辞書によれば、「韻律」は本来はprosodyの訳だが、『言語美』の中では「リズム」というカタカナ語が同じ意味で使われていて、それは実際にrhythmの音訳でありその意味である。何が言いたいかというと、以下でもそれを踏襲するので「韻律と書いてリズムと読む」くらいに(ここでは)思ってもらいたい、ということである。
以前に考察したとき、音韻や韻律のようなものが成り立つには、言語は最初から社会性のものでなくてはならなかったのではないか、という意味のことを書いた。他人の発語を聞き、再生する複数の耳と口がなかったら、声色や音程や速度がさまざまに異なる発語からひとつの音韻が共通性として抽出されるというようなことは生じえないのではないかと思われたからである。
実際に言語が成立してくる過程では、一定の集団内で「発語と再生」が繰り返され、それによって共通性の抽出も、あるいは共通性を基礎とした派生要素の抽出も、非常に急速に進んだのであったのかもしれない。その可能性は小さくないというか、おそらくはそうであっただろうと思える、
けれども、あくまで論理的にだけ言えば、それは言語が成立する絶対の必要条件だというわけではない。
音韻の成立は集団内で発語と再生が反復される中で、ヴォリュームを上げるような連続的な強化と抽出の過程の帰結ではなく、スイッチを倒すように不連続に「あるとき突然そう聞こえるようになり、以後そうとしか聞こえなくなる」かたちで成立したものだと考えられる。
どういうことかというと、現代の我々が経験するところで言えば、たとえばメタリカの「blackened is the end」という歌詞の発音が「バケツリレー(buckets relay)」と聞こえると、以後そうとしか聞こえなくなる、言うなれば空耳効果(mishearing hysteresis)の経験があるわけである(笑)。詳しくは書かないが、この空耳効果が生じるための必要条件は自己表出が成立すること、対象の概念とその指示(志向性あるいは志向的な意識)ということが成立していること、つまり非還元的な心的領域が成立することであり、かつ、ただそれだけであると言える。
いま原始人が自己表出段階にあり、そこで「バケツリレー」という音韻が概念とともに獲得されていたとすれば、他の人間が似た発語をしなくても、原始人は潮騒や木々のざわめき、動物の鳴き声といった自然音の中にさえその声を聞くことができたというか、聞くことになったはずである。聞いてヘッドバギングしたかどうかまでは知る由もないが(笑)。
最初に韻律についての断り書きを書いてしまったので一応触れておけば、音韻という共通性が獲得されたあとでは、韻律その他の派生要素は聴音と音韻の差から抽出されることになる。韻律で言えば「バケツリレー」を「バ・ケツリレー」と発声(聴取)したり「バケ・ツリ・レー」と発声(聴取)したりすることが自覚的に自在にできるようになるわけである。現代の我々がカラオケとかでメタリカの「blackened」を歌うときは、曲に合ったリズムでバケツリレーと発音するようにである(笑)。
以前に考察したとき、音韻や韻律のようなものが成り立つには、言語は最初から社会性のものでなくてはならなかったのではないか、という意味のことを書いた。他人の発語を聞き、再生する複数の耳と口がなかったら、声色や音程や速度がさまざまに異なる発語からひとつの音韻が共通性として抽出されるというようなことは生じえないのではないかと思われたからである。
実際に言語が成立してくる過程では、一定の集団内で「発語と再生」が繰り返され、それによって共通性の抽出も、あるいは共通性を基礎とした派生要素の抽出も、非常に急速に進んだのであったのかもしれない。その可能性は小さくないというか、おそらくはそうであっただろうと思える、
けれども、あくまで論理的にだけ言えば、それは言語が成立する絶対の必要条件だというわけではない。
音韻の成立は集団内で発語と再生が反復される中で、ヴォリュームを上げるような連続的な強化と抽出の過程の帰結ではなく、スイッチを倒すように不連続に「あるとき突然そう聞こえるようになり、以後そうとしか聞こえなくなる」かたちで成立したものだと考えられる。
どういうことかというと、現代の我々が経験するところで言えば、たとえばメタリカの「blackened is the end」という歌詞の発音が「バケツリレー(buckets relay)」と聞こえると、以後そうとしか聞こえなくなる、言うなれば空耳効果(mishearing hysteresis)の経験があるわけである(笑)。詳しくは書かないが、この空耳効果が生じるための必要条件は自己表出が成立すること、対象の概念とその指示(志向性あるいは志向的な意識)ということが成立していること、つまり非還元的な心的領域が成立することであり、かつ、ただそれだけであると言える。
いま原始人が自己表出段階にあり、そこで「バケツリレー」という音韻が概念とともに獲得されていたとすれば、他の人間が似た発語をしなくても、原始人は潮騒や木々のざわめき、動物の鳴き声といった自然音の中にさえその声を聞くことができたというか、聞くことになったはずである。聞いてヘッドバギングしたかどうかまでは知る由もないが(笑)。
最初に韻律についての断り書きを書いてしまったので一応触れておけば、音韻という共通性が獲得されたあとでは、韻律その他の派生要素は聴音と音韻の差から抽出されることになる。韻律で言えば「バケツリレー」を「バ・ケツリレー」と発声(聴取)したり「バケ・ツリ・レー」と発声(聴取)したりすることが自覚的に自在にできるようになるわけである。現代の我々がカラオケとかでメタリカの「blackened」を歌うときは、曲に合ったリズムでバケツリレーと発音するようにである(笑)。