくてはならないし、親になればそのコドモにもそれを強いなければならない。たとえそこですることに実効的な意味が何もなかったとしてもである。そもそも大事なのは信仰を貫くことであり、かつ、それだけであって、その意味などというものはいらないのである。それは「人生の意味」などを問うたところで空虚以外の答がないことは、問う前からはっきりしているわけである。

わたしも長く判らなかったのだから偉そうに言う気はしないが、たぶん、文部科学省のお役人さん達にもこのことは理解されていなかったのである。役人の人だってたいてい人生を信じてはいるだろうから多少は勘づいていただろうが、その信仰がかくも広く行きわたっていて、お役所がちょっと気をきかせたくらいでは小揺るぎもしないほど根深いものであるとは、彼ら自身がほとんど思ってもみないことだったのではないだろうか。

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人は時々ひとりで生きている

2010年12月03日 | げんなりしない倫理学へ
「人はひとりでは生きて行けない」という言葉が大嫌いである。この種の言い草は、わたしのような種類の人間には「ひとりで生きているお前は死ね」と言われているのと同じに聞こえる。事実その通りの意味のことを言われているのかもしれない。

実際、わたしでなくてもそうだろうと思う。たとえば、何の因果かキリスト教徒の国で暮らして行かなくてはいけなくなった、そうすることを余儀なくされたイスラム教徒の人のことを考えてみてもらいたい(もちろんキリスト教とイスラム教を入れ替えても、他の任意の信仰に入れ替えても同じことだ)。普段は特に信仰の違いなど気にしないでいられる程度には個々人が平穏無事に生きて行ける程度に物的・制度的環境が整っていたとしても(つまり「金持ち喧嘩せず」の環境であったとしても)である。周囲の人々から「人はひとりでは」云々と言われたとしたら、彼はいったいどう思うことになるだろうか。心が凍りつくほどの恐怖を感じて内心すくみ上がるのではないだろうか。

実際問題として文字通り本当にひとりで生きて行くということは、人間にはできない。たとえ捕食動物だって被捕食者の生物学的存在に、それどころかその繁栄に依存して生きているし、そうでなければ自らの生物学的存在を維持することができないという意味では、である。

一方で人間は個々の存在が「ひとりで生きている」、少なくともその相を持っているということには疑問の余地がない。個々人の心はその人の心であって、他の誰の心でもない。サールの「MiND」にあった例を引けば、誰かの親指を金槌で叩いたとしたら、その痛みの経験によって飛び上がって叫ぶことになるのは絶対にひとりだけである。そうじゃない、などと言うのは超能力を信じる人だけで、信じるのはまあ勝手だが、わたしは絶対に信じない。

そうは言っても、と言いたくなる人がたくさんいるのは承知している。だからわが「げんなりしない倫理学」の答は、この一文の題名の通りだということになるわけである。正確に言えば「時々」だけではなく「ところどころ」でもあるはずだ。時間的にも空間的にも人間はひとりで生きている相を確かに持っている。その一方でそうとは言えない相もやはり持っているに違いない。その配分も決して一様ではなく、たまたま押し込められた状況によっては「ひとりで生きている」相をほとんど極限まで突きつめなければならない場合だってありうる。外側からは伺い知ることができなくても、目の前にいる他人が今まさにそうかもしれないし、その(たいていの場合、格好よくはない、時にはひどくみっともなく)孤立した姿は、確かに次の瞬間の自分の姿かもしれない。わたしはそう思っている。

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人生のある人ない人 ⑨

2010年11月28日 | げんなりしない倫理学へ
「卒論代行サービス」という商売が実際に存在するということを初めて知った。ググればサイトが出てくるからわざわざ紹介はしない。

世の中にはきっとそういう稼業があるのだろうなとは思っていたから、特に驚くこともない。人生を信じる大学生達の、その人生の予定表には「【指令#42】大学3年になったら卒研なんぞそっちのけで就職活動に勤しまなければならない」と書かれている、ならばそういう商売は当然出てくるに決まっているのである。彼らにとって大事なのは卒業式で学位記を手にした写真を撮って、それを思い出アルバムにぺたりと貼ってすべてを忘れることであり、かつ、それだけであって、その写真を因果的に帰結した原因は何かということでは全然ありえない。

もちろん人生のないわたしにとっては、そんな倒錯した行動はまったく思いつきもしないことである。わざわざ代筆屋を雇って卒論を書いてもらうくらいなら、最初から大学なんかに行くことはないわけである。そもそも大学に入ったら卒論を書かなければならないと決まっているわけでもない。そんな物理法則はない。ただ4年間を遊び呆けて中退するということもあるわけなのである。いくらか世間体がよくないというだけである。

だから、そういうわたしが(卒論代行サービスやその顧客が存在することを)不思議に思うのは別におかしなことではないわけだ、が、世の中には卒論を代筆屋に発注すると聞いただけでオコル人もいるわけである。その人もわたし同様「人生のない人」かと思うと、別にそんなことはないようである。どうやらそういう人の人生の予定表では卒論というのは苦労して自分で書くものであって、一方では就職活動もきっちりこなさなければならない、どんなに理不尽に思えてもやり遂げなければならない、と、だいたいそんな風に書かれているらしいのである。たぶん、そうやってわざわざ試練を乗り越えないと来世は浮かばれないとか、なんかそういう風に人生信仰の教義体系ができているのだろう。ああ、バカバカしい(笑)。

そういう「試練」みたいな文脈が混じってくると、だんだん信仰のカタチとして傍目に不愉快なものになってくるのは確かである。しかしそうは言っても信仰は信仰である。どっちがいいとか偉いとかいうものでは(わたしのような人生がない人から見れば)最初からありえないのだ。ただ一番気の毒なのはどんな場合でも結局は各々の人生信仰のダシにされているだけの知識それ自体である。

いや違うか。こうだ。本当は信仰のダシにされているだけの知識があたかも現実に関する真理であって、ただの記号列ではない実効的な何かであると見なす茶番の体系が別に存在していて、その茶番を真理のように押しつけられる(その人生の予定表に、制度が勝手にそう書き込んでしまう)「啓蒙さるべき大衆」と見なされた人々が、具体的現実的には一番気の毒なのである。我々の間で真理はしばしば尊重されるどころか陰に陽に唾棄されて省みられることがないというのは、おおよそこんな図式によって生じていることであろうと思う。

これでもまだ字面の表情が厳粛でありすぎると思う向きにはこう言おう。この図式の中にどうしても存在しない、存在を主張することのできないただひとつのものは愛である。そう、知ることへの愛、フィロソフィアである。べつに、本当はそれこそが大事なのだとか、そんなくだらないことを言いたいわけではない。ただなんとなく知識が可哀想だと思えるだけである。誰か萌えキャラにして描かないか。描けないだろう。

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煙草リアリズム

2010年11月22日 | げんなりしない倫理学へ
他人や社会組織を判断するのに、今であれば哲学とかそういう面倒なものはまったくいらない。そいつの前で煙草を吸ってみるだけでいい。それで何を言い出すか、それだけでほとんどのことは直ちに(ほぼゼロ時間で)判断することができる。別にケチをつけられたからと言って、つけられた通りに怒ってみせる必要はない。怒ったところで何かが得られるわけではない。たとえ相手が喫煙に肯定的な意見を持っていたとしても、「つまんない奴は絶対的につまんないことしか言わない」ということが肝心である。つまんない相手にはそれ相応の相手の仕方があるわけだ。何よりも無用な過大評価をして後から後悔しなくて済む。

この「煙草リアリズム」は便利でお手軽で、この上もなく強力な方法だから、実際、時々自分でも使ったりするわけだが、リアリズムは結局リアリズムにすぎない、という否定面もある。確かにこの方法だけで、たいていの他人の人品は一発で判断できる。そして間違うことは一切ない。けれども、そもそも他人に対してその人品を判断しなければならないというような状況に自分が置かれていることの方が、本当は一番げんなりしなくてはならない事実のはずである。つまり、たとえばその相手のことを親友だとか恋人だとか思っていたら、その人品なんぞ本当は全然どうだっていいことのはずである。

同じようなことは、リアリズムならほかの方法についても言える。たとえばわたしの本職はプログラマだから、プログラムのソースコードを眺めているだけで、それを書いた人物についてたいていのことは判断できる。まず9割方は擦れっからしのろくでなし、一度会ったら二度とは顔も見たくない、口も聞きたくないといったタイプである。残った1割は学校だかどこだかで教わったことをそのまま反復しているだけの、なんというか、ぼんやりした善人である。プログラマになったのもどこかでそう奨められたか、あるいは命じられたのか、要するに自分がない人生のロボットである。まともなやつはひとりもいない。たまにいると、いつの間にか仕事場からはいなくなっている。「あの子は近頃見かけないけど、どうしたの」と、掃除のオバチャンとかが残念そうな顔して訊ねてくるのはそういう人達のことばかりである。

要するにこんな判断にはあまり意味がないのである。唯一、その他人と一緒に酒を飲みに行くのは結構なことかそうでないかが判るだけである。そしてこの種のリアリズムの判断による限り、一緒に酒を飲みに行ってもいいと言える結構な他人など、結局この世界にはひとりも存在しないことが判るだけなのである。それは確かに紛れもしない現実だから、リアリズムの方法は確かに機能する。ただ結果にげんなりさせられるだけである。

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