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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

模倣と同期についてのメモ

2011年12月21日 | 複雑性と人工生命
生まれて何十時間くらいしか経っていない赤ん坊でさえ、目の前の人間の振る舞いを「模倣」はするそうである。

外側から見て否定できないはっきりした形で観察されていることは確かである。ものの本によれば同じようなことは世界中で報告されているので、文化によらない、人間の生得的な能力と言ってよい何かだというのは確かなことであるらしい。

わたしは、そういうようなことをそういう風に習ったことがあるからだろうが、そういう現象の報告を聞くと「同期だろうな」と、まずは思うことになっている。

この場合の同期というのはもちろん自己組織化や生物種の自然選択と同様の「(非線形)フィルタリング」の結果として生じる秩序化現象のひとつである。ランダムに見える初期状態から秩序が自生(emerge)してくるのは、文字通り自生してくるわけでも何でもなくて、ランダムな初期状態というのはもともとありとあらゆる秩序パタンが混ざりあった「灰色」の状態なのである。そこからフィルタリングによって特定の秩序パタンが次第に強調され、そうでないものが抑圧されることで、あたかも無から有が生じたように見えるのである。

笛を吹くと特定の音階で鳴るのは典型的である。吹き込んだ空気の流れはそれだけを取り出してみれば実は「シューッ」という雑音にすぎない。空気を勢いよく吹き込むと乱流が生じ、その乱流は気圧の粗密すなわち音としてみれば雑音になるわけである。けれども雑音というのはありとあらゆる周波数成分を含んでいる。一方、笛の構造は特定の周波数に共鳴する、つまりある周波数成分だけを強調して他は抑圧するようにできている。だから雑音をそこに通せば特定の音程だけが強調されて「鳴る」というわけである。

普通、フィルタというのは(もともと「ふるい」のことである)成分を削り取るだけなのだが、非線形系ではある周波数成分が他の成分のエネルギーを奪うということが起こりうる。だから笛を軽く吹いただけでも結構な大きな音が鳴るのである。吹き込んだ雑音のエネルギーの多くが「周波数成分の自然選択(!)」によって特定の音程の成分に集中するからである。この共鳴効果は吹き込んだ雑音の強さや成分特性にも依存することがある。つまり吹き方に依存することがありうる。気鳴楽器の中でも難しいとされるものは、ちゃんと音を出すまでがひと苦労であったりする所以である。

複雑性の「科学」が対象とするような現象はたいていこうした「非線形フィルタリング」のかかわる現象である。

それの何が新しいのか。共鳴とか同期とか呼ばれるような現象は昔からさんざん研究されてきたし、科学的な研究対象になる以前から楽器(音程を出すたいていの楽器は大なり小なり共鳴を利用している)は存在したわけである。自然選択が帰結する生態系のありよう、特にその動態というのは、いわば生態系の奏でる笛の音なのだ、というのは比喩としては楽しいかもしれないが、それがどうしたと言ってしまえば、まあ、それだけのことだと言えなくはないことである。

何が肝心なのかと言えば、こうした現象は「志向性」ということが考えられない状況でも生じるということである。たとえば自然選択というのは何か志向的な主体が存在して、その主体が個々の種を志向的に(意識して)摘み取ったり拾い上げたりしているのではない。生態系それ自体は「種」も「個体」も何も知らないし、自分自身の境界がどこらへんにあるのかということでさえ、自身では知らないし決めてもいないし、決めようとさえしていない。それが肝心なのである。



乳児の模倣の場合、本当に何もないところからそれが生じているということはありえないだろう。それは実際、ガン・カモ類に見られる「刷り込みと追尾行動」と本質的には同じ、生得的な、つまり大枠が遺伝的に組み込まれた行動パタンであるはずである。けれども、そもそもそうした「遺伝情報の手抜き(生物学的コストの削減)」が可能であるのは、大枠さえ決めておけば細部の仕上げは後天的に、個体が個体として振る舞う中で生じる非線形フィルタリングが自然的に達成してくれるからである。



初期の発達は、というよりも人間の全生涯にわたる発達過程のすべてはこの、最も早い時期に成立する非コンパクトな模倣系(と仮に名づける)の働きを主体と志向的な意識の系として再構築するような形で進行するのかもしれない。

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セル・オートマトン再訪(5)

2011年10月03日 | 複雑性と人工生命
結局このタイプのCAというのは何なのかといって、一種の非線形フィルタと見なすこともできるわけである。線形フィルタというのは出力が入力(近傍セル・ベクトル)の線形和(たたみ込み)であるようなもののことを言うわけである。CAの場合は(1)の遷移規則をそう眺めればわかる通り一般に線形和とはならない、とはいえ複数入力から単一の出力を得るという点では非線形なたたみ込みと見ることもできる。実際、このCAが空間フィルタとしての効果を持つことは、ごく簡単な実験で示される。


グラフ上の青いのが初期状態、つまりランダムなビット列のパワー・スペクトルである。ランダムノイズのパワースペクトルは全帯域にわたって一様なパワー配分を持つわけである。赤いのが10万世代後のパタンについてパワー・スペクトルを取ったもので、高域成分が削られた格好になっていることがわかる。実際、だいたいこんな風になるであろうことは(2)の図からも予測がつくことである。フラクタルっぽいパタンというのはパワースペクトルを取るとだいたいこうなるのである。

非線形系の自己組織化というけれど、最もミもフタもない見方をすれば、要はただそれだけのことなのである。ちなみに言えば、わたしが時々「自然選択=自己組織化」と言ったりするのも、この意味においてである。自己複製的な個体からなる(生態)系における自然選択の作用というのは、可能な表現型の個体数分布を刈り込んだり引っ張り上げたりする非線形フィルタの作用だと思えば、まさしくその通りのものにすぎないのである。生態系が何か神秘的な作用を持っているわけでもなければ、無から有が生じるわけでもないのである。ただし「非線形」フィルタだから、支配的な種が突然絶滅してしまったり、形態的にも生息域でも近接していない種の間に自明でない個体数の相関や逆相関が生じたりするような、線形フィルタでは起こらない(見かけ上)不可思議な現象はたくさん起こるのである。

ちなみに、上のグラフの赤い方のパワー・スペクトルを、縦軸を対数でなくリニアで表示すると下のようになる。



(このシリーズはひとまず終了)

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セル・オートマトン再訪(4)

2011年10月02日 | 複雑性と人工生命
前回のグラフは10万世代までと100世代までのふたつを示したが、他のスケールのも示しておく。まず1万世代まで。


前回のグラフを見てもらうと判る通り、この例では最初の4万世代くらいまでは周期的に、あるいは突発的に状態「1」セルのバースト的な増大と減少が起きている。その頻度や規模の見え方は時間スケールによってかなり変わる。バーストの形は概ね漸増→急減というノコギリ波的な形になる。最初の1000世代までのスケールで眺めるとその形がよくわかる。



環状CAのサイズを小さくすると初期状態の取り方によって完全に周期的な振る舞いを示す場合もあるが、サイズが大きくなるにしたがってそのようなことは起きなくなる。視覚化していないので図で示せないのだが、バーストが生じなくなった後の特定セルの時間発展はかなり優れた乱数系列になる。この場合の「優れている」というのは白色性ということである。

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セル・オートマトン再訪(3)

2011年09月28日 | 複雑性と人工生命
さて、(1)の遷移規則を適用することを繰り返したとして、個々のセルの状態が「1」になる確率はどのくらいだと思うだろうか。というか計算で求まるだろうか。詳しいことは省くが、各々のセルの状態が独立だと仮定して遷移規則を繰り返し適用するとその値は(sqrt(5)-1)/2=約0.618034といった値に収束する。で、実際やってみるとどうなるかというと、実はそうならない。以下は長さ500セルの環状CAを10万世代実行した場合の状態「1」セルの個数の時間発展である。


グラフでは正確に読み取れないが確率0.5を中心として不規則に変動し続けるのである。サイズが非常に小さい場合は別として、ある程度以上大きくなれば確率0.5+ノイズになることは変わらない。

上の計算が間違っていないことは、ごく初期の状況を見るとわかる。下図は最初の100世代の推移である。


初期状態は確率0.5の乱数で与えているので、最初の数世代は上記の計算通り約0.6くらいの値になっている。その後低下して0.5近辺に落ち着くのである。どうしてこうなるのかといって、確率論的には、要は隣接しあうセルの状態は互いに独立ではないわけなのである。それは(2)で示した絵を見ればだいたい察しがつくわけだが、これを言いかえれば、初期状態はまったく独立に与えたセル状態が、世代を経るにしたがって独立でなくなる、つまり全体として秩序を獲得した、つまり組織化したことになるわけである。与えた遷移規則からこのような組織化が生じることを導くことは、不可能ではないとしても非常に困難であることが多い。

この例はまだ単純な方だが、もっと複雑な規則を与えた場合の集合的な振る舞いを遷移規則から解析的に求めることは困難だったり、不可能だったりするのである。複雑性の世界でときどき言われる「創発(emergence)」とはこの種の組織化を指して言っていることが(よく)ある。最初にそう説明されると何かスゲー神秘的なことのようにも思われる現象である。

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セル・オートマトン再訪(2)

2011年09月26日 | 複雑性と人工生命
前回示した規則から生成するパタンの例を示しておく。横方向はセルの並びで、縦方向は上から下に世代の経過を示している。


説明するまでもないことだが、こういうのをどうやって作るのかというと、上の図の場合はプログラムでCSVファイルを吐かせておいてExcelに読み込ませ、列幅と行高を適当に調整して表示させているわけである。そのCSVファイルを吐くプログラムも示そうかと思ったが面倒くせえ(笑)からやめた。わざわざプログラムを作ったのは大規模な実験もできるようにするためで、上の図のようなものを描かせるだけだったらExcelだけで作ることもできる。

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セル・オートマトン再訪(1)

2011年09月24日 | 複雑性と人工生命
ニュートリノと衛星落下のニュースのせいで、この週末はすっかり調子が狂ってしまっているわけだが、そうならなければ考えてみようと思っていたことのひとつはセル・オートマトン(CA)である。CAは複雑性の研究をやっていたころわたしがよくいじっていたものである。ついでに書くと、わたしの修士論文というのは言ってみればCAの状態更新規則を有限な表ではなく組み合わせ論理(combinatory logic)に置き換えてみる、という、ある意味ではわけのわからない研究であった(笑)。

そっちの方をいま蒸し返そうという気はない。考えてみたいのはごく単純な事実の含意で、必ずしも科学ではないようなことである。次のような更新規則をもつ一次元環状二値CAを考える。

s[i-1]s[i]s[i+1]new s[i]
0000
0011
0100
0111
1001
1011
1101
1110

よく知られた規則で、これを実行するとフラクタルな時間発展が観察されるというものである。

・・・上の状態遷移表を作るだけでえらい手間がかかったのでいったんこれをうpする。

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演算子論

2010年09月25日 | 複雑性と人工生命
演算子は英語のoperatorに対応する訳語である。分野によっては作用素とも訳す。たとえば行列の概念を無限次元を含めて一般化したものを線形作用素(linear operator)という。このように数学、特に解析学では後者がよく用いられるが、同じ解析学でも物理数学の文脈では専ら演算子と訳される。ま、英語ではどっちもoperatorだから、どっちだっていいのである。

ただここでは演算子と呼ぶ。解析学のそれであるよりは計算の理論におけるそれであるものを考えているからだ。計算機はまさしく演算する機械であって、実際、形式的にはすべてが演算子として記述される。

計算機は0と1(ビット)の集まりじゃないのか、と言われるかもしれない。確かにそうなのだが、計算機を記述するには、それだけでは十分ではない。0と1があるというだけでは計算が始まらない、つまり意味を記述していることにならないのである。

数学では演算子を作用素とも呼ぶ、と言ったが、計算の理論における演算子の別名は「関数」である。プログラミング言語の中には、このことを積極的に押し出してすべてを関数の形で記述するものがある。いわゆる関数型プログラミング言語がそれである。計算機の歴史は動作を関数として書くよりは手続きの文として書く形で始まったし、実際その方が見た目にはわかりやすいので、純然たる関数型言語は職業的なソフトウェア開発ではあまり用いられない、けれどもたとえばjavaとかC#といった最近の言語は、外面こそ手続き型言語のように見えるけれど内部の造作はほぼ関数型言語のそれである。

・・・こんなことを書いていると延々と計算機屋の蘊蓄を垂れるばかりのことになってしまいそうだから、話を強制的に哲学にする。わたしの考えでは、哲学とは「自己」演算子Sについての探求であって、かつ、それだけである。このSはself(自己)のSであると思ってもいいし、subject(主体)のSであると考えても、どっちでもいいことにする。いま形式的に全体Xを考えたとき、哲学的な意味での世界Wは W = {Sx | ∀x ∈ X} とかくことができる。つまりXの任意の要素xに演算子Sを適用したもののすべてからなるものが世界である。

ちなみに「形式的にXを」というのは、我々が経験するのはどんな場合でもWの要素であって、Xの要素xそれ自体ではないから、実際にはXを定義することはできないということである。ここでは自己Sと世界Wの関係を簡潔に示すための便宜として形式的にXを置いてみたのである。もっとも自然科学とはこのXに同型な記述体系であることを主張するものである。科学者のはしくれとしてのわたしはそれを是認するが、哲学の領域で議論する限りそのことの当否は決定不可能である。

ひどい機能主義的な世界観ではないか、と思うかもしれない。何よりもまず、世界がそんな簡単な数式(論理式)であってたまるものか、と思う人が多いに違いない。でも心配はいらない。Sは計算の理論における演算子なのであって、この計算の理論における演算子というのは実は「底が抜けている」のである。

計算の理論ではすべてを演算子(関数)として記述するために、まず自然数から関数で記述してしまう。やることは単純で、単位元の演算子0と加算演算子+1を天下り式に導入する。自然数nは0に+1をn回適用したものとして記述される。もっと違う定義の仕方もあるが、まずそんな調子のことだと思っていい。上手にやれば最初にたったふたつの演算子を導入するだけで、万能チューリング機械が構成できるということが証明されている。その通りに実装されたプログラミング言語も──実用性は皆無だが──ある。

「底が抜けている」というのは、実のところそうやって定義された自然数Nであれ何であれ、それ自体が演算子(関数)であって、実はこの演算子の定義域はすべての演算子にわたっているのである。だから算術演算のつもりで定義した演算子に、算術に属しない演算子を作用させることもできれば、その逆も自由にできてしまうのである。いまリンゴAに自然数Nを適用したNA(※前置記法による)は「N個のリンゴ」を意味するとして、逆に自然数NにリンゴAを適用したものとは何だろう?尋常な言語ではとうてい書くことのできそうにない何かである──でも、計算の理論では実際にそれがどんな形の式(記号列)になるのかまでは記述できる。ANである。これが愉快だ。

計算機屋の世界でも普通に関数というのは「型つき」であって、定義域と値域は強い限定を受けている。論理値を返すべき関数が論理値を返さない、それどころか何やらわけのわからないものを返してくるかもしれないというのでは、大規模なソフトウェア開発プロジェクトは初日で破綻してしまうだろう。けれども計算の理論においては、本来計算とはそうしたものなのである。

普通の数学ではそうした演算は「不定」だと言ったり、演算の集合そのものから予め省いて「存在しない」と言ったりするわけだが、計算の理論ではそんなことはしない。数学が「0除算は存在しない」といくら言っても、計算機の世界では間抜けなプログラマがいつでもどこでも0除算を実行させてしまうのである。そしてすべてのプログラマは任意の瞬間に間抜けでありうる。計算の理論がその可能性を顧慮しなかったら、それは役に立たないではないか。

計算機はときどき故障する。故障した計算機の動作を指して「暴走」とか「発狂」ということがある。最近のパソコンでは幾重にも回復機能が組み込まれていて、全体がどうしようもなく狂ってしまう前にそれを止めてしまうようになっているから、その黎明期にはしょっちゅう見かけたようなすごい発狂には、めったにお目にかかれないが、たまには起きる。いくら回復機能を組み込んでもハードウェアが壊れたり、操作している人間がシステム設計者の熟慮を超えたすごい狂人だったりすると──しかしその「すごい狂人」とは、えてして普通のエンドユーザである──お手上げだったりするからである。

何にせよ、それを実際に目の当たりにすると本当に計算機が発狂したかのように感じられる。計算機の内側はもともとそのくらい自由にできているということである。それを操作する人間もまた、あらゆる機械的予防措置を超えてその自由を「解放」してしまうことができる程度には、間違いなく自由な存在である。おそらくは誰でも、いつでもどこでも。

以上はかつて学生だったころ、わたしの考えの中心を占めていたことの一端である。実際に大真面目にこの考えを発展させて人工生命の理論を作ろうとしていた。具体的に言えば演算子(関数)の適用ということを化学反応や触媒の作用に準えることで、原始地球の「ルール無用」なランダムな化学反応の世界から、今日あるような秩序が自己組織してくるであろうことの必然性を見出そうとしていた。

けれどもこの極大化された機能主義的図式においてさえ、最初から最後まで登場しない、登場することのできないものがある。それが(自由)意志である。ランダムな化学反応だけを考えていても生命の発生くらいは示すことが、ひょっとするとできるかもしれない。成功した人はいないが、将来現れてもおかしくないとわたしは今でも思っている。けれども意志はそうではない。最初に天下り式に導入されるふたつの演算子を別にして、他のすべては他の演算子どうしの適用と還元操作から因果的に生じなければならない。自由意志は定義上この因果律を破ってしまう純粋な出現(相空間上の特異点)であって、この図式の中には原理的に登場しえないことは、我々が自由意志を持つことと同じくらい、はっきりしている。わたしはここで立ち止まらなくてはならなかった。

突破口の存在は「自己」演算子Sの「底が抜けている」というその事実によって示唆されている。機能主義的な思考が自分で自分の底を食い破ってしまったものが計算の理論であり、それを数学的に証明したものがゲーデルの不完全性定理だったり、チューリング機械の停止判定不能定理だったりするわけである。(未完)

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そもそも、その時計はどうして出来上がったのか?

2010年03月17日 | 複雑性と人工生命
自分が何をどう考えたいのか、ということを、こう説明するとわかりやすくなるだろうか、という思いつきを書きとめておく。

19世紀の哲学者ウィリアム・ペイリーはその著書「自然神学」の中で、時計の形態や機能の複雑さは、それを説明するために設計者の存在を必要とする(ように思われる)ように、生物の組織、わけても人間の眼球は時計にまさるとも劣らない複雑な形態と機能を持っている(したがってその形態や機能を説明するためには、その設計者たる創造主の存在を必要とするように思われる)、という意味のことを書いた。

ペイリーのこの「時計職人」の比喩は長らく、いや地域によっては今なお生物進化のデザイン説の根拠として持ち出されてくるものだ。一方、現代の進化生物学者R・ドーキンスは、このペイリー説を念頭に置いて、これを退ける意味で「ブラインド・ウォッチメイカー」と題した本を書いている。ペイリーの比喩をかりるなら生物進化における自然選択のメカニズムは盲目の時計職人と呼ぶべきものである。その盲目の時計職人がいかにして人間の眼球のように複雑な形態と機能をもつ器官を、あらかじめ引かれた設計図も何もないところから作り上げて行くのか、ドーキンスはごく簡単な計算機シミュレーションを利用しつつ見事に説明してみせた。わたしに言わせればドーキンスの啓蒙的な著作の中で最も優れたもののひとつである。実際、わたしが人工生命の研究を志すことになった、その最初のきっかけになった本である。
盲目の時計職人
日高 敏隆
早川書房
Amazon/7net

(題名を日本語に直した新版を、いま初めて見たわけだが・・・なんじゃこのダサい表1は・・・)さすがにこの一冊(日本では当初、上下二巻で発売された)だけでその時やっていた仕事を放擲してまで学生に戻ろうと決意したわけではなかったのだが、その本を端緒として数理生物学や非線形ダイナミクスの本を、さらには複雑性科学の専門書(洋書だよ!英語は今よりもっと苦手だったのに!)まで読み進むことになって行ったのは事実である。

それほど印象的で、強烈という形容が相応しい説得力をわたしが感じたのは、ドーキンスが説明上手だからということもあろうが、わたし自身が計算機屋で、そのプログラム・リストが書かれていなくても、上掲書の計算機シミュレーション「バイオモルフ」のプログラム・リストがだいたいどんなものであるか、アタマの中で思い描くことができたからでもある(そういう意味では、上掲書の説得力は必ずしも万人向けではなかったのかもしれない)。実際にコードを書かなくてもアタマの中だけで思い描ける、それほど簡単なプログラムなのだ。シミュレーション結果をグラフィック表示するためには、そこそこたくさんのコードが必要だが、その機能的に本質的な部分は、C言語のようなポピュラーなプログラミング言語を使ったと仮定して、たぶん、ほんの数行から十数行もあれば書けるほどのものなのである。計算機プログラミングの経験がなければ、いくらドーキンスが「これは簡単なプログラムで」と説明しても、納得しない人は納得しないだろう。しかしわたしは納得しないわけにはいかなかった。

さて、しかし、長々と書いてしまったが、ここまでは話のマクラだ。なるほど生物の形態や機能の進化は、現代の進化生物学の知識を用いて非常によく説明することができる。けれども、当たり前の話だが、進化論は「自然選択」もしくは(それとは別物と考えられているが実は等価な)「自己組織化」の過程が存在するという前提で初めて機能する理論でもある。生物の進化は明らかにそれが存在する過程だが、そうでないものが存在しないわけではない。

たとえば、今では日本のあちらこちらに建っている高層ビルである。もっと巨大なもの、エジプトのピラミッドや中国大陸の万里の長城のようなものを挙げてもいい。そのくらい巨大になると地球の外からでもその姿が識別可能であるらしい。そこで、我々人類の存在を知らない(あるいは人類が滅亡した後に)宇宙人が地球を外から眺めて、それらの巨大建造物の姿を目にしたとき「はて?こんな物体がいったいどんな自然の過程から出来上がるのだろうか」と首を傾げたところを想像してみてもらいたい。彼らの知性が現在の人類と大差ないものとすれば、彼らにとって既知のどんな物理学も、また自己組織化の理論と等価な生物進化の自然選択のメカニズムも、こうした物体が自然に出来上がることの説明をつけることはできないはずである(遠くから地球を眺めるほどの観測技術を持った宇宙人なら、人類と同じような巨大建築物を持っているはずだ、というツッコミは、この際はなしだ)。

そういうことだ。巨大建造物の例は宇宙人のために持ち出したので、実際はもっと小さなものでも同じように謎なのである。それこそわたしや閲覧者の目の前にあるパソコンの中の半導体チップである。こんな精巧なものを作り上げる自然過程とはいったいどんな風に記述されるものなのか。それを大雑把にでも記述する物理学も生物学も、現在のところはまだないのである。我々は少なくともドーキンスが「ブラインド・ウォッチメイカー」で生物の形態や機能の進化について説明しおおせたのと同じ程度には、今ここにある半導体製品が、灰皿が、ライターが、ラッキー・ストライクの、ハイネケンやヱビスの空き缶の1本1本が、いな、そもそもペイリーの持ち出した「時計」が、そのように存在することをよく説明することができる理論的な枠組みを持ちたいのである。我々科学者にとって「盲目の時計職人」は、もはや謎ではない。それはすでに進化生物学の具体的な専門研究のプログラムであると言ってよい。それよりも、今こそ真に謎であるのは、本当の時計職人の存在論の方なのである。

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創発主義についてのメモ

2010年02月01日 | 複雑性と人工生命
日本語版Wikipediaの「人工意識」の項の中に次のような記述があるのを、たまたま見つけた。

サールの主張は直接知覚主義者を納得させることはない。彼らは「意味」が知覚するオブジェクトによってのみ見つけられるものであるとする。また、創発主義の概念もサールの主張への反論となっている。創発主義は処理系の複雑さが新たな物理的現象を生むことを提唱している。

書かれている内容はこの通りで間違いはないと思う。ただし後者の「創発主義」は、もしも複雑性の科学の研究者でこんなことを真顔で言ってるやつがいたら、そいつは紛れもないデンパだ、と言っておくことにしたい。わたし自身は複雑性の研究からは足を洗った格好になっているとはいえ、今も細々と続いているはずの研究が、この分野にあまり通じていない人々の間でオカルトまがいと混同されかねないのを黙って見過ごす気にはならない。複雑性の科学者なら、複雑性が「新たな物理的現象を生む」などというオカルトを口にすることはありえない、とわたしは断言する。

語の通常の意味における創発主義(emergentism)は19世紀から20世紀前半のイギリスで主張されていた形而上学的立場を指す、ごく限定的な意味で使われる。英語版Wikipediaの「emergentism」の項でそのあらましが説明されている。複雑性の科学者の中でもこのあたりの哲学史に通じている人は、だから、創発を論じても自分の立場を創発主義と自称することはまずない、はずである。

複雑性の科学における創発は、この創発主義に連なるものというよりはむしろ、アリストテレスの「全体は部分の和より大きい」という言葉に直接連なっていて、その究極的な含意を科学としてどう考えるか、つまり物理学の体系的な理解のどこに定位させるべきか、という問題提起の色合いが濃いものである。それを考察する途上では、アリストテレスの形而上学はもちろん、イギリス創発主義に関する文献が参照されたり、あるいは20世紀のマイケル・ポラニによる「個人的知識」の考察などが参照されることもあるというだけである。複雑性を含めて現代科学の主流はこれらの立場と相容れるものでは決してないが、昔の研究や主張が現代ではデンパに見えるからと言って、そこからデンパでないまっとうな科学が再発見されることがないとは言えない。愚かな複雑性より賢い観念哲学の方が賢い複雑性に近い、ということだってありうる。非科学的な態度がそうあって欲しい願望のまま丸呑みしてしまうことだけがデンパと呼ばれるのである。

まあ、とにかく、現代の創発主義は、そうと自称するならただのデンパだから、サールの主張への反論もへちまもないわけだが、そんなことより注意すべきなのは、むしろサールの生物学的自然主義(biological naturalism)の方が、一応デンパではない創発を語ってしまっている可能性があることである。サールは現代科学の基本的な命題をbasic factsであるとして認める立場だからデンパではない。だが生物学的自然主義の議論は必ずしも十分掘り下げられているとは言えないとわたしは感じている。読みようによっては本当のただの創発主義ではないのかと思える箇所もあるからである。ただし、サール自身はもちろん自分の立場が創発主義ではないことを明言している。

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自己複製についての覚書

2009年03月03日 | 複雑性と人工生命
書いてるうちにとりとめのないことになってしまったが、そのまま上げてしまうことにする。

今までのところ、自己複製ということが熱力学的な必然であることが示されていないのは、単に、もともとあまり活発に研究されている問題ではないからかもしれないが、実はそうではなく、概念の切り取り方の問題なのかもしれない。

自己複製というのはニュートン力学の「質点」と同じように、理論的な目的に合わせて導入される抽象概念だと思う。実体として文字通り自己複製する分子や生物個体が存在するわけではないからだ。生物種の環境への適応や、形態・機能における進化ということを個体数の増減によって数理的に記述する場合、「種」とか「個体」という概念を確定した実体あるもののように(つまり変数とその値として)切り取ってくることになるから、それに伴って個体の自己複製ということが抽象的な過程として設定されるというか、浮かび上がる格好になるわけだ。これはもちろん、その目的(適応や進化の説明)に関しては妥当な設定なのであって、これに文句をつけるのはニュートン力学の「質点」概念が有効な範囲に限界を持っていることにケチをつけるのと同じようにナンセンスだ。

けれども自己複製の熱力学的必然性と言った場合は事情が違ってくると思う。事情というのはこの場合「時間スケール」のことだ。replicator方程式で記述される状況は、実際、熱力学的な根拠づけを必要としない。こういう言い方はあまり正確ではないかもしれないが、要はそれを無視しても構わないような短い時間スケール(といって、何を「種」とし、何を「個体」と見なすかによって、それはずいぶん違うのだが)での個体数変動を扱っているからだ。つまり「いや、イヌはイヌだろ、どう見ても」という言い方が妥当であるような時間スケールということだ。それが妥当である時間スケールでは、イヌからはイヌしか生まれない、せいぜいその形態や機能に微妙な変化(個体差)が生じるという程度のことで、同種の個体として個体数を勘定することが(リンゴ3個とミカン2個、合わせて5個、というような)不当な算術であるとは見なされない。だから、イヌの個体が自己複製すると言っても、その問題の範囲では話に特段の故障は生じない。しかし我々が考えようとしているのは、自己複製なら自己複製ということそれ自体が非平衡系のある条件のもとで生じる秩序の一種であるかどうかということなのだ。

我々が「自己複製の熱力学的必然性が示されなければならない」と言う場合、だから、自己複製のことだけを言っているわけではない、ということである。上述のように「種」「個体」「自己複製」あるいは「自己維持」といった概念は相互的に規定される、つまり、どれかを定めたら他も連動して定まる(同様に、どれかを曖昧にしたら他も曖昧になる)というような関係にある。要はこれらの相互規定的な(つまり互いに独立でない)生物学的概念のひと揃いを並べてある座標変換を施すことによって、熱力学と接続可能な基底を括り出せるかどうかということが我々の探究すべき課題なのである。

昔は(といって、まだ十年くらいしか経ってないが)こんな風なことを考えていた。化学活性を持つ有機分子はだいたい何でも、ごくわずかではあっても基質特異性を持っている。酵素のようなはっきりとした基質特異性は、一般的に言えばタンパク質やRNAのように分子量の大きな、また複雑で柔軟な立体構造を持つ分子でなければ生じない。でも分子量の小さな、ランダムな化学反応でも自然に生じるような物質でも、ほんのごくわずかな特異性はあるわけだ。生命以前の分子進化の段階では、そのような、最初は文字通りノイズのような基質特異性しか持たない分子の集団から、よりはっきりとした特異性を持ち、またそれ自身維持的な(触媒として機能するには、反応の前後で自分の構成が変わっては困るわけである)物質が組織されて行ったに違いない。もっともらしいシナリオだが、しかし「そんなことが自然に起きると言えるのだろうか?」と考えて詰まってしまった。適当に方程式を立てればそうした自己組織過程を再現することは可能であるかもしれない。だが、そのモデルを現実の化学系と引き比べて妥当なものであると言えるかというと、特に熱力学的な要請を満たすことが難しいように思われたのである。

「酵素活性の自己組織的強化」というアイデアは、もともとはある生化学者の研究発表を聞いていて思いついたというか、いわば横合いから頂戴したものだ。生命の起源に関する「RNAワールド」説の、さらにそれ以前の時代に遡ろうとするもので、面白い研究なのだが、それを発表していた人も自分でそう言っていたと記憶しているが、実際の化学系でそれを試そうとして試せるものではない、というところが辛いところなのだ。それがRNAワールドを経て生命の起源につながって行ったとしても、つながるまでには何千万年、いや何億年も経過したかもしれない。そこで、わたしは何か数理的に縮約されたモデルが作れないだろうかと考えてみたわけだ。しかし、おおよそ原始地球の表面近くで存在可能な化学物質全部を含むような集合を適切に「粗視化」する手続きがどうあるべきか、当時の(今もだが)わたしにはどうしても思い浮かばなかった。たとえば化学物質の形態・機能的な類似性に沿って「形態空間」を定義しても、それはユークリッド空間やセル・オートマトンのような碁盤目の整然とした空間構造には、決してならないからである。

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自己複製と熱力学

2009年02月25日 | 複雑性と人工生命
数日前に書いた話の続き。

自己複製と熱力学について論じた文献を探してみると、これが意外にないのである。探して見つけた数少ない論文のひとつは、かのSanta Fe Instituteのworking paperだったりして、実はこのネタは今でも複雑性研究の先端にある未解決の課題だと考えた方がよさそうである。ちなみにその論文はダウンロードはしたがまだ読んでない、というか年齢とともに英語文献を読むのがどんどんキツくなっていて、ちゃんと読むことがあるかどうかも自信が持てない。

地球上の生物は大勢として個体複製的である(ウィルスのように微妙なやつもいるから「大勢として」としておこう)という事実は、もっと掘り下げて理解されなければならない、ということは学生の頃からそう思っていることである。生物種の進化ということは現代の進化論(数理生態学)がそれなりによく説明できるようになっているが、その理論的な中核であるところのreplicator方程式はその名の通り、生物個体の複製性ということを普通に前提しているわけである。けれどもよく考えてみると、そもそも生物種の多くが個体の空間的に分散した集団であるとか、その個体が複製的であるということは、地球上での事実としてそうであるのは確かなことだが、どうしてそれが生物一般の特徴なのか、直観的にぱっと理解できるような根拠は思い当たらないのである。つまり個体が複製的であるという事実は進化論の要のひとつだという意味で進化論を根拠づけるけれども、逆に進化論が個体の複製性を説明するかというと、そんなことはないのである。つまり生物の個体性とかその複製性といったことは、進化論の枠組みの外から説明される必要があるのである。

それは生物進化の前に複製的な分子の分子進化ということがあって、というのは、あまりちゃんとした説明にならないのである。単なる化学物質のレベルでも、自己複製する分子というのはそれなりに複雑で大規模なものであるし、第一に単独で自己複製する分子などは存在しないのである。DNAの複製にしても多種多様な酵素と、それを手順通り機能させるような細胞内器官の存在が必要である。つまり、分子進化ということそれ自体は認めても(もちろん認められるのだが)、原始地球でそういう複雑な分子や化学系がたまたま成立し、それを核として最初の生物体が成立したという程度のことだけでは、その後の生物が現在にいたるまですべて個体の複製性という特徴を保ち続けていることの説明としては、まだ弱いのではないだろうか。

つまり自己複製ということは「たまたまそういう分子や化学系が成立した」というようなものではなくて、地球表面近くの物理化学的条件において、何らかの熱力学的な必然性として生じる秩序なのではないだろうか。言ってみれば大気や海洋の対流構造と同じように、物理化学的な条件さえ整えば放っておいても出現するような秩序なのであって、だからこそ、ほとんどすべての生物がそれを利用しているのだと考えるべきではないだろうか。

もちろんこれらの話はまったくの自然科学の問題であって、哲学とは直接のかかわりはないのだが、なぜこんな話を今頃蒸し返しているのかというと、複製性の概念を掘り下げて理解することは、そもそも生物の個体性の概念について掘り下げて理解することにつながるわけである。わたしの考えでは、(少なくとも)人間が主観的な意識経験の領域を持つということは、(少なくとも)人間存在が生理学的な身体(個体性)のコンパクト性を離脱した存在であることを意味している。つまり実存に対応する物質系が非コンパクトであることが、物理過程から「3ミリ浮いた」意識経験を持つことの究極的な根拠なのではないかということだ。もちろんこれは今のところそう考えてみているだけの、要するに思いつきでしかない。物理学と形而上学の双方からこの思いつきがどこまで妥当であるのかが検証されなければならない。前者の鍵のひとつが、個体性の概念を根拠づけている複製性なのである。

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複雑性と人工生命 (0)

2008年07月27日 | 複雑性と人工生命
こういう題名だが、「哲学的考察」のblogで複雑性や人工生命の話を細々とやるつもりはあんまりない。このふたつはわたしが大学院で研究していたテーマなのである。おおよそどういう研究なのかは、Webを検索すればそれらしいページがたくさん見つかるはずだ。いちいち検索すんのも面倒くせえ、という人は次に挙げるS.A.カウフマンの本を読めばいい(正直言って、ほかのはいまさら読まなくていい)と思う。
自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則 (ちくま学芸文庫 (カ27-1))
スチュアート・カウフマン,森 弘之,五味 壮平,藤原 進
筑摩書房
Amazon / 7&Y
At Home in the Universe: The Search for Laws of Self-Organization and Complexity
Stuart A. Kauffman
Oxford Univ. Press
Amazon

(なんで原書を並べるかって、このカテゴリが「複雑系(complex systems)」ではなく「複雑性(complexity)」と題されているゆえんを示すためである)

カウフマンを薦めるのは氏がわたしの師匠だからではなくて(俺に外人の知り合いはいねえよ)、このあたりの研究に情熱を注ぎ込んでる連中のココロとかタマシーとかが奈辺にあるのかを率直かつ正確に(たまに過大に)著作の上で語ることのできる、たぶん世界で唯一の人物だからである。うかうかしてると読者も「よっし、俺もひとつランダム論理ネットワークのプログラムでも書いてみるかな」などという気にさせられてしまうかもしれない。そういう強烈な喚起力がカウフマンの文章には(翻訳を介してなお)あるのだ。そういう本は単純に読んでいて楽しいものである。


…で、わたしの研究がどうしたのかというと、博士課程の最後の方になって「これはいかん。ここから先はもはや自然科学とは呼べない」と感じたことが、それ以後(博士を満期退学して就職した後から)哲学の方にのめり込む契機になった、というわけである。つまり、今このblogに書いていることは、もとをただせば複雑性や人工生命の(自然科学的な)研究から生じたものだという点で、問題意識ということに限って連続性があるのである。

たぶんこのblogには、それを哲学や倫理学と呼ぶにはあまりに怪っ態な考察がたくさん書かれているし、これからも書くのである。よそで少しでも哲学らしいことを習ってきた人が読めば、そもそもこの男は哲学や倫理学をいったい何だと思っているのだと眉を顰めるに違いない。そこまで顰蹙はしない人でも、いったいこの怪っ態な考察はどこから出てきたのか怪訝に思うということは避けられないだろう。難解なことを書いているつもりはないし、第一そんな難しいことは書けもしないのだが、どんな単純明解なことを言っていても、考察や議論の由来が判らないことは、無駄に話を難解にしてしまったり、もっと悪い場合には、いかにも深遠そうな幻を作り出してしまったりする。特に後者は素人哲学の大敵である。そこで学生時代やなんかの昔話を書くついでに、自ら哲学のネタバラシをやってしまおうというわけである。

念を押すが、自然科学と哲学は誰が何と言おうと別物である。この稿はただの日記だが、それにしても「複雑性や人工生命の研究は是非とも哲学的考察を参照すべきである」とか、逆に「心の哲学や生命の哲学は複雑性や人工生命の研究を参照すべきである」といったトンデモを主張する気はまったくない。そうした態度を沈黙の声(電波?)で肯定したり称揚したりする(ひらたく言えば「色目をつかう」)つもりもない。ただ、個人がその世界観の位相をひそかに緩めて、主観的な問題意識の内側に連続性を導入したら、という喩えバナシのような世界が、個人の内側に限って成り立つ余地があるというだけである。このカテゴリで書こうとしているものは、だから、その内幕についての哲学でも科学でもない「表現」の試みなのである。

アホみたいなイントロを書いていたら長くなりすぎた。本題に入れるのは、この分だと再来週くらいか?

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