惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

厄落とし

2010年09月30日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
厄い記事が続いたので雛さんに動画で再登場していただきました。

オリジナルはニコニコ動画、題名も本来は日本語で「FL Studioで鍵山雛をものっそい勢いで回す Part2【厄神様の通り道】」

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小室直樹氏が亡くなった

2010年09月30日 | 報道から
政治学や社会学など、幅広い学問領域をカバーした評論家の小室直樹(こむろ・なおき)さんが4日午前1時3分、心不全のため東京都内の病院で死去したと、東京工業大世界文明センターが28日に発表した。(毎日新聞)

亡くなった、としか書くことがない。わたしはこの人の著作のよい読者ではなかった。ただこの人の弟子だということになっている人達の著作からは多くを学んだし、今も学んでいる。彼らは一様に小室氏を称賛していたし、今もしているはずだが、何がどう凄いのかわたしには一向に判らないうちに本人が亡くなってしまった。

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要は・・・

2010年09月29日 | situation
【9月29日 AFP】沖縄県の尖閣諸島(Senkaku Islands、中国名:釣魚島)沖で海上保安庁の巡視船と中国漁船が衝突してから滞っていた中国から日本向けのレアアース(希土類)の輸出手続きが再開されたと日本のメディアが報じている。
(AFP抜粋)

今回の事件で日本政府の対応がどうにも支離滅裂気味だったのは(中国は中国で異常だったが)、この件で経済界から水面下で強烈な逆ネジを食わされていたということではないだろうか。

思うに「経済界」の連中は今やアタマがすっかりグローバル(笑)になっていて、日本のことなどは(その政府にしても人々にしても)もはやまったくどうでもよくなっているに違いない。利用できるところでは政府でも官僚でも彼らの利益のために使役するが、役に立たなきゃいつでもポイするつもりでいる、(政府にしても人々にしても)そのくらいの重みしか持っていないし、またどうにでも好きにいじくり回せると考えられている。事実それでポイされてきたのが、たとえばここんところの歴代短命政権であったと、だいたいそう考えるといろんな不可解事の辻褄が合ってくるように思える。ここ数年の、ではなく、ここ十数年の。

尖閣諸島沖の漁船衝突事件で、中国人船長が処分保留のまま釈放されたことについて、日本経団連の米倉会長は事態を沈静化させようという努力の結果だと、政府の対応に一定の評価をしました。(TBS NEWS 27日18:31)




眠い目をこすりながら書いていたら、どうも不明瞭な文になってしまった。企業が利益(金儲け)のために行動すること自体は、政府マスコミ等に影響力を行使することを含めて、批判するつもりはない。また批判される謂われもない。

わたしが不思議だと思っていて、その背景があるなら知りたいとも思っていることは、この種の「経済界の連中」は単に自分の経営する会社の利益(金儲け)のために行動しているというよりは、しばしばグローバリズム(これ自体、その名に対応する内容が判然としないのだが)のようなイデオロギーの露骨な信者であって、そのイカサマ伝道師か何かのように振る舞っているとしか思えない、ということである。イデオロギーというのはこの場合、人間の本性にも営利企業の本性にも還元できない動機の作用元のことである。

はっきり言えば、彼らにそう仕向けている、操っている勢力が、もし実体として存在するならば、それが現代世界の敵の本体である。問題はそんなものが実体として存在するのかどうか、実体を持たないとすれば──どちらかといえば後者ではないかとわたしは疑っている──それはどんな様態のマモノであるのかということである。


"You've gone too far this time"
But I'm dancing on the valentine
I tell you somebody's fooling around
With my chances on the dangerline
I'll cross that bridge when I find it
Another day to make my stand
High time is no time for deciding
If I should find a helping hand...

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演算子論の続き(4)

2010年09月29日 | チラシの裏
(3)に続けて書こうと思ったのだが、数日またいだら何のハナシだったか忘れた(笑)。

いや、別に忘れてはいないのだが、「土曜日の本」で紹介した野矢センセイのヴィトゲンシュタイン解説書を読んでいたら、これがちょっと面白くて、気がそっちの方に向いてしまっているのである。「土曜日の本」でテキトーなことを書いた通り、わたし自身も「論理哲学論考」はちゃんと通して読んだことがないわけだが、野矢センセイの解説本を読んでいると、なぜだかこの演算子論に重なるような、重ならないような、微妙な本なのだなという印象が強くなった。

なぜだかも何も、この演算子論のネタになっている計算の理論というのは1930年代にチャーチ大先生が作ったものであって、1930年代というのはまた哲学の世界で論理実証主義がブイブイ言わせていた時代でもあるわけである。要は時代的に重なるのである。

わたしは論理実証主義が好きでないし、後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」というやつも、どうもイマイチ面白くない。わたしは独我論者ではないつもりだが、他者や社会の存在がアプリオリに前提されているような考え方が、哲学以前の問題として「嫌い」だというのは本当だ。アプリオリに、つまり世界の外側から導入された敵を倒す方法なんてあるわけがないからである。あったとしてもその根拠は世界の内側に閉じた形では存在しえない。つまり偶然以外では倒せない。裏を返せば、複雑性の自己組織化の理論のようなものには、細かいことはさておいて基本的に惹かれてしまう傾向がある。初期状態の後から作り出されたものは、逆をたどって壊すことができるはずだからである。

それにしても「敵」とか「死」とか、しかもそれらを「排除する」とか「抵抗する」とか、哲学には似つかわしくない、なんだか物騒なことを言い出したものだと感じる人もいることだろう。書いたわたしが一番そう感じている(笑)。自分で自分にちょっと驚いていたりする。これらの言葉をエディタの上で並べたとたんに「欲望によらない行為理由」とは、まさにこれのことではないかと思えたからである。つまり現時点ではただの思いつきでしかないのだが、この思いつきはもっと時間をかけて吟味する価値があるかもしれない。

もちろんこれを書いている今そんな時間はないから、(3)で書き足りなかった分を、いま思い出せる限り綴っておく。

野矢センセイの本でも他者というのは当然世界の外側にいて、論理空間としての世界に(論理を超越した「身体」を経由して)揺さぶりをかけ、これを変容させてしまう何かであるように書かれている(ヴィトゲンシュタインがそう考えたというよりは、野矢センセイの解釈である)。そこらへんではわたしの考えはかなり違っている。わたしの考えでは他者もまたW=SXの一部としてあるものに変わりはない。ただし普通の存在と違うのは、演算子Sの底が抜けている、その闇の中から時折顔を覗かせてくるものだということである。もともとWについてその内側とか外側という言い方が成り立つのは、Wが全体として閉じた(コンパクトな)系である場合である。わたしの考えでは、それは閉じていない(非コンパクト)のである。

W=SXという式においてもSは式の右辺にあってそれ自身はWの一部ではない。ただWは演算子Sの言わば固有値(のようなもの)の集合E={e∈W|ex=Sx,x∈X}を含むものでありうる。そうだとすれば我々はSそれ自体のかわりにEを「じぶん」として対象化することができる。他者はこのEの外にいる?・・・うーん、嘘くさい。x∈Xと作用するe∈Wとは何のことだ?

(そのうちつづく)

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カテゴリ新設

2010年09月28日 | miscellaneous
「本来的なチラシの裏」と「報道から」のふたつのカテゴリを新設し、直近の50件くらいのうちで該当しそうなものを移した。放っておくとmiscellaneousだらけになってしまうからだ。

もっと以前の記事でもこれらに該当するものはあるだろうが、今みたら総記事数が500件を超えている。まあ、おいおいやることにする。

・・・それにしても「本来的なチラシの裏」なんて、ひどいネーミングだと思われるだろうが、これは、blogの本題を改題しおおせた暁にはただの「チラシの裏」にするつもり、という暫定的なカテゴリ名である。

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魂はあるか

2010年09月28日 | チラシの裏
以前にアリストテレスの「友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である」を引いた。わたしがこの言葉を知っているのは哲学マニアだからではなく(実際、マニアというほど個々の哲学者の言を知らない)、いつぞや触れた鴨川つばめのマンガ「DタウンCロック」で引用されていたのが、三十年の間ずっと印象と記憶に残ってきたものである。

もちろん自然科学として見られた世界に魂などはない(燐光だとかプラズマだとかいうのは人魂という物質的な現象のハナシであって、ここでいう魂のことではない)。だが、哲学の場合は、少なくともまず、それがあってはいけないということはない。あると確信している人がいるなら、その人にの世界においてあるのはもちろん、そうした確信を持つに至るものと、少なくとも類似した機構がたいていの人の中にあるものと、まずは考えてみた方が、哲学としてはむしろ安全である。

科学的には実在でもなければ実在の振る舞いでもないものが主観の上では存在するなら、それは妄想というのではないか、と、たいていの人はまずは顔を顰めるであろう。確かに妄想である。けれどもそれを言うなら人間という概念が科学においては成り立たないから、たいていのことは全部妄想である。あなたはあなた自身が存在すると確信しているだろうし、その確信に沿ってあらゆることを言ったりやったりしているだろうが、魂のない世界からはいつでもこう告げることができる。


この煽りコラ画像の傑作は、主観的に押し出されたところを持つ限りあらゆる言葉や態度を傷つけることができるように思える。あるいはまた、このコラ画像を突き付けられた人が自身の内側で何かが打ち消されるように感じるとしたら、打ち消されたものはそれ以前に存在したはずだとも言える。

作者はなんでわざわざ別のマンガのネームを切り抜き、(たぶん)元絵から瞳のハイライトを消した上で「ゆのっち」に貼り付けることを思いついたのか、よくわからないが、よくも思いつくものだと感心してしまう。

(つづく)

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いくつかの変更

2010年09月27日 | miscellaneous
まずblogの副題をちょっとだけ変えた。「哲学的考察」となっていたのを「素人哲学」とした。哲学というのは考察するものなのだから、哲学的考察というのはあんまりよくないなと、当初から思っていた、が、今日までズルズルそのままにしてきた。「口上」では初っ端から素人哲学云々と書いているわけで、それを副題にしてもよかったはずであるが、なぜかそうしていなかった。理由は忘れてしまったが、看板から素人哲学とは卑屈ではないかと誤解する人がいるかもしれない、と案じたものであったのかもしれない。むろんパソコン屋のわたしにとって素人であることは王者のシルシである。卑屈もへちまもない、むしろ大いに誇って自称していると思ってもらって構わない。

それにしても、「チラシの裏」という本題をなんとかしたい。前にも書いたが同じ題名のblogが山ほどありすぎる。今日はすこし本気で考えてみたが、相変わらず名案が思い浮かばない。「勝手にしやがる」というのはどうだろうと思って手を動かしかけたが、やっぱりやめた。「勝手にしる」と言ってるみたいだ。この「しる」はもともと日本政府に直訴しに来た韓国人だか朝鮮人だかの人の「言いまつがい」から出た符丁である。わたしは純日本人である。冗談でなら使うが、blogのタイトルには相応しくあるまい。

もうひとつのアイデアは「チラシの裏から」あるいは「チラシの裏Z」などというように文字を追加することで、これなら少しは検索にかかりやすくなるだろう、が、いかにも検索の便宜のためにすることのようで(事実検索の便宜のためなのだが)みっともない。ああもう、いっそのこと「ももいろスウィーティー」なんてのはどうだと思ったが、これは他人様(ももせたまみ)のマンガの題名そのままであった。

以前から考えていて、やろうとしては引っ込めている案のひとつに「猛煙連隊駐屯地」というのがある。のらくろの所属、猛犬連隊のもじりである。禁煙ナチス撲滅はわたしの宿願だから悪くもないのだが、「連隊」というのがどうしてもひっかかる。タバコはひとりで吸うものである。だからこそ最前線の、次の瞬間には撃ち殺されるかもしれない兵士にとってさえ魂の自由の証となってきたものだろう。ゆえにこのことで誰かと連帯したり、ましてや隊伍を組むなどといったことは、それが誰であろうと、いかなる理念のもとであろうとお断りである。

まあ、そんなこんなで今回も本題変更とはならなかった。blogの構成で変更したのはあとひとつ、右側のカラムにあった「message」と「caution」の欄を削除した。いろいろ理屈をつけてはいても、やっぱりこれは未練がましい何かだと思えてきたからである。かくて本blogは完全に通信途絶した。文句があったらgoo事務局にでもねじ込んでくれ。

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マッハバロンOP

2010年09月27日 | 年を経た洋楽オタの話
この週末はなんか陰気なことばかり書いていた気がするから、最後にカラッとした格好いい曲を。

このOPだけが格別にぶっとんでいて、番組はすげえショボかったんだけれども。1970年代後半、オイルショック不況のさ中で、特撮番組にとっては苦難の時代だったのである。同世代のロック・ミュージシャンの中には、この曲を聞いて音楽の道に目覚めたというのが結構いるらしい。

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演算子論の続き(3)

2010年09月26日 | チラシの裏
ここのところの一連の記事で書いていることは、わたしにとっては特に新しいことではなくて、だいたいこのblogを始める前からすっかり出来上がっていたような話である。そうは言ってもなかなかうまく書けた感じにならないから、おんなじ話を違う方向から何度でも書き試したり、書きあぐねて放棄(punt)したりすることを繰り返している。「チラシの裏」という題名はその意味で自虐でも謙遜でも何でもないのである。

ただそれとは別に、この演算子論を後々において意味のある議論にするためには(そう、ここまでに書いてるようなことは、それ自体としては何の意味も価値もない、全部ただのおもしろ談義のつもりである)、少なくとももうひとつの要素を導入しなければならない、という認識から現在のわたしが始まっている。

その「少なくとももうひとつの要素」とは、「社会」もしくは「他者」という言葉に代表されるような何かである。

世界の中で真に「存在する」と言えるのは自分だけだ、とは言うものの、どんな意味でもそうなのだとしたら、これは本来、とても安定した世界でなければならないはずである。すべての哲学は最初のページに「我在り」とだけ記してキーボードを擱(お)いてしまってもいいくらい、絶対的に安定である。だが実際の世界は、現実の世界で我々が経験することのすべては、どう考えてもそんなことにはなっていない。「自分」の存在は常に「敵」もしくは「死」の脅威に晒されているし、我々は誰もその脅威から一瞬たりとも気を逸らすことができない(ま、そんなことを言ってても、くたびれると寝てしまうのだが・・・)。

我々は世界の中にいて、ただそれを眺めているだけというわけには行かないことになっている。式W=SXの背後には「暗黒物質」ならぬ「暗黒存在」が陰伏していて、次の瞬間にも式全体を瓦解させるべく蠢いている。少なくともそのように感じられる。これが我々の中に「欲望によらない行為理由」を作り出すように思える。敵は排除しなければならないし、死には抵抗しなければならない。それは欲望ではない。欲望は我々の生理的身体ないし遺伝的指令に基礎づけられたものの心的な反映と言っていいもので、基本的にはそれが満たされれば機械的に嬉しいもののはずである。ところが敵を排除し、死に抵抗することは、部分的にしか成功しないことだとしても、たまには成功するわけだが、それは食欲や性欲を満たした時のように「嬉しい」ことであったりはしない。欲したこともない何かにありったけ労苦を注ぎ込んで、ようやく解放された(しかしほんのひと時の)安堵があるだけである。

どんな生理学も遺伝学も生物体にこんな行動を命じはしない。命じること自体も、その内容にも(生理学や遺伝学上の)意味がないからである。自然とは何にもましてケチなものであって、無意味なことは何ひとつしない。素粒子が物理法則から規定された軌道を離れてどっかに寄り道するとか、そういうことはないのである。

(もう少し続く)

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鍵山 雛

2010年09月26日 | 他人様の絵貼らぬでもなし

(リンクと画像は「AREA27」(kurot)様)※トリミング済:原寸画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/kurot

curse goddessとは何じゃらほい、と一瞬思ったが、厄神様ということか。なるほど。

このキャラは流し雛が変じて厄神様になったという設定だが、もとがお雛様だから大変可愛い。ファンも多い(緑髪に赤い服というとヤダモンを連想する、というのもわたしだけではないらしい)のだが、何せ着ているものが過剰包装のようなフリル地獄で絵師泣かせだ、とどこかで聞いた。

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演算子論の続き(2)──裏手から眺める

2010年09月26日 | チラシの裏
演算子Sについてすぐに思いつく疑問について考えてみる。いの一番に考えてみるべきことは、すべてがSに関連して存在するというのなら、なぜ人類の歴史においてSがそれほど早くからは考えられて来なかったのか、ということである。演算子云々はともかくとしても、現代において普通にそう考えられているような「わたし」という概念は、決してそれほど古くからあるわけではないようである。

答は比較的簡単である。昔の人はこのSのことを神様のことだと考えていたからである。SではなくGだというのである。たぶん今でも信仰を持つ人は、おおよそそんな風に考えているに違いない気がする。わたしはたまたまどんな信仰も持っていないし、持つことができない罰当たりであるために、何かが存在する事実を「神様(もしくはマモノ)のせい」にすることができない。


マモノ(リンクと画像は「2ch全AAイラスト化計画」より)

事実の存在、あるいは存在の事実が疑えないとすれば、誰のせいでもありゃしない、それはオレのせいだと考えるよりほかにない、という結論になったのである。

なぜ人類は最初からそうは考えずに、神様やマモノを考えることになったのか。それは簡単なことである。考えるということは通常、何か「について」考えるということにほかならない。つまり、考える先のものは対象objectでなければならない。考えているこちら側の自分subjectが存在する、ということは、デカルトが暖炉の中で延々瞑想し続けた果てにようやく気づいたことなのであって、いやデカルトが最初ではなかったとしても、人間の思考にとってそれほど簡単に出てくる事実ではないということは確からしく思われる。人間はだから最初はW=SXのW、つまり全体Xに投影されたSの像W「について」考え、それを神様とかマモノとか呼んだのである。要はブロッケン現象の超巨大版である。なにしろ投影する先は宇宙全体で超巨大だから、そこに投影された像がもともと自分の姿にほかならぬとは、さすがに誰も気がつかなかったのである。


ブロッケン現象

かろうじて元の人型の姿がわかるような写真を拾ってみた。普通のブロッケン現象でもこんな風に後光のような光彩を伴っていたりして、何やら神々しかったり不気味だったりする。実際、これが元は自分の姿だということが当たり前に理解されるようになったのも、光学現象の理解が進んだ現代になってからのことである。



こんなことを書いていると信仰の人達から「絶対許早苗」とか言われそうだから一応自己フォローする。わたしはR・ドーキンス先生のように「神は妄想である」などと剣呑なことを言うつもりはないし、言う必然性も持っていない。W=SXにおけるWは正確に書けばW(S)ということで、つまり「わたしの世界」である。譬えるなら空を駆けるなんちゃらのルパンルパーン、というやつである。上で書いたのは、人類が最初に考えた神様というのはWのことであっただろう、ということだけだ。

いま信仰の人達にとっての神様というのは(Sの像としてのWが純化されていった極限における)Xに関する造物主とか何とかのことに、たぶんなっているのだろう。科学者としてのわたしはそれを知らないというよりほかに言うべきことを持っていない。一方、素人哲学としてのわたしは、そもそもXについてどんな決定的なことを言う根拠も持っていない。

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野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」(ちくま学芸文庫)

2010年09月26日 | 土曜日の本
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
野矢 茂樹
筑摩書房
Amazon/7net

さすがにこんな本を土曜日の午後に読み切ることなどできるわけがない。ウィトゲンシュタインの本は数学の本と同じで、本当は大学かどこかで「演習つき」の講義を受けるのが一番いいのではないかという気がする。そうでないと結局身につかない種類の知識が確かにあるとしか言いようがない。つまり素人哲学にはもともと手の届かないところに置かれているのがウィトゲンシュタインである。

だから絶望しろ、というのではない。まったく逆で、素人哲学はこの種の哲学についてはどのようにでも好き勝手に読むことができるし、それでいいのだ、というのがわたしの考え方である。そんなことをされては困る、とプロの哲学者が言い出したら、ニヤニヤして「じゃあ君が説明してくれ」と言えばいいのである。そんなことをやってるうちに、時々こうした本が世の中に出てくることになるからである。

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演算子論の続き

2010年09月26日 | チラシの裏
先に示した哲学の定義 W= SX は、別の言い方をすれば、世界Wの中で真に存在するのはS(自分)だけだ、ということの表現でもある。XもWもそれ自体は(少なくともSと同格の様態における)存在ではない。Xの方は先に述べた通りの理由で、またWの方はデカルトの方法的懐疑によって言うところの「騙されているのかもしれない」可能性を排除できない。つまり明証的な存在ではないのである。

それはつまり独我論ということかと早合点されるに決まっていることだから、そうではないとまずは言わなくてはならない。現に我々は自分以外に色々のものが存在することを知っているのに、独我論というのはいかにも無茶な理屈である。けれども一方ではこんなことが言える。ライプニッツの「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」である。これは現代的に、またわたし流儀に言い換えれば、「なぜ人間はロボット工学の難問である『フレーム問題』に煩わされることがないのか」ということである。

実のところロボットは、つまりそれに組み込まれた計算機プログラムは、そこに何かが「存在する」ということを知り得ない。ロボットの筐体のあちこちに取りつけられたセンサも、それに結合された計算機も、全部正常に動作するものであって、かつ、それらのすべてが無限に高性能であると仮定しても(つまり人間の感覚器や脳と同等かそれ以上に高性能であるとしても)それはできない相談なのである。実は何かが「存在する」というのは演算子Sの作用するひとつの部分形式なのである。だからこそSをもつ人間にはそれができるし、ロボットにはできないのである。

大雑把な言い方をすれば(大雑把にしか言えないのだが)、演算子Sは自分で自分の存在を証明できる、というよりも存在証明それ自体なので、あるものの存在を認めるということはとりもなおさずw=Sxという、演算子Sの適用の結果であり、かつそれ以外ではないのである。くだいて言えば、何かが存在するというのは、すべて自分が存在するという事実に関連した副次的な事実であり、そういう意味ではあらゆる存在は何らかの意味で自分自身の一部として存在するのである。もちろん、あくまでも世界Wの中での「事実」としてであって、おそらく自然的宇宙の全体に一致するものであるだろうXの物理的事実としてではない。

現代の物理学において「実在」と呼びうるのはたかだか素粒子までであって、それより上は実在の集合的な振る舞い、すなわち物理学の文脈でいう「現象」にすぎないのである。そういう意味では「存在」という概念はすでに物理の概念ではないと言っていい。物理宇宙には太陽系というものが「存在する」わけではない。いくつかの外的な命題によって制約された領域が太陽系と呼ばれるだけである。その制約が数学的に明確である限り太陽系内の惑星の運動について厳密な議論ができるから、それを含めて物理学の正当な手続きと認められているわけであるが、宇宙それ自体の物理に閉じた属性として太陽系を太陽系と規定する何かがあるわけではない。

事実そうだから、つい近年のことであるが、冥王星は惑星のリストから外されてしまった。太陽系が真に物理的な概念であるのなら、そんなことは起こりっこない。あくまで人間が外的に導入した制約の反映だからこそ、人間様の都合によってある星が惑星になったり、惑星ではなくなったりするのである。美少女戦士のセーラー・プルートはどうなるのだ、彼女の失業保険は何ヶ月出るのだろうかとか、残念ながらそういうことは惑星科学者の世界的コミュニティ(笑)にとっては、まったく問題にはならなかったようである。血も涙もない。

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演算子論

2010年09月25日 | 複雑性と人工生命
演算子は英語のoperatorに対応する訳語である。分野によっては作用素とも訳す。たとえば行列の概念を無限次元を含めて一般化したものを線形作用素(linear operator)という。このように数学、特に解析学では後者がよく用いられるが、同じ解析学でも物理数学の文脈では専ら演算子と訳される。ま、英語ではどっちもoperatorだから、どっちだっていいのである。

ただここでは演算子と呼ぶ。解析学のそれであるよりは計算の理論におけるそれであるものを考えているからだ。計算機はまさしく演算する機械であって、実際、形式的にはすべてが演算子として記述される。

計算機は0と1(ビット)の集まりじゃないのか、と言われるかもしれない。確かにそうなのだが、計算機を記述するには、それだけでは十分ではない。0と1があるというだけでは計算が始まらない、つまり意味を記述していることにならないのである。

数学では演算子を作用素とも呼ぶ、と言ったが、計算の理論における演算子の別名は「関数」である。プログラミング言語の中には、このことを積極的に押し出してすべてを関数の形で記述するものがある。いわゆる関数型プログラミング言語がそれである。計算機の歴史は動作を関数として書くよりは手続きの文として書く形で始まったし、実際その方が見た目にはわかりやすいので、純然たる関数型言語は職業的なソフトウェア開発ではあまり用いられない、けれどもたとえばjavaとかC#といった最近の言語は、外面こそ手続き型言語のように見えるけれど内部の造作はほぼ関数型言語のそれである。

・・・こんなことを書いていると延々と計算機屋の蘊蓄を垂れるばかりのことになってしまいそうだから、話を強制的に哲学にする。わたしの考えでは、哲学とは「自己」演算子Sについての探求であって、かつ、それだけである。このSはself(自己)のSであると思ってもいいし、subject(主体)のSであると考えても、どっちでもいいことにする。いま形式的に全体Xを考えたとき、哲学的な意味での世界Wは W = {Sx | ∀x ∈ X} とかくことができる。つまりXの任意の要素xに演算子Sを適用したもののすべてからなるものが世界である。

ちなみに「形式的にXを」というのは、我々が経験するのはどんな場合でもWの要素であって、Xの要素xそれ自体ではないから、実際にはXを定義することはできないということである。ここでは自己Sと世界Wの関係を簡潔に示すための便宜として形式的にXを置いてみたのである。もっとも自然科学とはこのXに同型な記述体系であることを主張するものである。科学者のはしくれとしてのわたしはそれを是認するが、哲学の領域で議論する限りそのことの当否は決定不可能である。

ひどい機能主義的な世界観ではないか、と思うかもしれない。何よりもまず、世界がそんな簡単な数式(論理式)であってたまるものか、と思う人が多いに違いない。でも心配はいらない。Sは計算の理論における演算子なのであって、この計算の理論における演算子というのは実は「底が抜けている」のである。

計算の理論ではすべてを演算子(関数)として記述するために、まず自然数から関数で記述してしまう。やることは単純で、単位元の演算子0と加算演算子+1を天下り式に導入する。自然数nは0に+1をn回適用したものとして記述される。もっと違う定義の仕方もあるが、まずそんな調子のことだと思っていい。上手にやれば最初にたったふたつの演算子を導入するだけで、万能チューリング機械が構成できるということが証明されている。その通りに実装されたプログラミング言語も──実用性は皆無だが──ある。

「底が抜けている」というのは、実のところそうやって定義された自然数Nであれ何であれ、それ自体が演算子(関数)であって、実はこの演算子の定義域はすべての演算子にわたっているのである。だから算術演算のつもりで定義した演算子に、算術に属しない演算子を作用させることもできれば、その逆も自由にできてしまうのである。いまリンゴAに自然数Nを適用したNA(※前置記法による)は「N個のリンゴ」を意味するとして、逆に自然数NにリンゴAを適用したものとは何だろう?尋常な言語ではとうてい書くことのできそうにない何かである──でも、計算の理論では実際にそれがどんな形の式(記号列)になるのかまでは記述できる。ANである。これが愉快だ。

計算機屋の世界でも普通に関数というのは「型つき」であって、定義域と値域は強い限定を受けている。論理値を返すべき関数が論理値を返さない、それどころか何やらわけのわからないものを返してくるかもしれないというのでは、大規模なソフトウェア開発プロジェクトは初日で破綻してしまうだろう。けれども計算の理論においては、本来計算とはそうしたものなのである。

普通の数学ではそうした演算は「不定」だと言ったり、演算の集合そのものから予め省いて「存在しない」と言ったりするわけだが、計算の理論ではそんなことはしない。数学が「0除算は存在しない」といくら言っても、計算機の世界では間抜けなプログラマがいつでもどこでも0除算を実行させてしまうのである。そしてすべてのプログラマは任意の瞬間に間抜けでありうる。計算の理論がその可能性を顧慮しなかったら、それは役に立たないではないか。

計算機はときどき故障する。故障した計算機の動作を指して「暴走」とか「発狂」ということがある。最近のパソコンでは幾重にも回復機能が組み込まれていて、全体がどうしようもなく狂ってしまう前にそれを止めてしまうようになっているから、その黎明期にはしょっちゅう見かけたようなすごい発狂には、めったにお目にかかれないが、たまには起きる。いくら回復機能を組み込んでもハードウェアが壊れたり、操作している人間がシステム設計者の熟慮を超えたすごい狂人だったりすると──しかしその「すごい狂人」とは、えてして普通のエンドユーザである──お手上げだったりするからである。

何にせよ、それを実際に目の当たりにすると本当に計算機が発狂したかのように感じられる。計算機の内側はもともとそのくらい自由にできているということである。それを操作する人間もまた、あらゆる機械的予防措置を超えてその自由を「解放」してしまうことができる程度には、間違いなく自由な存在である。おそらくは誰でも、いつでもどこでも。

以上はかつて学生だったころ、わたしの考えの中心を占めていたことの一端である。実際に大真面目にこの考えを発展させて人工生命の理論を作ろうとしていた。具体的に言えば演算子(関数)の適用ということを化学反応や触媒の作用に準えることで、原始地球の「ルール無用」なランダムな化学反応の世界から、今日あるような秩序が自己組織してくるであろうことの必然性を見出そうとしていた。

けれどもこの極大化された機能主義的図式においてさえ、最初から最後まで登場しない、登場することのできないものがある。それが(自由)意志である。ランダムな化学反応だけを考えていても生命の発生くらいは示すことが、ひょっとするとできるかもしれない。成功した人はいないが、将来現れてもおかしくないとわたしは今でも思っている。けれども意志はそうではない。最初に天下り式に導入されるふたつの演算子を別にして、他のすべては他の演算子どうしの適用と還元操作から因果的に生じなければならない。自由意志は定義上この因果律を破ってしまう純粋な出現(相空間上の特異点)であって、この図式の中には原理的に登場しえないことは、我々が自由意志を持つことと同じくらい、はっきりしている。わたしはここで立ち止まらなくてはならなかった。

突破口の存在は「自己」演算子Sの「底が抜けている」というその事実によって示唆されている。機能主義的な思考が自分で自分の底を食い破ってしまったものが計算の理論であり、それを数学的に証明したものがゲーデルの不完全性定理だったり、チューリング機械の停止判定不能定理だったりするわけである。(未完)

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本来的なチラシの裏(3)

2010年09月25日 | チラシの裏
わたしは、自分ではやるつもりはないのだが、他人の素人哲学がたいていそこに終始する「人生哲学」も、だからそんなに軽くは見ていない。そういう人達の多くは要するに「人生の意味」ということを考えたくて、あるいは考えることは決めつけることだと思ってそれをやっているのだと思う。

このblogでも書いたことがあるような気がするが、「意味」という2文字は「何をやっていることになるのか」と置き換えると、言わんとすることが明確になる。「人生の意味」なら「人生は何をやっていることになるのか」となるわけだ。どうだ判り易くなつたろう?(笑)


わたしは成金の人ではない。冗談はともかく、「意味」を「何をやっていることになるのか」に置き換えることで、単純な懐疑論から一歩だけ足を進めることができる、という効用もある。普通の人は「人生の意味」などを問われたら「人生に意味などない」と言ってそれで終わってしまうことになっている。実際、全体としては明らかに意味などないからである。

けれども、どんな観点からしても無意味だったら、毎朝寝床から起きてくることさえできなくなってしまうはずである。でも実際はそんな風にはならない。それは経験的に明らかなことのはずである。たいていの人は、(寝床の中でグズグズしていて寝坊することはあっても)起きて来ないということはない。

ひとくちに「人生」というが、それは本来、内部を持たない点的な概念ではないはずである。それを「人生の意味」とやってしまうと、構造が全部圧し潰されてミソもクソも一緒くたになってしまうわけである。その中にどんな鮮やかな色が混じっていたって、ひとまとめに圧し潰したら何だって無意味な灰色になってしまうのは当たり前である。

日本語の中で用いられる漢語、とりわけ抽象語は得てして(位相幾何学や何かで言うところの)分離性がよくないとわたしは感じている。日本語で哲学がやりにくいというのは、時々言われるような日本語の非論理性のせいではなく、西欧哲学を輸入する際にとってつけた漢語の分離性の悪さに原因があるのではないだろうか。

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