惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

Henry Leuba「A Psychological Study of Religion: Its Origin, Function, and Future」

2012年05月27日 | 読書メモ
わたしの「思いつきモデル」によれば人間の社会というのは経済と政治と宗教(文化)の三極の力学として眺められるはずだということになっているわけである。

しかし経済と政治はともかくとして、そもそもわたし自身は無信仰のバチ当たりなので、宗教というのは皆目判らないわけである。出戻り大学生のころに橋爪大三郎センセイの「宗教社会学」の講義を聴いたことはあって、色々タメにはなったのだが、結局何なのだろうというところまで自分の理解を深めるには至らなかった。要は本気で関心を持つということができなかったわけである。実生活上でも何のリアリティもない上に、計算機屋が複雑性の科学をやろうとしている段階では、知的な関心がそこまで届くということもありえなかった。

で、まあ、今になってようやく自分自身の関心がそちらの方にさしかかってきたことで、宗教社会学とか宗教心理学とかいったあたりから改めてちょっとずつ調べて行こうとしているわけだが、前者は例によってマックス・ウェーバーの方から、後者については(調べた結果)まずはこれなのか、ということになった。この本の付録にはカントやヘーゲル以下、欧米の哲学者や宗教学者その他による48通りの「宗教の定義」が網羅されているわけである。

なんでこの本を紹介するかというと、この本が出版されたのはちょうど百年前の1912年で、すでに著作権とかは切れていて、Web上から正々堂々PDFでダウンロードできるからである。Amazonとかで本になったものも買えるが、案外お高い(笑)。

  A Psychological Study of Religion: Its Origin, Function, and Future (Open Library)

翻訳はないのかって、戦前に一度翻訳されたことがあるのだそうだが、そんなものは手に入らない。入ったところで読めるとも思えない。

ちなみにこの本より大規模な、実に104通りもの定義を集めたもの(もちろんこれも付録)が1961年にわが文部省から出版されていたりする。

  岸本英夫、文部省調査局宗務課編「宗教の定義をめぐる諸問題」(1961)

この本、Amazonで検索すると見出しはあるのだが、古書を含めて取り扱いがない。わが国の宗教科学(ちゃんとそういう学問分野があるのだということを、これを調べていて初めて知った)における古典的な重要文献だと思われるのだが、入手できないというのは困ったものである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポール・コリアー「民主主義がアフリカ経済を殺す」(日経BP社)

2012年05月09日 | 読書メモ
icon
icon

哲学書なんていうのはそうそうスイスイ読み進められるものではないわけで、もうちょっとスラスラ読める本も読みたいと思ってこういう本を買ってみた。

原題は「Wars, Guns, and Votes」で、邦題がいかにも人を煽るような、センスのないものになってしまっているのは遺憾なことだが、しかしこの本の内容は実際に、冷戦以後、アフリカを中心として世界中の貧困国が競って導入してきた民主主義的体制が、機能してない場合は(たいてい機能していないのだが・・・)どんな風に機能していないかをイギリス人の開発経済学者がその専門の知見と調査研究能力をフルに発揮して論じた本である。その意味ではこの邦題は中身には合っている。

わたし自身はアフリカ大陸の政治経済には特別強い関心は持っていない。私的にも職業的にも持つ理由がないといったところだ。それでもこの本を読んでみようと思ったのは、日本はもちろん他の先進諸国にとっても、本当を言えば「民主主義社会の未来をどう考えるべきか」いま改めて再考しなくてはならない時期に来ていると思っているからである。確かにこの本の中に出てくるアフリカ諸国の「民主主義」の惨状たるや目を覆いたくなるものがあるわけだが、よくよく読んでみれば程度がひどいだけで、読めば何事かは理解できる程度に、この惨状は我々の過去か現在か、あるいはひょっとすると未来の惨状でもあるような気がしてくる。

まだ読み始めたばかりなので全体の感想は書けないが、今日読んで面白かったところを引用しておく。

私たちは、所得レベルが少なくとも中程度の国では、民主主義が一様に政治的暴力のリスクを抑制することを発見した。ここでは、アカウンタビリティーと正統性という角度から、民主主義が社会に平穏をもたらすという予測は証明された。ところが低所得国では、民主主義は社会をいっそう危ういものにしていた。まるで貧困だけではまだ足りないとでもいうかのように、民主主義のもたらした影響が傷口に塩を塗っていた。貧しくない社会では、既に比較的安全な状況を民主主義がいっそう強化するのに対し、貧しい社会では元から深刻だった危険が、民主主義によってさらに増幅されるのだ。

民主主義が貧しい社会をいっそう危険に陥れ、しかし貧しくない社会では安全をいっそう強化するものだとすれば、正味の影響が出ない閾値となる所得水準がどこかにあるはずだ。これが1人当たり年間2700ドル、1日7ドルの所得ラインだ。最底辺の10億人が住む国の所得はすべてこの閾値を下回るばかりか、その大半の国ではさらにずっと低い。

(第一部 現実の否定としてのデモクレイジー, p.28)

この本の訳者に対してひとことだけ言ってみたい。「アカウンタビリティー」くらい日本語で書いてくれ。適訳がないというなら翻訳業者の誇りにかけて適訳を作ってみせてもらいたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門脇俊介「理由の空間の現象学──表象的志向性批判」(創文社)

2012年05月07日 | 読書メモ

今日からこの本を通勤電車のお供の一冊に加えた(実は連休中に買ってあったのだが、正直、毎日暑くて読書どころではなかった)のだが、正直、なんで今までこれを読んでいなかったのだと言われそうなくらい、現在ただいまのわたしの関心にぴったり沿ったような題名の本ではある。

そうは言ってもある意味で珍しい本ではある。題名にある「理由の空間」はもちろんセラーズの「経験論と心の哲学」で言及されたところの、まさにそこから採られている。けれどもこの本は分析哲学の本ではなくて(分析哲学についての言及はもちろん相応にあるのだが)、現象学の本なのである。それも「理由の空間」という考えに相当するものが実はフッサールやハイデガーといった現象学の伝統のうちでよく論じられてきたものであることを解き明かすことが、この本の主題のひとつになっているわけである。とりあえず主要な目次と各章で扱われている主な人名を掲げてみる(今日から読み出したので、全部ちゃんと読んでいるわけではないから、間違いはあるかもしれない)。

   序論 志向性と「理由の空間」
   一章 知覚的志向性と生活世界(フッサール)
   二章 志向性と言語(フッサールとサール)
   三章 言語についての規範主義の擁護
   四章 意図の自立性をめぐって(アンスコム、デイヴィドソン)
   五章 ハイデガーによる「理由の空間」の拡張
   六章 表象的志向性批判(アウグスティヌス)
   あとがき

序論の題名にある通り、この本のもうひとつのテーマは志向性である。だからサールせんせいの名前も(例によって批判的に、ではあるが)さんざん出てくる。あとは序論の冒頭部分を抜き書きしておく。

人が世界へと赴きそこに住まうことを「志向性」の概念に訴えて理解しようとする問題提起は、20世紀初頭以来の現代哲学の最も重要な企ての一つである。世界から単に刺激を受容してそれに反応するのではなく、世界が「かくかくである」と表象し、その表象に基づいて、世界の状態を変えることをもくろむことは、人間だけがなしうることであり、このような表象やもくろみを介して世界へと赴くことが、人間と人間の住む世界とを、比類のない特異なものにしてきた。表象やもくろみを介して世界へと赴くこと、少し違った表現をすれば、世界へと「向けられていること」としての志向性を内在させることによって、人間の心は他のどんな存在者からも区別されてきたし、世界は、表象されるべき真理の源泉、あるいはもくろみが成就するかしないかを決定する場として現出してくる。

人が世界について知るのは、何らかの表象を介してなのだから、人は自らに対して現われる世界に対して一定の主導権を持つ。ところが他方、その表象が最終的に真理の表象であるべきであるとするなら、表象は、自らの支配下にはない、世界がかくあるという真理に服すことになる。志向性を持つことなしに、真理という現象を意味あるものにすることはできないが、何が真であり何が偽であるかをわれわれが自ら決することはできない。法則的必然性によってではなく、自らのもくろみによって世界へと介入することのできる人間は、まさにそのことによって、自らのもくろみの成就が世界に依存することを思い知らされる。人間が志向性によって、自由と制約されていることのこうした二重性のうちに据えられることが、人間に特異な位置を与えているのだ。

この本を構成している各章で私は、志向性の現象をこれまでのいくつかの誤解から解放し、──どの章でも表立ってというわけではないが──「理由の空間」という概念と関係づけることによって、今述べたような二重性を人間に付与する志向性のあり方を明らかにするように努めている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石関善治郎「吉本隆明の帰郷(仮)」(思潮社・近刊)

2012年04月15日 | 読書メモ
亡くなった吉本隆明がわが故郷で過ごした時期のことを調べて本にして出す人がいるらしい。そのことがわが故郷の地元紙の、これは北日本新聞だろうかな、(訂正:別の情報によると読売新聞の地域面のカコミ記事であったらしい)それに載っているとtwitter上で呟いている人がいた。

吉本隆明は、魚津で終戦を迎えたのだそうだ。もうすぐそのことをとりあげた本が出るそうだ。 http://p.twipple.jp/k5S0d
(hirotuna)

「だそうだ」じゃねえよ。長年の読者なら誰だって知ってるよ(笑)。でもまあこの呟きのおかげで新刊書の情報が得られた。以下は上記の呟きで参照されていた新聞記事の写真を読み取って転記したものである。写真には記事の後半部分しか写っていないので、読み取れる部分だけ転記しておく。

・・・8月15日、工場の広場で終戦の詔勅を聞いた。寮に帰って泣いていると、寮のおばさんが「けんかでもしたのか」と声をかけ、布団を敷いてくれた、泣き寝入りした後、工場の裏の港で一人泳いだ──。〈わたしが世界がひっくり返るほどの事態を感じているのに、なぜ空はこのように晴れ、北陸の海はこのように静かに、水はこのように暖かいのだろう〉と記す「戦争の夏の日」などのエッセーにもあるエピソードだ。

敗戦のときは死ぬときと思い詰めていた軍国青年にとって、その衝撃は「自分の生涯を変える動機にもなった」と吉本さんは話した。終戦を境に、手のひらを返すように言説をひるがえした文学者たちへの疑問が、後の言論活動につながる。

吉本さんの生活史を詳細に跡づけた『吉本隆明の東京』の著者で、30年来の親交があったフリー編集者石関善治郎さん(67)(東京都)は「世界が瓦解した衝撃を体で受け止め、ゼロになることが、僕らが知る吉本隆明になるためには必要だった」と語る。

吉本さんは動員中に仲間と立山に登り、その際に泊まった宿の主人夫婦から受けた忘れがたい印象なども書き残している。石関さんは2007年と10年に、こうした富山県での吉本さんの足跡を訪ね歩いた。

取材の成果は、5月に思潮社から刊行予定の『吉本隆明の帰郷』に収録される。「お元気なうちに出したかったが・・・・・・」と石関さんは惜しむ。(堀内祐二)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場禮子「精神分析的人格理論の基礎」(岩崎学術出版社)

2012年02月01日 | 読書メモ
精神分析的人格理論の基礎―心理療法を始める前に
馬場 禮子
岩崎学術出版社
Amazon / 7net

twitterで呟いている通り、現在わたしはインフルエンザで高熱を発している最中なわけである。くだらんことならいくらでも呟けるのだが、ものを考えることはほとんどできない状態なので、とりあえず最近買った本の紹介だけしてみる。

この本はつまりまあ教科書である。内容は題名の通りである。文字通り「精神分析的人格理論」とは何ぞやについて万遍なく書かれた入門書らしきものがないだろうかと思って探してみると、どうもこれくらいしか見当たらなかった、というのと、あちこちの書評等を眺めていると教科書としては本当にいい本だと書いてあるので、まずは黙って読んでみることにした。

副題に「心理療法を始める前に」などとあるから心理療法士とかを目指している人のための教科書なのだろうが、わたし自身は基本的に不治のクライアントであって(笑)、カウンセラとかになる気はまったくないわけである。別にそんなのでなくてもこの教科書が主題通りの内容であることは、目次を見れば見当がつくと思う。その目次も上のリンク先でいくらでも見れるので、以下は目次の章題だけ拾ってみる。

   第1章 歴史と定義
   第2章 構造論
   第3章 力動論的観点:自我の諸機能
   第4章 力動論的観点:自我の諸機制
   第5章 心の病理と退行(局所論的退行の理論)
   第6章 フロイトと自我心理学の発達論
   第7章 対象関係の発達
   第8章 マーラーの分離‐個体化の発達
   第9章 スターンの発達論
   第10章 境界的人格構造

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オットー・F・カーンバーグ「内的世界と外的現実」(文化書房博文社)

2012年01月26日 | 読書メモ
何を思ったかこんな本を読み始めた。アメリカの精神分析学者の本である。

内的世界と外的現実〈上〉(1992年刊・絶版)
オットー・F・カーンバーグ著
山口 泰司監訳
文化書房博文社
Amazon
内的世界と外的現実〈下〉(1993年刊・絶版)
Amazon
内的世界と外的現実―対象関係論の応用(合本・2004年刊・絶版)
Amazon

いずれもすでに絶版の本なので7netのリンクは作らない。Amazonには古書が出ているが、かなりバカ高い値段がついている場合が多いので、買うにしても出物がある時にした方がよろしいかと。

読み始めたばっかりだし、精神分析関連の本に感想も何も書けるわけがないので、まずはカーンバーグについて。

O.F.カーンバーグは、メニンガー・クリニックでS.フロイトやアンナ・フロイトが築いた正統派精神分析(自我心理学)の理論と技法を習得して、アメリカ精神分析学会で大きな役割を果たすことになります。

しかし、後年は、対象関係論の始祖であるメラニー・クラインの理論に強い示唆を受けるだけでなく、「自己表象と対象表象」の相互作用を重視したイーディス・ジェイコブソンの心理観にも共鳴しました。その結果、カーンバーグの境界性人格構造(BPO)を代表とする精神分析理論は、正統派精神分析(自我心理学)をベースとしながらも、内的対象関係や原始的防衛機制を重視する対象関係論の要素を取り込んだ折衷的理論となっています。

カーンバーグの境界性人格構造(BPO)の病理メカニズムや精神構造の理論は、DSM-Ⅲの境界性人格障害(BPD)の診断基準や臨床像にも大きな影響を与えていて、現在でも境界性人格障害を含む境界例研究では重要な参照理論となっています。

(精神分析学の思想と臨床に関係した人々/O.F.カーンバーグの項より抜粋)

で、何しにこの本を買ってみたのかというと、以下の目次を見てちょっと興味を引かれた(笑)からである。

  第1部 対象関係論の検討(内的精神構造の概念化
  Melanie Kleinとその後継者たち ほか)
  第2部 病理学と治療への応用(中年期の正常なナルシシズム
  中年期の病的ナルシシズム ほか)
  第3部 集団における個人(集団における退行
  組織における退行 ほか)
  第4部 恋愛・カップル・集団(恋愛関係の様々な境界と構造
  カップルと集団)

それにしても何しに今さらアメリカの精神分析の本なんて、と思われることだろうが、早い話がわたしの素人哲学にとっては、脳バカと薬バカが席巻して以後の精神医学になんぞさしたる興味はないからである。一方では自分の考え方を哲学以外の人社系の領域の方へ展開しようとした場合に、おおよそどこらへんに困難が生じそうかということのアタリをつけたい願望があるわけである。それをそろそろ始めてよさそうだということを、発達心理学の文献を読みながら感じたので、じゃあ次はちょっくら精神分析学でも読んでみるか、できるだけ最近の、正統派に近いところで、ということになったわけである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉本隆明インタビュー「『反原発』で猿になる!」(週刊新潮)

2011年12月28日 | 読書メモ
twitterの方でも呟いたことだが、吉本隆明がインタビューとはいえ週刊新潮に登場するのはこれが初めてなんじゃないかと思う。実際、初めてだからなのだろうか、上の、たぶん編集者がつけたのだろう記事の題名はまったくのチンプンカンプンである。もう、奇を衒ったとかそういうのだとも思われない、おめえ全然判ってねえだろwwwとツッコミ入れたくなるような意味不明なのである。こんな珍妙な題名は近頃低迷著しい週刊新潮でも、ちょっと珍しいんじゃなかろうか。まあ、今こうして吉本を引っ張り出してきたとは言っても、もともときっと相当苦手な相手なんだろうぜと勘繰ってみたりする(勘繰った結果はtwitterの方で呟いてある)。

何はともあれ、まず題名のもとになったのだろう部分を引用しておく。

恐怖心を100%取り除きたいと言うのなら、原発を完全に放棄する以外に方法はありません。それはどんな人でも分かっている。しかし、止めてしまったらどうなるのか。恐怖感は消えるでしょうが、文明を発展させてきた長年の努力は水泡に帰してしまう。人類が培ってきた核開発の技術もすべて意味がなくなってしまう。それは人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです。(強調は引用者)

まあ、要はいつぞやの「原発をやめろと言うのは、人類をやめろと言うのと同じ」だという発言のバリエーションである。それを読んでいれば上の題名のチンプンカンプンからでも大方察することはできるわけだが、みんながみんな吉本の発言を追っかけてるわけじゃないんだからさ。

そんな具合にどうも背後のスタッフにトンチンカンの気配が漂うのだが、しかし記事の中身は、いつも通りの吉本ではあるが、B5版の誌面の2ページ半ばかりの中に結構充実した発言が詰まっている。いちいち全部引用したら買う人がいなくなっちゃうからいくつかだけにとどめておくが、トンチンカンの中でもこれだけ話を引き出したのだから、とにかく週刊新潮の編集は頑張ったのである。それは確かだと思える。

・・・原発を改良するとか防御策を完璧にするというのは技術の問題ですが、人間の恐怖心がそれを阻んでいるからです。反対に、経済的な利益から原発を推進したいという考えにも私は与しない。原発の存否を決めるのは「恐怖心」や「利益」より、技術論と文明論にかかっていると考えるからです。

・・・小林秀雄は尊敬していた人でしたから、何を考えているのか知りたかった。(中略)意見を求められた小林は、「(中略)俺はもう年寄りだからね。”今は違う考えになっている”なんて言う気はさらさらない。だから、戦争中と同じ考え方を今も持っているさ」と答えたんです。(中略)さすがだなあ、と思いましたね。世の中では時代が変わると政府も変わる、人の考え方も変わる。それがごく当然なのですが、僕はそれにももの凄く違和感があった。

・・・特に今みたいな状況の中では誤解のないように言うのは中々難しいんです。/しかし、それでも考えを変えなかったのは、いつも「元個人(げんこじん)」に立ち返って考えていたからです。/元個人とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうとか政治的な立場など一切関係ない。生まれ育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を自分にとって本当だとする以外にない。そう思ったとき反原発は間違いだと気がついた。/「世間で通用している考えがやっぱり正しいんじゃないか」/という動揺を防ぐには、元個人に立ち返って考えてみることです。そして、そこに行きつくまでは、僕は、力の限り、能力の限り、自分の考えはこうだということを書くし、述べるだろうと思うんです。

(強調はすべて引用者)

「元個人」という言葉はこのインタビューで初めて使われた言葉だと思うが、言われている内容も同じように急拵えだというわけではない。敗戦直後の「一億総懺悔」な風潮の中で「俺の考えは今も戦争中の通りだ」と答えた小林秀雄を「さすがだ」と思いながら、なおそれを上回る違和感を抱いたところから始まった批評家・思想家としての吉本隆明の、世間の風潮にひとり抗していつも「一糸乱れる」発言をしてやむことのない、その根本にある発想の奥義というか精髄がこの「元個人」の3文字に込められていると言うべきである。そう読むべきである。

肉体のように目に視え、肉声のように耳に聴くことのできる思想と論理だけに席があたえられ、それ以外なものは削り取られる。この観念の肉体は生々しいかも知れないが、蝸牛のように殻の内だけを磨くことになる。だいたい思想や論理が、肉体や声のように生々しいだけで済むようなあらゆる抽象と論理と感覚の行手はたかが知れている。小林秀雄が到着した場所はそこであった。
(吉本隆明「小林秀雄」(「悲劇の解読」所収))

これを引用しようと思ってググったらトップに出てきたのは自分のblogの記事(高速哲学入門(79))だったよww

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発達心理学を読む(4) ウェルマン「初期の心の理解」私改訳(04)

2011年12月18日 | 読書メモ
以下はWellman, H.M. (1993). Early understanding of mind: The normal case. In S. Baron-Cohen, H. Tager-Flusberg, & D. Cohen (Eds.), Understanding other minds: Perspectives from autism (pp. 10-39). Oxford, UK: Oxford University Press.の邦訳Wellman, H.M.「初期の心の理解:健常児の場合」S・バロン=コーエン、H・フランスバーグ、D・コーエン編『心の理論』八千代出版(1993)を私的に部分的に訳し直したものである。上の題名に「04」とあるように途中からで、なんで途中から始まるのかというと、たまたまここから作業を始めて、まだこれだけしか出来ていない(笑)からである。なんでこの私訳をやっているのかはこの「発達心理学を読む」シリーズの(3)を眺めてもらえばわかる。訳文の大部分は特に不服もないのでそのままになっていたりするが、主にintentionalityが「意図」と誤訳されている(としか思えない)のを「志向性」に直して、他に関連する語の訳などをちょこちょこいじったりしている。ちなみにコドモをカタカナで「コドモ」と綴るのは、わたし自身がコドモだった頃からの作文上の趣味である。

乳幼児

前節では3,4歳の健常児の信念-欲求心理学について概要を述べてきたが、ここではこの概要を受け入れたとして話を始めよう。そこで問題となるのが、他者の信念-欲求を理解することができるようになるまでの乳児期から始まる発達についての問題であり、以下ではこれらの発達的指標について言及することにする。これらの問題に言及しようとすると、10年前にBretherton他(1981)が提起した問題に戻らざるを得ない。その問題とは、乳児はいつ、どのような意味で、他者の内的な、主観的な生(lives)を理解するようになるのか、というものである。この問題に対しては一定の同意はまだ得られておらず、文献で考察され始めたところである。しかし、数々の発見がなされており、これはたくさんの研究者が乳児の社会性の理解のさまざまな局面に興味を抱いていることの反映である。これら数々の発見から一定の発達経過について言及することが可能であり、本節の目的はまさにここにある。

まずはじめに、わたしは、乳児が人間について学習するように準備されて生まれてくると考えている。人間の乳児は社会性を持つ種(social species)として、すなわち社会的な対象や経験の世界の中で生まれるが、人間の乳児がこれらの世界で生存し、これらの世界について学習できるようになったのは進化により得られたとするのは明らかであるように思われる。さらに、3,4歳までに信念-欲求心理学のようなものを獲得することによって、コドモは極端と思えるほど早く複雑な理解のシステムを獲得するようになる。それは、時間的経過の上では初期段階の言語学習と同じくらい早く獲得される。もし、乳児がこの領域で真っ白の状態(blank state)で獲得し始めるとしたら、これほど早く獲得することは不可能であろう。もし、ある意味で、生の社会的経験のデータをある方法で分析し、それらのデータに留意し考慮するように、あらかじめ準備されて生まれて来なかったならば、これら生のデータで心の理論を確定するには不十分である。乳児をこのように認知することが直ちに、人間は生得的に信念や欲求に関する心を理解することができるように生まれてきたに違いないとする結論(Fodor 1987)を必要とするわけではなく、こう考えることで有効な先行指標が必要となるとわたしは考えている。さらに、乳児をこのように見なすことで、乳児にとっての課題は単一の理論を構築することであるという結論を下す必要もない。乳児が、複雑で示唆に富んだ家族や文化といった社会生活に精力的に入っていくことができるようになるためには、最初に社会について理解できることが必要であるということにすぎない。このような前提にもとづき、乳児はある種の協調的研究プログラム(collaborative research program)を開始し、その結果、3歳頃から心の理論を獲得しはじめ、最終的には各文化の中での民衆心理学(folk psychology)を大人として達成するようになる。

年少の乳児

生後6ヶ月またはそれ以前の乳児でさえ複雑な社会的創造物である。乳児は必ずしも生後直ちにではないにしても数ヶ月後には急速に、泣き、笑い、他者の顔を気にするようになり、他者を模倣し、愛着行動を示し、二者間の対面交流を日常的にするようになる。さらに、少々荒っぽい記述を許していただくならば、乳児を信念と欲求を持った生き物として記述しても、まったくさしつかえない。乳児は自分が欲しいと思っているものに手を伸ばしたり見たりするし、事物や人々に関する表象を作り上げ、出来事や関係を覚え、欲求を満たすことを邪魔されるとフラストレーションを示し、予期しないことが起こるとびっくりする。しかし、信念や欲求(またはそれと類似のもの)を持つことを、信念や欲求を理解することと同一のものと見なすべきではない。ここでの問題は、乳児がそのような精神状態を他者に帰属させたり、あるいはそのような精神状態を自分の中に認識するのかどうか、また帰属させたり認識することがあるとすれば、それはいつするようになるのかというものである。後に述べるが、これは乳児期後期であるとわたしは仮定している。しかし、ここで簡単に、どのように乳児期前期の特定の能力が後にこれらの達成を準備するのかについて言及しておくことは有益である。

心の理論は、大人(確実に)の場合と同様、3歳児(これはわたしが主張していることだが)においても、ふたつの側面──特定の実在を選び出す存在論的側面(たとえば志向的な行為や精神状態)と、それらの実在がどのように関連しあっているかについて説明する因果的側面(たとえば信念-欲求の因果関係)──が密接に結びついているのは明白である。これに対して、初期の乳児の社会的理解はふたつの平行した先行的側面──社会的対象を選別するメカニズムと、初期の生物・人間の因果関係の理解──を含むものとして解釈することが可能である。

年少の乳児は特に社会的対象に自らを適合させ、社会的対象と相互交流できる生き物であるように思われる。乳児は特に人の顔(または、最初、顔のように配列されているものや顔のような特徴をもつもの)を気にするようになる(Sherrod 1981)。乳児はかなり早い時期に顔の情動的表情を識別するようになり(Nelson 1987)、人間の行為を模倣するようになる(Meltzoff and Moore 1983)。乳児は他者によりなされた身体的接触が望ましいものであることを見出し、このような身体的接触を求め、随意的運動を開始するようになる。また、乳児は他の音にもまして人間の話し声──特に女性の話し声で、その中でも特に母親の声──に注意を向けるようになる(DeCasper and Fifer 1980)。乳児が人を特別重要な情報を持った実在として選別し、注目し、表象できるようになるという特質に対しては、アタッチメント理論(たとえばBowlby 1969を参照)から適切な説明が示唆されているし、また、親子間の相互作用に関する研究(たとえばStern 1985)からもさまざまな報告がなされている。ある乳児研究者は、ほぼ生後1~3,4ヶ月にかけて乳児が特に人間に興味を示し、ほとんどの時間を二者間の社会的交流に費やしていることに注目している。その後、生後半年を経過するようになると、乳児はいくぶん人々から距離を置くようになり、ものの世界に注意を向けるようになる(Collis 1981; Kaye and Fogel 1980; Bakeman and Adamson 1984)。しかし、この注意の対象の相対的変化は、初期の社会的定位が何に向けられているかを強調するためのものである。

乳児の因果関係の理解はどうであろうか。生後6ヶ月までに、乳児には物理的対処の機械的な因果関係について基本的知識を持っていることを示す兆候が現れるようになる(Leslie and Keeble 1987)。また、乳児が急速に人間あるいは生物の因果関係について、ある特定の側面を理解するようになると想像することは容易であろう。年少の乳児は「生きてる(animate)」生物学的動きと無作為的、または人工的な動きを区別することができる(Bertenthal他 1985)、また年長の乳児はたとえば13~16ヶ月までに、動物や人間において可能な生体内部で生み出された自己推進的(self-propelled)動きと、ボールや椅子のような物理的対象物が動く際に必要とされる、外からの力の転移との間の違いを区別することができるようになる(Poulin-Dubois and Shultz 1988; Golinkoff 1983)。Premack(1990)が最近、経験的な実験からというよりは思考実験に基づいて論じているように、年少の乳児はたぶん、「命なき(inanimated)」外から引き起こされた物理的運動と「生きてる」ものの自己推進的な動きを区別する、生物学的に準備された豊かな特質を持っていることは明らかである。

わたしの故郷では、ものを取ろうとしてうっかり取り落とすことがあると(特にジャッグルした果てに落としてしまったりすると)、反射的に「うわ、生きとった!」と叫ぶ、生活言語の不思議な習慣があるのだが、このanimateという語のニュアンスはまさにその習慣の含意にぴったり合っているような気がする。もとの訳では「有生的」などと訳されているが、ここではそんな学術的な堅苦しさで使われてはいない気がする、というかそういう語を用いると、あたかもanimate/inanimateという語がその背景に、学術的によく定義された概念をもつものであるかのような誤解を与えるかもしれない。もちろんそんな結構な学術的定義などはどこにも存在しない、というか、そんなものがあるのなら人工生命の研究はいらないわけである。

ある対象が独力で動くのに対して別のものはそうではないと理解することは、乳児にとっては「生きてる」対象と「命なき」対象や出来事を区別するのに有益である(Gelman and Spelke 1981)。そして、「生きてる」対象や動きに特別の注意を払うことで、人間という集団の中で生活している乳児には人間についてのおびただしい情報を得る手助けとなることであろう。ただし、ある実在や行動を「生きてる」と考えることが必ずしも精神についての特別の概念を必要とするわけではない。ミミズは「生きてる」実在であり、くしゃみは「生きてる」人間の行動であるが、どちらも心の理論から理解する必要はない。精神状態についての概念や、ある精神状態によって引き起こされた行為は自己推進力(self-propulsion)を超えたさらに何かを必要とする。哲学者は志向性(intentionality)という用語を用いているが、自己推進力を超えた何かを明らかにするには志向性の理解のようなものが必要とされるだろう。

この意味での志向性の含意(hallmark)は「について性(aboutness)」つまり「対象に向けられていること性(object directedness)」ということである※。

このaboutnessとかdirectednessとかの変な語は実際にintentionalityの同義語というか別表現としてたいていの哲学書で紹介されているものである。たぶんintention(意図)と区別するためであろう(実際、マジで紛らわしい)、あえてこれらの変な語を使う哲学者もいるようだ。

欲求や信念としての志向的状態とは、何らかの「対象の」「対象への」あるいは「対象についての」欲求や信念である。図2-2の、単純な欲求と通常の信念について示した図を考えてみよう。リンゴに対する欲求と、あれがリンゴであるという信念のいずれもが対象を特定する(object-specific)ものである。つまりリンゴについての欲求であり信念である。この種の分析において、普通にいう「intentionalな行為」──意図的(deliberately)にリンゴに手を伸ばす、といったような──にはintentionalityのふたつの意味が含まれている。ひとつは日常的な意味、すなわち「それは故意に、つまり目的があって行われている(on purpose)」から意図的(intentional)だということを意味している。そしてもうひとつの、より広い意味におけるそれは、リンゴを手に入れるという目標(goal)とか、リンゴに対する欲求とか、それがリンゴであるという信念とかのような、内的な志向状態を意味している。後者の意味での、つまり志向的なという意味でintentionalな行為は、単なる自己推進的な運動とは非常に異なる。最小限に見積もってもそれは、ある特定の対象への(toward)自己推進的な運動なのである。ゆえに、(人間が)志向性(志向的状態)をもつということは、自己推進的な運動の能力をもつという以上の何かなのである※。

原文では実際にself-propelledとかself-propulsionとか、強いて訳せば自己推進的とでも訳すよりほかない表現が用いられているのだが、物理学や機械制御の領域でなら、これらは一言でautonomous(自励的もしくは自律的)と表現されるものに相当している。そしてautonomousな機械やシステムの振る舞いを一般にautomaticと表現することを思えば、このあたりは全部「自動的」とか、さらには「からくり人形(automata)のような」などと意訳してしまっても構わないかもしれない。わたしなら自励運動と訳すだろう。

(志向性をもつというためには)特定の対象(内容)への(についての)内的な状態(態度)をもっていなければならないのである。自己推進的な運動の能力を持つか否かは「生きてる」ものと「命なき」ものを分ける基準でありえよう(may※)が、志向性をもつかどうかはそれが心を持つ(精神的である)ものであるか否かの基準なのである。図2-2に示したような単純な欲求でさえ、この萌芽的(rudimentary)な意味において志向的なのである。

このmayは「だいたいあってる」ところを含意するものとして重要である。自励系がみんな「生きてる」のなら、この宇宙は全体がひとつの生き物だということになってしまう。もちろんここではそんな厳密なことは言われていない、というかあくまで心理学的な、つまり知覚の話である。ランダムに3次元運動するモータを仕込んだバイブレータのようなものを手に掴むと、我々は誰でもそれを「まるで生きてるようだ」と感じる。それは生きてる虫を手に掴んだ時の手応えと非常によく似ているからである。そして前者が生き物でないことは、我々は知覚の伝えることとは別の知識から理解している。実際、目隠しされてその知識の適用を封じられると、ただのゴム製のオモチャを掴ませてさえ、虫嫌いの人は飛び上がってそれを投げ捨てようとするわけである。

Premack(1990)は、年少の乳児が自己推進的運動を区別することができるようになったとき、この乳児は自動的にそういった動きをintentional※だと解釈することができるようになっているとした。

このintentionalは「意図的」でも「志向的」でもなく、その前の段落の最後で言われたことに対応している。つまり、訳すなら「心(志向的な意識)をもつもの」ないし「精神的」であることの証という意味で使われていると思える。これはこの著者における(あるいはこの研究領域における)固有の意味であり用法だと見なすべきである。以下では──少々くどくなるが──「心(志向的な意識)をもつもの」と訳してみる。

しかし、わたしの知る限り、年少の乳児が人間や人間の行為を「心(志向的な意識)をもつもの」と解釈していることを示す研究(報告)はない。実際、多くの乳児研究者が、生後9~12ヶ月の期間に初めて顕在化してくる乳児の社会的相互作用(social interaction)の変化に言及し、ここで初めて乳児は自己(self)を他者と著しく異なったものと見なすようになると考えられるとしている。この変化を主観性(subjectivity)(Stern 1985)、二次的相互主観性(secondary intersubjectivity)(Trevarthen and Hubley 1978)、志向的伝達(intentional communication)(Bates他 1979)、三項関係への気づき(triadic awareness)(Adamson and Bakeman 1985)などと名づけたり、潜在的な心の理論(implicit theory of mind)(Bretherton他 1981)と呼んでさえいる。(けれども)わたしの考えでは、乳児が外的な対象や出来事「の」経験、もしくはそれら「についての」経験を確かにもつ、という、萌芽的だが重要な意味において、人々(自己と他者たち)が「心(志向的な意識)をもつもの」であることを理解するようになるとはっきり言える(can be cogently argued)のは、年長の乳児になってからである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発達心理学を読む(3) 俺にとって一番肝心な箇所を大誤訳しくさってからに

2011年11月30日 | 読書メモ
心の理論―自閉症の視点から (上)
サイモン・バロン・コーエン , 他
八千代出版
Amazon / 7net
心の理論―自閉症の視点から (下)
サイモン・バロン・コーエン , 他
八千代出版
Amazon / 7net

上下巻のリンクを作っていたらそれだけで日付が変わってしまった。この本の、しかし書評を書こうというわけではないのである。

・・・精神状態についての概念や、ある精神状態により引き起こされた行為は自己推進力(self-propulsion)を超えたさらに何かを必要とする。哲学者は意図(intentionality)という用語を用いているが、自己推進力を超えた何かを明らかにするには意図の理解のようなものが必要とされよう。

意図をより明確に表現するとすれば、「あるものに関すること(aboutness)」または対象定位性(object directedness)といううことになる。欲求や信念などの意図的状態は、ある「対象」に関してのことである。・・・

(第I部第2章 初期の心の理解:健常児の場合 p.28)

そうなのである。ほとんどのっけからやらかしてくれているのである。intentionalityを「意図」と訳してしまっているのである。ここは当然「志向性」と訳さなければならない。直後の記述を見ても明らかである。aboutnessとかdirectednessというのはintentionalityの同義語なのである。

そういえば発達心理学の別の本(著者も別の人である)では「志向性」と書いて英語ではintentionだと書いてあったりした。アンスコム先生が涙目である。もうしっちゃかめっちゃかなのである。

そりゃさー、翻訳者の人は発達心理学の専門家であって哲学は専門外なんだろうから仕方ないっちゃ仕方ないわけなのだが、本文中に「哲学者は」と断ってあるのだから、ちょーっと調べてくれてもよかったと思うわけである。

もっとも、いま調べたらこの訳書が出たのは1997年11月である。奇しくもサールの「志向性」の邦訳書が出たのも同年同月(!)なのである。この「心の理論」の原書は1993年で「志向性」よりずっと後に出ているわけだから、この場合は後者の翻訳が出るのが遅すぎたというべきなのかもしれない。

ま何にせよ、この本のここから後で「意図」と訳されている語のどれが「intention」で、どれが「intentionality」なのか判らないわけである。ぜんぶ意図と訳されているので、ここらへんの内容はたぶん意味不明に近いことになっているかもしれない。何にせよそれを確認するために、わたしは原書まで買う羽目になってしまったのである(さっきポチってきたのだが、さすがに古書しかなくて、なぜかハードカバーの方が安かった)。

ちなみにこの本、原書の方は第二版が出ていて、Amazonで検索すると「新版の方をどうぞ」と奨められたりするわけなのだが、改版に伴って題名も中身もだいぶ変わってしまったようである。そもそも副題が「自閉症の視点から」ではなく「発達の認知神経科学の視点から」になってしまったのである。・・・どうでもいい。左様ならである。

もちろんこの旧版は読むけどね。まあ続きを読むのは原書が届いてから(古書を外国から発送すると2週間かかるようだ、やれやれ)にしよう。どんなに誤訳だらけであろうと、日本語訳がないよりは全然ましだということも確かである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発達心理学を読む(1) 人間の志向的な意識は人間に固有のものでありうる

2011年11月27日 | 読書メモ
しばらく前に書いた通り、発達心理学については今のところ文字通り読書してベンキョーするのに精一杯で、自分の考えを重ねてみたり、ましてやそれを述べたりということができる気は全然しないのだが、何をどう読んでいるのかくらいは時々報告してみたい。まずはこの教科書。

発達心理学の基本を学ぶ―人間発達の生物学的・文化的基盤
George Butterworth , 他
ミネルヴァ書房
Amazon / 7net

発達心理学の基礎的な事柄をできるだけ広くまんべんなく扱っている教科書はないかと探して、さしあたりわたしが見つけたのはこれである。もちろん素人の探索と素人の読書だから、専門家の見地からして「筋がいい」かどうかはわからない。ただまあもちろん、これを訳しているのは国内の専門的な研究者たちだから、何でもないということはないだろうと思っている。ピアジェの理論の批判的な検討ということを中心に、ヴィゴツキーとかボウルビィといった、この分野では最もよく参照されている学説もところどころ参照したり、検討されたりしている。翻訳の新刊は4000円くらいでお高いのだが、Amazonの古書ではもう少し安く買える。

まあ本の紹介はそのくらいで、読んでいて非常に重要だと思える知見を見つけた。

母親と子どもとの間の発達しつつあるコミュニケーションの他の側面についても、言語発達にとって重要なものがあるように思われる。それらの中で最も注目に値するものが、母親と子どもとの間でのジョイントアテンション、共同注意の確立と子どもの指示性の理解である。(※この段落の強調は本文から)

コリスとシェイファー(Collis & Schaffer, 1975)とコリス(Collis, 1977)は、母親と赤ちゃんが同じ対象を注視するといった視覚的共同注意は生後1年目において通常みられることを示した。(中略)しかし、バターワースら(Butterworth & Grover, 1989; Butterworth & Jarrett, 1991)は、コリスとシェイファーが提示した結果よりも乳児の注視行動は洗練されていることを示した。生後6か月ぐらいの赤ちゃんは、注視対象を赤ちゃんの正面に置いた場合や、振り返って見たときに赤ちゃんが遭遇するまず最初の対象であるようにすると、母親の対象への視線を追随することができる。(中略)

共同的な参照(joint reference)の確立にみられる1つの重要な発達は、生後1年目の終わりに、他者が指さす方向を子どもが適切に注視して、指さしの理解の兆候を示すときにみられる(Leung & Reingold, 1981; Schaffer, 1984)。指さしは、そばにいる他者と自分のために環境からある対象を選別するための1つの大切なノンバーバルな行動であるので、指示的コミュニケーションの発達について考える際には重要なものである。この能力は人間に独特のものである。チンパンジーでさえ伸ばした腕と人指し指を伸ばすことを指示に使用することはできない(Butterworth, 1994)。(※この段落の強調はすべて引用者)

(第3部 幼児期 第7章 シンボルの出現 pp.154-156)

これこれ、素人哲学が何しに発達心理学の本などを読んでいるかと言って、要はこういう話を読みたいわけである。哲学的に言えば自分以外の存在において意識がどういうものであるかを厳密に知ることは(それがチンパンジーだろうと人間だろうと)できないわけだが、ここで述べられていることは人間の意識、特に志向的な意識のあり方というのが人間に固有のものであるということの重要な状況証拠だとは言えるはずのものである。「人間に固有な」というのはこの場合、人間様が偉いという話ではなくて、外側から観察できる現象として人間とその他の存在のはっきりとした違いである「分節化された言語の能力」と強く関係しているはずだという意味で重要なのである。どんな優秀なサルでも人間のような言語能力は持たないし、訓練しても持たせることができないということは、常識としてよく知られていることだが、この「指さし」に関する事実はさらにその一歩奥へ踏み込んだ違いを指摘していることになると思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Stuart Coles, An Introduction to Statistical Modeling of Extreme Values, Springer

2011年11月17日 | 読書メモ
An Introduction to Statistical Modeling of Extreme Values (Springer Series in Statistics)
Stuart Coles
Springer
Amazon

この本がこないだ言ってた極値理論の本の一冊である。もう一冊あるのだが、それは機会あればということにして、そもそもこの本を紹介するのは、いつものような「オススメ」の意味ではない。内容的にはたぶんオススメなはずだが、まだ買ったばかりで中身をちゃんと読んだわけじゃないからから保証はしかねる。

そうじゃなくて、今日この本を読もうとしてみたら、最初のIntroductionの2ページ目(全体でも2ページ目)から印刷がこんな有様だったのである。


上で画像つきリンクを張っているのはほかでもない、そもそもこの画像自体がAmazonの内容紹介画面をキャプったものだからである。それ以外の理由ではない。

言っとくけどこの本のお値段は約10000円である。理科系の人間ならSpringerの原書と聞いただけで怖気を振るうくらい、Springerの本はお高いのである。に、したって、万札切った本でのっけからこんなページが出てくることは、日本では許されないというか、考えられないお粗末な印刷、いな、これはたぶん製版からのものである。

欠けて読めなくなっている3か所のうち2番目の「implemen...」は、これはまあimplementationだと判る。問題は残りのふたつである。このくらい大穴が開いていたらどこかに正誤表があるんだろうと思ってネットから何から探してみたが見当たらない。困ったな、初っ端から万事休すかと諦めかけたところで、ふと思いついて「of observations in a year」で検索をかけてみたら・・・わはは、出てきた。


どうやらGoogleでこの本をスキャンしてOCR解読させたらしい。何にせよ欠けている部分の最初は「number」だとわかった。よっしゃよっしゃと思って残りのひとつも「complement」と「development of appropriate models」でAND検索してみると・・・


ぐぬぬ、こっちはダメだ(笑)。Googleのスキャナも根負けしたようだ(笑)。まあしかし、改めてこのあたりの文字を眺めてみると、どうもそんなに変わった語彙や表現が用いられている感じではなさそうだ、ということで「as a complement」とかで検索してみると、このcomplementの後に続くのはたいてい「to the」であることがわかる。なるほど擦れてはいるがかろうじて「t」は読める。そう補ってみると「statistical implementation as a complement to the development of appropriate models」は「適切なモデル開発の補完物としての統計的実装」と直訳できて、これは意味が通っていそうである。

判ってみればどれもたいしたことはないわけで、たぶん英語圏の人間ならこのくらいは何も言わなくても補えてしまう程度のことであるのだろう。ネット上に正誤表が見当たらなかったのもそのせいだろう、が、英語味覚障害のわたしには、こんな程度でも「Springerのボッタクリめ、カネかやせこん畜生」と言いたくなってしまったくらいの大事であった。

数理統計学の専門家でもない限り普通はこの本は買わないし読まないだろうが、わたし同様しばしパニックをきたした、あるいはこれからきたすであろう英語嫌いのボンクラ学生どものためにこの記事を捧げる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡本裕一朗「ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち」(ナカニシヤ出版)

2011年11月03日 | 読書メモ
ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち
岡本 裕一朗
ナカニシヤ出版
Amazon / 7net

セラーズとその弟子ブランダム、マクダウェルといった哲学者について調べたり、著作(セラーズの「経験論と心の哲学」以外は邦訳がないのだが)を読ん・・・いや、読もうとしたりしているうちにたまたま見つけたのがこの本である。実際、この本の第11章の見出しを目次から抽出してみると、

  第11章 ヘーゲルは分析哲学に敗北したか
  1 帰ってきたヘーゲル
    ローティによるヘーゲル評価/セラーズのヘーゲル主義/ヘーゲル研究の隆盛
  2 プラグマティズムと観念論
    ブランダムの「哲学革命」/ヘーゲルはプラグマティストか/承認論への着目
  3 マクダウェルからヘーゲルへ
    マクダウェルとヘーゲル/「所与性の神話」批判/
    ネオ・ヘーゲル主義のピッツバーグ学派/ヘーゲルを復興せよ!

こんなカンジである。売られている本では一番大きく扱っているくらいのものではないだろうか。そうでもないのか。とにかくセラーズやマクダウェルを読もうとするからにはヘーゲルを読まなくてはいけないようである。そしてこの本の全体は、ヘーゲル入門ではなく、従来ヘーゲル哲学に関して普通にそう見なされて来た理解や読解のたいていが、ほとんど「神話」的な誤りに満ちていることを指摘している本なのである。

たとえば有名な「主人とドレイの弁証法」にしても、ヘーゲルは「精神現象学」その他の中で「主人がドレイに、ドレイが主人になる」ようなシナリオも哲学もまったく述べていない、と言ったら閲覧者は驚くだろうか。驚くのなら(この著者の説や、あるいはこの本で紹介されている説に同意するのであれしないのであれ)絶対にこの本は読むべきである。読まなければ駄目である。なぜならそれらがいわゆる誤読ではなく、都市伝説ならぬ哲学伝説というべき「神話」だからである。

ところでこの本の著者の名前には見覚えがあった。何だっけと思って奥付を見たら、著者はネーゲルの哲学入門「哲学ってどんなこと?」の共訳者のひとりであった。左のリンクにある通りその本はこのblogを開設して間もないころに紹介した本である。今見たら当時は訳者名を入れてなかったんだなw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

M・クヴァンテ「ヘーゲルの行為概念」(リベルタス出版・高田純他訳)(Oct.19追記)

2011年10月19日 | 読書メモ
(Oct.16,2011注文直後)

なんだかサッパリ判らないがこういう本が出ているということで注文してみた。高いよ(4400円くらい)。
ヘーゲルの行為概念―現代行為論との対話
ミヒャエル・クヴァンテ著
高田 純訳
リベルタス出版
7net / Amazon

現状で注文できるのは7netの方だけである。Amazonにもリンクは張ってあるが、注文できない状態である。

著者についても訳者についても、わたしは詳しいことは何も知らない。ひと通り調べてみたところでは、この本はヘーゲルの行為論として認知はされているものらしい。

現代ドイツの生命倫理学の代表研究者、M・クヴァンテの世界で唯一のヘーゲル行為論についての単行本の邦訳。(中略)2004年にケンブリッジ大学から英訳本が出て国際的評価を得ているもの。
(地方・小出版流通センター)

流通のフレコミだし、「国際的評価を得ている」というのがどこまで信用できる話なのかは保証の限りではない。だいたい「生命倫理学」なんていうのはわたしには眉唾の代名詞である。そういうのが「世界で唯一」ヘーゲルの行為論をやっていると聞くと、期待よりは不安の方が大きい。ヘーゲルの行為論なんてホントに成り立つのかということだ。版元にしてからがHPを持ってるくせにこの本の紹介はしていないし、目次なんかも当然わからない。しょうがないのでAmazonで英語版の目次を拾ってみた。まあ訳さなくても、わたしにでもわかるレベルの英語だ。

Michael Quante, English Translation by Dean Moyar,
"Hegel's Concept of Action (Modern European Philosophy)," Cambridge University Press, 2007


CONTENTS

Preface to the English Edition
Abbreviations Used in the Text

Introduction

Part I: The Subjective Will
1. Conceptual Presuppositions: Person and Subject
1.1 The Transition from Right to Morality
1.2 From the Person to the Subject
1.3 The Subjectivity of the Will
1.4 The Formality of the Subjective Will

2. Intentionality: The Form of Subjective Freedom
2.1 The Form of the Knowledge of Action
2.2 The Speculative Interpretation of Intentionality
2.3 Objectification and Intersubjectivity

3. Recapitulation

Part II: The Action
4. The Form of the Action
4.1 Actions as Events: The Causal Relation
4.2 Actions under Descriptions: Purpose and Intention

5. The Content of the Action
5.1 The Contents of the Action
5.2 Rational Action adn Moral Attitude

Part III: Concluding Remarks

Refrences
Index

(Oct.19,2011追記)
今日届いたのでまず日本語版の目次を追記する。目次自体が英語版より詳しくなっている。

凡例
序言
日本語版によせて
序論

第1部 主観的意志
第1章 概念上の諸前提──人格と主体
 第1節 法から道徳への移行
 第2節 人格から主体へ
   1 人格
   2 主体
 第3節 意志の主観性
 第4節 主観的意思の形式面
第2章 意図性──主観的自由の形式
 第1節 行為知の形式
   1 自己帰着
   2 意図性と対自的自由
   3 意図性の主観的性格
 第2節 意図の思弁的意味
 第3節 客観性と相互主観性
   1 主観的意志の主体性の客観化
   2 他人の意志の反省論理的意味
   3 実行された目的の客観性
第3章 要約

第2部 行為
第4章 行為の形式
 第1節 出来事としての行為──因果関係
   1 行ないは変化をもたらす
   2 「責を負う」ことの両義性
   3 結果の分裂
 第2節 記述のもとでの行為──企図と意図
   1 企図と意図
   2 意図性と帰責可能性──認知的なものの優位
   3 企図されたものと意図
第5章 行為の内容
 第1節 行為の内容
   1 行為内容の諸契機
   2 行為の合理性
   3 他者の福祉
 第2節 合理的行為と道徳的態度
   1 行為概念の道徳哲学的中立性
   2 三つの論証
   3 行為と自律

第3部 結語

文献表
訳者あとがき
人名索引
事項索引

さて、注文したときに「そもそもヘーゲルの行為論なんていうのが成り立つのか」みたいなことを書いたわけだが、著者による「日本語版によせて」にはまさにそれに答えるようなことが書かれているので、以下抜粋してみる。

私が20年まえに本書を構想したときには、ドイツ、イギリスおよびアメリカの分析哲学者のあいだではほとんどヘーゲルに関心が向けられていなかった。さらに確認しておきたいことであるが、ドイツの正統的なヘーゲル研究も、分析哲学の研究成果と取り組むという傾向をほとんどもっていなかった。ヘーゲル哲学と分析哲学のあいだの対話に道を開くことが両方の側にとって実りあることであると私は確信しているが、さきの理由でこの確信はいずれの側でもほとんど支持されなかった。

一方で、分析哲学の側では、ドイツの読者にとってさえ読解が困難なヘーゲルのテキストは理解不可能とみなされ、ヘーゲルの哲学的仮定は怪しげなものとみなされている。しかし、1990年代なかごろにはこのような状況は根本的に変化し、ブランダム〔Robert Brandom〕、マクドウェル〔John MacDowell〕という現代の分析哲学の重要な主張者が体系的な点でヘーゲルとのつながりを生産的な仕方でもとうと企てた。ヘーゲルに対してこのように明瞭な注目が行われることによって、分析哲学の陣営にヘーゲルへの関心が呼び起こされ、また、ヘーゲル哲学は無意味であるという無条件な疑いが晴らされて、両方の哲学の伝統のあいだの建設的な対話に道を開くことが可能となった。

(中略)私が扱ったテーマは今後も独自の扱いを受けるに値する。本書の執筆時には行為についてのヘーゲルの概念を詳細に論ずる論文はほとんどなかったということを私は確認していた。ヘーゲル研究一般、特殊的にはヘーゲルの実践哲学の研究には無数の仕事があることを考慮すれば、このことは驚くべき事実である。ヘーゲルの行為論と分析哲学の行為論との結合がこれまでも研究されなかったというだけではない。このことは少なくとも10年まえにはまだほとんど注目されていなかったのである。ヘーゲルが法哲学において明確に導入した行為概念そのものもヘーゲル研究においては広く注目されてはいなかった。このことはヘーゲルの『法哲学』の意味に関してきわめて驚くべき事実であった。ヘーゲルの行為概念はまさに、『法哲学』の道徳の部の体系的構成を明らかにするために適切であろうと私は想定するが、このことによって私は解釈上の無人島へ突き進むこととなった。

(「日本語版によせて」より)

上は手打ちで転記したので打ち間違いはあるかもしれないことをお断わりしておく。

それはそれとして「マクドウェル」という第3の記法が登場してきた(笑)。ついでに書くと、上の英語名の綴りは正しくは「McDowell」である。いまJHM本人のCVのページで確認してきたのだから間違いない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

John McDowell, Mind and World

2011年10月14日 | 読書メモ
最近読んでいる本の中でこのJ・マクダウェルという人が頻繁に参照・引用されていて、まだはっきりわからないのだが、なんとなくわたしの考えなどに近いような印象を持った。それはいいけど例によって主著すら邦訳されていない(わが国の哲学者はホントに密輸業者だらけだ!)。しかたがないので以下の本と論文集をいくつか見繕って注文してみた。

Mind and World
John McDowell
Harvard University Press
Amazon

正直、現状でわたしなどが読んで食いつけるような著者なのかどうかも定かではないわけだが、英米ではデイヴィドソンあたりと変わらないくらい知られた哲学者であるのだそうな。まあものは試しだ。

(題名にダブルクォートも使えないってどういう仕様だよ。相変わらずgooブログの仕様は腐ってんな)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉本隆明のエロス論・最新版

2011年09月21日 | 読書メモ
吉本 そもそも僕は日本人にはエロスが薄いんじゃないか、と思ってます。民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、この種族がエロス的にどうなのかと言えば、全体として物凄く関心が薄いんじゃないかと思います。(中略)日本においては何かがエロスに入れ替わってしまっている。エロスが全開にならぬところで、反らされてしまっている。特にそれが外に現れる時に非常に貧弱な気がします。自分の内面において自分自身と話をしていると、すごいエロティックな男のように自分では思えるんですが、それが表れとして外側には出てこない。そこには日本の家族制や血縁性の強固さというものが、ヨーロッパなどに比べると非常に大きく作用していて、その問題じゃないのかなっていう気が僕はします。

―その点について、もう少し詳しくご説明頂けますか?

吉本 関心が薄い、強いというのは表層的な部分です。つまりエロティックなものが外に向かって表象されないということなんです。同種族間の結合力の方にエロティックな問題が回収されてしまっている、血縁の男女間の繋がりが非常に強固であるのが妨げになって、エロスの問題が語られづらくなっているように思います。そこでエロスが何かにすり替えられてしまうんですね。しかし、これは一歩間違えれば近親相姦の領域に入ってゆきかねない。

VOBO7/コイトゥス再考 #15「吉本隆明、性を語る。」より

実を言うと以前書いた仮説「日本人はもともと言語能力が低いのではないか」ということを別の方向から考えられないかと思っていて、そのひとつの軸としてエロスというのはあるなと思って資料を集め出した矢先にこんなのを見つけてしまった。

このインタビューのしめくくりで吉本は「家族集団と社会集団は明らかに違う。これは言わなければいけないし、追求していかなければいけない。これは僕の中に今も残っているエロスの問題です。」と言い切っている。吉本は対幻想と共同幻想を明確に区分すべきことをずっと昔から主張してきたわけで、このしめくくりの言葉もそれを改めて言っているだけだということにはなるのだが、その根拠を上の引用のような文脈で言っていることはそれほどなかったのではないかと思う。

このインタビュー自体がどういう経緯で行われ、無料で閲覧できるWebマガジン中の記事として掲載されるに至ったのかはまったく詳らかでないのだが、とにかく大変興味深い内容だと思われる。関心のある人には一読を薦める。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする