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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

TRW-S07d (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実(承前)

ここまでの議論からは興味深いパズルが浮かび上がる。すべての意識、意志、意図的な行為はその行為を行う欲望の表現である。そうすると、欲望によらない行為遂行理由がどうやって存在しうることになるのだろうか。欲望によらない理由がどうやって欲望を表現する行為を動機づけることができるのだろうか?答はちょっとばかり複雑であるが、基本的にはこうだ。欲望によらない行為理由の正当性を認識することは、読者が行為を行うことを欲することの基礎を持つことである。人が喜ばしい目標を達成する手段として喜ばしくないことをする欲望を形成することができるという事実は原理的にすこしもフシギではない。わたしにとって歯医者に行くことは嬉しくも何ともないことだが、わたしは歯医者に行こうと欲する、なぜなら実際に欲する何かが存在する。つまり健康な歯をである。歯医者に行くことのわたしの欲望は派生的な欲望である。他の欲望から派生した欲望である。[一方、]約束を守りたいというわたしの欲望はやはり派生的な欲望であるが、別の欲望から派生したものではなく、権利義務的な事実──わたしは責務を負っている──の正当性の認識から派生したものである。

読者がもし、欲望によらない理由に基づく欲望を持つなんてことがあるのか、フシギな言い分だと思うなら、理論的な理由を考えると、それが明らかに起きることが判るであろう。そんなこと信じたくないと思うようなことがわたしにはある。しかしもし一方で、それが真だと判っているならば、わたしはそれを信じることの、欲望によらない理由を持つ。わたしはそれを信じたいと望まないにもかかわらず、それを信じることの根拠を持つのである。実践理性の場合においてはすこしもフシギではない。わたしはさもなくばそうしたいと欲しないあることをする根拠を持つことができるし、またその根拠は、わたしがその正当性を認識するならばそれをすることを欲することの基礎をもたらしうる。

わたしはそれがわたしに欲望の根拠をもたらしうると言っていることに注意しなければならない。しばしば人々は、彼らが欲望によらずにあることをする理由をもつことを認識しつつ、なお彼らがそれをする理由をもつそれをしないものである。欲望によらない行為理由の認識は常にその行為を行う欲望を生み出すわけではない。たとえそうすることの正当性を認識した後でさえ、である。つまるところ、そうした認識は欲望をもたらしうるのであり、したがって行為を合理的に動機づけることができるのである。

かくて我々は等式と導出のひと揃いを得る。我々はこの節の議論を次のような関係にまとめることができる。

  制度的事実=地位機能→権利義務力→欲望によらない行為理由→行為について可能な動機

平易な英語で言えば、制度的事実のすべては地位機能であり、かつ制度的現実だけが地位機能である。地位機能は権利義務力を含み、権利義務力はその正当性が認識される限り、欲望によらない行為理由をもたらす。そしてこれらは行為についての可能な動機となる。

(第7節おわり)

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TRW-S07c (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実(承前)

そして権利義務力はなぜそんなに重要なのか?権利義務力は、わたしが知る限り、人間の社会ならざるところには存在しないあるものを、つまり、欲望によらない行為理由(desire independent reasons for action)を我々に与える。約束をしたとか、あるものが誰かの私有財産であるとか認識した人は彼がある責務を持つことを認識する。その他の権利、義務、責務、必要、権威等々においてもそうである。カリフォルニア大バークレー校の教授として、わたしはありとあらゆる地位機能をもっており、そしてそれらは正負の[権利機能の]いずれにせよ例外なく権利義務力として授課されている。わたしはこの教授室を使用する権利をもち、これから1時間のうちに講義を行う責務をもつ。制度的現実は制度的事実の体系が地位機能を創出し維持することにおいて合理性に封入(lock into)されている。制度的現実において地位機能はさまざまな種類の権利義務力を具現化する。

ふたたび、なぜ権利義務力はそんなに重要なのか?それらは人間の社会をまとめる糊である。糊の力とは何か?人々が地位機能の正当性を認識すれば、彼らはそれが権利義務的な地位を持つものとして認識し、そしてそのことによって、彼らはそれを彼らの直接的な傾向によらない行為理由を与えるものとして認識する。それが糊の力である。わたしはこの考えを地位機能は欲望によらない行為理由をもたらすという言い方に縮めよう。例を挙げてみれば明らかである。もしわたしがミュンスター大学の世話人に対してこの本に寄せる原稿を書くことを約束したら、わたしはわたしの他の傾向がどうであるかにかかわらずそうする責務を持つことを認識する。約束をしたその時点でそんな気になっていたかどうかにかかわらず、自分の傾向にかかわりなくそうする理由があると認識する時はやってくる。わたしが知る限り、人間以外の動物でそんな[欲望によらない行為理由の]ようなものを持つものはない。わたしがわたしの犬を訓練するとき、わたしは彼をわたしの望むところに適合する傾向を持つように訓練するわけである。わたしは彼を、わたしが彼を呼ぶのを聞いたら、わたしが彼にそうしてほしいと思うことをする傾向を彼が感じるであろうように、わたしが彼を呼んだ方角に向かうように訓練する。わたしが[犬に対しては]しないし、できないが、人間に対してなら可能ではあることは、彼に責務の感じを与えることである。もし誰かがある時刻にわたしと会う約束をしたら、わたしの犬とは違って、彼はそれをする理由を持ち、それは彼の傾向によらないものとしてある。なぜ犬は責務によって行為しえないのだろうか?答は、責務によって行為するためには、彼は責務から理由づけられ得なければならず、責務から理由づけられるためには、彼は責務の概念を持たなければならず、責務の概念を持つためには、彼はその概念を表現する言語的な手段を持たなければならない。彼は「責務」ないしその同義語を実際に持たなければならないということはないが、彼は件の概念を表現するための言語的ないし象徴的な装置を持たなければならない。これには複雑な理由が存在する。しかし基本的な考えは、ケモノ(beast)がもつことのできる直接的な感覚的経験からは、責務の概念を表現するための言語的な手段をとうてい持ち得ないということである。

(つづく)

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TRW-S07b (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実(承前)

これらの地位機能はどうやって創出され、また維持されるのか?簡単に答えるなら言語的表象によって創出され維持される。そしてそれは常に明示的な言語行為の形態ではないが、同じ論理的構造を下敷きにしている。それらはすべて前述した意味における宣言型言語行為の形態を持っている。だから我々が誰かを大統領にする、あるいは誰かに学位を授ける、何かをお金として扱うとき、我々は彼を大統領、学士号、お金として表象することによって事態を成立させる(make it the case)。これらの地位機能宣言(Status Function Declaration)──とわたしは呼びたい──は双方向の適合方向をもつ宣言型言語行為すべてがもつ特徴をもっている。それらは事態を表象することによってその事態を成立させるのである。

地位機能宣言の効果(effect)は権力(power)の創出である。我々はお金、政治的構造、私有財産を持つことによって権力を増大させる。地位機能を研究する単純なモデルは人間のゲームである、というのもそれらは人間の生活のそれ以外の側面と切り離して理解することができるからである。たとえば野球における投手、打者、走者はすべてゲームの外では持たないような何らかの権力※を持っている。

この場合「権力」という訳語はどうにも適切ではないわけだが、かといって「力」なら適切だというわけでもない。この文脈におけるpowerはサールにおいて確かに普通の意味での「権力」も含んでいるので、さしあたって訳語は「権力」のままにしている。

これらの権力はどんな種類のものなのだろうか?さよう、それらは「権利」「義務」「責務」「必要」「権威」「許可」などの語でしるしづけられるような、ひとつの特異な力※の集合である。

この「力」もpowerだが、ここはこの訳の方が適切であろう。

これらを表す一般名詞(general label)として、わたしはこれらを「権利義務力(deontic powers)」と呼ぶ。また、これらの権利義務力を具現化するような事実、野球の試合で走者であるとか、合衆国大統領であるとか、ある紙切れは20ドル札であるとかいった事実を「制度的事実(institutional facts)」と呼ぶ。我々は今や関係の状態の集合を設定することができ、さまざまな能力を除いたところの、人間の文明の構造の骨組みを理解することができる。制度的事実の形態における制度的現実は地位機能宣言の形態をもつ言語行為によって創出される。そうした言語行為は地位機能の創出し維持する。また地位機能は例外なく権利義務力をもつ。機能を創出する実際の言語行為は明示的な宣言型言語行為の形態をとる必要がないということを強調することは、たぶん重要である。人はリーダーとして扱われることによって、あるいはそうと認識されることによって、あるいはリーダーとして表されることによってリーダーにされてしまうということがありうる。ただ肝心なのは、そうは言ってもある表出の形態は問題の制度的事実を創出する上で本質的だということである。

(つづく)

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TRW-S07a (ver. 0.1)

2010年12月31日 | TRW私訳
7. 社会的現実

人間は合意、認識、承認によってのみ存在する現実を創出するために言語を用いる。現実はそのように創出される現実──家族、私有財産、お金、政府、大学等々──は人類を他の(わたしが知る)あらゆる生物種から区別する。人間は明らかな(distinctly)人間の文明であるものを創出するために言語を用いると言っても過言ではない。ここからわたしはその考え(notion)について説明しよう。人間(と、他の動物種のいくつか)は対象物に機能を授課(impose)※する能力を持っていて、だからたとえば対象物は道具として使うことができる。

imposeに対する「授課する」という訳語はこのblogの私訳に固有の訳語(つまりは訳者の造語)である。これは、サールの社会的存在論におけるdeontologyが単に「義務」論ではなく、権利と義務が本質的に対としてあるような「権利義務論」と訳すべき語であることに関連している。地位機能として義務や責務をimposeすることは「課する」であるが、権利をimposeするという表現がサールのテキストには実際に存在して、そのばあい訳語は「授ける」が一番合っているように思われる。そうすると地位機能一般についてそれをimposeすることは、権利と義務の両方を包摂する語や概念が日本語に存在しない──と訳者には思われる──以上、「授課する」と訳すのが適切であると考える。

この意味における機能は常に観測者相対である。道具としての機能、家、ボート、武器などは機能が授課された実体の物理的構造として(in virtue of)はたらく(あるいははたらきうる)機能である。だが言語を所与として、人間は対象物や人々に機能のあるタイプを授課する能力を持っている。それは物理的構造としてはたらく機能には似ていない。人が遂行する機能の多くは、たとえば合衆国大統領の機能、お金として使われる(serve)対象物の機能などは、実体の物理的構造としては、あるいは少なくとも実体の物理的構造としてだけではたらくことができないものである。ただの紙切れのうちにお金としての価値が存在するわけではないし、ただの金属片のうちに硬貨としての価値が存在するわけでもない。その男のうちに彼を大統領たらしめている物理的構造が存在するわけでもない。ごく大雑把に言って、お金はそれが価値を持つと人間が考える限りにおいて価値を持つのである。そして、お金の価値の割り当てがとる形態は人間が紙切れや硬貨に割り当てるある地位であり、またその地位によって、その地位の集合的な承認としてのみはたらきうる機能である。わたしはこれらを「地位機能(Status Functions)」と呼ぶ。地位機能は人間の社会を束ねている糊であり、ある意味でそれらは人間の文明の本質的な要素である。お金、財産、政府、結婚、大学、弁護士、医者、夏休み、カクテル・パーティなどはみな地位機能である。これらのすべては制度的事実であり、それらの事実のすべては地位機能の事例である。そうした事例において実体、個人、個人の集まり、過程は地位をもち、またその地位によって、その地位の集合的承認としてはたらく機能である。

(つづく)

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TRW-S05 (ver. 0.1)

2010年12月27日 | TRW私訳
5. 合理性

意識・(集合的)志向性・言語を含む構造によって、人類の最も顕著な特徴を導入することができる。合理性である。もっとも、合理性は他のすべての動物と我々を区別するという意味で人間本性の定義の一部だと考えることは、アリストテレスが実際そう考えたのだが、誤りである。人類は唯一の「合理的動物」ではない。他の動物種も合理性を持っているが、そこには人類の合理性にあるような言語的構造がないのである。どんな志向性であれ──信念・意図・欲望その他─合理性に拘束される。たとえば、ある動物がある信念を持ち、その信念が誤りであると理解したら、合理性は最初の信念を変更することを求める。これが合理性の最小拘束(minimal constraint)である。ここで肝心なのは、人類がいったん言語を持てば、合理性はぐんと多くの拘束を設定し、我々は思考や談話(talk)の構成要素の集合全体をもつようになるということである。それは人間の合理性の構成要素であり、我々が発達させてきた、たとえば帰納的論理、さまざまな蓋然性論理、様相論理等々の、より手の込んだ論理形式の理論の構成要素である。これが肝心なことなのである──そして哲学の伝統が誤ってきた重大な点である──合理性は分離された能力(separate faculty)ではない。思考と言語を持てば、志向性と表現の言語形式を持てば、人はすでに組み込まれた合理性の拘束を持っている。合理性は人間の表象の単なるおまけ(an addition)ではない。それはそれらの形態の構造的な特徴なのである。

もうひとつ、現在への注意と呼ばれるべき重大な点が存在する(? There is another crutial point that should be called attention to now.)。自然は規範をもたない、なにがしか本質的に非規範的であると考えることは誤りである。我々は意識、志向性、合理性がすべて自然の一部であることを見てきた。そして実際、フランス語とかドイツ語とかの個別的な形態を取ることは慣習であるとしても、言語は本質的に、わたしが記述しようと試みてきたような形で自然の一部なのである。そして言語は本質的に規範的である。たとえば読者が何かを主張(assertion)したとすれば、規範は、主張が成功(successful)であるならば真でなければならず、読者はその証拠を持っていなければならず、読者は断言したことを信じているか、さもなくば不誠実(insincere)であることを要求する。また、こうした規範のすべてはまさに主張型言語行為の構造に組み込まれている。まさしく主張型言語行為が発達した人間の志向性に予め組み込まれており、また、まさしく人間の志向性が自然の一部であるように、である。自然と規範性を対照させることは誤りである。大変な誤りである。自然は規範の基礎を含むのみならず、あとで倫理について論じる際に見るように、予め組み込まれた合理性の規範的拘束をも含むものである。志向性が自然現象であるのと同様、知覚、言語、意図的行為の特定の形態もまた自然現象なのである。

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TRW-P04s8 (ver. 0.1)

2010年12月24日 | TRW私訳
8. 結語

サールにおける因果の概念は産出の言葉で分析できることをみた。さらに我々は、低水準と高水準状態の間の垂直因果が、生物学的自然主義に沿っていえば機械論的な部分-全体関係の言葉で説明できることを示した。心的因果の問題に焦点を合わせると、生物学的自然主義にはひとつの問題点が見出される。生物学的自然主義は体系的過剰決定や随伴現象説を回避することができる。不幸にもサールは第3の選択肢である同一性までをも拒否してしまう、ために心的因果の問題は部分的にしか解かれ得ない。サールは意識状態が脳の高水準状態であることによって他の状態を引き起こすことを説明することができる。しかし彼は意識の状態が意識であることによって(つまり主観的・質的・内在的[SQI]であることによって)他の状態を引き起こすことを説明することができない。我々はこの問題を扱うためのふたつの戦略上の修正(repair)を提案した。意識は他の状態を意識であることによって引き起こしはしないという事実を承認すれば、戦略はより確かなものになると我々は考える。[ある意味で随伴現象説を認めるものである]にもかかわらず、我々はこのことが、(現象的ゾンビが形而上学的に可能であるという意味において)意識がまったく無関係であるという主張になるわけではない(need not amount to the claim)と言うことができると考える。この帰結を回避するために、生物学的自然主義に、高水準状態に特化した同一性基準と高水準と低水準状態の間の形而上学的必然性[必然関係]の仮定を組み込むことができる。いいかえると、我々はサールの生物学的自然主義についてひとつの適正な、あるいはそれに十分近いひとつの解釈を提示したのである。

(第4論文おわり)

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TRW-P04s7 (ver. 0.1)

2010年12月23日 | TRW私訳
7. ひとつの提案

最初に受け入れるべきことは、意識の本質的特徴は実際何も引き起こさないということである。その意味で意識は随伴現象的である。そして次は、これが致命的ではないということである。後者は次のように言うことができる。随伴現象説は信じ難い(implausible)、なぜならもし随伴現象説が本当ならゾンビ世界が可能になってしまうからである。このゾンビ世界の住人の行動は現実世界の我々のそれとまったく異なるところがなく、ただ意識[経験]がないのである。生物学的自然主義の言い方では、この世界は主観性-質性-内性[以下SQI]ゾンビが存在しうる世界だということになる。SQIゾンビの神経状態は我々の神経状態が実際に引き起こすものと同じ高水準状態を引き起こす。しかし我々の高水準脳状態とは異なり、SQIゾンビの高水準状態はSQIの特徴を欠いている。SQIゾンビの振る舞いは我々とまったく同じであるが、意識経験がないのである(なぜならSQIであるような高水準状態を持たないから)。

で、我々はこうした結論が次のように回避できると言いたいわけである。つまり、意識状態が(意識であることにおいて)因果的効力を持たないことはSQIゾンビが形而上学的に不可能であるがゆえに致命的ではない、と。この点を支持するために、ふたつの点を以下で論じる。

(1) 低水準状態と高水準状態の間には形而上学的必然性(necessary relation)が存在しなければならない。我々はこの主張はもっともらしいと考える。機械論的に考えるなら、ある低水準状態は特定の高水準状態を形而上学的必然によってもたらす、というのもそれらは部分-全体関係のもとにあるからである。現実世界に存在する部分-全体関係が何らかの可能世界において得られないというのはバカ気たことであろう。*

* ここに、多重実現可能性の問題が生じうる。この問題は低水準と高水準状態が機能的状態であるということによって解かれるであろう。

(2) 意識の高水準状態に対する特別の同一性基準(criteria)について言わなければならない。ふたつの意識高水準状態はSQIの特徴において異なる場合、かつその場合においてのみ異なる。この主張もまたもっともらしいものである。まず、SQIの3特徴をもつことは意識状態と非意識状態を区別する。ここにおいて、ある状態がSQIの特徴を持つかどうかの問いはイエス/ノーの問いである。その状態がSQIのどれかを(少なくともひとつを)持つならば、それは意識状態である。SQIのいずれをも持たないならばそれは非意識状態である。他方、SQI特徴はふたつの意識状態を区別する上で重大である。特にQ[質性]特徴は多くの相(aspects)で異なったものでありうる。この場合、ある状態がSQI特徴を持つかどうかの問いはイエス/ノーのカタチにはならない。この問いはその状態が質的であるかどうかの問いではなく、状態がどんな種類の質であるのかの問いである。したがって、質性はある意識高水準状態と別の意識高水準状態を区別する特徴でありえよう。

以上のふたつの主張が両方とも正しければ、SQIゾンビは可能でないということができる。SQIゾンビが不可能である理由は(上述のふたつの主張に基づく限り)まったく単純なものである。もし仮に高水準状態がSQI特徴をまったく持たなければ、たとえば身体はそのようには動き得ないのである。つまり、意識の本質的特徴SQIは身体動作の産出に関与しないのであるが、にもかかわらずSQIは結果に関係する。なぜなら意識の本質的特徴SQIの違い(change)は高水準状態の違いとなるからである。高水準と低水準の状態の関係は形而上学的必然性の関係であるから、この違いは低水準状態における違いでもある。低水準状態が違えば、産出される身体動作もおそらく(very likely)違ってくる(ある身体動作は、ふたつ以上の神経の低水準状態によって引き起こされるといった場合がありえようが、ここでは無視していいだろう)。手短に言えば、SQI特徴において異なるならば身体動作のような結果においても異なるということである。心的因果を説明する見方として、またその「難」問題に対応するものとしての生物学的自然主義を擁護するために、サールはこの戦略を選ぶべきであることを我々は提案したい。

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TRW-P04s6c (ver. 0.1)

2010年12月22日 | TRW私訳
6. 生物学的自然主義は心的因果の問題を解くか(承前)

意識の還元不能性は問題だろうか?我々は問題だと考える。問題を理解(realize)するには、以前指摘した次のふたつの点を思い出さなければならない。

1.) 3つの特徴(主観性、質性、内性)は意識状態の本質的な特徴として記述された。つまり、主観的で質的で内的でなければ意識状態は意識状態ではない。いいかえると、意識の高水準状態は主観的・質的・内的であることによってのみ非意識(unconscious)の高水準状態とは区別されるということである。
2.) 心的因果の問題は、心的状態がいかにして心的であることによって他の状態を引き起こすことができるのかの問いとして定式化されたものであったことを思い出してほしい。第一の点に関しては、この問いはサールの用語ではこうなろう。「意識状態はいかにして他の状態を内的・質的・主観的であることによって引き起こすことができるのか」。

サールが心的因果の「難」問題(Chalmers 1996, xiii)を解いていないことは今や明らかである。生物学的自然主義は高水準状態の因果的な関連性をとらえることはできるが、意識の高水準状態がいかにして脳の高水準状態であることによって他の状態を引き起こすのかという「難」問題を説明するものではない。あるいは意図は脳の高水準状態であることによって身体動作を引き起こすとは言えるかもしれない。しかし主観的・質的・内的であることがそれらを意識的意図にしているのであるならば、意図は意識的な意図であることによって身体動作を引き起こすと言うことはできない。

我々はサールの生物学的自然主義が心的因果の「易」問題を解くことができると結論する。それは「意識的意図はいかにして身体動作を引き起こすのか」という問いに対して「それはそれが脳の高水準状態であることによって身体動作を引き起こす」と答えることができる。しかし生物学的自然主義は心的因果の「難」問題すなわち「意識的意図はいかにして意識であることによって身体動作を引き起こすことができるのか」に答えることができない。

この答えは明らかに、本来は心的因果の(難)問題を解こうとするものであった説明を満足しない。当初の目標を達成する道はあるだろうか?この難問題を解くために採ることの可能なひとつの戦略を示唆したい。

(第6節おわり)

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TRW-P04s6b (ver. 0.1)

2010年12月22日 | TRW私訳
6. 生物学的自然主義は心的因果の問題を解くか(承前)

1.) 体系的過剰決定
心的な原因は物的な結果を体系的に過剰決定するという主張からはじめよう。サールの用語では、これは高水準意識状態は、すでにある十分な低水準状態に追加して、他の高水準もしくは低水準状態を引き起こすに十分な原因だと見なせるという主張にひとしい(amout to)。サールはこの主張を受け入れるだろうか。答えは明らかに「ノー!」だ。上述の通り、高水準状態は因果的な効力をもつ、というのもそれらは因果的に効力をもつ低水準状態でできている(composed of)からである。結局、低水準にしろ高水準にしろ、ふたつの十分な原因があるわけではない。よって、低水準もしくは高水準状態の体系的因果的過剰決定は回避される(avoided)。
2.) 随伴現象説
だがもし、高水準状態の因果的な効力がまったく低水準状態の因果的効力に還元されるとしたら、高水準状態はいったいどんな意味で原因と見なしうるのだろうか?高水準状態は随伴現象ではないのだろうか?答えはふたたび「ノー!」である。なんで?高水準状態と低水準状態は機械論的な部分-全体関係として説明されることを思い出そう。機械論者は機械の高水準状態は随伴現象でないことに同意するのである。なぜなら全体は、それだけを隔離した場合に部分が引き起こせないようなことを引き起こすことができるからである。クレヴァーの例を再考しよう。脳内の視覚系は対象の動き-方向と色を検出できる。対照的に、視覚系を構成するどの神経細胞も、視覚野の特定の位置にあってはじめて刺激に感応することができるのである。意識状態と神経状態の関係を同様のやりかたで理解するならば、生物学的自然主義は随伴現象説を回避する。
3.) 同一性
サールは以上のふたつの主張のどちらも肯定しないように思える。ところが、驚くべきことに、サールは3番目の主張もまた否定するのである。彼はいう「我々が意識の因果的な基礎を視床やさまざまな皮質層のニューロン発火によって、あるいはクォークとかミューオンとかのあれこれで説明したとしてもなお我々にはある現象が残される」(MLS.55、強調は論文著者による)と。サールは意識の因果的効力がその低水準の基礎ににおける因果的効力に還元されることを認めるにもかかわらず、意識が完全に(wholly)神経活動に還元されるという主張は拒否するのである。なぜなのか?意識状態は神経活動に完全には還元されない、なぜなら前者[意識]は内的で質的で主観的な存在論をもつからである。

(つづく)

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TRW-P04s5-2/6a (ver. 0.1)

2010年12月17日 | TRW私訳
5.2 水平因果
第1の水平因果──ニューロン発火から生理的変化へ──は大丈夫だ、問題ない。我々は第3節でサールにおける因果の一般的な概念を検討し、それが産出概念の一種であることをみた。ニューロン発火と生理的変化の関係は次のように容易に述べられる。ニューロン発火は生理的変化を産み出す。なぜならそれらはなにがしか力場にかかわる実体とか何とかに還元できるのであるから。

第2の水平因果──意図から身体動作へ──は問題含みだ。明らかに、ここに心的因果の問題がからんでいる。いかにして意識的意図は身体動作を引き起こすのか?この問いについてサールはこう言っている。

高水準の原因、全体系の水準は系のミクロな構成要素の水準における原因に何かを追加するものではない。そうではなく、全体系水準の原因は全体としてミクロ要素の因果に因果的に還元可能なものとして説明される(M.208)。

引用部分は上記の問いに対する簡単率直な(straightforward)答を表すものであると思える。つまり意識的意図は身体動作を引き起こす低水準状態の高水準状態として(in virtue of)身体動作を引き起こす。高水準の原因はそのまま低水準の原因だということである。この解は心的因果を解くものだろうか?

6. 生物学的自然主義は心的因果の問題を解くか
心的因果の問題は生物学的自然主義の文脈においては次のような問いとして表現される。「高水準意識状態は他の低水準ないし高水準状態をいかにして引き起こすのか?」もっと端的に、心的因果の問題とはズバリこうである。「意識状態はどうやって意識として他の何かを引き起こしうるのか?」

第2節で、我々は心的因果の問題を(キムの排他論証に依って)次のような3つの主張のどれかを選ぶ必要があるものとして提起した。

(1) 心的状態は物的状態を体系的因果的に過剰決定する
(2) 心的状態はただの随伴現象にすぎない
(3) 心的状態はある物的状態と同一である

サールによれば、以上の3つは3つとも駄目なのである。彼によれば、彼の生物学的自然主義はこれらの3つのどれかを選ばなければならないものではないのである。サールによれば、生物学的自然主義は第4の、また別の主張なのである。本当だろうか(上記の3つの主張ではなしに、生物学的自然主義は心的因果の問題を解くのだろうか)?

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TRW-S00b (ver. 0.1)

2010年12月12日 | TRW私訳
第1部序(承前)

伝統的な哲学の問題としては、この問題は多くは心身問題のような形で論じられてきた。その他の、社会的存在論の本性のような問題は伝統的な哲学ではそれほど論じられては来なかった。全体的なアプローチは、伝統的な哲学にせよ現代哲学にせよ、哲学的な問いを異なる光のもとで鋳直すものである。なぜなら我々は、哲学における先人達のように認識論的な発見とか懐疑論の克服とか知識の可能性の極限とかいったことに、もはやとらわれてはいないからである。我々は今や宇宙の基本的な構造の知識を当たり前のものと見なすことができる。そして、いかにしてこの枠組みに我々の自己の概念を適応させる(accommodate)か(適応させられるなら、であるが)を問うのである。

それはわたしの理解する限り、哲学における現在の課題である。たぶん最後には我々が最も大事にしてきた仮定、たとえば自由意志のような仮定のいくつかを諦めなければならない。たぶん我々は現実の全体的な概念が、我々は本物の意志の自由を持つという我々の信念と矛盾しないようにすることはできない。この哲学プロジェクトは、わたしがそう書いたことがある通り、一生涯を上回る規模のものである。しかしこの機会に我々がそのプロジェクトの発展のどのあたりにいるのかをまとめておくことは価値あることでありえよう。プロジェクトのある部分はより易しい。それらには科学的難問がつきまとうものだとしても、少なくとも哲学のかかわる側面においては易しいのである。またある部分はより難しく、たぶん最後には求解不能だと証明されることになるだろう。ただいずれにせよ、わたしは今やわたしがそのプロジェクトに関して仕事をしていると思っているところをまとめようとしているのである。

我々はこの途方もなく大きな宇宙の中にいる。その宇宙の大部分はからっぽであるが、しかし天文学的な数の分子を含んでいる。その分子は原子から、原子は素粒子から構成されている。そして分子の大部分はより大きな系の一部である。それから我々の小さな惑星においては、あるいは他の似たような太陽系の似たような位置にある惑星においては、すべての惑星において同じ時期に起きる必然性のない驚くべきことが起きる。生命の誕生である。それは我々の理解における最初の欠落である。我々は生命の起源を理解していない。我々はいつどこでどのようにして我々の惑星の上に生命が誕生したのかを知らない。しかし我々はそれがとにかく始まりを持つものであり、進行するものだということを当然のこととみなす。そこで、再び我々の小さな惑星に話を限定すると、30ないし50億年にわたって生命は現在あるような形態のすべてに進化してきた。我々が持つものは単なる物理的な粒子系ではない。それらの系のあるものは生きている。それらは主に炭素化合物、窒素、水素、酸素を大量に含む炭素化合物でできている。周知の通り、これらの生命形態は現在の植物および動物種となるまでに進化したのだということを仮定しよう。次の発達は哲学的問いの目録の中で最初の重大な問いを提起する。それは心的現実のはじまりということである。

(第1部序おわり)

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TRW-S00a (ver. 0.1)

2010年12月12日 | TRW私訳
基礎的な現実と人間の現実*
ジョン・R・サール

* この本の中のわたしの著作の初期版に意見を述べてくれたダグマー・サールとベアトリーチェ・バルフォアに感謝したい。

ミュンスター大学で講義したとき、つまりこの本のもとになった会議の最初に、わたしは社会的存在論について、特に社会的制度的な現実、つまりお金・政府・結婚等々の現実について論じた。講義のあとわたしはMSWを出版し、そこではこれらの事柄についてずっと長く論じているわけである。すでに出た本の内容を繰り返すのも何だし、また本書の中の様々な議論を聞き、あるいは論文を読んだ後で、わたしの哲学的な立場一般について、つまりわたしの著作がそれに基づいているところの、また本書中の論文で採り上げられた様々な事柄に対する全体的な方針について述べるのはよい考えだと思うようになった。ミュンスター大学で述べたことを繰り返すかわりに、わたしはわたしの哲学探求*の全体像を論じることにしたのである。

* この入門編の内容と議論は以下の著作にもとづく: SA, EM, I, MBS, CSR, RA, M, MSW

現代という時代において、哲学にはひとつの優先的な(overriding)課題が存在するように思われる。文字通り何十年も哲学をやってきた後で、わたしはわたしが扱ってきた問題とはそれなのだと思うようになった。さしあたり準備的な定式化として、我々自身が持っているある概念と、過去3世紀にわたってなされてきた知的な進歩によって世界について我々が実際に知っている我々人間の現実を和解させること、それがここでの問いだといえるだろう。もっと詳しく説明すると、問題はこうだ。我々は物理や化学といった分野(subject)から、世界がまったく「物理的粒子」──というのは正確ではないとしても、便宜上──と呼ぶ実体から構成されているということを知っている。わたしは物理と化学の歴史における特定の段階を、これ以上の変化や進歩がないものとして支持する(endorse)わけではない。しかし、大きなものはより小さなものからできているという基本的な考え方は、わたしがそれを当たり前のことと見なすほどによく確立されている。これらの「粒子」は力の場にあって、それらが系をなしている(be organized into systems)ということを我々は知っている。これらの系の境界は因果関係によって設定される。分子、銀河、赤ん坊はすべてそうした系の例である。現実についての我々の図式は、何であれわかっている限りでは、現実世界はその基底においてまったく心を持たない、意味もない物理的実体で構成されているというものである。しかし我々は、一見したところでは、こうした現実と一致させる(square)ことが困難であるような自分(oneself)という概念を持っている。なかんづく我々は我々自身を、意識をもつものだと思っている。意識によって、我々は我々自身を志向性を持つものだと思い、また意識と志向性によって我々はその他の顕著な特徴を持つものだと思っている。言語、合理性、自由意志、社会、倫理、美、政治的責務、社会的制度。我々の問いは、その最も一般的な形式では、こんな風に言える。我々はいかにして、我々が事実として正しいことを知っている現実の概念、物理や化学、あるいは他の自然科学によって記述される基礎的な現実が、我々が日常を生きている現実の概念、人間の現実と矛盾しないと言うことができるのか?手短に言えば、わたしはそれが基礎的な現実人間の現実の和解のあり方のひとつだと言いたい。そして我々の問題は単に人間の事実が基礎的な事実に矛盾しないだけではなく、それらがいかにして基礎的な事実から自然に発達したものであるかを示すことであると言いたい。物理や化学の基礎的な現実を所与として、我々は意識、社会、合理性、言語、道徳的責務、美的快楽が存在することがいかにして可能であり、実際に必然的であるのかを示すべきなのである。

(つづく)

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TRW-P04g (ver. 0.1)

2010年12月09日 | TRW私訳
5.1 垂直因果(承前)

神経生物学における部分-全体関係の例を考えてみよう。その著書「脳の説明(2007)」の中でカール・クレーヴァーは次のような「機械論的」部分-全体関係に言及した神経生物学による説明の例を論じている。対象物のカタチや動きを識別する視覚系(全体)の能力は神経(関連する脳の部品)活動によって説明されるという。

視覚系を構成するどの細胞も、その個々を取り出せば、棒(対象物)のカタチや向き、動きなどを検出することはできない。その作業はいくつかの機能的に区分された脳領域を横断した無数の神経細胞の組織された努力を必要とする。神経細胞が正しく組織されたとき、それらは視覚刺激の特徴に強く相関する活動パタンを生成する(Craver 2007, 214f)。

この事例の哲学的含意はどういうことになるだろうか?我々は意識と脳の関係について次のような再構築を提案する。それは機械的な部分-全体関係である。我々は機械論的な部分-全体関係を次のふたつの条件によって特徴づける。

(1) 部分-全体: 意識状態cは全体系と見なされる脳の状態であり、また神経状態n1, ... , nnは(時間-空間的な)脳の部品の属性である。
(2) 垂直因果: 意識状態cは脳の部品n1, ... , nnの相互作用によって引き起こされる。つまりcを産出する機構が存在する。

最初の条件から、神経細胞は脳(全体)の部品である。第2の条件は単なる階層的集合から機械論的な部分-全体関係を区別する、というのも部品の属性は全体の属性に因果的に関連づけられるからである。もしこれがサールのいう「垂直因果」の適切な再構築であるならば、それは機械論の生物哲学者や神経科学者(Machamer, Darden & Craver 2000; Glennan 2002; Craver 2007)の鍵となる着想に驚くほどよく対応することになる。それらの差異にもかかわらず、機械論者は次のようなことに同意する。

(a) 「機械論」は系(全体)とその構成要素(部分)に言及する
(b) 部分と全体の間に因果関係が存在する

条件(b)はいくらかの改善を必要とすることに注意しなければならない。同時的な部分-全体関係は因果的ではなく、全体はその部分から構成されるのである。にもかかわらず、この構成的関係によって時刻tにおける部分間の相互作用は全体系の状態を、そのあとの時刻t*において引き起こす。サールの生物学的自然主義に対する我々の再構築について、我々は単に後者の通時的(diachronic)な意味における全体と部分の因果関係を要求する[つけ加える]にすぎない(Craver 2007, ch.4-5)。

我々の垂直因果の再構築は、サールとってふたつの魅力的な利得(pay-offs)をもっている。
(a) 彼(サール)は非時間的な因果が実際に可能だという反論されやすい主張に縛られずに済む。
(b) 彼は機械論の生物哲学者と神経科学者に賛同することになる。機械論者達は時間次元のかかわりが存在することを明に是認している(Craver 2007)。

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TRW-R05b (ver. 0.1)

2010年12月09日 | TRW私訳
第5論文への返答(承前)

著者らはデタラメさの別の定義をOEDからとって考えている。それによると特定の目的や目標を持たない出来事はデタラメだということになる。著者らは予測可能性についてしたのと同じ間違いをやっている。著者らは目的や目標を持つことが因果的な十分条件を設定するものと考えている。そうする必要などないのである。わたしはわたしの行動がデタラメでない目的や目標に沿ったものであると保証するに十分であるような多くの目的や目標を持つ。しかしわたしの行動はだからと言って決定されるわけではない。手短に言えば、予測可能性と定まった目的・目標を持つことは決定論を保証するに十分ではないのである。わたしの目的や目標はそれ以外ではないあるやり方で行動すべくわたしを傾向づけ、したがってそれを引き合いに出すことはわたしの行動の予測を促すだろう。しかしこれらのいずれも決定論を導くものではないのである。

著者らは自由意志の迷路から脱出する方途を示唆するに、スキマ(gap)が自己(self)において閉じており、自己はスキマ(gap)を埋め、行為の十分条件をもたらすと考える。そして著者らはこの仮説が自由意志の問題の両立説による解をもたらすものだと信じている。わたしの行動は決定されるが、自己によって決定されるのであり、したがってそれは自由なのだというように。著者らは矛盾している。意識的な自己は世界の一部なのか、そうではないのか。もし世界の一部であるなら、それはスキマ(gap)を埋めてしまい、人間行動の因果の問題についての決定論的な解をもたらすだろう。一方、意識的な自己が世界の一部でないなら、それはまったくの神秘だということになる。

わたしは以上のすべてが混乱していると信じる。著者らがいう「自己」がわたしの個性や傾向性といったものを意味しているとすれば、それだけなら人間の行為を説明する問題に決定論的な解を与えはしない。なぜなら、前述した通り、わたしの個性や傾向性はわたしにある種の行為をなすように傾向づけるような行為理由を与えるかもしれないが、それは因果的な十分条件にはならないからである。ライプニッツの表現をかりると(ライプニッツはそんなつもりではなかっただろうと思うのだが)そうした理由は「未必の傾向づけ(incline without necessitating)」なのである。

わたしは著作の中で、自己の純粋に形式的な概念を導入している。反省、合理的意志決定、引き続く行為を説明するためには、これらすべての、また他の特徴の主語である、ある共通の実体を前提しなければならない。しかしこの意味における自己はもうひとつの過程とか対象物などではない。知覚において我々はある観点を前提しなければならない。その観点が知覚されないものであったとしてもである。それと同様に、合理的な意志決定や行為の意識において、我々は自己を前提しなければならない。自己なるものが意識の対象物ではないと解釈されるとしてもである。たぶん著者らはわたしのとは異なる自己の概念を持っている。それによれば自由意志の問題の両立論的な解を与えることができるのかもしれない。しかしそうだとしても、彼らはこの自己の概念についてはっきり説明していない。もし著者らがわたしの自己の概念を議論しているのだとすれば、その自己はこの役割を満たしえないものである。

著者らは正しくも自由意志が本気で取り組むべき問題として存在することを理解している。しかし著者らがそれに本気で取り組んでいるとはわたしには思えない。スキマ(gap)を埋める何かとして自己を仮定するのは適切ではない。スキマ(gap)を埋めるものなどないのである。実際、自己の存在を仮定する理由のひとつは正確にスキマ(gap)の経験である。自己は因果的に機能するのだろうか?自己についてはいくつかの異なる概念が存在するが、しかしわたしが用いる意味で自己の概念を用いる限り、その問いはすでにしてマチガイを含んでいる。自己とは因果的な属性に意味を与えるような実体につけられた名前ではない。自己は行為、判断、責任、意識の調整、理由づけ等々の他のデータを説明するために必要とされる形式的な条件にすぎないと考えられる。自己とは、この意味で言えば、行為の原因などではないのである。むしろ自己とは、それによって実際の原因が行為を生み出す形式的な構造だというべきである。わたしは理由について反省し、それによって決意し、それから行為するのである。一連の原因は「わたし」という原因を含んでいない。「わたし」は、実際の原因が効力を持つようになる形式的な構造なのである。しかしながらわたしが記述してきた道筋では、原因はそれが因果的な十分条件を与えるどんな場合でも必要条件を与えない。そしてそれは我々が引き続き自由意志の問題を持つということの理由のひとつなのである。

(この節おわり)

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TRW-S08c (ver. 0.1)

2010年12月08日 | TRW私訳
第1部第8章「倫理学」(承前)

3) 倫理の3番目の特徴は普遍性である。それはすでに言語の構造に組み込まれている。人が、他の人々が彼自身を助ける倫理的な責務のもとにあると認識する限り、正確にその限りで、行為理由の言語的形式は、彼が彼自身似たような状況にある他者を援助する責務のもとにあるということを論理的に必要とする。欲望によらないことと普遍性はこうして倫理の論理的本性へと組み込まれる。このことは実際の例で考えてみればわかる。読者がケガをして痛んでいるとして、そのことは他の人々があなたを助ける道徳的理由だと思うのであれば、あなたの発話の論理形式はあなたを似た状況──誰か他人がケガをして痛んでいるような──においてあなたが彼を助ける道徳的責務のもとに拘束(commit)する。言語の生の普遍性は似た場合を似た記述とすることを要求し、それは、あなたが生じさせたある特徴によってあなたがあなた自身に与えた理由が、その特徴を生じさせた誰に対してでも一般的に適用されることにつながる。

たぶん強調すべき重要なことは、倫理のこの説明は我々に道徳的に受け入れやすい倫理的規則をもたらすものではないということである。わたしはある形式的な特徴を見定めたのであって、これらの条件を満たした上でなおひどく悪い(evil)倫理的規則をもつことは完全に可能である。わたしはここで倫理的規則の特定の形式を規定(prescribe)しようとはしていない。そうではなく、すべての倫理的規則が共通に持ち、わたしが与えてきた人間の生と社会の説明から自然に導かれるとわたしが考えるある特徴を記述(describe)しようとしているのである。もし「自然に導かれる」ということが推移的関係の名前であるならば、重要事にかかわる社会的行動を規制する標準の集合という意味での倫理は物理的粒子の振る舞いから自然に導かれるのである。

(第1部第8章おわり)

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