惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-3-13e

2011年10月31日 | THN私訳
3-13 非哲学的な半知識(承前)

身近な例で説明してみよう。鉄のカゴに入れられ、高い塔から吊り下げられた人がいるとする。眼下を見下ろせば身震いせずにはいられない。自分を支える鉄カゴは堅固なものであって、落下する恐れはまったくないとわかっていても、また、今にも落っこちそうだとか、落ちたら大ケガするだろうとか死んでしまうだろうとかの観念は、ただ習慣や経験に由来するだけだとわかっていても、とにかくやっぱり怖いわけである。ひとつの習慣は、そこに由来し、その習慣に完璧に相応しい事例を超えて、正確に同じ規則にしたがうわけではないがある点で似ていないこともない対象の観念にまで影響を及ぼすからである。高さと落下するかもの事情は彼に非常に強い衝撃を及ぼす。その影響は、彼に完璧な安心感をを与えるはずの(鉄カゴの)支持性や堅固さという反対の事情によっては破壊され得ない。彼はその対象とともに想像を駆け巡らせ、相当する感情を喚起する。感情は再び想像に回帰して観念を活気づける。活気のある観念は、再び感情に新たな影響を及ぼし、その勢いと激しさとを増す。こうして空想と感情とは互いに支えあい、全体として非常に大きな影響を彼に及ぼすことになるのである。

けれども、こうした習慣の効果から想像の間に生じる対立に関して、非哲学的な※半知識という現在の主題がきわめて明らかな例を示すものであるとすれば、他の例を探す必要があるのだろうか。わたしの体系によれば、あらゆる推理は習慣の結果にすぎない。習慣は想像を活気づけ、ある対象を強く思わせることから影響を及ぼすだけである。であれば、判断と想像が対立することなどありえないのではないか。両者に対する習慣の作用は両者を対立させることができないということになるのではないだろうか。この困難は、一般規則の影響ということを仮定することによってのみ除去することができる。あとで(3-15)因果についての判断を統御すべき(ought to regulate)一般規則に注目するのであるが、これらの規則は知ること(understanding)の本性と、対象に関して作られる判断におけるその作用の経験のふたつに基づいて作られるのである。これら(の規則)によって偶然の事情と効果を及ぼす(efficacious)原因とが区別できることがわかる。ある結果が特定の事情を伴うことなしに生み出されるという場合、その(特定の)事情が実効的な(efficacious)原因と頻繁に連接していたとしても、その事情はその原因の一部ではない、ということになるわけである。けれども、その場合の頻繁な連接は必然的に、結論が一般規則と対立するものであったとしても、その事情が想像に何らかの効果を及ぼさせることにはなるのである。これらのふたつの原理の対立は我々の思考のうちに対立をもたらす。そして我々は一方の推論を判断とし、他方を想像と見なすのである。一般規則は広い範囲にわたって一定妥当する(extensive and constant)がゆえに我々はそれを判断とする、一方、例外は気まぐれで不確実なものであるがゆえに(ただの)想像だと見なされることになるのである。

この「非哲学的」はヒュームのテキストのオリジナルでは「philosophical」となっているものである。しかし原書の多くの版、また多くの訳書において、この個所は明らかに「unphilosophical」の誤記もしくは誤植であろうと指摘されている。ただし、少数ながらこれを誤記誤植と見なさない版ないし訳も存在する。本私訳は大槻訳の理解にしたがう。

(つづく)

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高速哲学入門(309)

2011年10月31日 | 素人哲学の方法
最近学生さんから就職に関する相談を受けることが多いのですが、そうすると改めて「自分の生きる意味」や「いまの仕事にどんな意味があるのか」「結局何をなして死にたいのか」みたいなことを考えはじめてしまいました。就活は哲学ですね。営業とは違う精神的な負荷を感じる今日この頃。
(AYUMU_TSUCHIDA)

TLとかを眺めていると、この主の人は実際この呟きの通りに真面目な人なのだろうなという印象を受けた。

実際、就職活動のワカモノは大変なんだろうなということが、むしろこの呟きからわかる気がする。就職活動の学生から相談された大の大人の方が悩んでしまう、などということは、わたしなどが若いころにはまずありそうもないことだったからである。

と言ってべつに、昔は「生きる意味」とか「仕事する意味」とかが明確だったというわけではない。もともとそんなものはあったとしても大したことではないわけである。そうじゃなくて、昔はそんなことは大人ならわざわざ考え込む必要もないことだったのである。学生の方はまだ世間を知らないわけだからどうしたって悩んでしまうわけだが、世間の一部になって久しい大人の方はその手のことでいまさら悩む理由もないし、ましてやワカモノの方から「悩みをうつされる」なんてこともありようがなかったはずである。「生きる意味」なんぞよりは仕事上の課題に具体的に取り組むことの方がよほど大変であったし、またそうするだけの甲斐もあった(あると思えた)ことであった。仕事することと生きることはあくまでも別のことだが、前者を後者に付随する意味内容と見なすことにそれ相応の現実感があったということである。今はそれが根柢から危うくなってきているのではないだろうか。

「生きる意味」について考え込むというのはいかにも哲学風であるし、実際哲学のある部分は確かにそれを考えもするのだが、こういう場合はたぶんそうじゃなくて「存在しないものを存在するかのように思いなすにはどうすればいいのか」というようなもので、それは本当は哲学としても成り立たない無意味な問いなのである。哲学は存在するものや存在それ自体を問うことはするが、存在しないものを問うことは普通は無理だと考えられている──いや、そういうことを考える特殊な形而上学がないこともないんだけれども、わたしは今のところ無理だろうと思っている。

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消しゴムはんこ・鍵山雛

2011年10月31日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題通り(ただしカギカッコは外した)。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
ログ様)
※色彩調整・URL付加済:原画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/ログ

pixivの方のコメントに「巷でフリル地獄と呼ばれるものの一端を俺も経験しました」とある。絵で描くのも大変なはずだが、彫るのはもっと地獄であったのに違いない。

ちなみに、作者の人は絵は描けない人だそうで、別の人の絵を原画に使っている、とニコ静でもpixivでも明記している。そこで上のハンコの原画を探してみたら、あった(実は探さなくてもログ氏のpixivブックマークにあった)。これを併せて紹介しておく。ただしpixiv上の絵なので、下の画像はモノクロ化した上、大幅に縮小している。

(リンクと画像はpixiv
ノサダ様)
※大幅縮小・モノクロ化済:原画像はリンク先でどうぞ
→作者(サークル)HP「Re:start」

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高速哲学入門(308)

2011年10月30日 | 素人哲学の方法
興味ない分野の本読める人すごいと思う。物理学も数学も嫌いじゃないけど、物理書とか数学書読んでたら確実に寝落ちるわ…というわけで僕は料理書と自然科学書ばっかり読んでます。たまに哲学書。あとマンガ←
(shalistic)

物理や数学の本は読めないのに「自然科学書」は読んでるというのは一体どういうこった、と考え込んじまったじゃねえか。要はおめえ、あれだ、数式が苦手なんだな?

数式アレルギーをなくすには実際に数式をいじることの経験を積む、つまり練習をするしかない。本で数式を漫然と眺めているだけではたぶん、もとがよほどの天才だったとしても数式嫌いが数式嫌いでなくなることはまずありえないと思う。天才だって人間だから、チンプンカンプンなもの読まされりゃ「確実に寝落ちる」ことに変わりはない。

で、困ったことに、文字通り本当の独学では数式いじりの練習はなかなかできないし、やったとしても捗らないことになっている。あれもどこか英会話のようなものに似ているところがあって、教師つきの演習をやらないとどうしても効率が悪いし、いくらやっても身についた感じが得られない。だから大学(院)生だったら他学部だろうと他学科だろうと四の五の言わずに演習つきの講義を受講するのが一番いいと思う。数式嫌いをどうにかしたい、ということに十分な根拠のある願望を持っているのなら、だ。べつにいい点取る必要などはないので、極端に言えば積分記号やシグマを見ただけで心の腰が引けたり逃げ出したりしないようになるだけでも、まずはOKだ(実のところ、たったそれだけの姿勢を身につけるまでがひと苦労だ)。

研究者みたいなのは別として実社会で数式をいじくり回すなんてことは、理科系の仕事でもそんなにはない。あったとしてもプログラミングでアルゴリズムにちょっとした工夫を加えるとか、根拠の怪しい経験的な手法に実際どれだけの意味があるのか、数値シミュレーションで検証してみるためにモデル(こいつは数式の塊だ)を作ってみるとか、なんかそういうことの一端でやるわけだ。定番の手法でも入門書には本当の理論的な根拠まで書いてないことがあったりするから「これ本当なんだろうか」ということを試してみる必要は、設計段階ではよくあることだ。教科書や学術論文に書いてあるものを現実に応用する時はパラメタを微妙にいじったり、理論的には不要な「おまけ」をつけておくとうまく行くことがある(ゼロ除算が発生しないように分母に微小項を加えておくとかはよくやる)。何をどういじればどうなるのか、どうしてうまく行くのか、「おまけ」をつけたために実は話が台無しになったりしていないか、最小限自分が納得するためだけでも数式を含めた理論そのものの理解が必要だ。

・・・と、なんでこんなことを唐突につらつら書いたかというと、どうしても独学でやるしかない立場の人は、そういう実際的な仕事(本気でやっていることなら、ゼニにならない趣味であってもいい)の場面から数式いじりの機会を引っ張り出すという奥の手があるということを言いたかったからだ。いまどきはたいていのことが計算機絡みだから、ちょっと奥の方を覗いてみれば数式いじりの機会はいたるところで見つかるものだ。たとえばPhotoShopやなんかで絵描いてるだけのやつだって、三次スプライン補間や線形フィルタの理屈やアルゴリズムを知っておくと、意外なところで応用が効くことがあるといったようなことだ。とはいえ、並大抵のレベルでは使えるようにはならないわけで、だから「本気」かどうかということがとても重要になるわけだ。

裏目の応用というのもある。以前に株式や外為の投機手法を調べていたとき、これは面白いなと思った手法のひとつは信号処理の理論や手法を直接的にテクニカル分析に(そう、クオンツじゃなくて、マジでレートの時系列をフーリエ解析したりするわけだ)応用するというものだった。面白くはあったから原書まで取り寄せて熟読してみたものだったが、熟読して得た結論は「意味ねえー!」の一言だった(笑)。算数が基礎から判ってないと、この種の手法に意味があるものとダマされる奴は、結構いるんだろうなと思われたものだ。

俺なんかは外国語とかはいくらやっても全然身につかないのだが、数式に関してはだいたい、やればやっただけ身につくものだという感じを持っている。他の人でもそうは違わないはずだと思っている。あとはただ現実的に(つまりいじる意味がある)数式をいじってみる機会を持つことができるかどうか、その中に意外な驚きや愉快の瞬間が潜んでいることに気づくことができる程度に、そうした機会を多く持つことができるかどうか、数式を嫌うたいていの人に欠けているのはそれだけだと思う。

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うさんくさい連中のうさんくさい評価と順位が下がった

2011年10月30日 | 報道から
東京「経営者評価」順位下げる

民間のシンクタンクが、経済力や住環境などさまざまな側面から世界の都市の総合力を判定し、毎年発表しているランキングで、東京は去年と同じ4位でしたが、「経営者からの評価」という分野で、成長性が低いなどとして、北京や上海に抜かれて8位に順位を下げました。

民間のシンクタンク「都市戦略研究所」は、世界の35の都市について、経済力や住環境などに関する独自の評価に、経営者や観光客などからの評価を加えて、都市の総合力を判定し、毎年公表しています。ことしの総合ランキングは、1位がニューヨーク、2位がロンドン、3位がパリで、東京は去年と同じ4位でした。しかし「経営者からの評価」では、ビジネスの成長性などが低いと判断され、北京や上海に抜かれて、5位から8位と順位を下げました。(後略)
(NHKニュース・10月30日 14時1分)

「ビジネスの成長性などが低い」の後ろに「(笑)」とつけたいところだ。いまさら何言ってんだ、というか、節電だとかいって昼間っから町中薄暗くしているような街に成長性もへったくれもあるわけないじゃないか。企業経営なんていうのはそんなつまんない街より「生きて行く中華新幹線」のような無茶な活気のある都市の方を好ましいと思うであろうことも間違いないところだ。もちろんその住民である我々にはどうだっていい、うさんくさいことこの上もないランキングだ。

そもそもこの「都市戦略研究所」って何だと思って調べたら「森記念財団」が運営しているシンクタンクのようである。森っていうのはあの「森ビル」の森である。なーんだ、要は不動産屋のご都合ランキングじゃねえか。上の記事は、まあお遊びみたいなものなのだろうが、本来ならばNHKはそこからきちんと報道した方がいいのである。

森記念財団設立の趣旨

わが国都市の現状を見るとき、著しい経済社会の発展に対する対応の遅れは、まことに憂慮すべきものがあり、都市再開発及び市街地環境の整備の促進は、まさに緊急を要するものがあります。最近関連法制の改善や公的機構の整備に見るべきものもありますが、なすべき事業の量は、まことに厖大であり、また、問題の複雑性・困難性も甚しいものがあります。わが国都市環境の整備改善をはかるためには、民間エネルギーの活用を梃子として官民協力し、その全力を投入する必要があると思われます。

森ビル株式会社の創立者である森泰吉郎氏は、20数年にわたり、一貫して賃貸ビルの建設・経営と都市再開発事業に従事し、街づくりに対する情熱と人間尊重の経営理念により、大きな業績を挙げるとともに、その間つねにかかる事業の社会的責任の重大性に強い信念を持ちつづけてきました。

しかしながら、この考え方を一層積極的に進めるためには、民間企業の枠内では限界があり、私企業との関係から離れた立場に立つ公益法人を設立し、官民それぞれの努力の間隙を充たす一助にもなりたいとの意向を表明されました。これはまさに時宜に適するものであり、その趣旨を敷衍して都市再開発及び市街地環境の整備を総合的に促進するため、財団法人「森記念財団」設立をいたしました。

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朝日に向かってジャンボフェニックス(ミラーマン挿入歌)

2011年10月30日 | 年を経た洋楽オタの話
from YouTube

なんでこんなのが唐突に出てくるかというと、twitterを眺めていたらトレンドに「朝焼け」の3文字が出ていて、そうすると中高年としては必当然的にミラーマンのことかと思う(笑)から、YouTubeでそれを聴いてるうちに「ああそうだ、ジャンボフェニックスってのがあったよなあ」と思って検索したらちゃんとあった。

しっかしいま改めて聴くとむっちゃ仰々しい歌だww 番組内でジャンボフェニックスのシーンで流れているうちはそれほど違和感がなかったのだが、曲だけ独立して聴くといったい何の歌だと思ってしまうな。

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高速哲学入門(307)

2011年10月30日 | 素人哲学の方法
J.S.ミルという哲学者がいまして。彼は僕と真逆の意見の持ち主であります。やっぱり人間、「満足な豚」であるべきだと思うんです。僕は。
(porno_48)

大胆な意見だ。真っ向からこう主張する人はなかなかいないはずだし、いたら普通は真っ向から否定されてしまうことだろうから、少し真面目に考えてみることにする。

まず重箱の隅をひとつだけつついておくと、ミルが実際に言っているのはこうだ。「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」(J・S・ミル「功利主義」)前者より後者の方がいいと言っているだけで、後者であるべきだとまでは必ずしも言っていないように思える。つまりこれを真逆にしても「『満足な豚』であるべきだ」とはならないようにも思える。まあこれは重箱の隅だ。

それで、この主がどうして「『満足な豚』であるべきだ」と思うのか、TLを眺めてもよくわからないので、ミルの主張の方で考える。ミルがどう思っていたか、あるいはミルの時代の常識がどうであったかはともかく、現代人でもミルのような主張に接すると、普通は誰でも「その通りだな」と思う、その理由は何かを考えてみる。そうすると、上の引用のうち少なくともひとつめの方は「自由」ということにかかっているように思える。

人間と(常識的にそのようなものと思われる)豚の何が違うかと言えば、人間は自由ということを知っているし、知らないという顔は(少なくとも自分自身に対しては)できないように存在している、ということだと思える。自由そのものは自由ではない(望むままに破棄することができない)のである。ともかく人間は単純に生理的な欲求(機械的な条件)が満たされたとしてもそれで完全に満足することができない。人間の自由はその満足した世界が閉じておらず、いつでもその外が開かれて存在することを告げてくる何かのことだ。そうではないだろうか。しかも自由は「その外」の存在を心に直接告げてくるので、耳を塞いで聞こえないふりをすることもできない何かなのである。この見方からすればミルの主張の最初の文の含意は「満足な豚のふりをして真実を偽るよりも、自由を知るがゆえに不満足を覚えずにはいられない人間の真実を偽らない方がよい」ということになるだろう。

ふたつめの文も一応は同じことを言っていると思う。自由は常に「その外」を告げてくるものであるから、告げられたことを受け入れるということは、受け入れたもののことを知識と呼ぶならば、自由を偽らなければ偽らないほど人間は賢くなることになるだろう。もっともミルがわざわざこのふたつめを加えたのは、賢さというのは単に人間の本性的な自由を偽らないことの帰結であるということ以上に、知識というのはそれ自体で価値がある(善である)何かだとミルが考えていたからかもしれない。そうなると現代ではあちこちから異論が出て来そうなことではある。

で、この考察を置いた上で主がどうして「『満足な豚』であるべきだ」と思うのかを推察してみる。この大胆すぎる主張に、それでも多少のもっともらしさの気配を感じるところがあるとすれば、上のように考えると自由というのは人間存在にとって結構づくめのこととは限らなくて、むしろひどく厄介なものであることが少なくないとは言えそうだからである。自由は人間を大なり小なり不満足なままでいることを強いる何かである。それも生涯にわたって、どこまで行ってもキリがない、天井知らずの不満足を強いるわけである。これは、いかに自由が尊いものだと思っていても、誰しもときどきウンザリさせられることではあるわけである。

本当はこの世界のどこかに果てがあるのなら、いやあってほしいという願望が「べき」の2文字に込められているのだとすれば、それはそれでわからなくもない願望だということにはなるような気がする。実際、欲望を満たすことをあたかも機械のように繰り返すだけの存在でありたい、そうあることができたら、というような願望の表明なら、昔から詩人とか、エロ作家の人とか(笑)が様々に表現してきたことではある。もちろん、それはないものねだりでしかない。自由は本当は我々が人間として存在している(生きている)ことそれ自体のことにほかならない。生きているとは即ち天井知らずの自由をもっていることなのである。自由が尊重されるべきだというのは、だから、生命が(個々の人間存在が生きてあることが)尊重されるべきだというのと根は同じことなのである。そこに天井があったとすれば、いな、あると思い込んだところから、だいたい人間は機械のようなものに──ミルの譬えに戻っていえば豚のような何かに──近づいて行くことになるのである。

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熊谷高幸「日本語は映像的である-心理学から見えてくる日本語のしくみ」(新曜社)

2011年10月29日 | 土曜日の本
日本語は映像的である-心理学から見えてくる日本語のしくみ
熊谷高幸
新曜社
Amazon / 7net

この本はもともとは「土曜日の本」扱いで買ったものではないのだが、気軽に読めて面白い、ためになる本だと思うのでこの枠に入れてしまう。著者は言語学者でも何でもなく、専門は障害児心理学で、自閉症児の伝達障害とその支援についての研究者であるらしい。伝達障害はともかく、著者の専門の発達心理学の知見や経験を踏まえてその延長線上で書かれた本である。言語学は素人でも研究者としてはプロだから、日本語学の先行研究も参照した上で議論し批判もしている。そんじょそこらの素人の日本語論などに比べれば圧倒的にまともである。そして(たぶん)オリジナルである。

わたし自身は日本語学はもちろん発達心理学についてもほとんど無知だからあまりつべこべ書くことはできないのだが、著者の主張は要するに発達心理学におけるキータームであるところの「三項関係」という考えを軸に、日本語はこの三項関係に基づく言語であるという点で英語などの欧語とは本質的に異なる特徴を持つ言語だということを論証しているわけである。だからといって日本語が特殊だという「日本(語)特殊論」に肩入れするものではなくて、同じような特徴は韓国語やトルコ語など、世界的に見れば相当広く見られるものだということも指摘している。

わたしがこの本を面白いと思ったのはもちろん、わたし自身がこのblogを始めて以来そう思うようになっている日本語や日本文化の特徴についての見方に、この著者の主張を重ねて考えてみたいところがたくさん見つかる(見つかった)からである。必ずしもぴったりとは重ならないわけだが、たとえばこの本の題名にある「日本語は映像的である」という見方は、わたしがそう思っている、日本文化の本質的な即物性、観念や理念ではなく印象の鮮やかさということが作品(芸術性)の中心にあるといったことと対応するように思われるし、同様の特徴は言語にもあって、欧語が要素結合から概念の普遍性へ向かう傾向を持つのに対し、日本語では三項関係の第三項たる参照枠への共同注視ということを先に置いた上で要素を配置して行く逆向きの傾向を持っているというのは、以前すこし述べた「日本人の(伝達的な)言語能力の弱さ」ということと関連を持つように思われるわけである。

そこでひとつだけ素人の勝手な言い分を書いてみると、著者は発達心理学の基本図式であるらしい「三項関係はコミュニケーションの土台である」ということを最初から最後まで強調しているわけだが、素人のわたしにはこの考えは奇妙に思える。第三項への共同注視が言語伝達の土台になるというのだが、同じものを見ているのなら二者間に情報伝達ということは不要であるし、実際起こり得ないのではないだろうか。発達心理学における「コミュニケーション」の定義が不明だからはっきりしたことは言えないのだが、通常通りそれが「(情報)伝達」を意味するのだとしたらそれには疑義が呈されるべきだと思える。つまり言語は(情報)伝達の言語のほかに、わたしが漠然とそう呼んでいる同期ないし一致性(コヒーレンシ)の言語が存在して、日本語が三項関係に基づく言語だというのはまさに後者の言語の特徴を別様に言ったものではないかということである。

もちろん上はわたしの勝手な見方にすぎない。そしてこれを書いたからには、わたしはこれから発達心理学の初歩なりともベンキョーしてみなければならなくなってしまったのである(笑)。いや笑いごとではない。哲学の方もマクダウェルだブランダムだセラーズだと、次第に大変なことになっているのに、この上さらに発達心理学の本まで読まねばならないのか。気が重い話だが、やるしかないな。



もうひとつ、わたしがこの本に好感を持った私的な理由というのが実はある。それはこの本のあとがきで、著者の言語論への関心の端緒に三浦つとむ「日本語はどういう言語か」があったと述べられていたことである。三浦つとむはわたしのような素人哲学の永遠の模範である。

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The Message - Sophia Shinas

2011年10月29日 | 年を経た洋楽オタの話
from YouTube

すごく昔の曲だ。記憶ではバブル崩壊直後くらいに──いま調べたら1992年だ──秋葉原をぶらついていて、石丸電気のCD屋でジャケ写が途方もなく美人だった(笑)のにつられてつい買ったCDの冒頭曲である。露骨にマドンナくさいのを別にすればいい曲で、実際そこそこヒットしたらしい。とはいえ歌手としてはほぼこれっきりで、以後はテレビドラマの俳優か何かをやっているらしい。

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もこう

2011年10月29日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題通り。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
/3K.様)
※トリミング・縮小・URL付加済:原寸大画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/.3K/(すりーけー)

藤原妹紅さんならライター使わなくても火つけられるんじゃないか、とツッコミを入れようと思ったら、主コメに「ん?炎か?3年前に能力は失ったよ・・・ひどい戦いだった。」というセリフが書かれていた。つまり、そういう絵なわけである。作者の人自ら「俺中二病乙www」と言っている。

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「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」

2011年10月29日 | miscellaneous
興味深い、また、信頼性が高い(と思われる)調査報告が大前研一氏のところから出てきた。反(脱)原発の左翼テロ連中は読んでも無駄だが、これからの原子力発電(再稼働・新規建設・運用)について真面目に考えるところを持つ人は、必ず読むべき資料であると思う。

教訓
最大の教訓は、津波等に対する「想定が甘かった」事ではなく、「どんな事が起きても苛酷事故は起こさない」という「設計思想・指針」が無かった事である――その意味で、福島第一原発の4基の重大事故は、天災ではなく人災である
1. 設計思想に誤りがあった(格納容器神話、確率論)
2. 設計指針が間違っていた(全交流電源の長期喪失、常用と非常用の識別)
3. 炉心溶融から引き起こされる大量の水素及び核分裂生成物の発生・飛散は想定外(水素検知と水素爆発の防止装置)
4. 当初の設計にはなかった“偶然”が大事故を防いだケースが複数ある(第一6号機の空冷非常用発電機など)

提言
再発防止のために。そして、原発再稼動の是非を論理的に議論するために
1. 監督・監視の責任の明確化(人災であるにも拘わらず未だに誰も責任をとっていない)
2. いくら想定を高くしても、それ以上の事は起こり得る。「いかなる状況に陥っても電源と冷却源(最終ヒートシンク)を確保する」設計思想への転換。それをクリアできない原子炉は再稼働しない
3. 「同じ仕組みの多重化」ではなく、「原理の異なる多重化」が必須
4. 「常用、非常用、超過酷事故用」の3系統の独立した設計・運用システムを構築する
5. 事故モード(Accident Management)になった時には、リアルタイムで地元と情報共有し、共同で意思決定できる仕組みの構築
6. 事業者・行政も含め、超過酷事故を想定した共用オフサイト装置・施設や自衛隊の出動などを検討する
7. 全世界の原子炉の多くも同じ設計思想になっているので、本報告書の内容を共有する

プレスリリース「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」より

とりあえずこのプレスリリースだけをざっと眺めた上で感想をひとつだけ言うと、「『どんな事が起きても苛酷事故は起こさない』という『設計思想・指針』が無かった」ことは確かに大きな教訓だったと言っていいし、言われてしかるべきことだが、わたしは「どんな苛酷事故が起きてもその影響を最小限にとどめる」という「思想・指針」がそこに加えられるべきだと思う。今回の事故の場合で言えば、考えられるあらゆる対策を何重にも施したつもりで、それでも「炉心溶融」や「水素爆発」などが起きてしまい、放射性物質の流出や飛散が生じたとしても、それを最小限にとどめうるような、装置自体の改良と、想定外事象に対して緊急に創出的に対処できる組織体制をいかにするかということである。今回の事故でも、仮に流出・飛散した放射性物質の量が仮に1/10であったとすれば、周辺住民の損失や除染対策費用、さらにわが国の経済社会が蒙った打撃の規模はすべて1/100で済んだかもしれない気がするわけである。もちろん素人考えだから間違っているかもしれないが。

わかりやすさのために少々えげつない別の例で言ってみると、たとえば戦争するにしても負けるつもりで戦争する国も兵士もいないわけである。「どんな事が起きても敗北はしない」という「思想・指針」ならどんな軍隊でも兵隊でも持つわけである。わたしが言おうとしているのは「どんなこっぴどく敗北してもその影響を最小限にとどめる」という「思想・指針」である。敗戦前のわが国には、そうした「思想・指針」はほとんど存在していなかった(むしろ否定や処罰の対象であった)。おそらくは今でもないし、それが必要だという認識も十分にはされていないように思えるわけである。そうした「思想・指針」がなかったことは実際、かつての戦争における犠牲や損失を無意味に莫大なものにしてしまったところがあったはずである。

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THN1-3-13d

2011年10月28日 | THN私訳
3-13 非哲学的な半知識(承前)

非哲学的な半知識の第四は、一般規則から性急に(rashly)作られるもので、いわゆる「偏見」の源である。アイルランド人はどうにも鈍物だとか、フランス人はどうにも軽薄だとかいうやつである。実際のアイルランド人は言語明瞭だったり、フランス人は思慮深かったりして、分別や理性を持っているにもかかわらず鈍物だの軽薄だのという偏見を抱いてしまうゆえんである。とかく人間本性はこの種類の誤りを犯しやすい。そしてこの点は、おそらくわが国の人々も、他のすべての国の人々と大差はないのである。

どうして人は一般規則を作って、目の前の観察と経験に反してまで自分の判断に影響することを許容してしまうのであろうか。わたしの考えでは、因果に関するすべての判断が依存している、まさにその原理からそれが生じるのである。因果に関するすべての判断は習慣と経験に由来する。我々が一方の対象と他方の統合を見慣れてしまうと、自然の推移──反省に先立ち、したがって反省によって防ぐことができない──によって、想像が第一の対象から第二の対象へ移るのである。で、習慣はその本性として、慣れてしまった対象と正確に同一な対象が現れたときは全力(with its full force)で作用するし、似通った対象を見つけたときも、程度は劣るにしても作用はするのである。いいかえれば習慣は、相違の程度によっていくぶんか力を失うものの、何らかの重要な点で同じである限り、まったく力を失うということはまずないのである。例を挙げれば、梨とか桃とかをしょっちゅう食べていて果物を食べる習慣のついた人は、好物の果物が見つからないときはメロンで間に合わせるとかするわけである。同様に、赤ワインを飲んで大酒飲みになってしまった人は、出てきたものが白ワインであってもやっぱり飲みたい(笑)と思うのである。先に(3-12末)類比からくる種類の半知識、すなわち、経験済の対象と類似してはいるが正確には同一ではない対象へ過去の例の経験を転移する場合の半知識を、わたしはこの原理によって説明したのであった。類似性が減衰する程度に比例して蓋然性(半知識)も減衰する。それでも類似性がちょっぴりでも残っている限り、応分の力はあるのである。

さらに観察を進めてみると、習慣はあらゆる判断の根拠であるけれども、時には判断と対立する結果を想像に及ぼして、同一の対象に関する感情(sentiment)に対立を生み出すように思える。説明してみよう。ほとんどあらゆる種類の原因は、その中にいろいろな事情が錯綜して存在しているものである。それらのうちのあるものは本質的であり、その他は蛇足(superfluous)(笑)である。すなわち、あるものは結果の産出に絶対に必須(本質)であり、その他はたまたま本質的な事情と連結していただけ(蛇足)である。で、ここから言えるのは、蛇足がたくさんあってかつ顕著であって、本質的な事情とたくさん連結しているときは、蛇足の事情といえどもその想像に甚大な影響を及ぼす、ために本質的な事情などなくてさえ「普通はどうか」の考えに心を運び、あまつさえその考えに勢いと活気とを与えて、その考えを空想の単なるフィクション以上のものにしてしまう、ということである。こうした性癖(propensity)はこれらの事情の本性について反省すれば訂正することはできる、とはいえ、習慣が真っ先に働いて想像に偏向を加えてしまうことも確かである。

superfluousを「蛇足」と訳しているのは大槻訳である。時々こんな、思わず吹き出してしまうような訳語が選ばれている。周知の通り、わたしはこういう訳が大好物なので、ここは喜んで大槻訳を継承する。

(つづく)

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いっぺんだけTPPについて書いておく

2011年10月28日 | 報道から
民主 TPP意見集約めど立たず

民主党執行部は、TPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉への参加の是非について、来月前半までに結論を出したいとして、28日から作業チームで議論を本格化させますが、慎重派の議員の反発は根強く、意見集約のめどは立っていない状況です。
(NHKニュース・10月28日 6時15分)

ニュースの方はこれを書いた時点で最新のTPP関連ニュースだというだけである。

TPPについてはひと月ほど前に調べてみた。どうせひと悶着あるだろうし、何か書くネタになるならそれもいいやと思っていたわけだが、結局何も書かなかった。書く気がしないわけである。

簡単に言えばTPPは日本人のほとんどにとってメリットは何もないのである。デメリットはたくさんあって、たとえば「失業者がふえるよ!」「やったね、た(ry」ということである。「おいやめろ」と言うしかないようなことなのだが、それも書く気がしない、というのも、それはそれで「時すでにおすし」なのである。要はアメリカ様が日本を蹴散らかしてでも中国の(環太平洋地域における)経済的伸張を止めたい、という、要はそういう図式のもとにあるハナシで、つまり、どっちみち日本は食い物(おすし)にされるだけの運命なのである。

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雛ちゃん!

2011年10月28日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題通り。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
なこ様)
※URL付加済:原画像はリンク先でどうぞ
→作者blog「KMGK!」

この絵も元画像から小さいので上は縮小せず、ウォーターマークがわりのURLだけを乗せた。

作者の人はかくべつ東方がどうということではなく、「Miracle∞Hinacle(テーマ曲のアレンジ)が好き」だから雛さんの絵を描いたということらしい。

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高速哲学入門(306)

2011年10月28日 | 素人哲学の方法
たぶん青年吉本隆明は、遠山啓という数学者が「量子力学」の理論的基礎を「数学的」に解き明かしたということは、人類が「原子核」についての知見をそれなりに得ていることになる、という印象と確信を抱いたのだと思う。つまり吉本青年は、人類が「原子核」という物理の「本質」を掴んだと思ったのだ。
(greenminkuma)

悪いがこれは誤解だと思う。「量子力学の理論的基礎を数学的に解き明かした」のはこの場合で言えばフォン・ノイマンだ。物理屋があれやこれやの方法でごちゃごちゃと作り上げてきた量子力学の理論をヒルベルト空間論を用いて数学的にきっちり定式化したのがフォン・ノイマンである。これは「量子力学の数学的基礎」という本で今でも普通に買って読むことができる。この本の原書初版は1932年刊だから、遠山啓大先生(この人を大先生と呼ぶのは、わが母校の卒業生なら義務みたいなものである)もそのあたりを読み込んだ上で講義をやったのだろうと思う。

量子力学というのは化学屋にとって必要不可欠な知識なわけである。「吉本青年」が遠山大先生の講義を受けたというのも、彼が電気化学科の学生だったからだと思う。

それで、いわゆる核エネルギーというのは相対論から出てくる話なわけで、これは量子力学とは一応別個の話なのである。化学というのは基本的に原子レベルの「電磁気力」の作用を扱うわけで、原子核の内側(いわゆる「強い力」「弱い力」の領域)が問われることはまずない。だから吉本が量子力学の講義を受けて「人類が『原子核』という物理の『本質』を掴んだと思った」ということは、たぶんなかったはずである。吉本がそうした考えを持つようになったのは、以前も書いたがたぶんその後に「世界認識の方法」を掴むべくアダム・スミスとかリカードとかマルクスとかヘーゲルとかを読んでいた間のことだったはずである。そもそも上記の意味での「人類」とか「世界」という考えはこれらの哲学・思想のかかわりで出てくる考えで、自然科学の領域にある考えではないのである。

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