惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「ユーザ志向」の本義(3) (ver.1.1)

2009年03月31日 | 素人哲学の方法
確か前回は「ユーザ志向」という場合のユーザとは、神様よりはよほど悪夢に近い何かだ、というような話だった。

計算機屋の言葉遣いでその悪夢のグワイを表現すると、ユーザというのは「A, B, Cの3択があったら自信を持ってDを選択するような何者かだ」ということになる。どちらかと言えば、計算機屋というのはその「A, B, Cの3択」の方で日々シノギを削っているわけで(職業でなくてもそうなので、職業ならなおさらだ)、そんなことが頭からどうでもよくなるようなDを選択されたら立つ瀬がない。まさに悪夢である。

わたしが2度目に大学に通いだしたころのある日、用あって図書館で文献を検索していたら、その端末機に使われていた可哀そうなPC(ただの端末として大型機の下働きをさせられているPCが可哀そうでなくて何だろうか)の、そのキーボードのESCキーには「このキーを押さないでください」などと貼り紙がしてあった。

ふむ、ここで押さないようではパソコン屋を自称する資格がないな、などと思って押してみたら、ぱっと検索用プログラムが終了してOS(Windows3.1だった)の画面に戻ってしまった。画面上には検索用プログラムを再起動するアイコンとおぼしきものも表示されていたが、せっかくだから(というか、こっちの方こそクリックすると何が起きるかわからないので)そのままの状態に放置して立ち去ったものであった。

帰り道の道すがらいろんなことを考えた。まあこんなものだ。何をつべこべ言いつくろってみせようと、大型機ベースの発想というのはユーザを機械としか思ってないことの、これがその証明みたいなものだというべきだ。「押すな」と書いてあれば押す、絶対押すなと書いてあれば絶対に押すのがユーザなのだ。あの出来損ないの図書検索システムは、そういうことも何も知らないし判ってもいないやつが設計したシステムだったのだろう。おそらくはそのアホなシステムの、デス・スターの排熱孔のごとき弱点を取り繕おうとして図書館事務の人が件の紙を貼ったのだろう、だが、それがまさしく無知の上塗りでヤブヘビだったというわけである。

A, B, Cの3択を提示されたら自信を持ってDを押す、そんな奴はめったにいないと言われれば、それは確かにめったにいない。だが、ユーザは数が多いのである。またそれ以上に「手数」も多い。かくべつの悪意や悪戯心がなくても、ただ操作に戸惑っているうちに怪しいキーを、ついつい押してしまうということだってある、というか、パニックをきたしたユーザは必ず「自爆ボタン」を押すのである。

これは人間心理の中で一番不思議なことのひとつだと思うのだが、それだけは押してくれるなというボタンを真っ先に押してしまうのだ。計算機屋を長くやっていると、目の前でその「自爆ボタン」に手をかけようとするユーザを見かけては、血相変えてその、今まさにenterキー目がけて振り下ろされんとした手を払う、掴み上げる、甚だしい場合はタックルして突き飛ばしさえする、といったことを何度も経験するものである。

それは、単に手が滑ったというような話ではない。いったいどんなヘボなシステムだって、ただ「手が滑った」というだけでディスクのファイルを全消去してしまうような「大事故」は起きないようになっている。しかるべきコマンド行の内容を、わざわざ打たなければ、そんな大事故がそうそう起きたりはしないのである。ところが、まるで死神に導かれたかのように、最後の一文字まで正確にそれを打ち込んでしまうユーザがいる。

なんと言っても決定的なことに、そんな信じられないヘマを、ほかならぬ(計算機の専門家である)自分がやってしまうことさえある。単なる操作手順の誤解でもなければ、言葉にしにくい悪意のたぐいでもないことは、自分でやってしまったことのある計算機屋ならわかる話だと思う。フロイトのいう「死(へ)の衝動」とはこれのことかと思わずにいられないことである。

事実それに近い形でオペレータが悪夢の操作を繰り返した結果起きたのが、30年前のスリーマイル島原子力発電所の事故であったと言われている(言われているだけではない、事実なのだが、改めて詳細を調べて書くのが面倒くさいからそう言うにとどめておく)。

さて、数年後には件のポンコツ図書検索システムもWebベースのシステムにリプレースされた。わたしは大学院生になっていた(笑)。改めてその新品ピカピカのPCを操作してみると、なんたることか、今度はどこをいじってもブラウザ上に実装された検索機能以外のものは、ユーザは決して実行できないようにシステムが作られていたのであった。せっかくのPCなのに電卓もメモ帳も使えない。それどころかブラウザの印刷設定さえ変更できないようになっていた。

羹に懲りて膾を吹くとはこのことではないか、どこまで愚かなものを作れば気が済むのだと思わず天を仰いだ──傍目にはそれは、所望の文献を見つけられなくて立ち往生してしまったバカ学生の姿に見えただろうが──。なるほど今度の開発者は、ユーザが悪夢だということだけは知っている。たぶん、どこかのつまんない本にそういう意味のことが書いてあったのだと思う。そのつまんない本の薦めるところにしたがって彼は、悪夢に介入されかねない隙間をひとつひとつ丁寧に調べ上げ、ついに全部埋めてしまったのである。

いまどき企業や官公庁やその他で「情報セキュリティへの取り組み」などと称されているのも、だいたいはこの調子のものだ。ユーザが機械でないのなら、機械的ならざる操作(つまりこの一文で言ってるところの「D」のことだ)は頭から悉く拒絶してしまえ、というわけである。もっとひどい場合は──つまり、最近の趨勢はということだが──ユーザに向かってただの機械たることを積極的に推奨してくるシステムすら珍しくはなくなった。いわく、機械的ならざる情報機器の操作は「すべからく犯罪だ」という脅しによってである。どこまでも機械扱いである。

機械たることを強要されているのはユーザばかりではない。そういうシステムを作っているエンジニアもそうで、こちらは何かあれば「責任を問われる(=吊るし上げを食わしてやる)」という脅しがかけられているわけである。

それがいいことだと思って従っているエンジニアは少ないと信じたいところだ。またそうしたことを末端のエンジニアにまで強要している企業の方も「法令遵守」の名において脅されているところがあるのは確かだと思う。わたしは経営者ではないから詳しいことは知らない。だが、何かあれば大企業といえども上場廃止だの、下手すれば経営破綻にまで追い込まれることさえあると、明に暗に脅されていれば従わないわけにはいかないだろう。

わたしの素人哲学は、だから、こうした公然たる反文明の脅しが横行するような風潮の中でも「ユーザ志向」を主張し続ける、いや主張はしないとしても──公然たる脅しに対して堂々たる主張で抵抗することは一般に無意味かつ危険である、というのも、そのような公然たる脅しを脅しとして効力あらしめているのは、たいていの場合、その社会の構成それ自体だからである──考え続けることができるものがあるとすれば哲学、それも素人哲学だけではないかと思うところから始まっているのである。



最初のバージョンは今日(Mar.31)の早朝に思いつくまま書き飛ばしたものだったので、どうにも出来がひどかった。それで少しいじってみたが、我ながら一向にうまく書けていない。どうも哲学的絶不調のようである。

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代休ですよ

2009年03月31日 | miscellaneous
休出&徹夜の代休を年度晦日の今日(しかも午後だけ)取っているわたしはアホなのか、そうでもないのか。

ゆうべ書いた「不景気ですよ」あたりを読んだ人は「とうとう気が狂ったか」くらいに思ったかもしれない。ここんとこ挙動不審な文章ばっかり書いてるし。

一応、まだ狂ってはいないつもりである。ああいう、意味も意図も不明な文章を、いや、ほとんどそういう文章ばっかりを、十代や二十代の頃にはよく書いていた。つまり、わたしが一番リラックス(弛緩)して、ホントにただ「書く愉しみ」のためだけに文章を書くとああなるのである。たぶん、この一文もそうなっている。休出したために飲みそびれたヱビスビール500ml也を一本空けて書いているから。

十代後半の当時、田舎の進学校勤めの身には酒もタバコも許されず、カセットテープのA面にduran duran、B面にsyd barrettを入れてかわりばんこエンドレスで聴きながら、ああでもねえこうでもねえと字句を捻って夜を明かすのが、世間並みのセーシュンの一切から見放された、頭悪いつまんない碌でもない受験学生であったわたしの日々の一番のお愉しみだった。計算機や絵筆もコチョコチョよくいじっていたから、唯一の愉しみというわけではなかったけれど。

誰の言い草だったか忘れたが「シュールレアリスムとは遠いものを結びつけることだ」。確かにわたしも勝手にそう思い込んでやっていた。それがシュールの正しい定義かどうかはともかくとして、覚えると愉快なことであるのは確かだ。duran duran → roxy music → brian eno → syd barrettなんて、ちょっと誰も連想しないぜ、なんて、ひとり悦に入っていら──ほかにいったい、十代のわたしに何ができただろう。今考えても、わたしはその時その場で自分に可能であったベストを尽くしていたとしか思えない。

※真偽のほどは定かでないが、enoはsydのプロデュースを申し出たことがあったらしい。
 連想の最後はその噂話から出ている。

書いてるうちにそんな十代の一幕を突然思い出したので、is there something I should know?の一節が突然出てきたり、今は故人となったsydのベスト盤(これに入ってる未発表曲「bob dylan blues」が秀逸だ)を脈絡なく紹介したりしたわけであった。

・・・いや、まあ、ホントに不景気なんですよ。

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夏はまだだが、シド・バレット

2009年03月30日 | pride and joy
何のこっちゃ、という題名だが、わたしは夏になるとなんとなくシド・バレットが聴きたくなる人なので・・・今年は夏が来るのかどうかわからないので、今のうちに。
いや、来るんだろうけどね、夏は。
Wouldn't You Miss Me?: The Best of Syd Barrett
Harvest/EMI
Amazon / tower records
邦盤は廃盤らしく、よって7&Yはなし。

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不景気ですよ

2009年03月30日 | miscellaneous
これもリアフォとポメラのおかげ、ここんとこアクセス数がちょっぴり増えているのは喜ばしい限りのことである。

哲学の方はまたしても開店休業中だが、ニコニコ動画にゆっくり耽溺していた以前と違って、今度のは仕事が忙しくなってしまったせいである。いまどき信じられないと思うかもしれないがこれを書いている今も、休出の上に徹夜して、さらに今日一日、なんだかんだとあってようやく家に帰ってきた。帰りの電車の中で竹田青嗣「人間的自由の条件」(今のわたしにとって、なんと皮肉な響きの題名であることか)を読もうとしたが、さすがに眠いダルいかったるい、理路はおろか文字もろくに追わないうちにウトウトしてくるばっかりで駄目であった。しばらくこんな調子のことが続きそうである。

まあ何だ、もうじきどっかのミサイルが日本の上空を通過するんだか落ちてくるんだとかで、職場でもよく話題になっている。今まで何度もあったようなことにしては、今回は妙に騒ぎが大きいようにも思える。you're about as easy as a nuclear war! ──って、懐かしいフレーズを思い出した。don't say you're easy on me. 不景気ですよ。


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携帯電話とわたくし

2009年03月29日 | 「普通」の世界
こんな題名をつけておいて何だが、わたしは携帯電話を持っていない。電話代も払えないほど貧乏しているわけではないのだが、持っていても使うあてがまったくないから持っていない。

ただ数年前、出戻り学生を続けられなくなって就職活動をやっていた一時期だけは、プリペイド式の携帯電話を使っていた。最初はそれさえ使う気がしなかったのだが、採否の電話を家でじーっとして待っていると、ひとり暮らしの身はマジで気が狂いそうになる(笑)。何もしないで部屋に閉じこもっているのは平気だったりする割に、いつかかってくるか判らない電話を待っていなければならないというだけで、居てもたってもいられない、他のことは何も手がつかないくらいイライラしてくるわけだ。まったく冗談じゃない、たまりかねて一番安上がりなプリペイド携帯電話を購入して使っていた。採否通知の着信専用に使って月千円。それでも高ぇなあと感じたが、まあ仕方がなかった。

ないと本当に困るといった状況ですらそんな調子だったから、確かにわたしは携帯電話が好きではない、というか率直に言って嫌いなのは間違いない。



とはいえ、わたしは世間によくいる「似非インテリのテレビ嫌い」のたぐいとは違うつもりだ。ああいう連中は自分がテレビが嫌いなのはいいとして、どういうわけか必ず、他人と世間に対しても自分のテレビ嫌いを押しつけようとする。テレビでなくても、うかうかするとつまんないラーメン一杯にすら同じ調子のことを言い出す。たとえそれが肩書詐称ではない本物の大学教授であろうと、その上にノーベル賞がつこうとも、わたしはそういう連中を知性とは認めない。学習の進んだ推論エンジンに、目鼻耳や手足の入出力装置がついた出来損ないの知識ロボット、学術論文生産機械にすぎない。

似非インテリが決まって口にするのは「テレビを見るとバカになる」というセリフだ。判で押したように同じこと言うから、このセリフひとつで見分けがつく。ある意味では便利だが、もちろん無意味で愚かな言い草だ。彼らにとってバカの基準が奈辺にあるのか一向に知らないが、少々バカになってもいいからテレビは見た方がいいのは明らかだ。似非インテリのごとき重篤なバカにはならずに済むことだけは間違いないからだ。まあ、もっとも、そのテレビにしたところが、再来年の7の月には滅亡してしまうのだけれども。

わたし自身はケータイ嫌いだが、電車の中でケータイのメールやらゲームやらをカチカチやっているワカモノに顰蹙したりすることは、実はない。理論的にもないし、心情的にもないのである。不可解と感じるかもしれないが、それがわたしだ。同じ電車の中でわたしが哲学書を読んでいるように、彼らはケータイで遊んでいるのだと思っている。あるいは、彼らがケータイで遊んでいるように、わたしは哲学書を読んでいると、自分ではそう思っている。第一、そうと思うこともできないで素人哲学なんぞをやる意味があるだろうか?わたしはないと思っている。

いつだったか電車の中で、隣に座っていた男が目の前のワカモノに大声で怒鳴り散らしていた。ここは禁止区域だからケータイの電源を切れとか、マナーを守れとか何だとか。

いかにも、そのワカモノは不注意だったかもしれない。だが公然と怒鳴り散らされなくてはならないほどの不注意や不品行だとは思えない。仮にわたしが心臓にペースメーカを埋め込んでいたら、ケータイの電磁波が飛んでないか気にするよりは、軽量型の鎖カタビラでも着用して(笑)さながら中世騎士のごときシールド万全の体勢で電車に乗るだろう。ケータイ禁止区域なんぞという電鉄会社の貼り紙などが役所じみた茶番にすぎないことは、最初からはっきりしているからだ。

それよりわたしは、こういう「マナー」を居丈高に言う奴の方がよほど嫌いだ。言っていることの中身も、それを言うこと自体も含めて嫌いで、理屈さえ整えば(なかなか整わないのだが)本気で否定したいと思っている。

だいたい、ふんぞり返って大声出せるくらい元気なくせして、当のその男が座っているのは「優先席」というやつなのだ。禁止区域でケータイをいじってるワカモノに文句を言うなら、お前だってその席を立つがいい──怒鳴られて恐縮してしまったワカモノにかわってそう言いたいくらいだったが、わたし自身がその隣に座っていたもんだから(笑)言えなかった。

要は人と世間に向かってマナーやら何やらを強要する連中は、みんなこれと同じだと言いたいわけだ。自分の名前で著書を出版しても、その中で「自由意志はない」などとぬけぬけ言ってみせる愚劣な脳科学者などとも同じ、自分のことは棚に上げてものを言うのである。

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あとは能登なれヤマトなれ

2009年03月28日 | situation
ことし2009年は「ベルリンの壁崩壊から20年」という年である。

この年を期してわざわざ指折り数えてきたわけではない。いま同じ職場のワカモノ達はたいていそのころ幼児だったわけで、何があったか覚えてない、せいぜい後から周囲の大人に聞かされて知っているだけなのだ。それが愉快で、何かというと当時の昔話──あのころ日本は豊かだった、時折ひどい事件の起こることは今日と変わらなかったが、それ以上にすべてが賑やかで、前向きで、華やいでいた──を、ほんとはどんなに働き詰めに働いていたかというのは内緒にして(笑)話したりしているうちに、今年はベルリンの壁崩壊から何年だというのが口癖のようになってしまっているわけである。

ワカモノの知る由もないことに限って嬉しそうに話してしまう類の、そういう年寄りの愉しみには、しかし内的な代償がついて回るものだ。

思い起こせば1989年のわたしは、この文明世界の先行きについて、現在そうあるほど極端に否定的な感じを抱いてはいなかった。べつに、このまま行けば未来はバラ色だとも思ってはいなかった──中島義道みたいな言い方をすれば、この世界の未来がバラ色だろうがドドメ色だろうがグンジョ色だろうが、わたしの未来はなすすべもなく死んでしまうだけだ──が、この世界からわたしを除いた残余の未来は、あるいはバラ色であるかもしれないと思うことは、まだ時々はあった。

実際、そうとも思えなかったら、人がわざわざ部屋の外に出て働くことでは、己の金銭動機と、それに関連して発生する(無限の)労苦以外の何かを見出すことなど金輪際ありえないとわたしは(これは、昔からそう)思っている。すべてはただ「あさましきことかぎりなし」なこの世界のことだとか何だとか言ってしまえば、哲学も自然科学もへったくれもない、それで何もかも終わりという中央線の快速電車だ。人間到る処にあるのは青山よりもずっとダイダイ色に近い何かだということだ。しかしそう(残余には未来があると)思えるなら、それ自体は、そんなに悪いことでもないだろう。だいたいそんな風に思っていた。それが20年前のことだ。

20年後の今は、とてもじゃないがそんな風には思えなくなってしまっているわけだ。なすすべもなく死ぬのはわたしだけではない、わたしを省いた残余の方もやっぱり死ぬので、それも、うかうかするとわたしより先に死ぬということさえありうるのかもしれない。そう思うようになっている。「未来がない」と感じて気持ちを沈み込ませているのは、その世界に自分の未来を重ねてみたいコドモやワカモノばかりではないのだ。そんな願望を持つべくもなくなっているわたしのような年寄りにとってさえ、文明の現在はいったいどうしてしまったのだと思わずに過ごせる日がないくらいのことになっている。

そこにどんな悪が内包されているにせよ、いないにせよ、文明とはこの世界(個々人にとっての残余)が未来に開かれていること、それ自体のことではなかったのだろうか。そうではないと言われるのなら(確かにこの社会のあちこちから無言でそう強迫されているように、わたしには思えるのだが)、残余に向けたわたしの返事はこの一文の題名のごとき意味不明となるばかりだ。地獄少女にも宇宙戦艦にも恨みなどないのはもちろんなのだが。

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玩具メーカの悪夢

2009年03月26日 | 「普通」の世界
とは、コドモのころのわたしのことだ。コドモのわたしは普通にテレビの大好きなコドモだった。

…いや、いささか常軌を逸して好きだったところが、なかったとは言えない。田舎育ちでもともと娯楽が少ない時代と土地柄の上に、テレビのチャンネルもおそろしく少なかったから、テレビが好きなら「教育テレビの白黒教養番組も辞さず」くらいの意気込みでなくてはならなかった。以前別のカテゴリで書いた「コンピュータ講座」も、そういう中でたまたま見つけて、以後熱中して見るようになった番組だった。

そんな番組を小学生の身空で見ていたなんて、まともなガキじゃなかったんだなと思われたことだろうが、仕方ないのだ。たとえば当時、わたしが見たくてたまらない(ということは、ついに見ることのできなかった)番組のひとつに「怪奇大作戦」というのがあった。小学館の学年雑誌に主題歌のソノシート(!)がついてきたので、聴いてみるとコドモ心にもエライ格好いい歌だと思ったわけだ。毎日聴いてとうとう覚えてしまった。しかし田舎のテレビ局では、その番組はやっていなかった。主題歌は歌えるのに番組の中身がまったくわからない、全然知らない、文字通り「見ず知らず」の番組の主題歌をなぜか歌えて、どういうわけか大好きだ…と、いう、なんとも超現実的な育ち方を、わたしはしてしまったのであった。

要するに本来は、怪獣番組とかロボット・アニメとか、あとプロ野球中継とか、普通に男の子の好きな番組が好きな普通の少年だったのである。「ウルトラマンはなぜ最初からスペシウム光線を出さないのか」とか「宇宙戦艦ヤマトはどうして宇宙空間で爆発音がしたり火災の煙がたなびいたりするのだ」とか、他愛ない不思議に首を傾げて考え込んだり、すべてはまったく普通の少年のすることだった。

そういう中で唯一どうも、これに限って自分はまったく普通じゃなかったと思うことのひとつは、つべこべ言いながらも怪獣番組やロボット・アニメはとにかくたくさん見ていた割に、そういう番組のスポンサーであるところの玩具メーカの製品、つまりその番組のキャラクター商品のたぐいはほとんど何ひとつ買ったことがなかった、ということである。

かくべつ裕福な家に育ったわけでもないが、玩具のひとつも買ってもらえないほど貧乏だったわけでもない。たぶん親にせがめば、それなりに買ってもらえたはずである。けれどもそうしたことがなかった。正直言って別に欲しくなかったのだ。

CMは見ていた。たぶんわたしは一番最初の「超合金」ロボの玩具のCMを、マジンガーZのCMで見ている。他に見るものがない時間帯なら教育テレビも辞さないコドモにとっては、CMだって当然れっきとしたテレビ番組のうちだった。認知度100%である。にもかかわらず、わたしは決してそれらの商品を買わなかった。欲しいと思ったことさえなかった。当時はそんなこと考えてもみなかったことだが、そもそも怪獣番組とかロボット・アニメというのは、スポンサーがその玩具を買わせたくて作っている番組なわけだ。番組だけ見て(しかも大いに楽しんで)そのくせ玩具は一切買わないし欲しくもないというのだから、そりゃもう玩具メーカにとっては悪夢のようなガキだったというわけである。

当時も今も、同世代の間でそういう話になると、わたしはこの件で全員から不思議がられる。人によってたくさん持ってた人も、そうでなかった人もいるのだが、そもそも欲しくなかったから買うこともなかった、などというのはわたしくらいのものなのだ。

「またなんで?」
「だってさ、玩具のマジンガーZが目から光子力ビームを出すわけじゃないだろ」
「そういう問題かよ」
「光子力ビームを出さないマジンガーZなんて偽物だ。偽物は欲しくない」
「本物ってアニメじゃないか」
「そうだ。それが現実であることと本物であることは別だということだ」
「昔っからそういう哲学みたいなこと言ってたのか。嫌なガキだな」
「我が事ながらまったくだ。コドモは嫌だな」

…なんでこんな年寄りじみた昔話を書いてみたくなったかというと、しばらく前からこのblogには広告を表示させているわけなのだが、調べてみると見事にただの1回もクリックされていない(笑)。これも超合金ロボのたぐいだと思って、クリックくらいしてやってもらいたいものである。

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「ユーザ志向」の本義(2)──to err is human──

2009年03月26日 | 素人哲学の方法
間がずいぶん開いてしまったので、前回書いたことを自分でも忘れてしまった(笑)。もちろん、当のページを開けばそこに書いてあるわけだが、前回の終わりからちゃんと続くように書く気がしない。要は書き始めた時点で思い描いていた話の流れを完全に忘れてしまっているのである。

たぶんblogの上で続きものを、しかも複数のそれを同時並行的に書くのは、最初にきっちり構成を立ててどっかにメモっておかないと無理なのだろう。しかし小学校の作文から「構成力のなさだけは天才的」と言われたわたしにそんなお上手なことができるはずもない。内容が存在しないうちからどうして構成が存在しえようか、という形而上学的な問題(笑)もさることながら、最初にきっちり構成を立てたら立てたで、必ずそれを無視して書いてしまう。

というわけでまあ、通し番号はつけているが必ずしも前回の続きではない。また、書いてるうちに以前書いたものと同じような話が混じってくるかもしれないが、それも気にしないことにする。



ともかく今回はこれで書いてみよう、ということで副題をつけた。ユーザ志向ということをひとことで言えとなったら、わたしならこの「to err is human」を掲げるということだ。そういう意味では、これがこのシリーズの結論なのである(笑)。

オチを最初に書いてしまっていいのか。いいのだ。なぜならこの言葉自体は、知っている人は結構たくさんいるはずだが、現実にこの言葉がちゃんと生かされている場面に出会ったためしがないし、おそらく出会うことは決してないように思えるからである。この言葉は直訳すれば「誤ることが人間だ」、つまり人間はミスをするものだということだが、現実に世の中で起きることというのはミスした人間の責任を問い詰めること、つまり「吊るし上げ」の犬畜生扱いばかりである。そのような光景のどこにも人間は存在していない。問い詰める側にも、詰め寄られる側にも。

本当にこの言葉が想起されなければならない場面というのは、たとえば医療過誤のような事故が起きたときである。それがたとえば点滴の袋に間違って消毒液の袋か何かを接続してしまったというようなことであったとすれば、そもそもなんで消毒液の袋が点滴に接続できるような作りになっているのだ、というような形で想起されなければならないのである。消毒液を点滴に接続できるのなら、医師や看護師がくたびれている時は必ず間違って接続されるに決まっている。医師や看護師がくたびれることもできる存在なら、肝心な時は必ずくたびれているに決まっている。「誤ることが人間だ」というのを具体的に言い直せば、たとえば「人間は消毒液の袋を点滴に接続する存在だ」ということになるわけなのだ。

そんなことはあってはならない、というのなら、やるべきことはミスした医師や看護師を吊るし上げることではない。物理的に、消毒液の袋を点滴に接続できないような形に設計しておくことなのである。そしてそれを最初からそうあるべく意図的に設計することができるとしたら、そのような意図を導く考え方が「ユーザ志向」ということなのだ。「ユーザ志向」の考えでは、ユーザはいかなる意味においても神様などではない。次の瞬間にはどんな恐ろしいミスでも軽々としでかす、むしろ悪魔のような存在なのである。

何度も言うが、現実に起きることは吊るし上げだけだ。けれどもエンジニアはそのような血塗れの現実からいっとき、ほんの3ミリほど地面から浮き上がって「そうでない設計」を考えることができる。逆に言えば、大なり小なりそのような考えを意志的に行えるということが(設計に携わる)エンジニアであることの証明なのである。そして、この証明は現実の言葉で書くことができない。

※[後註]実は今日(Mar.26)の早朝にこの(2)は一度公開した。けれども出勤前に読み直してみたら、内容があんまりヒドイ。哲学もへちまもない憶断ばかりだ。そこでいったん封止した。上はその原稿のヒドイ部分を削除した上で、なんとか通る文章に直してみたものだ。これはこれで内容に乏しいのは承知している。封止したまま放っておくのはよくないと思えたので、とりあえずこれだけ公開し直す。後日改めて加筆する。

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「つまんない自然」

2009年03月25日 | 「普通」の世界
なんか期せずして「つまんない自然」という言い方を繰り返している。これは、わたしがもともと持っている考え方というか感じ方のうちで、たぶん一番「普通」ではないもののひとつではないかと思う。

ずっと前のことだが、親兄弟と連れだって上高地あたりに旅行したとき、その風景を眺めて開口一番、わたしが言わずにおれなかったのは「すげえ。あたり一面絵ハガキみてえだ」という一言だった。ホントにそう見えた、というか、何度見返してもそういう風にしか見えなかったのだ。別にひどい光景ではないのだが、絵ハガキを見て感動することはできない。別の言い方をすれば「よくできたCGだなあ」というようなことになる。ああいう風景に美的な何かを感じる心が、コドモのころからわたしにはどうにも皆無なのである。

だからどうだというわけでは、必ずしもないのだが、たまたまそういう心性の持ち主であるために、他人が自然の風景を称賛しているのを見ると、特に書かれた文章の上で称賛していると、そこでその人のアラが全部見える(ような気がする)のである。どうもほとんどの人は自然の風景のこととなると手放しになってしまうところがあって、ほかのことでは緻密だったり難解だったりする書き手でも、そういうことを書き出したとたん、いっぺんに正体が(わたしには)バレてしまうことがある、ということだ。直観的に。

普通とは逆の意味で「大自然って奴は怖えなあ」と思わないわけにはいかないことである。

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おすすめまではしない、が、今読んでいる

2009年03月25日 | 読書メモ
人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
Amazon / 7&Yicon / rakuten

タイトルの通りである。この本の基本的な結論に対して、わたしは非常に大きな違和感を抱いている。つべこべ言っといて結局はエコエコ万歳かよ、というような。

とはいえ、この本はヘーゲル哲学の再評価を含めた入門書として読めば間違いなく優れた本だ。実際、もともとはそういう本として書き始められたもののようである。そういう部分に限れば、これはもう書かれていることの一から十まで賛成したいくらいなのだ。かつてこれほどわかりやすく、しかも著者自身の長年月にわたる読み込みの累積が見事に反映されたヘーゲル入門は(この著者はすでに何度もヘーゲル入門の本を書いているわけだが、その中でも)、他に優れた入門書は数多いとはいえ、そうはないはずである。

著者はわたしなどの何万倍もヘーゲルを読んで来た人だというのは言うまでもないことだし、それを結論が気に食わない(それも、本当に困ったことだが、かなり激しく)というだけで捨ててしまうのは、我ながらあまりに早計だと感じて、もうちょっと丁寧に読み返してみているというわけである。

ヘーゲル入門の見事さと結論のつまんなさのギャップが激しすぎるのは、わたしの読み方がどこか根本的におかしいのかもしれないし、あるいは、この本もある意味で「理想の作り直し」をやっている本だということになると思うのだが、この著者の考え方と自分のそれがどこでどう違っているのかを見極めることができれば、少なくともわたし自身は得るところが多々あるに違いないとみている。このblogの閲覧者には価値がなくとも、わたしはわたし自身に対してこの本の価値を認めている。そういうことである。

まあ、いずれ何か書けそうなことが出てきたら、もうちょっと詳しく書いてみたい。ただし、何がどう転んだってわたしがエコエコ万歳なんぞを認めることは金輪際あり得ない、ということだけは今から断っておきたい。

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何を…

2009年03月23日 | 「普通」の世界
哲学ほったらかしにしてアフィリンクやらバナー広告やらをぺたぺた貼って遊んでおるのか、などと呆れられている頃だろうが、儲けたくてやってるわけでは必ずしもない。だいたいさ、こんなネタのblogにアフィリンクなんぞいくら貼ろうが儲かるワケないっしょ?

そうじゃなくて、どうもこのblog、我ながら字ばっかりで殺風景だなあ、と思うわけである。少しは画像を増やして賑やかにしようとしているだけなのである。

また、これもテレビとマンガで育ってきたせいなのだろうか、つまんない自然の風景やら何やらの画像よりも、誰がどう見ても俗っぽい広告画像の方が、貼ってみると不思議に好ましく感じられるのである。

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理想を作り直す(4)──茶番と革命──(付記)

2009年03月22日 | げんなりしない倫理学へ
本を薦めておいてボロクソにけなすたあどういう料簡だとお怒りの方もいるだろう(スターリンはともかく、レーニンやトロツキーは今でもファンが多いんだよねえ)が、まあそこはどうか許していただきたい。今みたいなひどい(ひどすぎる)世の中で「国家と革命」なんかをぼんやり読んでいると、マジで「夢よ再び」みたいなことをうかうかと考える人が出て来ないとも限らない、と思うわけである。それほど強い魅力を、今なお放っている本だとわたしは思っているのである。ただその魅力を堪能するにしても、哲学思想として、あるいは実践的な理念としてどこが駄目なのかは見極めた上で堪能してもらいたいのである。歴史的な事実は確かに駄目だったのだから。

前と同じ個所をもう一度引用する。

…問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している。

ここだけ読むと、半世紀後のパソコン屋の理想のイメージそのままが語られていると言っても過言ではないのである。ひとくちに「帳簿つけ」などと言ったって、本当の簿記はそう易しいものではないし、それが大企業の経理とか国家規模の予算編成とかになったとき、本当にただの普通の事務員レベルの能力でそれがこなせるかというと、ロシア革命の当時ではすこぶる怪しいというところがあったはずである。また事実できなかったから、ソヴィエト・ロシアはいったん追放したはずの帝国官僚を再び高給と特権つきで雇い入れることを余儀なくされて行ったのである。

「だったら」と、半世紀後のパソコン屋があらぬことを空想してもおかしくはなかったのである。実際、高校生のころのわたしは、かなりそれに近いイメージの未来を空想したことがあったのである。そしてそういう空想に耽っている間は、次のような箇所は読み落としていたわけなのだ。いや読み落としていたわけではないが、ここが重大なのだということに考えが回っていなかった。

社会の全構成員あるいは少なくとも大多数がみずから国家の管理を習得し、みずからこの事業を引き受ける。そして、ほんの一握りの資本家や、資本主義の悪習を維持したいと願う紳士諸君、さらには資本主義に染まって堕落しきった労働者を対象として、監督を「発進させる」すると、まさにその瞬間から、いかなる管理にせよ管理の必要が全般的に消滅し始めるのである。(中略)なぜか。その理由はこうである。全員が社会生産を自力で管理することを覚え、実際にも管理を行うようになり、また寄食者や高等遊民、詐欺師、そしてそれと類似の「資本主義の伝統を保っている者」を調べたり、監視したりするようになると、全国に及ぶこの検査や監視から逃れることなどまず不可能となる。

第五章「国家死滅の経済上の原理」pp191-192より引用

レーニンの見落とした(そして高校生のわたしも軽くみてしまった)ことを補った上で言い直せばこういうことだ。どうして国家の死滅ということがありうるのか。それは国家が有機体(organism)としての構成を持っているから、つまり生き物(organism)だから、死ぬときは死ぬのだというに尽きる。いいかえると、上記引用でレーニンが描写している国家死滅の描像は、「寄食者や高等遊民、詐欺師」などの存在を不可分に組み込んで有機的に構成されていた国家の構成を、資本主義的生産体制のもとで極限まで機械化された(さらに革命的に武装した)労働者集団によって構成される容赦ない冷徹な機械的監視体制に置き換えるということにほかならないものであった。

レーニンはご丁寧にもすぐあとの註記の中で「武装労働者は実生活を送っている人間であり、感傷的なインテリではないので、甘く見られることを許さない」と書いている。なるほど労働者はインテリ的な感傷から監視を甘くするということはないだろう。だが本当は労働者といえども「実生活を送っている人間」としてだけ存在するわけではない。先日紹介した「支配と服従の倫理学」という本の中でも縷々解説されているように、労働者であるかそうでないかにかかわらず、人間はアイヒマン実験のような機械的体制のもとに置かれれば、実生活に根ざした常識的人倫などをたやすく踏み破ってしまうような存在に、誰でも直ちに変貌しうるのである。

もちろんアイヒマン実験は第二次大戦後のアメリカで行われた心理学実験だ。そのもとになったナチスの蛮行とともに、人間がそれほどまでに底の抜けた生き物だとか、あるいは、生き物というのはそもそもそれ自体底の抜けた存在なのだという洞察を、1910年代のレーニンが具体的実践的には持たなかったとしても、無理からぬことだったとは言える。だが本当はごく曖昧になら知られていたはずだ。それは、レーニン自身が私生活では愛好しながらも、実践家としては嘲笑的に無視しようとした「インテリ的な感傷」に満ちたブルジョア文芸の洞察の中に散りばめられていたはずであった。

(この項おわり)

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桜井章一「人を見抜く技術」

2009年03月22日 | 土曜日の本
たまには普通に書評のようなことを書いてみる。
人を見抜く技術──20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」 (講談社プラスアルファ新書)
桜井 章一
講談社
Amazon / 7&Yicon / rakuten
いきなり何だと思われるかもしれないが、わたしにとっては古い馴染みというような名前で、本屋で見かけるとついつい買って読んでしまうのである。

わたしはギャンブル全般がとことん苦手で、競輪競馬もパチンコ・パチスロも、また株とかFXとかも一切やらない。麻雀も、最初に大学生だったころに仲間うちで、ほんのお遊戯で打ったことがあるだけだ。今は友人知人から誘われることがあっても断っている。

ただし誘われるくらいだから嫌いではない(笑)。むしろギャンブル全般が大好きだ。哲学だ科学だなどという辛気くさい、理屈こちこちの世界よりはずっと好きであることは間違いない気がする。しかし大好きだからこそ自分では絶対に打たない。それほど下手で、苦手だという自覚がある。ひとことで言えばポーカー・フェースということが一切できない、全部顔に出てしまうという性質なのだ。打ちはしないが知識で言えば、競馬から統計的推定を、パチンコからプログラミング・トリックを、金融から確率過程や確率システム論を、実はわたしはさんざん学んでいたりする。これも一種の代償行為なのだ。さて麻雀は?

桜井章一氏は人の表情や所作から何事かを「見抜く」ことのプロフェッショナルで、本物である。要は麻雀というゲームはそういう「肚の探り合い」こそが本当の勝負なので、その中でもとりわけ過酷な裏プロの、文字通り真剣勝負の世界を勝ち抜いてきた人物なのだ。実際この人にかかると、素人の打ち手なんぞはもう、それこそちらっと表情を見ただけで(いや、そもそも見られていると気づかないうちに)牌の裏側まで透けて見えるくらい、もう何もかも見抜かれてしまっていたりするらしい。

なんでこんなことをわたしが言えるかというと、かつてわたしが学生として所属していた大学院の研究室には、同じ学生のうちに「雀鬼会」のメンバーのひとりが在籍していたのである。その彼から世間話のついでにいろいろ話を聞いたりしたというわけだ。また、雀鬼会のメンバーが何しに複雑性研究の研究室にいたのかと言えば、だから、実際どうして桜井氏にはそんなことが可能なのか、彼は彼なりに研究者的にアプローチしてみたかったのだろう、と思う。どうも麻雀というゲームはそんな風に、他のどんなギャンブルにもまして複雑性研究者の興味を惹くところがある。いつぞや人工知能の項で書いた通りだ。そんなことは機械にはできないし、できるようになるはずがない。では「なぜ人間にはそれができるのか?」

この本はその第一人者、桜井章一氏本人が自ら、その「見抜く」力についてのあれこれを語った本である。まあそう書いてある。

わたしには人の表情を読む力はまるっきりないのだが、書かれた文章の表情を読むことにかけては、必ずしもまったくの素人ではないつもりである。書かれたものの上にインチキが潜んでいればそれなりに見抜く自信がある。というのも、世間の人はあまり知らないし、知らなくていいことだが、複雑性研究の世界は人々の想像する以上にいたるところトンデモ話に満ち溢れた世界なのだ。そのあたりで真贋を見抜く力がないと、どんなベテラン研究者でもたちまちデンパのてんこ盛りになってしまう。あれはあれで結構怖い世界なのだ。

そういう世界に、専ら学生としてだが十年近くかかわってきたわたしがこの本を読むと、まあ全体の半分くらいは「またまた桜井さん、適当なことを」と言いたくなるような、つまり単なる思いつきのまま書かれたような内容だということにはなるような気がする。そういう部分ではつまり、桜井章一といえどもごく普通の、妻子ある(今やお孫さんもいるそうな)オヤジの人なんだなあ、というところがそのまま出てしまっている。たとえばこんなところ。

自然の生物の擬態と人間のそれとの間には大きな隔たりがある。生物の擬態は生きるため、生命のためであって、それが結果的に自然界のバランスを保つことにも繋がっている。一方、人間の擬態はといえば、擬態することによって本当の自分を見失い、それぞれがニセモノになっていく。よい学校、よい会社へ入るのはいいが、擬態すればするほど、多くの人が自然の摂理に反したニセモノの人間になってしまっているのだ。

本来人間は、自然の摂理に則り、あるがままに生きていかなければならないのに、多くの人がそれとは正反対の生き方をしている。(p.31)

わが国では素人の人が文章を書くと、まあ十割が十割こんな調子のことを、あまり考えもせずにすらすらと書いてしまうし、また書いてしまえることになっている。自然界のバランスというのはここに書かれたような意味のこととはまったく違うのだとか、人間が人間であることは自然の摂理などというものとは何の関係もないのだとか、言っても仕方がないのだが、でも少し考えてみればすぐわかることなのに、「バランス」「摂理」「あるがままに」といった言葉の口当たりのよさ、耳当たりのよさのままに途方もないことを書いてしまう。書くのはいいけど、本人はこれでいいこと書いてるつもりだったりするから、そうだとするとやりきれないというやつである。

けれど残りの半分は違う。上のようなつまんない自然や常識のたれ流しの一方になるかと見えて、残りはやはり桜井章一こそはただ者ではない、たぶん彼でなければ書くことができないような何かが書かれている、あるいは、書こうとしていると思える。うまく書けているかどうかはともかく、読んだわたしが一瞬でも考え込むようなことが書かれている。192ページの半分だからたくさんあるのだが、ほんのいくつか拾ってみる。

  • 学歴に関することだけでなく、なにかにコンプレックスを感じ、過剰な羞恥心を抱えて生きている人には、どこかに無駄な力が入っている。そして、その無駄な力の入る身体部分として私が多く見かけるのは両手の親指だ。親指に力が入りすぎ、反ってしまっている人が多いのだ。(p.19-20)
  • (自然と触れ合っている中で)違和感を感じたとき、はたして違和感はどっちにあるのか? 自分か? 向こうにか? それをまず考える。(p.43)
  • 私は、雀鬼会の道場にいるとき、隅から見ているだけで各卓の流れを全体として捉えることができる。数卓あるテーブルそれぞれで、なにが起きているか全部見えている。しかし、麻雀のDVDを製作したりする際、テレビの画面の中で展開している対局を見てもそこでなにが起きているのかはまったく理解できない。(p.46)
  • 私は女性と歩道などで対峙したとき、なるべく車側に避けるようにしている。これは相手が子どもなどでも同じだ。夜の場合はさらに気を遣う。女性というのは、夜道を歩いているときは警戒心の固まりで緊張感がみなぎっている。(p.56)
…こういう人と麻雀打っちゃいけません(笑)。道理でこの人が現役の間、20年間誰も勝てなかったわけである。

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いわゆる制度のひとつの起源

2009年03月21日 | miscellaneous 2
2日ほど前に曾祖母の思い出話を書いた。一応はただの思い出話なのだが、このblogの考察にも少しは関係があることなのだ。幼児のわたしは交通ルールというのは、それまでは物理法則と同じようなものだと思っていたのである。実はそうではなく、道路というのは信号を無視して渡ることもできるのだということ自体が幼稚園児の世界観にとって衝撃だったのである。

そんなこと当たり前じゃないか、というのは、たとえばわが曾祖母のように、交通信号などなかった(そもそも自動車などめったに走っていなかった)時代を知っていれば、あるいはそのように昔のことを教わっていればこその当たり前で、そうでなければ気づかないことであったりするのである。

いつだったか、青年海外協力隊のようなものに志願して参加したまではよかったが、いざ現地のハッテン途上国に到着したとたん「この国にはコンビニがないのか」などと言って騒いで日本中の失笑を買ったワカモノ達がいたが、わたしは彼らを嗤う気になれない。コンビニなどなかった昔を知らなければ、当然あるべきことではないか。予めそんなことも教えてやらない、自分自身見聞きしたわけでもない南京事件のことなら口角泡を飛ばして議論したりするくせに、どの街にもあるコンビニがいつからどうしてそこにあるのか、その歴史を教えられない大人達の方が、またそのような大人たちが支えているつもりでいる社会と制度の方が、本当はどうしようもなくバカで、世間の失笑に値するほど存在理由を喪失しているのだ。

制度の起源というのはいろいろに言うことができるけれど、たとえばそうしたことも制度の起源のひとつになるのである。これは仮説ではなく実際にそうだということを、わたしは古株のパソコン屋だから自信を持って言うことができる。たとえば今の若いプログラマは、たとえばC/C++言語のプログラムではgoto文を使わない、使うべきでないということを、さながら物理法則のように、つまり幼稚園児のわたしが交通ルールをそのように理解していたのと同じように理解している。ほんとは(妥当なのは例外的なことでしかないが)いくらでも使っていいんだぜ、などとわたしが言うと、まず驚愕の目で見られる。このオヤジはなんという常識外れのことを言い出すのだ、それでもプロか、という目である。

もちろん実際のプログラムでgoto文を使うことは、わたしにしてもほとんどない。年に一度あるかないかのことである。けれどもそれは中学生の頃からいろいろなプログラミング言語を使って、いろいろなプログラムを書いて失敗したり何したりを積み重ねてきた、その経験的な根拠があってそうしているわけだ。だからもし、ごく例外的に、それらの根拠を一切考慮しなくていい、それどころか逆目であるような状況が目の前で生じたら、わたしは躊躇せずにgoto文を使うのである。goto文を使うとソースコードの可読性が損なわれるとか、厄介なバグの温床になりやすいとかいったことは、もちろん原則として正しい理解なのだが、あくまで経験的な原則であって絶対の法則などではない。プロの計算機屋ならむしろ、経験的な原則には必ず例外が存在して、かつ無限に存在する、したがってありうることは必ず起こることだ、という認識の方が大事だと言いたいくらいだ。本音を言えばだ。

だがわたしはもとより親切な人ではない。だから、こんなこといちいちワカモノには教えてはやらない(笑)。今のワカモノは計算機や、そこで対象となっている応用分野のことが好きでプログラマをやってるなんてことは、それこそ「原則として」ありえない、とわかっているからである。彼らの方には聞く耳を持つ理由がないのに、どうしてわたしの方には親切心を抱く理由が生じようか。彼らは専ら制度に沿ってプログラミングを学び、制度に沿って働き、制度に沿って報酬を貰うためにプログラマに、エンジニアになった人達なのである。

制度どころか計算機そのものが日常のどこにも影も形もなかった時代のことを覚えている、トランジスタ回路で加算器の回路図を書くところから積み上げてきたわたしの経験的な理解など、彼らにとっては何の意味も持たないし、持つはずがない。わたしのそれはどうしたって、また一見どんなに些細で他愛ない枝葉の知識であれ、三度のメシより計算機が好きだった少年時代の情熱と無関係のことはひとつもないのである。どうして彼らにそれを再現するところからやれと言えるだろう?しかも、彼らとてそれなりに時間と労苦を重ねて馴染んできたことであろう制度的理解のすべてを反故にした上で?誰がそんなことを真顔で言うのか。俺が?バカもやすみやすみ言ってくれ。

「技術技能の継承」なんて簡単に言うけどさ。二言目にはそんなこと言う奴に限って、こうしたことにはまったく理解が及んでいないのである。本気でそれをするとしたら必要になるはずの哲学は、わたしが今ここで考えようとしている以外では、まだ世界のどこにも存在していないはずである。

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理想を作り直す(3)──茶番と革命──(承前)

2009年03月21日 | げんなりしない倫理学へ
普通にシリーズ化してもろくに続かないくせに、こういう時に限って続きを書いてみたくなるのはなぜだろう。

先に紹介したちくま学芸文庫版「国家と革命」の訳者角田安正は、そのあとがきでレーニンの失敗を専ら「官僚機構の肥大化を防げなかったこと」に見ようとしている。わたしにはそう思える。それ自体はもちろん事実なのだが、官僚機構の肥大化を防げなかったと言ったら、旧ソ連ほど極端ではないにせよ、20世紀の文明先進国の政府はどこでも、大なり小なりそうだというところがあるわけである。わが国とて例外ではない。だいたい、わが国はしばしば内外から「最も成功した社会主義国」だと揶揄的に言われたりするほどではなかったか。

わたしの考えでは、旧ソ連の失敗というより、20世紀の社会主義が理想の実現どころか、かつてない世界的な災厄の元凶のひとつにすらなったことの、その本質的な理由のひとつは、この「国家と革命」にあらわれたレーニンの実践的な方法論そのものにある。つまりソヴィエト革命の成功も、その後の災厄も、ひとしくこの一冊の本にあらわれたレーニンの思想からもたらされたのである。どういうことかというと、

集計と管理は、共産主義社会の第一段階を「発進」させ、正しく機能させるのに必要な主要な要素である。(中略)すべての市民が、国民全体から成る一個の国家「シンジケート」の事務職員および労働者となるのである。問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している。

人民の大半が全国各地で自力で、このような集計を実施し、またこのような管理を、(今や事務員と化した)資本家や資本主義的態度を残しているインテリ諸氏を対象として実施し始めると、それは文字通り包括的、普遍的なものとなり、国全体に及ぶ。それを免れることはできなくなる。「どこにも身を隠すところがなく」なるからである。

社会全体が、労働も賃金も平等な一個の事務所ないし工場となる。

第五章「国家死滅の経済上の原理」pp190より引用。傍点は省略

ぼんやり読んでいると、今でさえレーニンは至極もっともなことを言っているように思える。事実もっともな話であったからこそ、ソヴィエト革命は(革命政権の樹立と、そのもとに置かれた社会の支配には)成功したのだと言える。

なるほど資本主義的生産機構の中の労働者は、その生産機構の(唯物論的な意味で)実質的な過程のすべてを担っていると言っていい。だから革命とは、その上でふんぞり返って収奪を正当化している支配階級の「茶番劇」を吹き飛ばしてやりさえすれば、それでいいのだということになる。レーニンの唯物論的に言えばその茶番劇に生産的な実質などは少しも認められない。だから、革命によって労働者は支配階級の搾取から解放されこそすれ、そこに手に負えない無秩序が出現するということなどありえない。社会の生産的な実質はそれ以前と同様、仕事は勤勉実直、倫理的にも清潔厳粛な労働者達が担い続ける。

職制上の構造に沿って(つまり、直接には上司から)降りてくる支配階級の無意味無内容な御託やら三百代言やらに振り回されることがなくなる分だけ、仕事はむしろはかどるようになるはずだと、レーニンはたぶん本気でそう考えていた。要は「上司がバカだから」というサラリーマンの愚痴を最大限まで引っ張り上げたとしたら、何がどうなるべきかということをレーニンは言っているのだ。

レーニンは何を見逃してしまったのか。簡単に言えば労働者大衆は機械ではない、人間だということを見逃してしまったのである。むろんレーニンにそのつもりはなかっただろうが、彼の唯物論の枠組みにおいては機械と人間存在を区別する究極の根拠は存在していなかった。いいかえるなら、レーニンのハゲ頭の内側では、上記引用のごとき記述が、ブルジョアでもインテリでもない普通の労働者にとってさえ「げんなりする」ような響きをもつ何事かだということが理解されてはいなかったのである。

(もう少しつづく)

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