惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

生物種が先か個体が先か

2010年08月31日 | 心身問題・自由意志
この話は前にも書いたことがあるような気がする、というかわたしにとって(ということは、このblogでやってる考察のすべてにおいて)最も基本的なアイデアなのだが、改めて簡単に書いてみよう。生物種が先か個体が先か。これは、社会が先か個人が先かというのとも同じで、どちらが先ということはない、というのがわたしの立場である。仮に、物理的な現実としてはどちらかが先にあったということを立証できたとしても(一般にはできないはずだが)、両者の関係という点では後先は問題にならないということだ。

どういうことかというと、いまあなたが「あ」という声を出したとして、その音声に含まれる1kHzの成分と10kHzの成分のどちらが先に出てきたのか、そう問うのと同じことだ、という意味で「後先は問題にならない」ということである。



ここんとこ毎日何かしら書いているにもかかわらず「blog休業中」の看板はそのままになっているのを、怪訝に思っている人がいるかもしれない。実際のところ、別に外すのを忘れているわけではない。本人はまだ休業中のつもりなのである。とにかく毎日の仕事がしんどくて、まともなことをまともに考える余裕が全然ないのである。まあ10月くらいになったら、少しは楽になってくれるといいのだけれど・・・。

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橋爪大三郎「言語ゲームと社会理論」(勁草書房)

2010年08月30日 | 土曜日の本
言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン
橋爪 大三郎
勁草書房
Amazon/7net

「制度論の構図」でいろいろ参照されていた関係から、改めてこの本を買って読んでいるわけである。

実際に土曜日に買ったのは東浩紀「日本的想像力の未来──クール・ジャパノロジーの可能性」(NHKブックス)だったのだが、これがもうニンともカンとも、という本だったので、たまたま注文していたのが土曜日に届いた橋爪センセイの本を「土曜日の本」ということにする。

だいぶ前にちょっとだけ手をつけて、そのまま放ったらかしにしているヴィトゲンシュタイン「哲学探求」も、そのうちなんとかしないとなあ・・・。

●付記

・・・いや、東センセイの本も本当はちゃんと内容があるのかもしれないのだけれども、今のわたしが読んでいてもどうにも思考を促されないのである。このblogでは何事もなさそうにそれ系のネタを書いたり、他人様の絵やら動画やらを貼っていたりするわけだが、その本のネタになってる「クール・ジャパン」なものの界隈は、いま相当きついことになっている*。そのきつさの現場とは全然違う場所で、何やら全然次元の違うことを相談しているような印象があった。これにどんな意味があるのか、正直、わたしには判断がつきかねるのである。ひょっとすると、大塚英志もこの催しに参加はしたが発言をすべて削除させたというのも、そういうことであったのかもしれない。

* 一例としてhttp://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p100803.pdf

「クール・ジャパン」というのはもともと外人さん達が言い出したことである。わたしはマンガもアニメも大好きでよく見てきた方だし、これらが現代日本で、いな、ほとんど現代世界で最高の娯楽文化的産物だということも間違いないと思っている。だが、それがクールな(カッコイイ)何かだと思ったことは一度もない。普通そうではないだろうか。キン肉マンやケンシロウはカッコイイと感じることはあったとしても、マンガ(という媒体)やマンガを読んでる自分がカッコイイなんて思えるわけがないではないか。いままさに滅びつつあるテレビがそうであったように、これらはそのユーザにとって家族のように親しい何かとしてあるわけだ。しかし普通、家族というのはお互いに、またその一員としての自分自身(の相)も「クールなもの」として見ることはできない何かなのである。

「クール・ジャパノロジー」という研究(まさに「言語ゲーム」だ)が成り立つ場所はたぶんあるのだろう。そのような場所には、ただし、日本と我々日本人だけが最初から最後まで存在しないのである。(以下、Sep.1「余談」に続く)

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マルチンゲール(ver.1.1)

2010年08月29日 | チラシの裏
これは以前から書こうと思って、書こうとすると気が重くて書けないでいるネタのひとつである。

株や外為をやっている人には周知のことだろうが、マルチンゲールというのはギャンブルでいう「倍々プッシュ」のことである。ここに勝率1/2の丁半バクチがあったとして、負けるたんびに賭け金を倍々にしていく手法である。イカサマはないと仮定して1/2の丁半バクチで永久に負け続けるということはない、どこかで勝って負け分を取り返せるから、一見すると小さな勝ちを着実に積み上げて行ける「必勝法」のように思えるところがこの手法の落とし穴である。実際には、Excelやなんかでシミュレーションしてみればすぐにわかる──ということは、現実にはほとんど誰もやろうとしない──ことだが、最初の所持金が有限である限り、いつかはこの手法は破綻することになっている。俗に「コツコツドカン」という。この「ドカン」が「突然の不運」なんかではなく、もともとの手法に潜在していた欠陥が顕在化しただけのものだということは、投機やギャンブルで痛い目に会って反省したことのある人──ということは、たいていの人は全然反省しない──なら理解することだろう。

以前言及したことのある色川武大「うらおもて人生録」の中で、色川武大は飛行機事故で亡くなった同業の作家・向田邦子さんのことに触れて「向田さんはギャンブラーじゃないから仕方がないけど、ギャンブラーが飛行機事故で死んだら、それはやっぱりエラーなんだ」という意味のことを書いていた。もっと若いころにそのくだりを読んだときは「そんな無茶な!」と思ったものだったが、いまこれを書いていて、色川武大=阿佐田哲也の言いたかったことは、要は上のパラグラフのようなことだったに違いないと思う。

興味があったら調べてみるとたぶん判るはずのことは、株や外為の投機手法として世間で公開されているものは、明らかな裁定取引(サヤとり)の場合を除けば大なり小なりマルチンゲールである。少なくとも一度はそうと疑ってみる価値がある。特に「投資はバクチではない」と主張しているものに限ってそうである可能性が小さくないと言っておきたい。上述の通り一見したところは「小さな勝ちを着実に積み上げて行ける」まるで積立貯金のような地道で堅実なやり方のように思えるところがマルチンゲールの特徴であり、かつ、それが最悪の落とし穴なのである。

お判りだろうか。「気が重い」というのは、以上の話を逆にしたら、ということである。つまり、いわゆるギャンブルに限らず「地道で堅実な」「小さなことからコツコツと」式のやり方というのは、本当はすべて何かについてのマルチンゲールであるような、要するに最後はドカンとやられておしまいになるだけの幻ではないのだろうか、という懐疑である。博徒がバクチをやるときはバクチだと思って、つまりハナからアブクであるような何かだと思ってやるわけだが、普通の人はそれを努力とか忍耐といった倫理を賭けてやっているはずである。負けた博徒は自業自得だと言われるだけだが、負けた倫理に向かう言葉はもはや存在しないように思われる。

この懐疑が真実らしく思える理由のひとつは、まったく逆の、いわゆる起業家の成功談のごときものが、成功した後からどんなもっともらしい理由をつけて語られていても、やってることを仔細に眺めれば単なる大ボラ吹きが決め打ちでやる一発勝負と、本質的な違いがあるようには思えない、ということと対になっているように思えるということである。

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見合い結婚

2010年08月29日 | わけの判らぬことを云う
児童虐待なんかも含めたDV関連のニュースに接しているうちにふと思えてきたのは、いわゆる「見合い結婚」というのは、こうしたことを抑止ないし制御(どっちにしても英語はcontrol)する装置だったのではないかということだ。

DVが厄介なのは、根本的にはそれが家庭内の、つまり私秘的な領域にある行為だということである。DVの疑いがあったら直ちにケーサツが介入すればいい、などというのが暴論にしかならないゆえんだ。公的な領域が公的な領域として成立する根拠のひとつは、昔風に言えば本領安堵、いまで言えば私秘的な領域の保護ということにある。だから、公的領域が私秘的領域に無造作に介入することを許すことは、究極的には公的領域そのものの存立根拠を否定することになってしまう。

一方でDVの問題が露わにしていることは、現代的な家族、つまり夫婦間の愛情に基づいて営まれる核家族というものが、マクロに見ればきわめて不安定で脆いものだということにほかならない。いったんギクシャクしだすと歯止めをかけるものが実は何もないので、どんな凶悪なことでも起きてしまうということである。

そうは言っても核家族というのは人間存在にとって生の意味の基底をなすものだ。人間は単独で自由な意識を持つとは言っても、この意味での自由は生きることの意味を構成するものではないように思える。自由はむしろ生きるということそれ自体である。生きているものが存在しなければその意味ということもありえないので自由は最も大切だが、だからと言って、それだけではニッチもサッチもいかないということもまた確かなのである。

そういうわけで、安定であろうとなかろうと人間は核家族を本源として各々の生きる意味を創出しはじめるのだが、これはどうも、それ自体としては本当に脆くて不安定でどうしようもないのである。人類の歴史は、だから、次第に核家族の外側に、それと肌着のように接するような制御装置を作り出すようになって行ったのかもしれない。それが最も原始的な(とはこの場合、基礎的なという意味であって、野蛮なという意味ではない)共同体だったのではないだろうか。

重要なことは、この図式の中には文明の進歩とか物質的な豊かさといったものを保証するものは何もないということである。安定と言えば聞こえはいいが、その最も容易な(ということは、たいていそうなるということだが)実現は貧困とか蒙昧といったものなのである。

現代文明は、だから、原始的な共同体を破壊する作用を持つ一方で、人間を貧困や蒙昧から解放するものでもあるわけである。そしてその文明の進歩が永続的であるように思える間は、核家族は準安定とでも呼べるような状態を維持することができるようなのだ(わが国では1960年代から1980年代末までの約30年間がそうだった)が、いったん文明が停滞に晒されると、その認識の広がりに伴って社会全体が毒化して行くのである。

・・・以上は、いましがたまで居眠りしていた間に考えていたらしい(寝ていた間に何をどう考えたのかは本人にもわからない)ことを漫然と書き綴ったものである。とりたてて実証的な根拠があって書いたものではないことを断っておく。

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Cirno, the ice fairy

2010年08月28日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
この人の描くチルノが一番好きだったりする。ちょっと性悪なイタズラ妖精という感じで。

(画像とリンクは「ニコニコ動画」「【東方まんが】輝夜が頑張りました」より)




下段のはルーミアと一緒に吸血鬼姉妹のコスプレしてイタズラしているw

とはいえ、同じ人がpixivでこんな可愛いらしいイラストも描いているのも見逃してはならない。

(画像とリンクはpixiv「ちるの」/「そばかす魔理沙の人」様)

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早苗さん

2010年08月25日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
ちょっとしんどい書き込みが続いたので他人様の絵を貼ってみる。

(画像とリンクは「ニコニコ静画」
/「medio」様)

こういう、すごくキレイな絵を描く人がいるかと思えば、同じキャラを使って一方では

こういう同人マンガを描いている人もいる。この動画は最近の一番のお気に入りw

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さしあたり無題

2010年08月25日 | 報道から
禁煙ナチスの団体・日本学術会議が「ホメオパシー」という代替医療について、その非科学性を根拠に「医療従事者が治療法に用いないよう求める」メッセージを出しているらしい。これ自体はどうでもいいが、このblogでは以前から日本学術会議に「消えてなくなれ」と言っていることで、いらぬ誤解を避けるために書いておきたい。日本学術会議は消えてなくなるべきだが、だからと言ってわたしはホメオパシーなるものを肯定するつもりは少しもない。否定もしないが、それはただ関心がないからである。

強いて言えば、特定の医療行為の是非ということについて、専門の医師や医学研究者の団体が何か言うならともかく、ナチスがしゃしゃり出て来るのは、いったいどんな料簡があってのことか。伝えられているところ*が事実だとして、わたし自身が持っている科学的常識に照らして判断できる範囲では、いかにも、ホメオパシーにはその信奉者が主張しているような効能はあるまい、「気休めと書いてホメオパシーと読む」くらいのことであろうと思われる。偽薬効果というやつだ。けれども、そんなものをわざわざ槍玉に挙げてみせるナチスの料簡は、それとは独立に質されてしかるべきである。

* ハーネマンの理論を踏襲した現代のホメオパシーは、ある病状を引き起こす成分をそのままでは有毒であるので水によって極めて高度に希釈したものを砂糖に染み込ませる。希釈の度合いは様々であり、10倍希釈を9回繰り返したものを9X、100倍希釈を200回繰り返したものを200Cなどと表現する。最もよく用いられるのは30C、すなわち100^30=10^60倍に希釈したものである。これがいわゆるレメディーである。(Wikipedia)



未確認情報によれば、ホメオパシーは日本以上に欧米で猖獗をきわめていて、日本もその影響を被ることが懸念されている、ということらしい。この文脈が真実なら、もともと「学術研究者の業界団体」にすぎない──つまり、科学的真理についていかなる権威も持つはずがないし、与えられたこともない──日本学術会議が、今世紀に入ってから(わたしに言わせれば「急に」)禁煙ナチスのお先棒を担いでみせたり、非科学的なだけで人畜無害な代替医療をわざわざ声明まで出して排除しようとするようになった(しかも、あたかも自分達が科学的真理についての正当な権威であるかのような「虚偽の装いのもとに」)、その背後で何が蠢いているのかが少しばかり透視されてくるように思える。



思うところを少しだけ散漫に追記する。わたしは前から、代替医療や健康食品の信奉者の心理(内的な論理)がよく判らなくて知りたいと思っているところがある。もっとも、アブナイ領域だから軽々に近寄ったり憶断したりするわけにもいかないと思って、日常的には敬遠したりもしている。ナチス医師会などは今度の件で学術会議の尻馬に乗って「新興宗教だ」などと言っているらしいが、そうだとすれば新興宗教(仏教やキリスト教を含む啓示宗教全般)の信者の心理(内的な論理)も同じようによく判らないということだ。

さしあたり宗教は別にして代替医療や健康食品(これには、いわゆる「トクホ」なんちゃらの愛用者も含まれる)の信奉者の人達に限って言えば、そういう人達の言動には、その底の方に科学や科学的医療全般に対する根深い嫌悪ないし否定的な気分があるように思っている。ともするとそれは「底なし」かもしれないと感じることもある。

わたしはこれでも理学修士(博士課程満期退学)で、つまり科学者の端くれだから、「コラーゲンを服用してお肌ツルツル」式のあからさまな非科学・疑似科学的言動に接すると気分の表層を害されることは確かである。けれどもそれは表層的なことだという風にも感じている。そういう言動をなす人に向かって、たとえば、わたしが誰でも自分で反復できる明晰判明な科学的認識のありようを示し、彼らの認識や知識が間違いだということを説明したとして、どれだけ丁寧に(自然科学の理解は本来、個々人の良心や名誉を傷つける性質のものでは決してない、ということを含めて)やったとしても、結局は聞く耳を持ってくれない、ということだけは、(科学者としてよりは職業的なテクニカル物書きの)体験的によく判っているつもりだ。彼らが本当は言いたい、あるいは言動によって示したいと意図していることは、そういう表層的(物理的)な次元のことではないのだということまでは、それで判る。判らないのはその意図ということ、その内奥に何があるのかということなのである。

そう、そこにスキマ(gap)があるのである。このblogでわたしがナチス呼ばわりの非難を浴びせているのは、そのスキマ(gap)を権力によって埋められると思っている、あるいは埋めたふりをしようとしてしきれない分を組織テロの横暴に代替させようとする(あるいは、まさにしている)者達である。彼らは自由の敵である。ホメオパシーなどの代替医療のあり方に問題がないとは言わない。だがそんな些細な問題はナチスを容認する理由にはならないとわたしは思っている。

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ストローソン他・門脇+野矢編「自由と行為の哲学」(春秋社)

2010年08月24日 | 読書メモ
「自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)」
原著者:P.F. ストローソン, ピーター・ヴァン インワーゲン, ドナルド デイヴィドソン, マイケル ブラットマン , G.E.M. アンスコム, ハリー・G. フランクファート,
編者:門脇 俊介, 野矢 茂樹
訳者:法野谷 俊哉, 三ツ野 陽介, 近藤 智彦, 小池 翔一, 河島 一郎, 早川 正祐, 星川 道人, 竹内 聖一
春秋社刊

7net
/ Amazon

さっき注文してきた。ひと通り読んだら(いつのことかは判らないが・・・)感想を書こう。

今年の夏休みはまるまる一週間、実家の居間で高校野球を見ながら(!)ずっと「制度論の構図」を読んで過ごしていた。読むほどに、制度論や権力論を含む社会的存在論をこの本の先へ進めるには(あるいはこの本が、ひょっとすると不必要に難しく受け止められてしまっている、その場所から解き放つには)、まさに「自由と行為の哲学」が重要だということを改めて感じた。

(Aug.24,2010付記)
この本の目次が知りたい人が結構いるらしい。そういう検索語でググってこのblogに来る人がちらほらいるので、調べたら版元のサイトにも目次が掲載されていない。困った本屋だ。わたしは著者と訳者の名前のリストを見ただけで「これは買い」だと判断したわけだが、そういう人ばかりではないのである。

本は今日届くので、読む前に目次を書き写すことにしよう。この本自体がどうであれ、「自由と行為の哲学」への関心が高まることは、ほとんどあらゆる意味で望ましいことだとわたしは思っている。

●「自由と行為の哲学」目次と各論文の初出

序論 野矢茂樹

第I部 自由
第1論文 自由と怒り P・F・ストローソン (法野谷 俊哉訳)
P.F. Strawson, "Freedom and Resentment", Proceedings of the British Academy, 48, 1962.
第2論文 選択可能性と道徳的責任 ハリー・G・フランクファート (三ツ野 陽介訳)
Harry G. Frankfurt, "Alternate Possibilities and Moral Responsibility", The Journal of Philosophy, 66, 1969.
第3論文 意志の自由と人格という概念 ハリー・G・フランクファート (近藤 智彦訳)
Harry G. Frankfurt, "Freedom of the Will and the Concept of a Person", The Journal of Philosophy, 68, 1971.
第4論文 自由意志と決定論の両立不可能性 ピーター・ヴァン・インワーゲン (小池 翔一訳)
Peter van Inwagen, "The Incompatibility of Free Will and Determinism", Philosophical Studies, 27, 1975.

第II部 行為
第5論文 行為・理由・原因 ドナルド・デイヴィドソン (河島 一郎訳)
Donald Davidson, "Actions, Reasons, and Causes", The Journal of Philosophy, 60, 1963
第6論文 実践的推論 G・E・M・アンスコム (早川 正祐訳)
G.E.M. Anscombe, "Von Wright on Practical Inference", P.A. Schilpp and L.E. Hahn (eds.), The Philosophy of Georg Henrik von Wright, Living Philosophers Series Volume XIX, La Salle III: Open Court, 1980.
第7論文 計画を重要視する マイケル・ブラットマン (星川 道人訳)
Michael E. Bratman, "Taking Plans Seriously", Social Theory and Practice, 9, 1983.
第8論文 反省・計画・時間的幅をもった行為者性 マイケル・ブラットマン (竹内 聖一訳)
Michael E. Bratman, "Reflection, Planning and Temporally Extended Agency", The Philosophical Review, 109, 2000.

読書案内
後記
収録論文のデータ
索引

(Aug.28,2010)
訳者名に漏れがあったのを修正し、各論文に訳者名を加えた。まだちょっとずつしか読んでいないので感想を書くなどというわけにはいかないが、とりあえず、この本は「読書案内」も大変充実している、ということを追記しておこう。

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「我が死を十年隠せ」

2010年08月21日 | 報道から
東京・大田区で、104歳で所在不明とされていた女性とみられる白骨化した遺体が、長男のアパートから見つかった事件で、女性が亡くなったとされる時期以降も大田区などから長寿の祝い金が贈られていたことがわかり、大田区などは不正な受給と確認できれば返還を求めることにしています。
(NHKニュース・抜粋)

「さすがは明治母、死してなお9年のあいだ、よくぞこの大田区役所をたばかった!」

・・・というような、クロサワ映画「影武者」のパロディネタを、昔、いしいひさいちのマンガで読んだことがある。 このニュースでわたしが真っ先に思い出したのはそれだった。

あくまで仮定の話だが、この母親が亡くなったとされる時期は中高年の自殺が相次いでいた頃で、長男もそのくらいの年齢の人である。貧苦を母親の年金その他でしのいで生き延びたのだとすれば、わたしはある種の「天晴れ」をこの手のニュースから感じる。「生存権」という言葉が「ひとりの人間は何をしても生き延びる権利がある(妨げられない)」という意味だとすれば、この長男は生存権を正当に行使したと言えないか。また母親の死が十年近くも知られないままであったということは、その時点でこの母子は十分世間から孤立し、以後も放置されてきたということにほかならない。放置してきた区役所がいまさら金を返せなどと言い出すのは、恥の上塗りではないのか。

言いたいのはこういうことだ。「職がない金がないというのは、自殺する理由として十分ではない。人間は、死んだ親の年金を役所から詐取してでもまだ生きることができる。諦めるな」

あるいは「これはひどい。だが、まだ希望はある」

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なんつーか、おい、生きてるだけでも大変だな

2010年08月03日 | 報道から
映画評論家の今野雄二が亡くなった。最期は自宅で首を吊って自殺、であったらしい。

追悼文を書くほどこの人の仕事を知らない、というか前に書いた通り、そもそもわたしは映画はスター・ウォーズしか観ないのだから仕方がない。ただこの人、盛期には音楽評論家もやっていて、洋楽LPのライナー・ノーツでも頻繁に名前を見かけたから、まったく知らない人というわけでもない。基本オサレ系の人で、ロキシー・ミュージックやトーキング・ヘッズを専らそういう文脈で持ち上げたりしていたら、そういうのの嫌いな渋谷陽一が自分の雑誌で批判キャンペーンをおっぱじめ、あっちこっちを巻き込んでかなり嫌な喧嘩になっていた。仲直りすることはあったのだろうか。

考えてみるとこの人なんかは典型的に、成長期の東京という水槽の中を泳ぎ回る魚のような人だったように思う。その東京はバブル崩壊で成長が止み、停滞したまますでに20年が経とうとしている。その上を飛ぶ鳥や、水槽の外でも生きて行ける両生類はともかく、魚は窒息せざるを得なかったのである。

そうするとこのわたしは何だということになるだろう。水槽の底のなんでもない石ころのひとつみたいなものだろうか。ただの石だから今や猛毒の汚水溜と化した東京でも死にはしない、だが石だって絶望することくらいはあるのである。

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