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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

『言語にとって美とはなにか』要約のためのメモ(4) ── 音韻と韻律の成立について

2016年05月08日 | 『言語美』要約プロジェクト
辞書によれば、「韻律」は本来はprosodyの訳だが、『言語美』の中では「リズム」というカタカナ語が同じ意味で使われていて、それは実際にrhythmの音訳でありその意味である。何が言いたいかというと、以下でもそれを踏襲するので「韻律と書いてリズムと読む」くらいに(ここでは)思ってもらいたい、ということである。

以前に考察したとき、音韻や韻律のようなものが成り立つには、言語は最初から社会性のものでなくてはならなかったのではないか、という意味のことを書いた。他人の発語を聞き、再生する複数の耳と口がなかったら、声色や音程や速度がさまざまに異なる発語からひとつの音韻が共通性として抽出されるというようなことは生じえないのではないかと思われたからである。

実際に言語が成立してくる過程では、一定の集団内で「発語と再生」が繰り返され、それによって共通性の抽出も、あるいは共通性を基礎とした派生要素の抽出も、非常に急速に進んだのであったのかもしれない。その可能性は小さくないというか、おそらくはそうであっただろうと思える、

けれども、あくまで論理的にだけ言えば、それは言語が成立する絶対の必要条件だというわけではない。

音韻の成立は集団内で発語と再生が反復される中で、ヴォリュームを上げるような連続的な強化と抽出の過程の帰結ではなく、スイッチを倒すように不連続に「あるとき突然そう聞こえるようになり、以後そうとしか聞こえなくなる」かたちで成立したものだと考えられる。

どういうことかというと、現代の我々が経験するところで言えば、たとえばメタリカの「blackened is the end」という歌詞の発音が「バケツリレー(buckets relay)」と聞こえると、以後そうとしか聞こえなくなる、言うなれば空耳効果(mishearing hysteresis)の経験があるわけである(笑)。詳しくは書かないが、この空耳効果が生じるための必要条件は自己表出が成立すること、対象の概念とその指示(志向性あるいは志向的な意識)ということが成立していること、つまり非還元的な心的領域が成立することであり、かつ、ただそれだけであると言える。

いま原始人が自己表出段階にあり、そこで「バケツリレー」という音韻が概念とともに獲得されていたとすれば、他の人間が似た発語をしなくても、原始人は潮騒や木々のざわめき、動物の鳴き声といった自然音の中にさえその声を聞くことができたというか、聞くことになったはずである。聞いてヘッドバギングしたかどうかまでは知る由もないが(笑)。

最初に韻律についての断り書きを書いてしまったので一応触れておけば、音韻という共通性が獲得されたあとでは、韻律その他の派生要素は聴音と音韻の差から抽出されることになる。韻律で言えば「バケツリレー」を「バ・ケツリレー」と発声(聴取)したり「バケ・ツリ・レー」と発声(聴取)したりすることが自覚的に自在にできるようになるわけである。現代の我々がカラオケとかでメタリカの「blackened」を歌うときは、曲に合ったリズムでバケツリレーと発音するようにである(笑)。

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「表現転移論」ノート(1)

2016年05月04日 | 『言語美』要約プロジェクト
※以下は大部分「表現転移論」の(要約とまでは言えない)引き写しだが、字句や送り仮名は(自分用に)あちこち変えている。省略もしている。また〔〕内に個人的なメモや思いつきを記している。正しい原文は原著を参照されたい。くれぐれも以下を孫引きなどしないように願いたい。

ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。その中心には彼しか知らない思想が隠されている。ひとりの作家は、ひとつの環境や生活をもち、その中心には彼しか知らない体験が隠されている。さらに、ひとつの生活や環境は、ひとつの時代・社会・支配のなかにあり、その中心には(それを体験する)彼しか知らない、つまり他の時代・社会・支配からは窺い知れない時代性の殻が隠されている。

こんなふうに、ひとつの作品は、異なる時代や社会の作品に対してばかりでなく、同じ時代や社会の他の作品に対してもはっきりと異質な〔それゆえに窺い知れない〕中心をもっている。それどころか同じひとりの作家にとってさえ、ある作品はべつの作品とまったく違っている。〔ひとつの作品はそれ自体としてどこにも(作者にさえ)帰属しない、あたかもそれ自身の実存をもつものであるかのようにみることができる〕言語の指示表出の中心がこれに対応している。言語の指示意識は、外皮では対他的な関係にありながら、中心では〔δ関数のように〕孤立しているといっていい。〔個々人の実存の中心がそのようなものであるように〕

他方、ひとつの作品は、同じ時代・社会・個性の生み出した作品に対してばかりではなく、異なる時代・社会・個性に対しても、類似性や共通性の中心をもっている。この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的な連続性をもつと考えられる。言語の自己表出性は、外皮では対他的関係を拒絶しながら、その中心では連帯しているのだ。〔これもまた個々人の実存の中心がそのようなものであるように〕

人間は現実にはばらばらに切り離された存在だと認識したとき、本当は連関※と共通性を手に入れ、また不幸にしてこの現実で連関の中の存在だと認めたとき孤立している。

※原文では一貫して「連環」の2字が使われているが、リング状であるとは限らないだろうし、リング状ということで閉じた系であることを示唆しようとしているようにも読めない。さしあたり連関(relevance)と書き直してみる。

ひとつの作品でさえ、それを知り尽くすためには、作品から作家の性格へ、作家の性格から生活や環境へ、生活や環境から時代や社会へと延びてゆくすべての連関を解きほぐさなければならない。それには根元を掘り起こし、土壌を調べ、吸い上げられた養分を分析するといった大きな〔無限の〕労力の積み重ねがいる。批評家たちがやっているのは、このおおきな〔無限の〕連関の一部を拡大し、そこに自分の好みや関心が集中する中心を投げ込むことだ〔つまり、好みや関心のオブザーバブルによって作品を測定することだ〕。実際、他にはほとんど術がないのであって、ただ自分の方法こそが正当だなどと主張しさえしなければいいのだ。いいかえれば、文学の理論を具象物〔オブザーバブルに依存する測定量の束〕としての文学作品をもとにしてでっちあげようとさえしなければ。

芸術・文学の作品はひとつひとつ具象的な表現なのだ。表現は文字または音声によって対象として定着〔収縮(contraction)と読み替えたくなる〕させることで表出の一般性から突出したものとなる。定着させられた作品は作者の意識、あるいは精神あるいは観念生活にそのまま還元(reduce)することはできなくなる。ここでは意識の表出が、産出(produce)されて「そこにある表出」に転化しているのだ。芸術・文学の作品が、意識性への還元も、また土台としての現実社会への還元をも許されない性格を獲取するのは、ここにおいてだ。

※自己表出の成立が非還元的な心的領域の成立を意味するように、作品の成立もまた非還元的なある領域の成立を意味しているということだ。

わたし(吉本)がやろうとしているのは、ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移を考えることができるかということだ。この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能である。つまり、自己表出からみられた言語表現の全体を、自己表出としての言語から時間的に扱うということだ。

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『言語にとって美とはなにか』要約のためのメモ(3) ──「千里の径庭」について

2016年04月30日 | 『言語美』要約プロジェクト
「雑記」で触れたように(2)までのメモはいくらか改訂を必要としている。どう改訂すべきかを考えるために(まだ考えている最中である)、改めて(『言語美』の読者なら誰でも記憶しているであろう)有名な「千里の径庭」という一語に着目してみる。

・・・労働の発達が言語の発生をうながしたことと、うながされて言語を人間が自発的に発することのあいだには、比喩的にいえば千里の径庭がある。・・・

・・・人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出として想定できる。・・・これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。・・・

この「千里の径庭」とか「千里の距たり」という比喩的な表現、これは「千里」という距離の量的概念を示唆するものではなく、いま客観的な世界像(物理領域)と主観的な世界像(心的領域)を相互変換することを考えたとして、その変換操作の具体性を論理的に追い詰めて行った場合、どうしても最後に残ってしまう、また残らなければならないスキマ(gap)のことを指している。「スキマ(gap)を埋めるものなどない」というジョン・サールの一言が思い出される。

それは何のスキマ(gap)で、どうしてそんなスキマ(gap)が残り、また残らなければならないのかというと、客観的な世界像、つまり世界の自然的・物質的・科学的な記述をどこまで詳しくして行ったとしても、また(科学的な記述を与えるものとして等価な)どのような記述体系を選んだとしても、決して有限の記述を与えない、少なくともひとつのことが存在して、それが「我あり」という命題だからである。この命題は主観的な世界像においてはあらゆることに先立つ第一命題であるとともに、その世界像すなわち心的領域の原点であり、抽象的な(つまり理論上の)1点である。

それは有限の記述にはならないが、無限の記述には当然なるし、ならないといけない。無限の記述にさえならない、つまり記述そのものが存在しないとしたら、わたしの存在は自然(物質宇宙)の外を参照することになってしまう。そんなことはありえない(神秘主義もしくは二元論を拒否することの条件)から、その記述は存在する、ただそれは有限の記述(述語的概念の有限交叉)にならない、つまり記述対象としてコンパクト性を持たないということである。

それはさておき、「我あり」という命題は、17世紀にデカルトが言い出すまでは、本当の意味で人々のアタマの中にはなかったはずのものだと言っていい。つまりこの「我あり」における「我」は心的な対象などではなく、心的領域の非還元性(irreducibility)ということを論理的に追い詰めて行った先に現れる(現れなければならない)理論上の1点、もしくは、もともと量子力学を定式化する便宜のためにディラックが導入したデルタ(超)関数のようなものにすぎない。

ちょうど理論上は微小な粒子的実在である電子が、化学のテキストにおいては不確定性の雲(分布)として描かれるのと同じように、理論上の自己(意識)は『言語美』のテキストにおいては言語の表出、あるいは表出された言語であり、それはまた微小な記号としてではなく、自己表出と指示表出の絡みあう不確定性の織物として描かれるのである。

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雑記

2016年04月29日 | 『言語美』要約プロジェクト
「要約のためのメモ」が思いがけず長くなってしまっているので、それとは別系列のメモを書きとめておく。

(I)

いま「要約のためのメモ」で書いている内容は早いうちにアップデートしなければならないようである。

「メモ」で書いていることは単独の原始人をモデルにしていて、原始人どうしの「社会的交通」ということは勘定に入っていない。実際、I章2節までの記述を読む限りではそれで十分ではないかと思われたのであるが、I章3節を読んでみるとどうも吉本の考える「自己表出」の成立にはそれ(社会的交通)が不可欠であるとしか思えないのである。

つまり、声色や音程の差異が様々にありうる中で音韻という共通性が抽出され、それが「意識の自己表出としての音声に高められたことと対応している」ということは、社会的交通の存在を前提しなければ言えないわけである。

(II)

書く予定の「要約」について。要約と言って、原著の目次構成はそのままに中身だけ要約するということは最初から考えていない。原著の目次構成はそれなりに理由があってあの構成になっているのだが、その理由は『言語美』が書かれた時代状況と無縁でないということがある。はっきり言えばマルクス主義的な言語観と機能主義的な言語観という党派的あるいは個体的な理論の双方を退けて、普遍的な理論を作りたいということと、それまでのあらゆる言語理論が無視してきた、吉本の用語で言えば「自己表出」の概念を言語の本質として理論の中にきちんと位置づけたいというモチーフが強くあるわけである。1960年代のわが国の状況においてはどうしてもそれが最重要の課題だと吉本には思われていた(おそらく実際にもそうだった)ということだ。

原著の初版から数えてもすでに半世紀以上を経た現在、そのモチーフに固執する必要はおそらくない、というか、現在のほとんどの読者にとってこれらは『言語美』の本来の問題意識をかえって見えにくくしてしまう要因になってしまうような気がする。これを書いている現時点でのわたしの構想では、要約は第II章の「意味」「価値」論から始めるのがいいのではないかという考えに傾いている。つまり「字面上はただ自然の景物を並べただけのような詩歌がなぜ美であると言えるのか」ということだ。当時はもちろん現在でもそれを説明する言語理論はない。『言語美』がそれに成功しているかどうかはさておき、これが成功していないのなら、成功している理論は絶無であることはたしかだ。他にあるのなら、たとえば機械翻訳の不可能性を示す「時蠅は矢を好む」問題は(実装的にはともかく理論的には)とっくに解決されているだろうし、いまどきまたぞろ人工知能などが変なブームになったりもしていないはずだからである。

(III)

2001年に書き加えられた「文庫版まえがき」には「指示表出性が強い言葉は人間の感覚器官との結びつきが強い言葉だ。一方、自己表出性の強い言葉は、内臓のはたらきの変化、異変、動きなどに関係が深い言葉だ」という意味のことが書かれている。『言語美』以来の自分の考えを三木成夫の業績に関連づける中でそう考えるようになったということも書かれている。

正直に書いておくと、わたしは三木成夫の著作を読んでもその記述にほとんど納得することができなかった。言ってることが間違っているとか、そういう話ではなくて、これを科学と言われたら科学が困る(笑)という困惑がどこまでもつきまとって、わたしのような根っから理科系こんこんちきの男にはどうしても冷静に読み通せない本だということだ。

晩年の吉本がなぜ三木成夫説にあれほど入れ込んだのか、今でもよく判らないのだが、今回『言語美』を読み返していてふと思ったことは、吉本にとって三木成夫説は心身問題の解とは言わないまでも、解に近づく考えだという風に思われていたのかもしれないということだ。

それが心身問題の解と呼べないことは明らかだ。仮に内臓のどこかに心の本源があるのだとしたら、人間の生物的な身体構成を「機能的に」再現したロボットや「人工知能」はやはり心をもつことになるはずだし、そうしたロボットや「人工知能」を構成することは、まさしく「原理的にはまったく自在」なことである。つまり内臓説は、言語や心のスターリン主義リバイバルみたいな脳神経原理主義よりはずーっとましだというだけで、突き詰めて行けば心の機能主義に帰着してしまうという点で大差のないものだ。機能主義をどう捻っても「消去主義か多重決定か」という心的因果のディレンマを解くことはできない。そのディレンマを疑似問題として退けられるのはわたしの解決だけである。

それでも三木-吉本説が脳神経スターリン主義などより「ずーっとまし」で、解そのものではなくても解に近づく考えだというのは、つまり三木-吉本説の根幹には植物性→動物性→人間性という一種の発展段階説が認められるからである。これは見方を変えれば、生物的身体の外へ無限に拡がる非コンパクトな人間の身体を、いわば生命のコンパクトな〈歴史〉記述に変換したものだと言えなくもない。もともと〈歴史〉とは現在の人間世界を(そこに含まれる個々人や集団の関係性の非コンパクトな総体を)コンパクトな〈歴史〉記述に変換したものであり、またそう考えられることによってのみ意味のある記述や知識だと言っていい。そう考えれば三木-吉本説は心身問題の解ではなくても「解に近づく」考え方だとまでは言えると思う。

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『言語にとって美とはなにか』要約のためのメモ(2)

2016年04月28日 | 『言語美』要約プロジェクト
あえてフィルムを逆回しするように、自己表出が行われるようになった段階から、ただ「対象の像を指示する」だけのところまでシナリオを遡行してみる。

自己表出が行われている段階では、すでに述語的概念を基底とする位相空間(topological space)としての心的領域はirreducibleに成立している。そこでの「対象の像」は述語的概念であり、具体的な、まさにその対象(very object)は概念の交叉(言うなれば積概念product)として特定的に指示されるが、自己表出段階ではこの指示は概念の有限交叉(finite intersection)によっては果たされ得ない、つまり、まさにその対象(very object)はコンパクト性を、つまり指示可能な対象であることを喪失している。他方で「対象の像」はそれ自体として対象となっている。いいかえれば「対象の像」がコンパクト性をもつようなirreducibleな領域が自然的あるいは知覚的領域とは異なって成立しており、「対象の像」はこの新たな領域において指示可能な対象(別の言葉で言えば志向対象intentional object)となっている。

いまこの描像を、可変な身体構成を生きることが可能な存在(人間)が、故障でも誤動作でもなくして「現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発する」ようになった段階にあてはめてみる。心的領域の成立は確たるものではない、つまり、それはいまだreducibleである、単に解釈の違い(discrepancy in interpretation)に帰着する、そう解釈すればそう解釈することもできるというだけの、つまり理論上の仮想的な領域概念にすぎない。

あるいは、人間と機械の区別がつかないロボット工学者などがよく、ロボットが目の前の対象を「見ている」などと表現するとき、そこで想定(空想)されている似テ非ナル(擬似pseudo)心的領域のことだと言ってもいい。そこでは対象を「見ている」ということと、単に光学センサが光刺激の束を感知し、センサの奥に鎮座ましました計算機(プログラム)がその情報を処理しているということの区別はつけられていないし、つけられない。「そう解釈すればそう解釈することもできる」だけなのだ。

そこで発声が現実的反射であった段階、つまり「たとえば狩猟人が(略)海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発する」段階から「現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発する」ようになったとき、この変化は擬似的な心的領域あるいは身体構成におけるどのような変化に対応すると言えるだろうか。

話を単純化して、いま現実的反射の〈プログラム〉が刺激aに対して応答Aを、刺激bに対して応答Bを引き起こすものであったとすると、可能な刺激の集合S={a,b}が拡大したとき、もともと〈プログラム〉が想定してなかった刺激cに対して応答A,Bのどちらかが引き起こされることになる。可能な刺激の集合Sは身体構成の変化に応じて変化するものでありうるが、応答すなわち発声の方は生物的身体の上でしか起こらないから、可能な応答の集合R={A,B}は〈プログラム〉されたまま一定である(より後の段階で、人間が意識的に自らの生物的身体やその〈プログラム〉を対象的に修飾(modify)するようになれば話は違ってくる、けれどもこの段階においてまだそれはないとすることは自然な想定であろう)。

(※〈プログラム〉が想定しない(つまり未定義の)刺激cに対する応答は無応答ということになるのではないかと考える人がいるかもしれない。そうなることはありうるが、無応答でなければならないと考える理由はないと言っておこう)

さて、擬似的な心的領域の描像においては、刺激は応答の意味である。たとえば現実的反射の段階では発声の応答Aが知覚パタンの刺激aに対応している、つまり発声の応答Aは知覚パタンの刺激aを「意味する」ものと捉えられている。もちろん実際には捉える主体がないので「そう解釈できる」というだけだが、ロボットが対象を「見ている」という場合と同じように、解釈としては可能である。

身体構成が変化し、可能な刺激の集合Sが拡大して「現実的な対象にたいする反射なしに」応答が生じるようになった段階では、応答Aの意味は特定の知覚パタンの刺激aではなく、それを含む集合a(x)へと拡大されている(xはパラメタ)。これが「対象の像(image)」であり、このとき応答Aは述語的概念の性格をもつようになる。つまり、世界はAのまわりで「応答Aを引き起こすもの」と「引き起こさないもの」に二分される。「山」という述語的概念は世界を「山であるもの」と「山でないもの」に二分するように、である。

これで「対象の像を指示する」ということは説明できたことになる。ただし、これは自己表出段階から遡行的に作った説明であるから、借りたものは返さなければならない。つまり、述語的概念が獲得されたと「ただそう解釈できる」ところから、解釈上の述語的概念が本物の概念として成立するまで、つまり述語的概念を基底とする位相空間、irreducibleな心的領域が成立して、述語的概念が実際にその位相空間の基底になっているところまで話が通るかどうかを確認する必要がある。

(この項つづく)

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『言語にとって美とはなにか』要約のためのメモ(1)

2016年04月27日 | 『言語美』要約プロジェクト
Ⅰ章2節までの段階で、(わたしには)判りにくい、たぶん記述として不十分だと思えることがふたつある。

(1) 自己表出を行うようになることが述語的概念の獲得に(また述語的概念を基底とする位相空間、ひいてはirreducibleな心的領域の発生に)結びつけられている。割とあっさり書かれているが、どうしてそうなるのか。

(2) 「言語は自己表出の面から、わたしたちの意識にある【つよさ】をもたらす」という、その「つよさ」とは何のことを言っているのか。

ひょっとすると後の方でもっと詳しく書いてあるのかもしれない。実際そういうズボラな前方参照というか、参照先の不明な(!)前方参照が、『言語美』はもとより、この時期の吉本のテキストにおいて頻繁に見出されるのは事実である。そのせいで多くの読者は混乱したまま本をそっ閉じするか、半解あるいは誤解のままデタラメを言いふらす結果を生んできたような気がしなくもない。

まあ、何はともあれ、ひとまず自分で補っておいて、前方参照が解決されて違っていることが判明したら、その都度修正あるいは訂正する、という方針で行く。あるかどうかも判らない参照先を探索するのは『言語美』全体の長さを考えれば不毛なことである。

(1) 「あるところまで意識は強い構造をもつようになったとき、現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発することができるようになり、それによって逆に対象の像を指示するようになる」おそらくこのあたりが鍵である。

自己表出以前には、人間はその場その場の知覚パタンに対して反射的に発声するだけの存在である。それは動物の鳴き声も(特段の思い入れなしに観察する限り)だいたいそうしたものであろうと思われるし、適当に機械モデルを構成して実装することも、容易に可能なはずのことである。要は知覚パタンの適合度に応じて発声につながる運動神経系を励起するように〈プログラム〉すればいいだけだ。動物の場合その〈プログラム〉は遺伝情報に、あるいは生誕間もない期間の刷り込み(inprinting)などによって書かれている。

「現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発する」というのは、人間においては〈プログラム〉によって対応づけられた刺激と応答の関係が(故障や誤動作ではなしに)破綻するということを意味している。いま故障や誤動作が一切ないと仮定した場合、それが破綻するということが考えられるだろうか。それがここでの問題である。

(なぜ故障や誤動作を排除するかというと、生物的身体の物理的損傷や摩耗によって生じる「故障」、また生物的身体の造作がもともと粗末で、同一の刺激に対する応答が一定しないために生じる「誤動作」、これらは人間でなくてもどんな動物(機械)でも普通に生じることだし、動物(機械)の場合、こうした機能的な乱れが自己表出につながらないことははっきりしているからである)

そんなこと不可能だろうと思うかもしれないが、実は答は簡単だ。身体構成がもともと一定でなければ、その変化に伴って〈プログラム〉の動作すなわち意味論もまた当然変化してしまうはずだということだ。

動物としての、つまりデフォルト(笑)の生物的身体構成を前提すれば、身体構成の変化に伴う〈プログラム〉の意味論の変化は文字通り破綻でしかありえない。動物や機械の場合なら、それはそのまま個体としての死(機械ならオシャカ)につながるだけだ。けれども人間だけがそうならない。生物的身体の生命は(リスクを伴いつつも)維持しつつ、生物的身体の外に追加の身体(つまり「道具」)をもち、既定と追加を合わせて全身を統御・支配できるようになったのが人間である。

もちろんこんなことはいかなる機械設計の理論を考えても可能ではない。けれどもここが途轍もなく重要なところだが、機械として設計する、その理論が作れないということは、物理的に不可能ということとはまったく違う、ということである。

これには現在では身近なところに実例があって、可逆データ圧縮がそれである。あらゆるデータを可逆圧縮するアルゴリズムが存在しないことは(理論的に)簡単に証明できる。つまり可逆データ圧縮の普遍的な理論は絶対に存在しない。ところが現実にほとんどのデータを圧縮する可逆データ圧縮アルゴリズムは存在するし、実装もたくさんされていて、日々便利に使われている。

そんなものどうやって作っているのかと言えば、「現実のデータ」という理論的には定義不能な概念を参照することによって、つまり現実のデータの標本をたくさん集め、その標本統計にあらわれた傾向(出現パタンの偏り)を参照しながら作られている。その「傾向」に理論的な(普遍的な)根拠などない、というより理論的には傾向などない(笑)、けれども「現実」においては明らかにそれがあるのである。

説明が長くなったが、とにかく人間のように可変な身体構成を生きることが可能な存在なら、故障でも誤動作でもなくして「現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発する」ということが起こりうることまでは、これで証明できたことになる。あとはこの枠組み(人間は可変な身体構成を生きる)のもとで「それによって逆に対象の像を指示するようになる」ということを必然化できるかどうかである。

こちらの方が難しい、というより「対象の像を指示する」というのは物理領域ではなく、すでに心的領域における出来事の描写である。たとえば目を閉じたときに何かの像を思い浮かべることができたとして、その像を物理的に参照することは不可能である。その像は物理的な何かではない、いわば夢のようなものだからである。

(この項つづく)

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