惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

8-6/7 (ver. 0.1)

2010年04月18日 | MSW私訳・Ⅲ
第8章 人権(human rights)

8-6 人間の権利と本性

先にわたしは消極的な普遍的人権の最小リストを与えるところから始めた。その一覧表は次のようなものであった。

・生きる権利(個人的な安全の権利を含む)
・私有財産(衣服とか)を所有する権利
・言論の自由についての権利
・他の人々と会合し、また誰と会合するかを選ぶ自由についての権利
・信じたいことを信じる権利(宗教的な信念と無神論を含む)
・移動(旅行)の権利
・私秘性(privacy)の権利

ほかにあるだろうか?上の一覧表を続けることはできると思う。たとえば、何かとうるさくなるばっかりの世の中であるし、静寂の権利というのもその強い候補のひとつに挙げられよう。

こういうところに限って言えば、サール先生もただの大学教師で、つまんねえ優等生だなと感じる。わたしなどは哲学的考察のBGMにフル・ヴォリュームでヘヴィ・メタルを流しつつ、ヘッドバンギングしながらものを考えることは、さすがに肉体的にできない年齢になってしまったことを、我ながら頻りに嘆いている最中である。さよう、わたしは、この世の中に対しては、もっともっと賑やかになってもらいたいと願っている。つまり、今や願う相手の方がその存在を喪失しつつあることを嘆いている。

いかなる人権の理論もそれに先立つ人間本性の理論に基づかなければならない。権利の存在は地位機能の授課の問題である。しかしこれらの場合において地位機能は他の制度──財産とかお金とか結婚とか、制度の目的が制度に内在する種類の権利を自動的に命じるといったもの──からは導出されない。ただ人間であるということによって存在に割り当てられる権利の正当化は、どんな権利であれ、人間とはいかなる存在なのかについての我々の概念に依存しなければならない。こんなわけでわたしは、すべての理性ある人物がそこへ帰着する人生の目標一覧の決定版などというものと同様に、すべての理性ある人物がそこへ帰着する人権一覧の決定版が存在するということを、疑わしいと思っている。

この数十年間、政治哲学や社会哲学の議論において「人間本性」に訴えることはダサイ(unfashionable)ことだとされてきた。わたしは、これは重大な誤りだと思う。この本の中で、それは我々が基本的な事実を受容することから生じる(stem from)要請であり、かつ実際それは我々の基本的要請の概念に沿ったものであるので、我々は我々が論じていることの生物学的な基礎を、あらゆる点で考えることを試みるべきなのである。わたしは、人間存在の生物学的特徴に、また、人間本性についてのある特定の概念と、人生において価値あることとは何かについての特定の概念の結合に基づいた上掲の一覧表をいささかも考慮することなしに、人権についての知的な議論を読者(you)がなしうるとは思わない。

構文の取り方を間違えているのかもしれないのだが、原文は上のように訳すことが可能であるとわたしには思える。そして、この読み方が正しければ、サールは上掲の「最小リスト」に並々ならぬ自信と思い入れを抱いていることになるし、現にそう言っていることになる。わたしはXBOX360を持っていないからそれを売り払うこともできないのだが、マジだろうか。

わたしは、わたしはわたしの生物学的な人間本性の概念を正当化できるし、少なくともわたしが人生において価値あることだと思っていることについて主張することができる、と思っている。これらの主張は倫理学に典型的なものであるが、合理的ないかなる人物も非合理性の痛みを受け入れることに束縛されているという意味で論証的(demonstrative)なものではない。しかしそれらが認識論的な主題の要素をもつという事実から、任意の、あるいは主張の範囲を超えたものではない。

それで、我々はベンサムの主張、いかなる純粋な権利も法的な裏付けを持たなければならないという主張にどう答えることになるのだろうか。わたしはベンサムの主張は人権についてのあらゆる議論とは無関係に反駁できると思う。法はそれ自体地位機能の体系であり、しばしば他の地位機能に対して認可(sanction)を与えるものである。しかし地位機能の正当性は合法的な認可ということに遍く依存するというものではない。人が合法的に認可されずに持つような非公式の権利がたくさん存在する。たとえば結婚の概念について言えば、わたしも他の多くの人々も、結婚したものどうしは互いに他方の配偶者の側の人生を変えるいかなる決定についても前もって相談を受ける権利がある、ということを受け入れている。たとえばもし、わたしが職業や生き方(way of life)を変えようと考えるとしたら、わたしの配偶者はわたしがそれを決意し実際にそうする前にわたしから相談される権利を持っている。これは完全に正当な権利である。いかなる法もそれを保証してはいなくてもである。

サールはおそらく哲学史上に類例がないほどの愛妻家で有名だ(なにしろ著書のすべてにおいてその冒頭に「ダグマーに捧ぐ」の文字がある)が、こういう時は配偶者(spouse)と言って妻(wife)とは言わないのである。すべての著書の原稿は、入稿前に一度は奥さんに読んでもらっているというから、テレがあるのかもしれぬ。しかしこういう風にやられては墓の下のベンサムも「参った」と言わざるを得ないであろう。

8-7 積極的な権利は存在するのか

現在の論争において一般に受け入れられてはいない仮説の考察で本章の議論をしめくくることにしたい。その仮説とは、「積極的な普遍的人権というものは、あったとしてもほとんどない」というものである。生きる権利とか言論の自由の権利は絶対的に普遍的な人権であるというような形で存在する積極的な権利はほとんどない(very few)。その理由は、普遍的人権の存在は全人類に責務を課すものだからである。他の人々をある特定の行為について、たとえば言論の自由を行使することについてひとりにする(干渉しない)という責務を全人類に課すということと、たとえば、すべての人によい暮らし向きを提供するといったことで万人に責務を課すということはまったく別のことである。前述の通り、そうなることは望ましく結構なことには違いないが、普遍的人権の概念はある種の権利義務的な主張にかかわる。それは全人類の責務だということである。結局、絶対的な消極的な権利──言論の自由の権利、信仰の自由の権利、移動の自由の権利、生きる権利──の目録があるというように、安楽な暮らし向きを得る権利、高等教育を受ける権利、無料で医療を受ける権利といった積極的な権利の目録は存在しない。わたしはわたしの主張を絶対的に明確にしておきたい。カリフォルニア州や他の政治的実体がその市民全員に無料で医療を受ける権利やよい住居をもつ権利を保証しようとするのは、国家権力の正当な行使だとわたしには思われる。[そうした]権利と責務は法の問題になる。しかし我々が考えているのはそれとはちがう。全人類に責務を課する普遍的人権が存在し、そこではこれこれの積極的行為がなされなければならないということである。わたしが言っているのは、そのような積極的な権利はほとんどない、ということなのである。事実の問題として、富裕国は未発達国に対して膨大な援助を送っている。しかしそれらは人権にもとづく責務であるよりは贈り物である。

ただひとつ、絶対的で積極的な普遍的人権の例だとわたしが思うのは、自活することのできない、そのような状況に晒された人々の場合である。幼児や小さなコドモは保護され、食べ物や住居を与えられる権利を、またその他を持っている。同様に怪我、老齢、疾病その他の理由で自活できなくなった人々も保護される絶対的な権利を持つ。他の積極的な絶対権利と推定されるものと区別する原則は、これらの場合のそれぞれについて、問題の権利はあらゆる人間の生の形態を維持する上で必要であって、それは高等教育やきちんとした生活待遇に対する権利とはまったく異なるということである。ここでわたしが示唆していることは、まさに生存の危機にあり、自ら危機を脱する術を持たない人々を助けることの普遍的な責務が実際に存在するということである。こうした責務は特別な状況の特徴に相対的なものとしてしか存在しないとしてもである。だからたとえば、もし我が家の前でケガをしたコドモがいて、わたしが彼女(her)を助けなければ死んでしまうというとき、そのコドモは普遍的な権利を実際に持つのであるし、わたしは彼女を助ける責務を持つのである。しかしわたしがバークレイで仕事している間は、わたしは世界のどこでであれケガをしたコドモを助けるべき責務など持ってはいない。以上を絶対的普遍的人権として定式化すると次のようになろう。「絶望的な状況において自ら助けることができず、かつ他の人が助けられる状況にあるとき、他者から助けられることの普遍的人権が存在する」と。

わたしの説明に対するひとつの反論は以下のようなものである。「あなたは消極的と積極的の権利を明確に区別することができない。なぜなら消極的な権利を実施することはしばしば共同体の一部に対して膨大で経費のかかる積極的な努力を要求するからである。たとえば有名なイリノイ州のスコーキー事件で、ファシスト的な示威行動に対する言論の自由の権利の実施は、警察と州兵(National Guard)がデモ隊を守るためにイリノイ州は莫大な出費を強いられることになった。表現の自由を保証するために、かくも大規模に警察や州兵を動員することに対する世論の反発は非常に大きなものがあった」。わたし[サール]はこの反論に力があることを認める。しかし次のような再反論もあると思う。消極的な権利の行使が共同体にとって高いものにつく場合が実際に存在するであろうし、人は消極的な権利の実施を制限することになる種類の考えを決断(decide)しなければならないかもしれない。しかし、まさにその権利の内容それ自体において共同体の一部に対する積極的な努力を要求するものは何もない。権利の行使者は彼らの権利を行使することにおいて干渉されないことが求められているだけである。しかしながら、積極的な権利の場合において、それはその権利のまさに本質の一部であり、まさに権利の内容の一部である。それは全人類に経費のかかる努力を要求する。そこに大きな違いがあると思われる。

結論の前に、わたしはたくさんの重要な哲学的要点と明確化をなさなければならない。

訳文を丁寧に読めば読みとれるはずだが、丁寧に読まないと読みとり損うかもしれないことを、あくまでわたしの読解として書いてみると、つまり、サールはこのスコーキー事件の場合であれば、ファシスト団体(ネオナチ)の示威行動に対して「黙ってさせておく」という選択肢が、言論・表現の自由の実施として正当にありうると言っているわけである。警察や州兵が守らなければファシスト連中の示威行動は妨害されるかもしれない、というより確実に妨害されたことではあろうが、それを妨害してはならぬという責務は全人類の責務であって、イリノイ州の責務ではない、ということである。いいかえればイリノイ州が警察や州兵を動員してファシストの示威行為を守らなければならなかったのは、普遍的人権としての言論の自由の権利を実施することとは別の理由でありうるということである。スコーキー事件についてはhttp://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/3884/1/091007001.pdfでそのあらましを読むことができる。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Matsuiland! New York branch | TOP | くるくるぱぁティー »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | MSW私訳・Ⅲ