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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ちょっとした冗談

2016年05月01日 | わけの判らぬことを云う
以下は『言語美』の一節で、今やってる「要約」プロジェクトとは直接関係しないので別カテゴリに分類して投稿するのだが ──

・・・劇が成立するためには、現実の空間と、そこから手のとどく物語の空間と、第二の架空間(舞台)とのあいだを、自在に通れるくらいに表現の意識が飛躍〔傍点〕できることが必要な条件になる。つまり演者、作者、観客は、それぞれちがった仕方で、かならずこのような〈飛躍〉の過程を通らなくてはならないのだ。

こういう劇のほんとうの構成のすすみかたに耐えうるものは〔近世においては〕たれか?

社会的身分は同然でありながら、観念の世界ではとても高度な飛躍にたえる条件をもったものはたれか?

ここではじめて遊郭、私娼街の人物、そこにあつまり足をふみいれる人物、その特殊な世界の倫理的宗教を背負う人物たちが登場するのだ。・・・浄瑠璃、歌舞伎の劇としての構成が成り立ったのは、この世界とこの世界の倫理とにいちばん身近な鏡をみたといえる。

浄瑠璃、歌舞伎が奇妙な世界だということは、たれでも感じることができよう。どんな主題もみんな遊郭、私娼窟の世界にむすびつけられてしまう。それはたんに世俗的な趣向に投じやすいためという以上に、世界の中心にかかわりをもっていることを、信じないわけにいかない。

(吉本隆明『言語にとって美とはなにか II』第V章 構成論・第III部 劇・第II篇 展開論・3 構成の思想(I)より)

この引用にある「浄瑠璃、歌舞伎」を「学園モノ」に、「遊郭、私娼窟」を「学校」に置き換えたら、マンガやアニメ、あるいは最近のライトノベルを含めた(しばしばSF的な近未来あるいは「異世界」の)学園モノの、劇としての構成はこの記述にぴったり沿ってくるのではないだろうか。なんとなくそんな気がした。もちろん根拠はないから、これはあくまで冗談だ。

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無題

2016年04月16日 | わけの判らぬことを云う
コドモのころの疑問は「世の中はなんでこんなに複雑なんだ」ということだった。

複雑であるとは、あることが真に判ったと言えるためには、すべてを知り尽くしていなければならないというような状況のことだ。すべてがすべてと緊密に結合しているとき、ある要素の評価は他のすべての要素に依存することになる。そのような状況では、小さな部分の経験(既知)をその外に拡げて見通すことができない。ひとつでも見落としがあれば、次の瞬間には「すべてが嘘で、間違いで、デタラメだった」となってしまう。

幸い物理はそうなっていないが、我々が人の世界で経験することはまさにこれで、こんなことばかりだ。見知った界隈の外に一歩でも踏み出せば、そこには死の闇が広がっている。怖気づいて後ろを振り返れば、見知った界隈はすでに魑魅魍魎の巷と化し、さらにこちらを追い立ててくるかのようにさえ見える。神話や冒険物語によくある「接触」から「脱出」へという展開の原型は、おおよそこんなコドモの経験にあるのかと今なら思う。

それにしても、こんな世界で生きていることは、つまり、みすみす詐欺に遭っているようなものではないだろうか。生きることは無意味であるどころか、人はみなカモられているのだ。では、どうすればいいのか?

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断片

2014年04月29日 | わけの判らぬことを云う
人間は生き物だから、本来なら「嫌なこと」はできる理由がないわけである。にもかかわらず、たいていの人は働いたり、学校に通ったりしている。

むろんそれらのことは、基本的には嫌々やっている(笑)わけであるが、それにしても、それらはべつに遺伝的にそうプログラムされている(笑)というものではないし、あるいは物理的に背中をどやされながら石蹴りの石みたく転がり進まされているわけでもなければ、背後から忌避刺激を浴びせられながら牧場の畜群みたく囲いの中へ追い込まれているわけでもない。それに近いことが起きている場合がないわけでもないが(笑)、常にこのどちらかでしかないとは、我ながらとても思えないところがある。そういう意味では「自発的に」それらを行っているということにもいくばくかの真実はあると考えざるを得ないのである。

そうは言っても、なかなか大真面目な顔してそんなことを言う気にはならない。第一、こうしたことのもうひと回り外側に、わたしにとってさらに承服しがたい事柄が存在している。自分自身のことは、この世に生まれてきてしまったものはどうしようもないと肚をくくることもできるし、事実わたしはそう考えてきたが、他人を同じ目に会わせることの方は、これもまた仕方がないことだとは、わたしは五十を過ぎた今もまったく思うことができない。このことについて愚にもつかない屁理屈の言い訳よりましなことを、いかなる他人からも聞かされたと思ったことは一度もない。もちろん自分で考えていても、いまだに何もまともなことは思いつかないから、もし真顔で言い出したら最後には相手が逆ギレするだけだと判っていて非難がましいことも言う気がしないことである。

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無題

2011年11月29日 | わけの判らぬことを云う
「高速哲学入門(318)」で「反文明主義をどうすれば、またどうやって克服できるのか」というようなことを書いたわけだが、もちろん容易なことで答の出る話だとは思っていないわけである。

ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」(この最近接というのは英語ではclosestと訳されているのだが、どちらかと言えばnearest neighborとかadjacentのニュアンスである)の話を読んでいると「ええ話やな」とわたしでも思うわけだが、言うは易しだと言えば言える気もしてくる。それは言ってみれば、相場の値動きから「トレンド」を読み取って「時間発展(time-development)の最近接領域」をポジる、というのとどこが違うのかとツッコミを入れたら、誰かは答えてくれそうな気があまりしないことである。

人間の発達はともかくとして、相場の場合、現在価格(ないしレート)がx円だとしたら、直近の任意のm分の動きからする任意のn分後の価格(レート)の最尤推定はやっぱりx円なのである。普通に思いつくような統計的手法をこねくり回す限りそれ以外の結論はない。相場談議の中で「トレンド」という単語が出てきたら、1000回のうち少なくとも999回は確実にただの錯覚だと思っていいし、残りの1回もまあ結果論だと言っていいようなことなのである。

もちろん人間の発達には確かな「トレンド」がある。5歳児の1年後の最尤推定がやっぱり5歳児だということはありえなくて、だいたい普通の6歳児のようになっているだろうというのは確かなことである。よほどうっかり者の母親でも、コドモに着せる服を買うのに今日の背丈にぴったり合わせて買ったりはしないわけである。

それはそうだが「最近接領域」ということを問うとしたらそれほどはっきりした話になるのかどうかは判らない気がする。何が言いたいのかというと、コドモの発達の、特に知的な側面というのは、本当は対象として可観測ではないし、可制御な対象ではいよいよないはずだということを言ってみたいわけである。

もちろん生物の個体集団の適応とか進化というのも同じことだが、生物の適応とか進化の場合はだから「自然選択」ということになるわけである。いまわが国の学校で進化論というのはどんな風に教えられているのか、わたしは知らないのだが、出戻り学生をやっていた頃に改めて進化生物学を聴講していて目からウロコを落としたことは、適応とか進化というのはどんな場合でも「種」について言うことであって「個体」の問題ではないのだ、ということだった。当たり前と言えば当たり前のことだが、我々が日常「適応」とか「進化」という言葉に対してもっているイメージが実際にそうしたものなのかと言ったら、たぶんそうではないのである。

実際、今でも「弱肉強食」「競争原理」というようなことをどや顔して語る人ならたくさんいる。適応や進化が「『種』について言うことであって『個体』の問題ではない」というのをこれに即して言い直せば、「真っ先に食われるのは(いついかなる場合でも)自分自身でありうる」ということにほかならない。本当は我々は誰も「無知のヴェール」の外には出られないのだということだ。そうと知ってて言うのでない限り「弱肉強食」「競争原理」などということを過剰に強調して言うのは、少なくともそれを進化論の文脈に重ねて言うのは間違いだということである。つまり、そんなことをどや顔して語るのは進化論が判ってない証拠だと言っていいのである。

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うにてんてん

2011年11月09日 | わけの判らぬことを云う
別に何のことはない「ヴ」のことである。ひらがなで書いたら何か別の可愛いもののように見えたから題名にしたまでである。

もともと日本語にはない音である。英語ならv、ドイツ語ならwの音である。ややこしいのはドイツ語のwの場合で、英語ではこれは、特に語頭にある場合はたいてい「ウ」と発音するのだが、ドイツ語では当然「ヴ」なわけである。同じ名前が英語圏の文脈と大陸の文脈では異なる読み方をされている場合があるわけである。有名なのは「ウィトゲンシュタイン」と「ヴィトゲンシュタイン」、あるいは「マックス・ウェーバー」と「ヴェーバー」である。

カタカナ語の場合、「ヴ」はもともと日本語の音ではないからというのでバ行音で代替することも多いわけである。典型的なのは「ベートーベン」と「ベートーヴェン」である。

何をわけのわからないことを書いているのかというと、つまりこの「ヴ」表記というのは、これをやたらと嫌う人がいる一方で、逆に強烈なこだわりを持っている人もいるということである。

最終的には別に、外国語名をもつ対象を指示・識別する上で誤認が生じない限りはどっちだっていいじゃないかということにしかならない。それは言うまでもないことである。

しかしそうは言っても、この種の好み(嫌悪)というのは、その好み(嫌悪)を持っている当人にとっては、絶対的とは言わないまでも相当に強力ムヒな拘束力を持っているものだということも、まず間違いのないところである。たとえば社会学の偉い人が「ウェーバーじゃない、ヴェーバーだ!」と言ったら「先生、そんなのどっちだっていいじゃないですか」とは、権威権力関係の後腐れをさておいたとしても、それでも言いにくいことのはずである。なぜだろうか?

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低速抑鬱入門(3)

2011年10月05日 | わけの判らぬことを云う
しばらく書いてなかったから上の番号は間違ってるかもしれないが、まあご愛嬌で。

精神科医の中にも箱庭療法を臨床現場でやってる人もいるようだ。ウィキによると、それはユング派心理学の河合隼雄さんによって日本に持ち込まれたという。フロイトは言語の効用を説いていたので、彼の著書に箱庭という言葉は無かった。
(Gemeins)

つーかこういう「なんたら療法」のたぐいはケースバイケースで何でも使うらしい。箱庭はユング系の人しか使わないとかそういうことはない。

ちなみに俺もロールシャハやら箱庭やらひと通りやらされたことがある。やったのはいいけど「ったく、オメーは何やらしてもオリジナルすぎて治療にならん。でも研究材料にはもってこいだ!」とか言われたよw 参っちゃうよな。俺ってやっぱ根はアーティスト(笑)だったんだよ。

ちなみにユングという人は「芸術家は分析したくない」が口癖で、作家や絵描きから精神分析を依頼されると、その都度弟子に仕事を振っていたらしい。

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「修正リベラリズムと自由の限界」メモ

2011年09月01日 | わけの判らぬことを云う
そういうのをちょろっと軽く書けないものか、というようなことを考えていた。考えているうちに余計な話の方が膨らんだ結果が下の「雑考」である。

ある程度まとまった内容が書けるようになってから書くべきなのだろうが、思いつきはメモしておかないと忘れるに決まっているので、思いつきをメモしておく。

修正(modified)リベラリズムというのはこの場合M・サンデルが言う場合のコミュニタリアニズムのことも含んでいる。わたしの見るところでは(ものすごくあっさり言ってしまえば)ロールズ的なリベラリズムを線形の理論だとすれば、サンデルの主張していることは政治的な現実は本質的に非線形だというようなことなのである。それはまあ、ある意味では当たり前の話なのだが、そうだとしても非線形な政治社会モデルが一般解を持つのかと言ったらたぶんそれは持たないだろう、という線がサンデル式の議論に対する本質的な批判になるだろう。

政治哲学が単なる概念のお遊びにとどまらないものでありうるとすれば、結局のところその時代なりその地域なりの状況を「線形近似」して考えるよりほかにないのではないか、そういう意味ではロールズ的なリベラリズムは別に死んではいないだろうということになる。

修正のあるなしにかかわらず線形なリベラリズムの原点(ゼロ・オリジン)は当然ながら「自由」ということに求められる。この「自由」にはしかし、指摘されれば誰でも思いあたるような単純で根深いパラドクスが存在する。もったいぶらずに書けば「自由作文のパラドクス」である。自由であることはそうでないことより望ましいことだ、とは、ある観点からは疑問の余地がないのだが、だとすると誰しも自由作文の課題でつんのめってしまうことがあるのはなぜなのか、である。そしてこのパラドクスはリベラルな政治社会モデルのすべてを根本から蝕みうるものである。また実際にも蝕んでいる。

自由の理念は廃棄されなければならないのだろうか。そうは思われない。考えてみると自由ということは主体や行為の属性であってそれ自体で存在する何かではない。ぶっちゃけて言えばわかりやすいからその概念が用いられてきただけで、本当はもっと先をたどれるはずのものである。おそらくはその先のどこかでパラドクスを解消できるはずであるし、そこでリベラリズムの極限の像を描きうるはずである。

ところで、それはあるべき社会や文明の理想像なのだろうか。たぶん、そうではないのである。

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首相が毎年交代することの何が悪いというのか?(2)

2011年08月30日 | わけの判らぬことを云う
言うまでもないことだが、(1)に書いたようなことは比喩としても正しいのかどうかは保証の限りではない。ただ眺めていて、それを否定する根拠も特に見出せないというだけである。

ぶっちゃけた話、正味のことで言って、毎年総理大臣が変わって何か不都合なことでもあるのだろうか。最大の同盟国である米国国務省でさえ「同盟関係はそれぞれの総理大臣の下で強化されてきている」と言ってくれているわけである。強いて不都合らしいことを言えば、毎年出てくる新人首相が、己が生涯の晴れ舞台だとか何とかのコドモじみた思いに囚われたりもするのであろうか、誰も望んでもいないのに余計なことを、必ずひとつやふたつはやろうとするわけである。で、その都度小さくない混乱が政治と社会の双方に引き起こされる、それが最大の問題だと言えば言えようか。再生可能左翼テロだの、温暖化詐欺だの、遡って言えば国立マンガ喫茶だの、美しい自殺大国だのと、どうしてお前らはそういうしなくてもいい、内外が迷惑するようなくだらんことばっかりやりたがるんだと、それは確かに、言いたいと言えば言いたいことである。

毎年変わる新人首相用に、内外双方にとって無害な政治的オモチャをひとつふたつ用意しておくべきなのかもしれない。本当は歴史教科書なんていうのはそのいいオモチャのひとつかもしれないのだが、しかしそれをもて遊ばれると、どっかの国が本気で怒ったり、勘違いした学校の校長とかが生徒にケツ向けて日の丸に最敬礼したりする(これはわたしの実体験で、以後何年か日の丸を見るのも嫌になった。今は治ったが)ようになったりする。どこにも迷惑がかからないというようなうまいネタは、なかなかないものである。

首相が毎年変わってよくないことは国家百年の大計を示し得ないことだと言いたい人があるかもしれないが冗談ではない。日本国家が取り組むべき百年の大計などいちいち言う必要もないくらい、ずっと前からはっきりしているわけである。領土問題のような外交課題をさておけば、一方では経済成長(個人消費拡大と雇用創出)、他方では家庭生活の再生と支援である。これらはいずれも、誰それが指導力を発揮すれば一夜にして解決するとか、そういった性質のものではありえない。国にも自治体にも債務があって、できることはもともと少ないのである。変に指導力など発揮されたら郵政も原子力発電もまともに営めない政治的大惨事を招くだけだということは、さんざん立証されてきたことである。せいぜい、余計な内輪もめなどしている暇があるなら少し真面目に仕事してくれたらいいのに、と、正気の国民大衆の多くはそう思っているわけである。

そうではなく現状の世界で、わが国が何か世界に対して指導的な影響力を発揮しなければならないというようなことでもあるのだろうか?それこそ冗談じゃないと言うべきだ。首相が毎年交代するようになるずっと前から、日本などという国は最早あってなきがごとしであるかのように扱ってきたのは世界の方だったわけである。別に、それがとりたてて不当な扱いであったと言いたいわけでもない。グローバリズム諸兄のおっしゃる通り日本は落ち目の国である。誰がどう見たって落ち目なのである。ほとんど誰ひとりまともに英語が喋れないような国が英語標準の世界になって、そうそううまいこと儲けられるはずがないのである。

しかも、どうしようもない落ち目のわが国にかわって日の出の勢いの国がすぐ隣に、人口だけは十倍規模で台頭してきたわけである。鉄道事故なんぞは事故車両を土に埋めてでも成長へ繁栄へと邁進していくエコノミック・グラスホッパの大群である。かつては我々もアニマルなどと呼ばれたことだが、かくて時代は巡ったのである。世界の誰も日本のことなど顧みなくなっても仕方がないのである。右翼の人はまたぞろ暴支膺懲のたぐいを言う、その口先ばっかりは上手だが、その隣国を上回りはしないまでもそれに匹敵するような成長のモメントをどこに見出して行くべきなのか、それを示しえたということが一度もないし、だいたいその必要を認識してさえいないのである。産業経済は不承々々であれ勢いのある経済のその勢いに乗じて生き延びようとする、それを止めることなどできないのである。

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高速哲学入門(233)

2011年08月17日 | わけの判らぬことを云う
力つきて折れたらそこで終わりです。批判されても前に進みましょう。理念型を作り上げるのは止めましょう。なにもoutputが出せないことを理由に、あるいは地位を獲得できないことを理由に孤独の道に入るのは止めましょう。前に進まなくてもいいから、とにかく人前にでましょう。それが美です。

世から詩人がいなくなって久しい。思想家もいなくなった。哲学者もほぼ消えた。小説家も死滅しかかっている。加えて人文社会科学の研究者も「緩慢なる絶滅」に向かっているように見える。何がこうした状況をもたらしたのだろう。言語が力を持つ空間が究極に狭まった世界とはどんな風景なのだろう。

(yshibazaki)

twitter上では珍しい、妙に立派なことを呟いている人がいるなと思って拾い上げてみた。この呟きの主は国際政治学が専門の人らしいのだが、よくわからない。TLの呟きから察する限り相当にいい趣味をした人物である。田舎の中学校で同級生だった地元名士の息子やら娘やら、誰やそれや達の顔が浮かんでくる。わたしなんかを何から何まで正反対にすると、こんな人の姿に似てくるのかもしれない。

呆れているだけでは哲学にならないから、その正反対の人に向かってツッコミを入れてみる。最初の呟きは、たった今この時であれば、twitter蝗の大群に食い散らかされた某自治体のマスコットキャラの残骸とその中の人に向かって呟かれるべきであろうと思う。「とにかく人前にでましょう」それは本気か。「それが美です」本気なのか?

詩人ばかりは確かにいなくなったのかもしれないが、思想家も哲学者も小説家も別に消えたりなどしていない。言ってることはどれも、たぶん国際政治学者の成層圏から見下ろせばゴミもいいとこみたいな話ばかりであるには違いないのだろうが。「批判」「理念型」「output」「地位」いかにもこれらは彼らに最も似つかわしくない、今となってはいっそ風雅の響きを持つ語である。

「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と晩年の詩で呟いたのは中桐雅夫、元ネタはW・H・オーデンらしいが、いずれも確かに詩人だった。前者についていえば「アル中」は当時ならまだ、言葉はともかく、詩人の実存において風雅ではなかったのだろう。今はちがう。

「人文社会科学の研究者も『緩慢なる絶滅』に向かっているように見える」似たようなセリフを小谷野敦の本で読んだことがあった。わたしはもとが理科系の人間だし、人社系の知識には孤立した素人の立場以外からかかわろうという気が、もともとないので「そーなのかー」としか思わなかったわけだが、

「言語が力を持つ空間が究極に狭まった世界」とはいったい何のことを言っているのか。わたしの目には、言語の毒ばかりがどこまでも際限なく蔓延ってゆく世界のように見えているわけだが、国際政治学者にはそれが言語作用の場そのものの収縮のように感じられているということだろうか。でもイナゴどもが標的を食い荒らす言語にしてもあれは別に原始人の言語ではない。ほんとにそうなら松明の火一本翳して見せるだけで黙らせることもできようが、そういうものではたぶんないわけである。

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高速哲学入門(223)

2011年08月13日 | わけの判らぬことを云う
書いてみたらわけが判らないことを書いているので、今回のは「わけの判らぬ」カテゴリに放り込んでおく。

「デリダ、フーコー、ドゥルーズに興味がある」なんていう典型的な80年代的思想オタが今でも沢山いるのかどうか、気になりますね。僕は悲しいくらいに典型的なハマり方しちゃってますが。
(saltyapple)

冗談じゃない、ある意味では今の方がずっと多いくらいなんじゃないか。

80年代にもこの3名の本は確かに流行ったけど、何が流行ったと言ったって要はせいぜい雰囲気だけのハナシだったんだ。ちゃんと読めてた奴なんてほとんどいなかったわけでさ。もちろん俺もだ(笑)。今は日本語訳も増えたし、解説書とか哲学的二次創作(笑)も、前ほどチンプンカンプンではなくなったりしているから、昔に比べりゃずっと入りやすくなっているんじゃないだろうか。もっとも、判れば判るほど「ほんとに中身あんのかこれ」感も強くなってきてるけどな。

フーコーだけは相当先まで残るんだろう。英米哲学はフーコーに文句はつけているにしても、結局無視することはできないんだ。今んとこ手に負えないから「はいはい人間の終わり人間の終わり」くらいのことになっているけど、しばらくしたらいい加減なんとかせいやゴルァくらいの話は出てくるんだろう。それはいつだと言って、ざっと百年は先のことなんじゃないか(笑)。で、それが読んで判る日本語になるまでにまた百年(笑)。そのころには日本なんて影も形も残ってねえよ!

そういうわけで、俺はどうせ原語で読めやしないおフランス語の哲学は「参考」程度に考えるようになっている。老い先短い中高年だから見切りをつけざるを得ないということだ。若い人(笑)は好きにすりゃあいいわけなんだ。俺の知り合いでもこのあたりからのめり込んでとうとうヨーロッパに移住しちゃった奴までいる。そういう人はもう、身も心も日本とか全然関係がないんだ。ほんとに見事に切れちゃってて取りつく島もないんだ。びっくりするよ。

だから外人思想オタでまっしぐらは別に少しも悪かないけど、やるならそこまでやらなきゃならんし、やらなかったらたぶん、もはや何の意味もないんじゃないだろうか。

なんでこんなこと書くのかというと、俺の知り合いでもそこらへん中途半端に済ませちゃったやつは、たいていガチでアタマがおかしくなってるわけだ。昔から「日本のインテリは洋行して帰ってくると気が狂って帰ってくる」というが、あれは居残り組のやっかみでも何でもない本当のことなんだ。なんでなのかと考えてみると理由はひとつしか考えられない。日本人にとって日本は日本だが、洋行帰りは「Global Nothing of Japan」を見ることになるんだ。無を覗き込んで平気な奴なんていやしないんだよ。

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オカルトの語用論

2011年08月10日 | わけの判らぬことを云う
ホメオパシーの「思い込み薬」が少しばかり話題になったとき、このblogでも何度か取り上げたことがあった。

その時はどちらかと言えば擁護的にこれを扱ったわけだが、だからと言って何の問題もないと思っているわけではない。実際に起きていることは、たぶん、ずっと大規模で、はるかに恐ろしいことなのである。個別のオカルトの小流行を非難したり排除したりするくらいではどうにもならないし、むしろそうする方がかえって事態を悪化させるはずだとわたしには思えるというだけである。

実際、オカルトの小流行は世の中にはいくらもあるわけである。たとえば近頃では単に「部屋を片付ける」というだけのことでさえオカルトになっているわけである。

それがオカルトの小流行であるかどうかを識別する実践的かつ重要な指標のひとつに「××本」という言葉ないし言葉遣いがある。××は一般名詞(ないし非名詞の名詞形)である。たとえば「部屋を片付ける」ことのオカルトは「片付け本」になるのである。もっと極端な例を作って言えば、たとえば仮に、本屋の中に「科学本」と称するコーナーがあったとしたら、その棚に置かれている本はひとつ残らず疑似科学というオカルトの本だと思ってまず間違いない。そうでない本があったとしても、その棚にその本を入れた書店スタッフの判断力の限りにおいては、その本は他のオカルト本と区別がつかない、あるいは「どうせほとんどの客には区別がつかない」から区別しないで扱われているのである。

ちなみに××が名詞でない場合、オカルトの心配はかなり減る。たとえば「薄い本」の中身はエロであったとしてもオカルトであることはまずないのである。「怪しい本」もたぶんオカルトではない。自分で自分のことを怪しいと告げるオカルト本などあるはずもない。「汚染された本」も同様である。

××が固有名詞の場合は微妙である。たとえば「ヒューム本」はどうだろう。直ちに断定はできないが、すでにかなり怪しい感じがする。「ニーチェ本」これはもう間違いなくオカルトである。むろんニーチェの哲学はオカルトなどではないのだが、普通の人々の間ではニーチェと言ったら狂気のオカルト哲学者で決まってしまっているわけである。遺憾ながら。

(つづくかどうか)

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俺の住んでる街は・・・

2011年07月27日 | わけの判らぬことを云う
twitterで自分の街を検索語にして検索しているうちに「これはいったい・・・どういうリア充の街なんだ」と思ってしまった。

田舎育ちのわたしの場合、街が賑やかなのはどんな場合でも結構至極なことだ、と自動的にそう思うようにできている。帰省すると生まれ育った街がたいがい寂れかえって閑古鳥が鳴くようになってしまっているわけで、黙っていても表情が険しくなってしまう近年ではなおさらのことである。だから、別に近所の商店街がリア充だらけになったってわたしはちっとも構わない。今でもたまにルーズソックス穿いた女子高生を見かける、と思えば短パンに黒ニーソ穿いてジョギングしてるようなのもいる。このごちゃ混ぜ感こそは昔っから我が街の特徴である。

むろん、仮にオタだらけになったとしても、それはそれで結構なのだ。在りし日の秋葉原電気街の何がどうよかったのかは、ちゃんと今でも覚えている。埼玉かどっかの神社がその手のネタで大儲けしているって、実に素晴らしいことではないか。族車でも痛車でも何でも好きに走り回ってくれていいのである。メタル難聴のわが辞書に騒音の2文字はない。

とはいえ、単に今まで自分の住んでる街をそういう風に眺めたことがなかったから、twitter上にリア充っぽい会話がもの凄い勢いで流れているのを見るとすごく違和感があった、それだけだ。

中には「あのころはよかった、昔の××(←街の名前)」と言って昔の写真を貼っているのがいる。ほう、どれどれと思って見てみると、冗談じゃねえ、たった十年前の写真じゃないか!・・・最近のわたしは「昔」とか「大昔」とかの単語を何年前くらいにあてて使うのが正しいのか、だんだん判らなくなっている最中なのである。今のワカモノは本当にたった2,3年前のことでも「昔」といい、そのころの話題が出ると「なつい」と言う。5年も遡れば問答無用の「大昔」である。

わたしには少しずつ判らなくなっている。高度成長の時代ではないのである。ここ20年は日本中どこだって本当は何の成長もしていないのである。本当に進歩したのは彼らの手の中にある携帯電話と回線容量くらいのもので、あとは基本的に何も変わっちゃいねえよ──さもなきゃ悪くなるばっかりなんだ、ただそれは俺が墓の下まで持って行く話だ──と、ほんとは言いたいところがある。

別にそれを咎めようというのではない。さすがに自分の感覚が追いつかなくなっているのが自分で判ってしまうのである。それを我ながら嘆かずにいられないのである。人はこうしてボケて行くのであることだなあ。

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スマートフォンをくりくりする人生

2011年07月12日 | わけの判らぬことを云う
いまどきの流行は電車の中でスマートフォンをくりくりすることだというのは前からのことだ。わたしは携帯電話も持たないから、当然スマートフォンも持っていないし、持つ気もないわけだが、

携帯電話のようなものが装置として高度化してスマートフォンくらいのものになってくると、これはただの流行だという以上のことだという気配が、次第に漂ってくる。携帯電話はそれまであったいろんな娯楽の小さくない割合を破滅寸前に追い込んでいる。スマートフォンはそれを加速し拡大しこそすれ、逆のことにはたぶんなるまい。文明の進歩とはそんなものだからそれは咎めるにあたらないことだ。いくらか気になる、というか気にしてみたいことのひとつは、スマートフォンをくりくりしているうちに終わる人生というのはいったいどういう気分のするものなのか、ということだ。もちろん外から眺めている限りぞっとしないものだから、自分でマネしてみようという気には金輪際ならないわけだが。

両価的なことを両価的に書こうとしているわけだがうまくいかない。スマートフォンをくりくりしている間に人生が終わってしまうのは空しくないかと言いたいわけでは全然ない。もともと、それよりもさらに貧しく辛く悲しく空しいことをやっているうちに終わってしまうのが、たいていの人の生涯であったわけである。空しいというのはたいてい他人の目から見ればということで、要するに大きなお世話なのだということは、常に確かなことである。スマートフォンをくりくりするのは、まだしもずっとましなことだからこんなに流行っているわけである。

ほんと言うと嫌だなと唯一思っていることは、この20年くらいの間に意味もなく真面目な人が増えたということである。衣食は前から足りているので、礼節が盛んになったわけでも何でもない。その真面目には何の意味もないのだと言ったりはしないが、それは言っても聞く耳もつまいからである。またそれは、どう考えてもパソコンを含めたハイテク情報機器の影響ではないかという疑いが拭えなくあるからである。こうした機器を構成することはどうしたってある種の真面目さを抜きにしては不可能である。昔は、それゆえにパソコンのような装置はどうしてもそんなに多くは売れなかった。相対的に高価だったからということもあるのだが、この種の装置の構成上どうしても混入してしまう種類の真面目さを無化してしまうには、使う方にそれだけの知識なり技能なりの蓄積がそれなりに必要で、そこまでできる人は昔はそんなに多くはなかったからである。

しかしあるとき気がついてみると逆の流れが生じていた。こうした情報機器の構成が含有している真面目さの成分が、次第に人々を蝕むようになっていたのである。ただ拒絶されるだけのものだと思っていたらそうではなくて存外強力な浸透力を、それは潜在させていたのである。しばらくすると情報機器のメーカ自身がそのことに気づいて、今度は意図的に真面目の毒を押し込むようになって行った。ある意味ではそうした流れの、現時点でのなれの果てがスマートフォンのくりくりである。この光景の中で真面目でないのは、つまり人生と呼ぶに値する程度にふざけていてユーモラスな印象を与えるものは、もはやその「くりくり」の所作だけなのである。あとは全部真面目で、ことごとく無意味なのである。何だこれ。

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茶番のはじまり?

2011年07月11日 | わけの判らぬことを云う
茶番というのは、たとえば理論上の原始人が最初に自分たちの長を定めたときからあるものである、はずである。何がどうしてそうなったのかはともかく、集団の中のある人物をその集団の長だと決めたとき、そんなことは本当を言えば誰も「本当のこと」だとは考えなかったはずであるし、その後もそのように考えられることは、一度たりともなかったはずである。それはあくまで、最初から最後まで、そうだということにしてしまった何事かであって、だから、そこに落ちているのは石だというのと同じように彼は長だという風には、まったく思われていなかったはずである。彼が長だというのは、ある意味では本当のことでも何でもない、ただそう決めただけの嘘っ八だということは、いくら原始人が阿呆でも認識しなかったはずがないことである。なぜなら、嘘っ八を嘘っ八だと認識していなければ、それをわざわざ「宣言」するということもしないはずだからである。だからそれは嘘っ八だ、だがその一方では、自分がこれこれのことをする(した)のは、彼が長だということになっているからである。自分がこれこれのことをする(した)のは紛れもない本当のことであるし、「彼が長だということになっているから」そうする(した)のだということも、べつに偽りでも何でもない、本当のことなのである。だから、彼が長だということもその意味では本当のことなのだし、それどころか、今やまったく本当のことでなければならないのである。本当は嘘っ八であるにもかかわらず。

以上はサールが制度論の中で時々書いているような話をもとにした、しかし、たぶんまったく別のシナリオである。なんとなく書いてみたくなって書いただけで、真実性などというものはこれっぽっちも保証する気がない。正直、ただのパロディだと思って読んでもらった方がありがたい。それもあってこの一文のジャンルは「ポエム」にしておいた(笑)。

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久しぶりに

2011年07月05日 | わけの判らぬことを云う
ほんとに久しぶりにアタマからケツまで「わけの判らぬ」文章を書いた、それが下の「言葉の怨み」である。

もともとはもう少し下の方にある「ある考察」の続きを書いていて、その一部が変な方向に膨らんだのを、なんだか勿体ないから切り取ってきて独立させたのである。

「わけの判らぬ」ことと言って、文章にも全体にもそれなりの意味も主題もあるわけなのだが、本当のところその意味を意味させたくて書いているのかどうか、自分でも時々よく判らなくなるのである。

こんなのはどうでもいいことだとは、わたし自身は絶対に思っていない。だが、どうでもいいことではないと言われることの方は、それはそれで絶対にありえないと思っている。そういうのは「わけの判らぬ」ことだと普通は言うだろうから、そういうカテゴリ題になっている。

「意識的」が全部「わざと」と書かれているような哲学のテキストがあったら面白かろうな、とは、件の文章読本を読んだ時からずっと思っていたりすることだが、今にして思えば、そんな哲学のテキストが書けたとしたら、わたしはその夕方にでも死んで構わないくらいのことであるような気がする。つまりその置き換えの秘密を解き明かすことは、とはつまりその「言葉の怨み」を底まで浚ってみせることは、たぶんあらゆる哲学にとって根源的なことである上に、ひょっとすると致命傷だということである。

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