7. 社会的現実(承前)
ここまでの議論からは興味深いパズルが浮かび上がる。すべての意識、意志、意図的な行為はその行為を行う欲望の表現である。そうすると、欲望によらない行為遂行理由がどうやって存在しうることになるのだろうか。欲望によらない理由がどうやって欲望を表現する行為を動機づけることができるのだろうか?答はちょっとばかり複雑であるが、基本的にはこうだ。欲望によらない行為理由の正当性を認識することは、読者が行為を行うことを欲することの基礎を持つことである。人が喜ばしい目標を達成する手段として喜ばしくないことをする欲望を形成することができるという事実は原理的にすこしもフシギではない。わたしにとって歯医者に行くことは嬉しくも何ともないことだが、わたしは歯医者に行こうと欲する、なぜなら実際に欲する何かが存在する。つまり健康な歯をである。歯医者に行くことのわたしの欲望は派生的な欲望である。他の欲望から派生した欲望である。[一方、]約束を守りたいというわたしの欲望はやはり派生的な欲望であるが、別の欲望から派生したものではなく、権利義務的な事実──わたしは責務を負っている──の正当性の認識から派生したものである。
読者がもし、欲望によらない理由に基づく欲望を持つなんてことがあるのか、フシギな言い分だと思うなら、理論的な理由を考えると、それが明らかに起きることが判るであろう。そんなこと信じたくないと思うようなことがわたしにはある。しかしもし一方で、それが真だと判っているならば、わたしはそれを信じることの、欲望によらない理由を持つ。わたしはそれを信じたいと望まないにもかかわらず、それを信じることの根拠を持つのである。実践理性の場合においてはすこしもフシギではない。わたしはさもなくばそうしたいと欲しないあることをする根拠を持つことができるし、またその根拠は、わたしがその正当性を認識するならばそれをすることを欲することの基礎をもたらしうる。
わたしはそれがわたしに欲望の根拠をもたらしうると言っていることに注意しなければならない。しばしば人々は、彼らが欲望によらずにあることをする理由をもつことを認識しつつ、なお彼らがそれをする理由をもつそれをしないものである。欲望によらない行為理由の認識は常にその行為を行う欲望を生み出すわけではない。たとえそうすることの正当性を認識した後でさえ、である。つまるところ、そうした認識は欲望をもたらしうるのであり、したがって行為を合理的に動機づけることができるのである。
かくて我々は等式と導出のひと揃いを得る。我々はこの節の議論を次のような関係にまとめることができる。
制度的事実=地位機能→権利義務力→欲望によらない行為理由→行為について可能な動機
平易な英語で言えば、制度的事実のすべては地位機能であり、かつ制度的現実だけが地位機能である。地位機能は権利義務力を含み、権利義務力はその正当性が認識される限り、欲望によらない行為理由をもたらす。そしてこれらは行為についての可能な動機となる。
(第7節おわり)
ここまでの議論からは興味深いパズルが浮かび上がる。すべての意識、意志、意図的な行為はその行為を行う欲望の表現である。そうすると、欲望によらない行為遂行理由がどうやって存在しうることになるのだろうか。欲望によらない理由がどうやって欲望を表現する行為を動機づけることができるのだろうか?答はちょっとばかり複雑であるが、基本的にはこうだ。欲望によらない行為理由の正当性を認識することは、読者が行為を行うことを欲することの基礎を持つことである。人が喜ばしい目標を達成する手段として喜ばしくないことをする欲望を形成することができるという事実は原理的にすこしもフシギではない。わたしにとって歯医者に行くことは嬉しくも何ともないことだが、わたしは歯医者に行こうと欲する、なぜなら実際に欲する何かが存在する。つまり健康な歯をである。歯医者に行くことのわたしの欲望は派生的な欲望である。他の欲望から派生した欲望である。[一方、]約束を守りたいというわたしの欲望はやはり派生的な欲望であるが、別の欲望から派生したものではなく、権利義務的な事実──わたしは責務を負っている──の正当性の認識から派生したものである。
読者がもし、欲望によらない理由に基づく欲望を持つなんてことがあるのか、フシギな言い分だと思うなら、理論的な理由を考えると、それが明らかに起きることが判るであろう。そんなこと信じたくないと思うようなことがわたしにはある。しかしもし一方で、それが真だと判っているならば、わたしはそれを信じることの、欲望によらない理由を持つ。わたしはそれを信じたいと望まないにもかかわらず、それを信じることの根拠を持つのである。実践理性の場合においてはすこしもフシギではない。わたしはさもなくばそうしたいと欲しないあることをする根拠を持つことができるし、またその根拠は、わたしがその正当性を認識するならばそれをすることを欲することの基礎をもたらしうる。
わたしはそれがわたしに欲望の根拠をもたらしうると言っていることに注意しなければならない。しばしば人々は、彼らが欲望によらずにあることをする理由をもつことを認識しつつ、なお彼らがそれをする理由をもつそれをしないものである。欲望によらない行為理由の認識は常にその行為を行う欲望を生み出すわけではない。たとえそうすることの正当性を認識した後でさえ、である。つまるところ、そうした認識は欲望をもたらしうるのであり、したがって行為を合理的に動機づけることができるのである。
かくて我々は等式と導出のひと揃いを得る。我々はこの節の議論を次のような関係にまとめることができる。
制度的事実=地位機能→権利義務力→欲望によらない行為理由→行為について可能な動機
平易な英語で言えば、制度的事実のすべては地位機能であり、かつ制度的現実だけが地位機能である。地位機能は権利義務力を含み、権利義務力はその正当性が認識される限り、欲望によらない行為理由をもたらす。そしてこれらは行為についての可能な動機となる。
(第7節おわり)