惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

8-8/9 (ver. 0.1)

2010年04月21日 | MSW私訳・Ⅲ
第8章 人権(human rights)

8-8 権利の定式化についての実用(主義)的な重要性(pragmatic considerations)

considerationsに「重要性」という意味があるのを、この箇所を訳していて初めて気づいた。ただし、辞書の上ではこの意味でのconsiderationは「uncountable」となっている。つまり複数形ではありえないはずである。しかし、他に適切な訳語が見当たらないので、とりあえずこれで通してみることにする。

わたしの説明において我々は、権利としての生のある特徴を詳記(specify)する傾向をもつことになるだろう。たとえそれらが、権利としてわざわざ詳記する価値があるとは思わないような他のものと比べてさえ、人生において中心的ではないとしてもである。それはたとえば、わたしがわたしの腕をわたしの好きなように動かす権利とか、わたしがわたしの体を好きな位置に動かす権利とか、深かろうと浅かろうと好きなように呼吸する権利とか、どこだろうと好きにほっつき歩く権利とか、そういったものは人生にとって基本的な権利だとわたしは思う。たぶんそれらは話すこと[の権利、つまり言論の自由の権利]ほど重要ではないが、とても重要であることに違いはない。そうすると、なぜ我々は身体動作やその向かう位置の自由といったものが、言論の自由の権利ほど人権一覧表に挙げようとはしないのだろうか。答えは、わたしの考えではわたしの身体の位置は他の人に影響しないし、潜在的にであれ言論の自由の行使ほど攻撃的ではない、したがって妨げられることも少なく、明示的な保護もそれほど必要ではないからである。

我々は国境を越えて旅行する自由、意見を表現する自由といった基本的人権を列挙する実務的ないし実用(主義)的な理由を持っている。なぜならそれらは保護する必要性の高いものだからである。食べたいものを食べる自由、欲する姿勢で座る自由、好きなように歩く自由といったものはわざわざ人権一覧表に載せる必要がない。それらが同じように基本的であってもである。何が言いたいかというと、人権一覧表は我々の実務的ないし実用(主義)的な重要性によって象られる傾向にあるものだということである。損われる恐れの大きい権利は、誰にも迷惑をかけなさそうなものに比べれば人権一覧表に出現する可能性が高いのである。言論の自由は確かに憲法に掲げられている。ほっつき歩く権利の方はまずそんな価値はなさそうである。*

* もちろん、そんなどうでもよさそうなことであっても、たとえば宗教的な命令がそれを制限するなら、人は安息日に旅行する権利とか、肉を食べる権利とか、ブルカを着用しない権利とか、お祈りしない権利とかを主張するかもしれない。

一般に騒がしい現代生活の所与に対して我々は静寂の普遍的権利を認めるかもしれないと先に示唆した。暗黙の認識においては、多くの都市はすでに夜の特定の時刻以降に騒音を出すことを禁じる法律を持っている。わたしはいいことだと思うが、ここでの議論において大事なのは、それが歴史的な偶発事を、つまり我々が何を基本的人権と見なすかの実用(主義)的な特徴を説明するということである。

8-9 権利に関してよくある5つの論理的誤り:
  絶対的な権利・条件つき権利・見かけ上の(prima facie)権利

人権の議論を汚染するたくさんの論理的・概念的混乱が存在する。哲学者達の間においても、また大多数の人々の間においてもである。典型的に、これらの混乱は単なる誤解から権利の競合(conflict)ということの論理的な本性まで、広い範囲に及んでいる。権利はその行使において典型的に他の人間的な価値の重要性(considerations)について可能な競合にかかわる。たとえばわたしは言論の自由の権利を持つが、よく知られているように、この権利は満員の劇場で「火事だ!」と叫ぶ権利を与えるものではない。この場合わたしの言論の自由の権利は他の権利、人々の安全についての権利と競合している。立法府、憲法学者、判事達は長い時間をかけて、どんな場合に個人の権利が他の重要性によって正当に無効化されることになるかを判断するための、いくつかの種類の実務的な基礎を作り上げてきた。あらゆる価値の集合、特に道徳的な価値の集合が競合の可能性によって固有に制約されるのは自然な特徴である。またその結果としてあらゆる価値の理論は競合の可能性を許すものでなければならない。哲学においては、人々がこれらの競合についてしでかしがちな、いくつかの種類の有名な誤りが存在する。

(1) ある種の人々は、問題の権利が功利主義的重要性によって無効化されるとしたら、その権利の基礎はそもそも功利主義的なものだと考えている。これは間違いである。そうした権利は功利主義的な権利では決してない、というのも、単純にそれは功利主義的な重要性によって無効化されるというだけだからである。権利の権利義務論は非権利義務的な価値と競合するかもしれないが、そのことはその権利義務論がそれ自体非権利義務的であることを示すわけではない。言論の自由の権利は、もしそれが何か目の前の明らかな危険を表すものである場合は制限されるかもしれないし、こうした重要性は完全に功利主義的なものであるかもしれない。しかしこうした制限の可能性は、言論の自由の権利が功利主義的なものだとか権利義務的な権利ではないということを示すものではない。
(2) より深い、しかし同様にありふれた間違いは権利が他の重要性によって無効化される場合、このことはなにがしか問題の権利が絶対的なものではなく、見かけ上の(prima facie)ものにすぎないことを示すものだと考えることである。その結論は正しくない。ふたつの絶対的な権利は互いに容易に競合する。わたしの言論の自由の権利とあなたの私秘性の権利が競合するかもしれない。しかし、我々が裁定を仰がなければならないという事実はこれらの権利が絶対的なものではなく見かけ上のものにすぎないということを示すものではない。哲学において最も混乱した概念のひとつはこの「見かけ上の」権利ないし義務やその他の概念である。*

* この点についてのさらなる議論はSearle, John R., "Prima Facie Obligations," in Joseph Raz (ed.), Practical Reasoning, Oxford: Oxford University Press, 1978, 81-90.を参照。

「見かけ上の(一見したところの)」とは法律で用いられる認識論的な文の修飾句である。それは「一見したところでは(on the face of it)・・・を示唆する証拠が存在する」という意味である。だからあなたが見かけ上の場合[権利?]を持つというのは、一見したところでは、証拠はあなたが正当な場合を持つことを示唆するという意味になる。しかし「見かけ上の」とは権利や義務やその他のタイプにつけられた名前ではない。

絶対的な権利と見かけ上の権利を対比させてみることには何の意味もない。ただし絶対的な権利と条件つきの権利を対比させてみることには意味がある。そしてそれらの間にある混乱が、権利の議論における次の種類のありふれた誤りである。
(3) たとえば、言論の自由の権利は絶対的であるが、証人を審問する権利は条件つきのものである。わたしはわたしに対立する証人を審問する(cross-examine witness)権利を持つが、それは民事なり刑事なりの法廷で、わたしが被告である場合だけである。

cross-examine witnessというのは法律上の言い回しだが、調べていたら実はこんなところでも使われているのを知った。

「He shall be permitted full opportunity to cross-examine all witnesses, and he shall have the right of compulsory process for obtaining witnesses on his behalf at public expense.(刑事被告人ハ一切ノ証人ヲ反対訊問スル有ラユル機会ヲ与ヘラルヘク又自己ノ為ノ証人ヲ公費ヲ以テ獲得スル強制的手続ニ対スル権利ヲ有スヘシ)」これは何かというと、日本国憲法第37条2項「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」のGHQ草案である。この草案がおおよそそのまま現憲法に採用されたことがわかる。
以上、出典はWikipedia「日本国憲法第37条」

で、まあ、せっかくだから上の訳もわが憲法の条文に倣って「証人を審問する」とした。

わたしはわたしについて陰口を叩くなどしてよからぬことを言った人を審問する権利を持っていない。証人に対するわたしの審問する権利は文字通り条件つきの権利である。その条件とは、ある種の制度的構造におけるわたしの存在についての条件である。しかしわたしの言論の自由の権利や生きる権利はそうした意味で条件つきのものではない。それらは絶対的な権利である。たとえそれが場合によって、条件つきか無条件かはともかく他の権利や他の価値と競合することがありうるにせよ、である。

この点を強調しておくことは非常に重要である。1960年代に言論の自由についての大論争があったとき、権威はしばしば不安がって、言論の自由の権利は「絶対的ではない」などと主張した。彼らが言わんとしたのは、あなたは言論の自由の権利を功利主義的な背景のもとで無効化することができるということだった。だが言論の自由は実際に絶対的なものである。言論の自由と生きる権利、これら以上に絶対的な権利はない。しかしながら肝心なことは、それらの権利が他の権利の存在を含めて他の重要性と競合することはありうるということである。このことはしかし、それらの権利が絶対的であるという絶対性を少しも損うものではないし、ましてやそれらを条件つきにするものではない。
(4) 権利についての4番目のよくある間違いは、あなたがあることをする権利をもつならば、それはそれを正しく行うものでなければならない、つまり権利の存在は、その権利のもとで行われる行為が正当であることを意味するのでなければならないというものである。これは大きな間違いである。実際的な人間社会の組織の理性にとって、それらが実際に行使されることを受け入れるよりもより広い範囲の権利を人々に授けることが必要である。この誤りのよくある形は米国における大学紛争の時代に見られた。教授たちはしばしば彼らの教室を政治的オルグの集会として使用することは一向に構わないと言ったものである。なぜなら学問の自由は彼らにその権利を与えているからである。学問の自由は彼らに教室の中で起きていることについて途方もない自主性の権利を与えた。しかし彼らが自主性を持つという事実は彼らがすることは何でも認められるということを意味してはいなかったのである。権利のもとで何かを行うということは必ずしもそれを行うことが正しいということを意味するわけではない。
(5) もうひとつ、これも言っておく価値がある。ある種の人々は何らかの権利なり義務なりが他の価値と競合し、後者によって無効化されるという場合、無効化の認識はなにがしかもとの権利や義務の概念を変化させてしまうものだと考えている。ロールズのような優れた哲学者でさえこの過ちを犯している。「約束を守ることの責務が無効化されうることを我々が認識するという事実は、我々がそうした認識をなすときに我々が約束することの規則を変化させていることを示している」と。*

* Rawls, John, "Two Concepts of Rules," Philosophical Review 64 (1955): 3-32.(深田三徳訳「二つのルール概念」、J・ロールズ著・田中成明編訳「公正としての正義」(木鐸社, 1979)所収)(Amazon/7net)

我々はそうではない[そんなことはしていない?]。これらの権利義務力すべての適用において「他の事情が同じならば(ceteris paribus)」の条件が存在するという事実は、我々が他ノコトハ一緒デアル(other-things-being-equal)の重要性を明らかにする際に我々が最初に権利義務力を生じさせた構成的規則を変化させているということを示すものではない。

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