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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

6-1e (ver. 0.1)

2010年04月30日 | MSW私訳・Ⅱ
6-1 権利義務力(承前)

動作主を合理的に拘束するために、制度的事実の中に含まれる欲望によらない行為理由は、明示的にであれ暗黙的にであれ、その動作主によって創出されなければならない。そうした理由は動作主が、たとえば売買・結婚・約束することによって明白に彼または彼女自身をある行為の道筋へと束縛する(commit to)ときには明示的に創出される。動作主が自分自身を家族の一員であるとか、ある国の市民であるとか、よき友であるとかいった、何らかの状況の拘束力を認識するときには暗黙に創出される。この主張を完全な形に仕上げることは、この本の扱う範囲を超えた複雑な仕事になるだろう。しかし基本的な直観は単純に言うことができる。特定の動作主にとって欲望によらない行為理由の存在を主張する任意の言明を取り上げ、こう問うてみる。「その言明によって報告される事実の何がその動作主に対する正当な主張を構成するのか?」と。たとえばオーストラリアにいる人々の集団が一緒になってわたしが彼らに1000ドル支払う責務のもとにあると決定したとする。

きっとこの箇所はオーストラリアで行った講演あるいは講義がもとになっているのだろうが、なんというか唐突である。それともまさか、オーストラリアには哲学的に強化された(もっとも、この場合は「され損なった」と言うべきだろうが)カツアゲ集団がいるのだろうか?

「XはCにおいてYと見なされる、確かに」そして彼らはいう「我々はあなたをこの文脈において我々にお金の借りがある人だと見なす」と。わたしが事実そのような責務を引き受けたか、あるいは他に彼らがわたしに対する正当な主張を持つという何らかの理由を持たない限り、彼らの主張にはいかなる力も主張された責務も存在しない。この場合を次のような場合と対照させてみよう。わたしは実際に明示的に約束することによって、あるいはわたしがわたし自身を見出す状況における暗黙の責務を認識することによって、たとえば自分の家族の一員としてそのような理由を創出した、というような場合である。多くの人々は単純に無反省に、彼ら自身を見出す社会的状況に沿って生きている。しかしこのことは不信感(inauthenticity)や不実(bad faith)の形にはなりえない。なぜなら彼らは、彼らを合理的に拘束し、その問いについて考えなかったら創出することはなかったであろう欲望によらない理由を創出しているからである。

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6-1d (ver. 0.1)

2010年04月29日 | MSW私訳・Ⅱ
6-1 権利義務力(承前)

権利義務力の体系が機能するのは、それゆえ、人間の合理性によってである。このことは多くの習慣的な場合において我々はそうしたことを考える必要が全然ない、という事実によって我々から隠されている(be disguised from)。我々は単に我々の日常的な責務を、その基礎をなす論理的構造に照らすことなしに実行している。それらはわたしがいまそうしようと試みているように、常に前面に押し出され反映されうるにもかかわらず、我々の「背景」配置の一部となっている。わたしはわたしが以前に言ったあることを強調したい。それは、合理性を機能させることの欲望によらない理由の関係づけは、それらが我々の信念や欲望の基礎をなすものに反映することを我々に可能にするより高い水準の表象として機能しうるためには、それらが言語的に表象されることを必要とするということである。わたしが記述しようと試みている種類の完全な権利義務論において言語を本質的にしているのはこの特徴である。ひとつの暗黙の点が完全に明示される必要がある。欲望によらない理由は動作主に対して動作主がそれを正当であると認識する限りにおいて機能する。だから動作主に対する欲望によらない理由のすべてはそのように動作主によって創出されるということが意味をもつ。この点については後で再び述べよう。

これらの権利義務的な理由は他の種では見られないやり方で時間を組織するということを強調することは重要である。我々は他の意識的な動物種と同様に、我々にとって、時間は季節や日周(diurnal)つまり夜明けから日没までの周期のようなものによって組織される。しかし欲望によらない理由の集合を創出することによって、人間は時間を非常に任意的なやり方で組織することもできる。わたしはあなたと昼や夜のいつでも、互いの都合がいい時間に会うように調整(arrange)することができる。我々は権利義務力の体系に絡みついて(enmesh)いるのである。

哲学の歴史において多くの人々は、人はそうする欲望と無関係に何かをすることを動機づけられることは決してできない、仮に目的についてはできたとしても、少なくとも手段については不可能だと考えてきた。有名な例としてヒュームは、「理性は感情のドレイであり、また当然そうあるべきものである」と主張した*。またバーナード・ウィリアムズは「外的な」理由、既存の動機づけの集合に訴える理由というものは存在しないと主張した**。

* Hume, David, Treatise of Human Nature, Book II, Part 3, Section 3, L. A. Selby-Bigge (ed.), New York: Oxford University Press, 1978. [(Dover Philosophical Classics, 2003);ヒューム「人性論<4>」岩波文庫]
** Williams, Bernard, "Internal and External Reasons," Moral Luck: Philosophical Papers 1973-1980, Cambridge: Cambridge University Press, 1981, 101-13.

この反論に回答する方法は、合理性それ自体の本性に訴えることである。そして人がさもなくば欲望しないあることにもとづいて行為するようにいかにして動機づけられうるかを見る最良の方法は、人がさもなくば信じようとは欲しない命題の真を受け入れるようにいかにして動機づけられるかを見ることである。もしわたしが医療診断で非常に不愉快な結果を下されたら──わたしが死病に罹っていて、余命は2ヶ月もないというような──わたしはそれを信じたくはないわけである。いずれにせよ合理性はわたしにそれを受け入れるように要求するだろう。この場合、わたしは欲望によらない受容理由を持つわけである。これに答えてあなたは「いや、それは単にあんたが真なることを信じたいと欲望するからだろ」と言うかもしれない。それはその通りである。しかしわたしが真なることを信じることの要請は信念という概念の内側に築かれる。あなたは偽よりも真を欲することなしに信念をもつことはできない。なぜなら信念とは真に対する一種の約束事だからである。この場合、欲望によらない行為理由の場合と同じように、欲望が理由を基礎づけるのではなく、理由が欲望を基礎づける。有名な例を挙げると、もしわたしが約束をしたと認識したら、わたしは約束を守ることの欲望によらない理由をもつのである。そしてそれについて「その通りだ。しかしそれはただあなたが約束を守りたいと欲したからだ」というのはおかしいわけである。わたしは実際に約束を守りたいと欲するが、約束を守ることの欲望は約束の本性から生じるのであって、約束を守ることの欲望から約束の本性が生じるのではない。

ヒュームとウィリアムズの両者における合理性についての誤った概念の背後に隠れた真は次のようなものである:世界の中の事実やわたしがそのもとに置かれている責務のような外部の動唆子が実際にわたしを動機づけ、合理性の行使を通じてわたしの行動に影響を及ぼすことに成功しうるのは、わたしが外的な動唆子をある志向状態の形態において内化(internalize)した場合だけである。したがって、雨が降ってる事実のような世界の中の事実は、わたしがたとえばそれに気づき(perceive)、それによってそう信じるようになった場合にのみわたしの行動に影響しうるのである。同様に、わたしがそのもとに置かれている責務は、わたしが責務を認識し、その認識の基礎の上でわたしがそうする責務のもとに置かれている、それをする欲望を形成するのである。

(つづく)

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6-1c (ver. 0.1)

2010年04月29日 | MSW私訳・Ⅱ
6-1 権利義務力(承前)

多くの哲学者はいまわたしが記述した種類の推論、行為についての欲望にもとづく推論は単に行為がそのように存在することについての推論にすぎないと考えている。要はすべての合理性は欲望にもとづくというのである。この観点は非常に魅力的なものがある、というのも、すべての意志的な行為はまさにその時その場の行為を行う欲望の表現だということになるからである。わたしがわたしの歯をほじくらせる(drilled[!])ために歯医者に行くのは、わたしがわたしの歯をほじくらせることに愉しみを見出しているからではなく、歯をほじくらせることはよい歯を持ちたいとわたしが欲する目的に対する手段だからである。しかしどっちみちわたしは歯医者に行ってわたしの歯をほじくらせる、つまり、それがその時その場においてわたしが欲することだというのである。わたしのよい歯を持ちたいという第一の欲望は、歯医者に行って歯をほじくらせるという第二の欲望を導く。*

* わたしの知る限り、第一/第二の欲望という術語は最初にトマス・ネーゲルによって、その著書The Possibility of Altruism, Oxford: Clarendon Press, 1970において導入された。

わたしのわたしの歯をほじくらせたい欲望は欲望による欲望である。それは第一の欲望、つまりよい歯を持ちたい欲望に依存している。しかし、今や我々は異なる機能をもつ興味深い欲望のクラスに出会っている。これらはわたしが欲望によらない行為理由と呼んできたものであり、責務・権利・義務等々を含んでいる。わたしが主張したいのは、欲望によらない行為理由を創出し、その上で行為する合理的な能力を持つことは人間存在に特有のものだということである。わたしは人間以外にそのような能力を持つ動物を知らないし、それは他の動物が持つような能力とは似ていないと思う。なぜならそこには言語が必要であるし、実際、欲望によらない行為理由を創出し定式化しその上で行為するための言語は特別な種類の言語である。

人間の制度的現実は人間の合理性の中に閉じ込められる。このことはそれ(人間の制度的現実)にその構成的な力を与えている。人間社会はこうして創出され、こうして他の多くの、たぶんすべての動物から人間を隔てている。アリストテレスが人は唯一の合理的動物だと言ったのは間違いである、というのも他の動物も、たとえば手段-目的的推論くらいはできるからである。しかし人間の合理性の力の範囲は他の動物をはるかにしのぐものである、というのも我々は言語という特別の能力を持ち、それは知られている限りどんな動物の能力にも似ていないからである。

わたしが明日行う講義の責務について考えてみよう。わたしは望むと望まないとにかかわらず講義することの責務のもとに置かれている。わたしは講義を行うために必要な手段についてのさまざまな信念を持っている。たとえばわたしはキャンパスまでクルマで行って、そこから講義室までは歩いて行かなければならない。講義の準備のためにしなければならない他のことがいろいろある。しかしここで興味深いのは講義することの責務は欲望によらないということである。えーと、それは厳密には何を意味するのだろうか?その瞬間に感じていることとは無関係である(independent)ようなことをする理由をわたしが持っているということである。たとえわたしがある特定の日に講義をする気がしなくても、どっちかと言えばやりたくないのであっても、とにかくわたしがそうすべき責務のもとに置かれていると認識するならばわたしはわたしの欲望と無関係にそれをする理由を持つのである。わたしの責務は動唆子であり、わたしの責務の認識は欲望によらない行為理由の認識である。わたしが与えてきた説明において、あることを責務として認識することは単なる傾向性よりも高い水準における表象を必要とする。それは一階の信念と欲望をに反映し、変化させ、無効化する能力を我々に与えることができる責務の認識である。わたしが言語にもとづく合理性を言語を必要としない合理性から区別することについて述べている、それはこうした欲望によらない種類の行為理由の第二水準の特徴である。

しかし今や我々は明らかな矛盾に遭遇している。わたしはすべての意識的で意志的な行為はその時その場の行為を行う欲望の表現であると言った。わたしが愉快ならざる、さもなくば行うことを欲しないことを行おうとしているとき、いずれにせよわたしがその時その場でそれを意図的に意志的にしようとしているならば、それがその時その場でわたしが欲していることなのである。たとえば、わたしが歯医者に行ってわたしの歯をほじくらせるとして、さもなくばわたしはわたしの歯をほじくらせることの痛みや不快をこうむることを欲しないとき、いずれにせよそれはその時その場でわたしが欲していることなのである。つまり歯医者に行ってわたしの歯をほじくらせることをである。しかしわたしはよい歯を持ちたいという目的に対する手段としてそれを欲するのである。よい歯を持ちたいという欲望による理由はわたしの歯をほじくらせることの欲望による理由を生じさせる、それはわたしがさもなくば欲しないことなのである。責務の場合についての矛盾は、責務を満たすことを構成することをすることと無関係ないかなる欲望も必要としないということである。だから、そうした場合における推論の様式は、わたしは責務の正当性を認識するということである。責務の認識の基礎において、わたしはそこで責務を満たすことを構成する何かをする欲望を形成する。とすると、どうして責務の認識はわたしを動機づけることが可能であったのだろうか?答は、わたしは責務の正当性を認識しており、またわたしがそれを、そうする責務のもとに置かれている、それをすることの正当な理由を与えるものとして認識しており、責務はそこでわたしがそうする責務のもとに置かれている、それをする欲望を基礎づけることができるからである。手短に言えば、その欲望は責務から派生する、つまりもっと厳密に言えば、それは責務の認識から派生し、責務は欲望からは派生しないのである。責務は欲望によらない行為理由でありえて、にもかかわらず行為を動機づける、なぜならそれは責務を満たすことを構成する行為を行う欲望を基礎づけることができるからである。かくしてわたしはひとつの動唆子──責務──をもつ。それはもうひとつの動唆子──欲望──の基礎を形成する。そしてそれは構成子──講義をすること──によって満たされるのである。

わたしはそれが欲望の基礎となりうると言う、ということを強調し続けることが重要である。わたしは責務を認識する誰もがそれを満たそうとする傾向にあるということが論理的な必要性の問題としてそうなるとは思わない。あることをする欲望によらない行為理由の認識はすでにしてそうする欲望に対する基礎の認識である。しかし現実の生においてそれは常に動作するとは限らない。人々がそれを正当な責務だと認識しながら、彼らがそうする責務のもとに置かれていると認識しているそのことをまさにやらないということはたくさんある。こうした場合、その責務は動機づけることに失敗した動唆子である。

さて、今や我々は矛盾と矛盾の解決を言い直すことができる。矛盾は、欲望によらない行為理由が存在しうる、ところがその一方ではすべての行為はその行為を行う欲望の表現でなければならない、ということである。矛盾の解決は、欲望によらない理由の認識は欲望を基礎づけ、したがって欲望を引き起こすものである。たとえそれらがそうすることが論理的に必然的ではなく、経験的にも普遍的ではなかったとしてもである。

(つづく)

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6-1b (ver. 0.1)

2010年04月29日 | MSW私訳・Ⅱ
6-1 権利義務力(承前)

行為それ自体が実践三段論法の結論でありうる、とは通常アリストテレスを嘲って言われることなのであるが、しかしわたしの行為の説明にあっては、その概念について理屈に合わないものは何ひとつないのである。ひとつの行為はそれ自体が意図的な命題的内容、つまり行為中の意図を持つ。そして行為中の意図は先行意図と同様に実践三段論法の結論でありうる。わたしにとって推論するひとつの道筋は、単に上記の1,2ならばわたしは単に傘を開いて外へ出る、つまりわたしの行為中の意図によって表される命題的内容、「わたしは傘を持って出る」という結論の命題的内容の通りにすることである。

この実践三段論法の例における本質的な「前提(premise)」は「わたしは雨に濡れたくない」であった。これは欲望による行為理由[desire-dependent reason for action; 太字は訳者]のひとつの例である。そしてそのような欲求に基づく実践三段論法は通常ふたつの種類に分けられる。

(1) ある目的がそれ自身のために欲される[自己目的的である]場合
(2) 何かがある目的(これ自体は自己目的的である)の手段として欲される場合

後者のタイプの推論は「手段-目的」的推論(means-ends reasoning)と呼ばれる。そして傘の場合はその教科書的な例である。他方、もしわたしがただビールを飲みたいからビールを飲んだという場合、ビールを飲むことはさらなる目的の手段ではない。これが「自己目的的」ということである。しかし傘を持って出ることもビールを飲むことも、いずれも欲望による行為理由を導くものであることに変わりはない。

退屈な例で申し訳ない。制度的事実を確かめる前に、これらすべての場合に起きていることを記述するための語彙を導入しておきたかったのである。ただそれらはわたしに、いかに制度的事実が実践理性から生じるかを調べる上で必要になるであろう、ある重大な装置を導入することを可能にする。理論理性にせよ実践理性にせよ、推論過程で作用させられる要素は常に命題的内容の全体を持つことに注意。たとえば(i)わたしは雨が降っていると知る、(ii)わたしは雨に濡れたくない、(iii)わたしは、この状況においてはわたしが傘を持って出る場合にのみわたしは雨に濡れずに済むと信じる、云々というように。これら推論過程の要素のすべて──視覚的経験、欲望、信念、云々は──命題的内容の全体を含んでいる。このことは合理性の一般的な特徴である。合理性と推論は常に命題的内容の全体をもつ実体を扱うものでなければならない。これらは欲求・信念・知覚のような意図的現象でありうる。それらは「雨が降っている」とかの世界の中の事実でありうる。さらにそれらは責務・権利・義務・責任のような現象でもありうる。わたしはこれらの命題的構造を持つような実体すべてに対する一般的な名称を導入する。わたしはそれらを「作為的実体(factitive entities)」と呼ぶ。この点でこの名前を強調する理由は、いずれわかることであるが、我々の欲望によらない行為理由、責務・資格・義務等々は作為的実体であり、それゆえにそれらは合理性と推論過程を生み出すからである。

これらのほかに、わたしは行為における合理性を理解するために重要になるであろう4つの概念を導入したい。その4つとは(1)全体理由(total reason)、(2)動唆子(motivator)、(3)結果子(effector)、(4)構成子(constitutor)である。

後の3つの訳語は「operatorを演算子と訳すがごとく」という観点から造語した。effectorは生化学で修飾因子と訳されたり、あるいは工学的な分野ではカタカナ語のままエフェクタ(イフェクタ)と呼ばれたりもするが、ここで用いられているのはそれらとはまったく異なる固有の意味においてであるので、訳語も固有にする必要があった。とはいえ「動唆子」などというのはいささかやりすぎな造語であるかもしれない。ただ「動機子」では動機を持つのか動機づけを持つのか不明であるし、motivateは教唆するとも訳すから「教唆子」とすることも考えたが、これはこれで「教」の字が面白くない。

例を使ってこれらを説明しよう。もし誰かがわたしに「どうして傘を持っているんだい?」と問うてきたら、わたしはいくつかの異なる答え方が可能である。「濡れたくないし」とか「雨降ってるし」とか、あるいは「雨に濡れないためには傘が必要だからである」などというのもアリである。これらのそれぞれは行為の理由を述べている。だがそうした理由はそれが行為の全体理由の一部である場合にのみ理由でありうる。この場合、行為の全体理由は欲望と信念からなる。雨に濡れたくないという欲望と「雨に濡れずに済むための唯一の方法は傘を持つことである」という信念である。この場合、全体理由は「濡れたくない」という目的(に対する欲望)と「傘を持つ」という手段(についての信念)を含んでいる。信念と欲望はともに作為的実体であるが、以前に述べた通り両者は適合方向において異なる。欲望は上向きの、つまり「心←世界」の適合方向を持ち、信念は下向きの、つまり「心→世界」の適合方向を持つ。この場合において濡れたくないという欲望は傘を持つことの動機づけをもたらす。わたしはそのような、その作為的実体が「心←世界」の適合方向を持つような行為理由のすべてをひっくるめて動唆子と呼ぶ。

つまり動唆子というのは何にせよ行為理由であるわけで・・・この造語は、特に「子」という字はよろしくないかもしれない。とりあえず今日のところはこれで通しておくが、後で再考してみる必要がありそうだ。・・・というか、考えてみればこのあたりの記述は「行為と合理性」の中にもあったはずで、その訳書を参照した方が話が早そうである。・・・そう言ってる間にやりゃいいじゃないかって?いやあ、実はその日本語訳の本がいま見当たらなくってさ(笑)。困っているのである。部屋ん中が初等解析学の教科書からスコラ哲学まで、ほとんどあらゆる分野の本で乱雑に埋め尽くされてて、さすがに覚えていられないのである。以前にも「志向性」の日本語訳が3年かそこら行方不明だったことがある(見つかった時は感動した)。まあ、あとで(遅くとも連休中に)ちゃんと探して修正することにして、今日のところは勝手な造語とデタラメ訳(これはいつもの通り)で勘弁していただきたい。

そしてわたしは以上を一例としつつ、ひとつの一般的な主張をなすことにしたい。「すべての行為の全体理由は少なくともひとつの動唆子を含んでいなければならない。ただし動唆子は欲望や責務のような、『心←世界』の適合方向を持つ作為的実体からなる」と。残りはふたつである。結果子構成子というテクニカルな概念を説明して、この簡単な説明を終えよう。典型的に手段-目的型推論において、我々は目的を結果としてもたらす手段を持つ。そうした手段のことを「結果子」と呼ぶ。たとえば傘を持ち歩くことは濡れないでいるという目的に対する結果子である。結果子は現実的にか潜在的にか原因であるが、実践理性のすべての場合がある特定の結果としての目的を達成するであろう因果的過程を発見する場合ではない。推論はしばしば目的を構成はするが引き起こさない何かを導いてしまう。たとえば、わたしが仏語文を発語しようと欲し、その欲望を満たすために「Il pleut.」と発語したら、わたしが「Il pleut.」と言うことはわたしに仏語文の発語を引き起こさない。それは仏語文の発語を構成する。そのような作為をわたしは構成子と呼ぶ。傘を持ち歩くことは濡れずにいるという目的に対する結果子である。「Il pleut.」と発語することは仏語文を発語するという目的に対する構成子である。

実践理性の形式的な解析装置の簡潔な説明はさらに以下のようにまとめられる。

すべての理由は作為的実体である。
作為的実体は全体理由の一部である場合にのみ理由として機能する。
全体理由は少なくともひとつの動唆子を含まなければならない。
全体理由はまた構成子や結果子を含むかもしれない。

さらに、もし主張や推論がうまく行く(to be any good)なら、構成子・結果子・動唆子の間には体系的な論理的関係が存在しなければならない。

(つづく)

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6-1a (ver. 0.1)

2010年04月29日 | MSW私訳・Ⅱ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-1 権利義務力

ここまでは制度的現実の構造について記述してきた。ここからは、これらの制度が人間の生活において実際にどう機能しているかについて述べる。もちろん人間の制度は途方もなく様々である。宗教・国民国家・スポーツチーム・企業などなど。わたしはそれらについて経験的な一般化を試みようとは思わない。そうではなく単にその純粋に形式的な特徴を見定める(identify)。人間以外の動物の生にあるとされるもののどれとも異なって、人間の生において[制度が]機能することを可能にする特徴の形式を定めるのである。わたしはこの形式的な特徴を、制度的な現実が権利義務論もしくは権利義務力をもたらすという視点から記述してきた。ここまでは、わたしは単に権利義務力の例を列挙してきただけであった。ここからは人間の行動においてそれらが実際にどう機能するかについて述べる。権利義務力の名前として典型的なものは「権利」「義務」「権限」「資格」「許可」「保証」などである。これらの名詞は重要な動詞、特に法助動詞(modal auxiality verbs)「当然すべきである(ought)」「すべきである(should)」「することができる(can)」「しなければならない(must)」に結びついている。たとえば「わたしは明日の朝8時から講義しなければならない、なぜならわたしはわたしの学生と大学の双方に対してその時刻に講義する責務を確約し拘束されているからである」というように。

これらは、わたしが「権利義務力は我々に欲望によらない行為理由を与える」という場合に念頭にある種類のものである。本章の目的のひとつはそうした行為理由がどうして存在しうるのか、またそうした行為理由がどんな風に制度的事実から生じてくる(figure in)のかを説明する。

今までにも何度かこの「figure in」に出くわしてきたような気がするが、その都度珍妙な訳をでっち上げてきたような気がする。今日調べてみたらこれには「~の原因となる」というような意味があるらしい。そのへんの辞書には「計算に入れる」あるいは「目立つ」という意味しか載ってないから、これらに沿って訳すと意味不明になるので困っていた熟語のひとつである。

しかしながら、制度的事実について大事なのがそれ[義務を課すようなこと]だけだったとしたら、それらは我々の日々を憂鬱にするだけであろう。制度について最重要なのはそれらが莫大な可能性を創出することである。たとえばもしお金や結婚の制度、あるいは合衆国の大統領制というものがなかったら、あなたはボロ儲けも結婚もできないし、合衆国大統領になることもできないのである。

言わずもがなのことだが、ここでの「あなた」は合衆国で生まれたアメリカ人の読者が想定されている。合衆国で生まれた人でないと合衆国大統領にはなれない。

このことは非公式の明文化されない制度についても言える。あなたは相当する地位機能なしには大恋愛を欲することも大晩餐会を開くこともできないのである。制度の存在は、わたしが何度となく強調してきたように、人間の生において莫大なものを可能にするし、さもなくば想像もしないような可能性のすべてを我々に与えるのである。我々は我々以外の種では、たとえ発達した類人猿でも知らない可能性を持っているのである。

人間の制度的な事実は人間の合理性に閉じ込められている。それらは我々の行為理由を生み出す。もしわたしが、それらがいかに機能するかを説明しようとするなら、わたしはまず合理性と行為理由について少し述べなければならない。これは非常に大きな主題である。わたしは著書のまるまる一冊を費やしたことがある。*

* サール「行為と合理性(Rationality in Action)」

その全部をここで繰り返すわけにはいかないし、ここで詳細に踏み込むこともほとんどできない。とはいえ制度的現実が合理性にどうかかわってくるのか、読者が理解する上で十分な合理性の図式を描いてみることにしたい。

以下の月並みな三段論法を考えよう。

1. ソクラテスは男である
2. 男はみんな死ぬ
3. ゆえにソクラテスは死ぬ

論理的に、1かつ2ならば3である。で、これが何なのか。その含意の一部は「1と2が真ならば3が真でなければならない」というものである。ここまでのところ、要点のすべてはこれらの3つの文の意味論についてである。1および2が真であることを所与として3は真でなければならない。だから、これが人間の合理性とどう関係するのか?えーと、だから、もしあなたがこれらの論理的な点をある種の心理学的な概念、たとえば信念とか推論とか知識といったものに結びつけるならば、あなたは次のような結論を得る。もしあなたが1と2が真であると信じるならば、あなたは3を約束する(be committed to)。あなたが1と2が真であると知っているならば、あなたは3が真であると演繹することを正当化する

以上のすべてはいわゆる理論理性(theoretical reason)についてのハナシである。何を信じ、演繹し、結論するのかについての理論(reasoning)である。しかし合理性にはもうひとつの形態があって、それは実践理性(practical reason)と呼ばれている。それは何を行うのか、何を行うべきなのかということについての理論である。実践理性における主張の形態のひとつを検証してみよう。

わたしが窓の外を見る、そうするとわたしは「わたしは雨が降っているのを知る」と記述されるような経験をもつ、としよう。この経験の基礎において、わたしは雨が降っていると信じるに至っている。さてそこから、わたしは屋外へ出ることを計画し、かつ、雨に濡れることを欲しないとしよう。わたしはまた、わたしは傘を持って出ることによってのみ雨に濡れてしまうことを回避できると信じているとしよう。これらの思考の基礎において、わたしは傘を持って行こうと結論する。委細を省けば、以上は次のような三段論法として書くことができる。

1. わたしは雨に濡れたくない。
2. わたしは、この状況においてはわたしが傘を持って出る場合にのみわたしは雨に濡れずに済むと信じている。
3. ゆえにわたしは傘を持って出る。

理論理性の場合、三段論法の結論はひとつの信念を導く。実践理性の場合、三段論法の結論はひとつの意図(ないしある場合には行為)を導く。後者の導出の3段目は先行意図の表現であり、予測ではない。

以上はアリストテレスが「実践的三段論法(practical syllogism)」と呼んだものの例である。

(つづく)

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5-5h/5-6 (ver. 0.1)

2010年04月26日 | MSW私訳・Ⅱ
第5章 制度と制度的現実の一般理論:言語と社会的現実

5-5 さらなる問題(承前)
問8: 制度的現実を創出する上での想像力の役割は何か

地位機能は存在すると表象される場合を除いて実際には存在しない。ある意味で、私有財産・結婚・政府の存在には想像の要素が存在する。なぜなら各々の場合において、我々はあるものを本来的でない(it is not intrinsically)あるものとして扱うからである。人間の能力の個体発生が考慮される限りにおいては、人間のコドモは非常に早いうちにこの、制度的現実の創出と維持において特徴的な二重水準の思考(double level of thinking)を行う能力を獲得するということを指摘することが有用である。小さなコドモは互いに「じゃあぼくはアダムで君はイヴだ。そんでこの積み木が例のリンゴだ」などと言ったりすることができる。

最初はblockのことをコンクリート・ブロックのことだと思い込んでそう訳していた。わたしくらいの年代の日本人は、ただ「ブロック」と聞かされるとそれを想起するわけだ。たかがコドモのママゴトでもアメリカ人は豪快だな、などと思ったり・・・そんなわけあるか! blockは「積み木」だ、と気づくのに30分もかかってしまった。

人が自身に対してそれをそう考えることができるなら、これは肝を潰すほどの(stunning)知的な偉業である。これはトマセロとラコツィがわたしに指摘したことであるが*、これが人間が制度的現実を創出する能力の個体発生的な起源であるというのはもっともなことであるように思われる。

* Rakoczy, Hannes, and Michael Tomasello, "The Ontogeny of Social Ontology: Steps to Shared Intentionality and Status Functions," in Savas L. Tsohatzidis (ed.) Intentional Acts and Institutional Facts, Dordrecht: Springer, 2007, 113-37. [ハードカバーである。Springerである。すっげー高いのである]

空想(fantasy)において我々は実際にはそうではなくてもXをYと見なすことができるなら、大人にとってXを、Yが存在のようなものを持つようなYと見なすことがいかにして可能であるのかを理解することはまったくたやすいことである。なぜならそれは我々の社会生活を調節し力を与えるからである。たとえ特徴Yが自然に内在する特徴ではなかったとしてもである。あなたは言語なしでこうしたことを行うことは、何であれできないということに注意しなければならない。コドモ達は「ぼくはアダムに、君はイヴになる。でもって僕らはこれ[積み木]をリンゴにするのだ」などとは考えない。そうした考えを形成し表現する言語的な乗り物を持たない限りは、である。さらに深い点に注意しなければならない。コドモは典型的に語それ自体については考えないということである。一般的に言って彼らはこんな風に言うものである。「この積み木をコトバにしよう。そして僕らはそれがこれこれの意味を持つふりをしよう」。幼いコドモは空想の中でナマの事実と制度的事実に相当する二重水準を考えることができる。しかし同じ動きを言語に対してなすことはきわめて困難である。大人は同じ盲点を言語を考慮する際にもつ。大人にとって言葉とその意味の区別を理解するのはまったく造作もないことである。ところが大人にとってはまったく言語を離れて考える、言語のまったくない世界に生きることを想像するのは、きわめて困難なことになってしまう。社会的現実について哲学したとわたしに思える偉大な哲学者のすべては言語を当たり前のものと見なしていた。彼らは一様に人々が言語を持つと仮定した上で「彼らはどうやって社会を形成したのだろうか」と問うのである。だが本書の主題のひとつは「あなたが共通言語を持ったとき、あなたはすでに社会を持っている」ということである。

5-6 結論

人間の制度的社会的存在の形態の多様さは肝を潰すほどのものだとはいえ、わたしはあらゆる構造を生み出すひとつの論理的な原理が存在し、また現実の制度の中でその原理が働く(is implemented)その道筋の小さな集合が存在すると確信している。基本的で単純な観念は、すべての非言語的制度的事実は宣言型言語行為と同じ論理形式をもつ言語行為によってそれらの存在が創出され維持されるというものである。

わたしはこの一般原理が働きうる3つの道筋を見出した。
(1) 単純に、場当たり的な基礎の上で地位機能を創出する道筋。たとえばその部族は単純に彼らのうちの誰かを長として扱うことによって彼または彼女を彼らの長とする。
(2) 定常的宣言型言語行為や構成的規則をもつという道筋。発達した複雑な文明においてはたぶんこれが最も普通の形態である。
(3) まったく(2)の特別な場合としてであるが、構成的規則を持ちながらも規則を作用させるべきいかなる人物も対象物も必要とせず、単に宣言型言語行為によって実体を創出する道筋がある。この場合の構成的規則は典型的に、他の宣言型言語行為に制度的事実を創出させる力を与えるような宣言型言語行為である。

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2010年04月26日 | MSW私訳・Ⅱ
第5章 制度と制度的現実の一般理論:言語と社会的現実

5-5 さらなる問題(承前)
問7: 制度的現実についての言明はなぜ典型的に内包的(intensional)であるのか

制度的現実は言語的表象によって創出され、部分的にそれらの表象によって構成される権力関係のうちにある。それが、これらの事実の言明が常に外延的ではないことの理由である。それらは授ける表現(conferring expression)の置き換え(ライプニッツの法則)であるようなテストを通らない。たとえば「~と見なされる」は制度的文脈を創出する、それはクワインの術語に言うところの指示的に不透明(referentially opaque)な何かである。

1. 2008年の選挙の勝者としてバラク・オバマは合衆国の現大統領であると見なされる。
2. 合衆国の現大統領はミッチェルの夫と同一人物である。1と2は互いにかかわりあいを持たない。
3. 2008年の選挙の勝者としてバラク・オバマはミッチェルの夫と見なされる。

2.の「かかわりあいを持たない」は、原文では「do not entail」である。かなり無理な意訳だとは思うが、辞書にそれらしい意味が見当たらない。

オバマはそのように表象された限りで大統領ないしは夫である。そして一方の表象に対する条件が他方に引き継がれる必要はない。

実際、任意のネタを形式化するのに哲学者が好んで用いる道具である量化論理は制度的現実を論じる上ではたいした助けにはならない。我々が論じてきたいくつかの場合、たとえば企業の創出などの場合には、我々は既存の対象物の定義域(domain)全体にわたる普遍的な量化規則を持ちえないことに注意。そしてより興味深いことに、我々は「あるxが存在してxは企業である」という外延的に量化された形態さえ持ちえない。なぜなら仮説によって企業となる既存のxは存在しないからである。

「あるxが」云々の原文は「there is some x such that x is a corporation」である。これを上のように訳すのはひどい堅苦しい訳だと思うだろうし、事実堅苦しいのだが、実のところこの堅苦しい訳し方はわたしが学部生のころ数学の研究室で習い覚えたものである。こう訳すと機械的に訳せるし、慣れてくると英語の原文を見るだけで意味が掴めるようにさえなったりする。つまり漢文の読み下し文のように、外国語文の構成を著しく歪めることなく、なおかつ日本語として比較的よく意味の通る読み方なのである。返り点もいらないのだから、これはこれでよく工夫されているのである。どんな英語文でもこうした機械的規則を適用できるかというと、やってやれないことはない気がするが、全部そうしていると後で読み返す気にもならない堅苦しい文になってしまう。この場合は数学でも普通に使う述語論理の文だからちょっとやってみたまでである。

規則の一般形は前述の通り「これこれの言語行為は企業の創出と見なされる」というものである。だからある特定の企業の創出の論理形式は次のような形にならない。

あるxに対して、xは企業Yとなる。

そうではなく、その形態は宣言型言語行為である。

我々は企業Yが存在するという宣言形言語行為によってそれをその場合とする。

量化論理における意味論の標準的な説明では、量化子は存在する対象物の定義域全体にわたる。しかし地位機能をもつ実体の創出の場合にはそのような定義域がそもそも存在しない。

銀行による貨幣なしのお金の創出は異なる論理構造を持っている。その銀行が中央銀行ではないとして、典型的に銀行は借款を発行することによって、彼ら自身の持たないお金を創出する。これまた宣言型言語行為である。バンカメリカ(Bank of America)がジョーンズに1000ドル貸す場合を考えよう。宣言型言語行為は次のようになる。

我々バンカメリカはここにジョーンズ氏に対して1000ドルを貸しつけ、それと釣り合う1000ドルの口座を彼の名義において開くものである。

これは魅力的な場合である。というのもお金の創出として標準的な経済学の教科書に書かれているのは、それは一階の事実ではなく制度的事実の体系的な帰結の一部だということだからである。

お金の創出と書くより「信用創造」と書きたいわけだが、実際原文にはcreation of moneyと書いてあって「信用」と訳していい語は見当たらない。念のため字義通りに訳している。

制度的事実はお金の貸付である。銀行家は銀行が持っていないお金を貸していることに気づかないかもしれない。銀行は実際には経済の中で使用可能な(available)通貨供給量(money supply)を追加することによってお金を創出しているのである。

そのように言語行為Xはジョーンズ氏が地位機能Yをもつことをその場合とする。1000ドルの所持者ということである。しかし1000ドルに対する物理的現実は必要ではない。それはただの表象として存在する。

重大な点を繰り返して言えば、すべての制度的現実の創出の論理構造は遂行文の構造と同じである。あなたはあるものがその場合としてあることを表象することによってその場合とする。しかしこの場合において、宣言型言語行為はそれが借入としてあったことをその場合とする。お金の創出は体系的な帰結(systematic fallout)である。

お金の創出が体系的な帰結であり、宣言型言語行為の内容ではないということを証明するものは何であろうか。それには銀行が何をしようとしているのかを問うてみることである。銀行はジョーンズ氏にいくばくかのお金を貸しつけようとしているのであって、経済における通貨供給量を増やそうとしているわけではない。証明はこうである。連邦準備制度理事会は新たな貸付が新たなお金を創出するたびに同額のお金を除去して経済における通貨量を一定に保つことを決定する。それでも貸付が行われることに変わりはない。たとえ体系的な帰結が起こらなかったとしてもである。

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2010年04月23日 | MSW私訳・Ⅱ
5-5 さらなる問題

問6: もし、制度的現実が・・・(承前)

わたしはこれらを「制度的事実の三人称的帰結」、あるいはもっと簡単に制度的事実の「帰結」と呼ぶことを提案する。それらは「三人称的」である。なぜならそれらは制度の参加者に知られている必要がないからである。それらは第三者の人類学的観点から言われうる。それらは追加の権利義務論を帯びていないので、その帰結から新たな権力関係が創出されることもない。「景気後退」という術語は国内総生産が四半期の2期あるいはそれ以上連続して低下することと定義される。そえrはもともとある体系的帰結の名前として導入されたものであって制度的地位ではないが、もし議会が景気後退に対して権利義務的な地位を割り当てる法案を通過させたならば、容易に地位機能によって地位となりうる(わたしはすでにそうなっているかもしれないと知っているにもかかわらず)。

カッコ内がどこに掛かっているのかわからない。

したがってたとえば、議会は連邦準備制度理事会が景気後退の間は公定歩合を修正する(引き下げる)ことを求めるかもしれない。そうした場合に「景気後退」は地位機能を標識する地位をあらわす語になる。なぜならそれによって景気後退は権利義務力を持つからである。

「単純に体系的な帰結を発見した場合」のクラスには興味深い論理的な性質が存在する。あなたは志向性相対の現象についての志向性独立な事実をもつことができる。いいかえれば、志向性相対の現象は制度の参加者によって創出され、そのときそれは参加者であれ外部の人間であれ誰であれ、さらにそれらについての志向性独立の事実を発見することができる。いつものように、それを試すには、もし人々が今それを信じておらず、過去においてもそれを信じていなかったとして、それはなお真であるかどうかを問うてみることである。景気後退においては、もし人々がそれを景気後退であると信じていなかったとしても、それはやっぱり景気後退なのである。お金の存在にせよ、大統領の存在にせよ、これらの、あるいは何らかの権利義務的に等価な記述のもとで、過去において誰もお金や大統領が存在すると信じるものがいなかったとしたら、そんな制度的現象は存在することもできないのである。だからあなたは現象が志向性相対である一方で、その現象についての志向性独立な事実を見出すことができるという矛盾を持つ。したがって、この説明において、景気後退は心依存であるが志向性相対ではないのである。

経済において一階の事実は一般に志向性相対である。たとえば誰それはこれこれの品物を売買する。しかし経済学者によって報告される事実は典型的に志向性独立である。たとえば1929年からの大恐慌である。

現象のもうひとつのクラスは外部の人間は現実の地位機能の体系を共同体の成員は気づいていないし受け入れてすらいないと記述することを選ぶかもしれないという場合である。たとえば我々はある社会を「人種サベツ主義」と記述することがありうる。その社会の成員が彼ら自身をサベツ主義者だとは思っておらず、そもそもサベツ主義なる概念すら持っていなかったとしてもである。トマソンはこうした場合を体系的帰結としての景気後退の発見と同様の現象だと考えている。しかしわたしはふたつの場合は大きく異なると思う。後者の場合、人々が純粋に、肌の色の違う人々が異なる権利義務的地位を持つ──まさにそのために異なる権利と異なる責任を持つ──ものとして扱うならば、彼らは制度的事実の体系をもつ。彼らは彼ら自身サベツ主義者だと思っていないという事実は無関係である。というのも彼らは実際、共同体の成員に対してある権利義務的な地位を人種に基づいて割り当てているからである。これは重大な点である。共同体の成員が人や対象物に権利義務的な地位を割り当てる限り彼らは権利義務的な地位をあらわす何らかの方法を持つことになる。なぜなら権利義務的な地位はそれをそのように表象するものなしには存在できないからである。権利義務的な地位が割り当てられたところのものに基づくものと同じ外延を持つであろうような他の記述が存在するだろうが、権利義務論が認識され続けるる限り、共同体の成員はこれらの記述に気づく必要がないし、それらによって言われたことを受け入れる必要すらない。歴史的な場合をはっきりさせておけば、彼らは異なる種の人々に対して、支配的な種の地位よりも劣った権利義務的な地位を割り当てた。そうすることによって、彼らは制度的事実を創出し維持したのである。我々が彼らを「人種サベツ主義者」として記述し、彼らがそうした記述を彼ら自身受け入れないかもしれないという事実は、彼らが制度的事実を創出しているかどうかということとは関係がないのである。

このことは興味深い問題を提起する。それはつまり、地位機能Yについて人々はどの程度まで間違えうるのかということである。たとえば人々は、結婚は天の定めによるのみであると信じることができる、その一方でわたしの説明においては、天が定めようと定めまいと結婚は結婚だということになる。重大な問いは、そのカップルはどんな権利と責務をもつのかということである。人々は実際彼らをどのように扱うのか。彼ら自身についてはどのように見なすのか。共同体の成員が結婚歴(marital status)をそれらに一致させるならば、誤った信念の基礎のもとでは、彼らがそうしようとしまいとまったく無意味である。しかし、この問題についてはほかに言わなくてはならないことがある。ある共同体はある者が神の力を持つと信じているとする。たとえば教皇は不可謬だというように。その地位機能は尋常ならざる力を持つものと信じられている。ただしその力は存在しないかもしれない。それでもそれは地位機能だろうか?はてさて、わたしの定義によれば、それは地位機能である。なぜなら教皇は[その尋常ならざる力が存在しようがしまいが]権利義務力を持つからである。たとえばカソリック教会はある責務のもとで彼を信じる。しかしその力は地位機能として認識されてはいない。教皇は今やそれに加えて物理的(超自然的)な力を持つと信じられている。その信念は事実を超えたものである。その地位機能は、厳密にはその地位機能が地位機能ではなくナマの事実である、つまり宇宙についての志向性独立な事実だと信じられている限りで地位機能として機能する。その制度的事実、いな地位機能の全体系の受容は誤った信念にもとづいているかもしれない。制度分析の観点から言えば、信念が正しいか誤っているかは問題ではない。人々が事実として地位機能の体系を集合的に認識・受容しているかどうかだけが問題である。極端な場合、制度的事実はそれが制度的事実であるとは信じられないという限りにおいて機能する。そのような場合において集合的な受容は権利義務力の受容であり、ただしそれらはある別のことが信じられている限りで受容されるのである。

・・・全般的になんじゃらホイという話である。訳文を読めばお判りだろうが、このあたりについては訳している方もほとんどチンプンカンプンである。

(つづく。ただし問6はこれで終わり)

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2010年04月20日 | MSW私訳・Ⅱ
5-5 さらなる問題(承前)

問5: 書くことの特別な役割とは何か

ある部族がひとたび書かれた言語を獲得すると、他のあらゆる種類の発展が可能になる。書かれた言語の安定性は言語的表象それ自体を超えたいかなる物理的存在も必要としない地位機能の存在の創出と持続を可能にする。このことのふたつの印象的な例はともに、書かれた言語の創出からはるか後になって発明されたものであり、優れて近代の発明である。例のひとつは現実の通貨として引き出せるお金の近代的な形態である。特に電子通貨である。もうひとつは有限責任会社である。

束縛されないY項の場合において、地位機能Yを割り当てられた物理的な対象物あるいは人物は存在しない。またその結果として、書かれた言語は一般的にこれらの地位機能の創出と維持にとって本質的なものである。たとえばお金はいかなる物理的な実現もないところで存在することができる。銀行にある計算機のディスク装置の、銀行の収支を記録した磁気記録は現実のお金ではないが、それらはあなたがあなたの口座に所有しているお金の量を表象する。あなたはそれをいかなる借金も負わずに消費することができる。そのお金がいかなる物理的な存在をも持たなくてもである。有限責任会社はいかなる物理的存在も持っていない(それが、これらが「架空の人格(fictitious person)」と呼ばれる理由でもある)。目隠しチェスのゲームにおいて、ゲームのコマは物理的な存在を持っていない。それらは単に標準チェス記譜法の表現によって表象される。これらすべての場合において、お金・企業・チェスのコマといった制度的対象物の表象の物理的存在は存在する。しかし制度的対象物それ自体の物理的な存在は存在しない。これらのすべては書くことの存在によって可能になっている。書かれた記録は問題の地位機能の長持ちする(enduring)表象をもたらす。書くことのもうひとつの利点は書かれた文書は長い時間もちこたえ、その後に問題の地位機能の存在を証明するということである。

さらに、所有権の文書はそれら自身の在る限り恒久的な地位機能を獲得する。たとえばそれらは所有者が財産を担保としてお金を借り入れることを可能にし、また国家が財産所有者に課税することも可能にする[phew]。エルナンド・デ・ソトは所有権文書を、そのままなら貧乏地主であるものが繁栄を築き上げる、その重要な要素と見なしている。*

* De Soto, Hernando, The Mystery of Capitalism: Why Capitalism Triumphs in the West and Fails Everywhere Else, New York: Basic Books, 2003.

問6: もし、制度的現実がそれが存在すると信じられていることによってのみ存在するのだとしたら、どうして我々は新たな事実を発見して驚くのか。どうして社会科学が新しい事実を告げることができるのか

旧著「社会的現実の構築」に対する評者のうち、特に社会科学者たちは、その共同体の成員は気づかないが、社会科学者によって発見されうるような制度的事実があることを指摘した。*

* Thomasson, Amie, "Foundations for a Social Ontology," ProtoSociology 18-19 (2003): 269-290; [著者のWebページにこの論文のpdfへのリンクがある]
Friedman, Jonathan, Comment on Searle's "Social Ontology," in Roy D'Andrade (ed.), Anthropological Theory 6 (2006): 70-80. [Scribdにpdfがうpされている]

たとえば経済は景気後退に陥ったり景気循環を示したりする。景気後退とか景気循環といった概念を共同体の成員が持たなくても、である。わたしはわたしの説明の中で制度的事実はそれが存在すると表象される限りにおいてのみ存在すると言った。しかしこれらの場合には誰もその存在を表象することがない、表象とは独立して制度的事実が存在するように見える。そしてそれは実際に誰の意見とも無関係に発見されうるのである。

これらの場合をどう説明すべきだろうか。制度的事実はある記述のもとでのみそのように存在し、他がそれに依存するものの原始的な記述は、問題の共同体の何らかの形態による認識と受容を必要とすることを思い出してもらいたい。

この一文はどうやっても意味のある訳文の体をなさない。前後を精読するよりほかになさそうだが、今その余裕がない。

この条件に合致するように見えない場合、それは一階の制度的事実の体系的な帰結である。人々が売買し、財を所有し、有償でサービスを提供しといった事実は一階の制度的事実である。そうした事実は全体として、景気循環とか後退とかの一部として記述されうるような高水準の記述を持つことになろう。しかしこれらの帰結は一階の制度的事実によって構成されるのである。アーサ・アンデルソンはこれらのことを「ミクロ」制度的事実によって構成される「マクロ」制度的事実と記述している。

* Andersson, Åsa, Power and Social Ontology, Malmo: Bokbox Publications, 2007. [今日(Apr.20)ようやくこの本がWeb上で見つかった。ご本人の顔写真もついている。なぜ今まで検索にかからなかったのかは不明である。このサイトで見る限り現状でamazonの扱いはなく、mailオーダーしかできないようだ]

これらについて考察することは我々の制度的事実に対する理解を深めることになるだろう。

制度にかかわる人々にとって一階の制度的事実は存在として表象される限りにおいて存在することができる。しかしそうした制度的事実の集合と固有の表象はまた、それら自身は表象されないし表象される必要もないといった他の条件をも満たすことになる。自明な例は野球に見出される。左打者は右投手に、右打者は左投手に、それぞれ強いということが統計的に見出される。このことは野球のルールが要請することではない。それはただそのようにあるというだけである。

(つづく)

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2010年04月17日 | MSW私訳・Ⅱ
5-5 さらなる問題

問4: なぜ言語は特別であり、単にあまたある社会制度のひとつではないのか(承前)

まとめると、我々のふたつの明らかな平行性はともに幻であった。「XはYと見なされる」式は言語に対してよりも非言語的制度的事実に対して、異なって機能する。そして言語的制度の創出における遂行文の役割は、非言語的制度的事実における役割とは異なる。意味の本性についても意味の役割についても異なる。非言語的制度的事実の創出において我々は意味を、つまり言語の意味論的な力を、意味論的な力を超えた権利義務力の集合を創出するために用いる。意味論的な力は単にひとつひとつの発話的様態において表象する力であり、これらは遂行的発語を通じて言語行為を創出する力を包含する。しかし非言語的制度的事実の場合には、我々が言語を用いるとき、我々は表象する以上のことをやっている。つまり我々は表象するもの自体を創出している。我々は外言語的権利義務力を創出する。大統領の権力とか、お金や結婚の力とかをである。

これらの相違点は次の表にまとめることができる。

* この表の内容について示唆を受けたことをアシャ・パシンスキに感謝する。

我々は今や、言語がなぜ基本的な社会制度であり、他の制度のようではないのかということを、より深い意味で理解する。他のすべての制度的事実は言語的表象を必要とする、というのもある非意味論的事実は表象によって創出されるからである。したがってお金、政府、私有財産は意味論によって創出されるが、どの場合も創出される力は意味論を超えている。意味は意味を超えてはたらく力の創出に用いられる。しかし言語それ自体は意味を超えた力は持っていない。20ドル札には「この紙幣はあらゆる公的・私的負債に対する法貨である」と[英語で]書かれている。さてそれで、なぜそれに続けて「以上は英語文であり、書かれてある通りのことを意味している」と書かれていないのだろうか?保証はいらないのだろうか?お札に書かれている文は地位機能宣言である。それはお札が法定通貨であることを保証している。しかしわたしが想像した文、他の文がホントに文であるという文はいかなる追加の保証も追加することができない。言語はそれ自体でそれが意味を持つ文であることを決定する。

だからもし我々の問いが「なぜ言語の権利義務力は言語的に表象されなければならないのか、表象されなければならない他の権利義務力のように」というものであるなら、答えは、それらの権利義務力は意味を超えてはたらくものである限りは表象されなければならないということになる。意味はそれ自体はあなたを離婚させることもできないし、会議を延期させることもできない。あなたは何らかの外言語的慣習を持たなければならない。しかし言語的に表象された文の能力は追加の言語的表象の力を必要としない。それらはすでに文の意味の中に作り上げられている。

それ自体として、意味(意味論)の力は、ひとつまたはそれ以上の異なる発話様態において充足条件──真理条件、達成条件(fulfillment condition)、服従条件等々──を表象することだけである。しかし非言語的な地位機能宣言は表象する以上の何かをする。創出である。我々は意味論の力を意味論を超えた力を創出するために用いるのである。

ここまでの説明はある強い予想を行うものであるので、わたしはそれを明示しなければならない。それはあなたが会議を延期するとか宣戦を布告するとか、彼らは夫婦であると認めるといった遂行的動詞を持ち得ないだろうという予想である。その文字通りの意味は行いの成功を保証するに十分なものであったとしてもである。なぜならあなたはそれらを行うための外言語的慣習を必要とするからである。言語的表象それ自体では十分ではないのである。

しかし再び強調しておきたいより重要な点がある。わたしが述べてきたすべての言語能力は、伝統的に理解されてきたところの意味論を超えてはたらくものである。言語哲学の主流においては、字面上の意味についての説明は存在しない──モデル論しかり、可能世界論しかり、真理条件意味論(truth conditional semantics)しかりである──だがそれはわたしが字面上の意味の帰結として記述してきた言語の特性を説明するであろうものである。わたしの説明では、意味は意味を超えた現実の創出に用いられるのである。ところでそのことは、この問題がなぜかくも魅力的であるのかの理由のひとつである。我々は外言語的な意味論のいち分野を探求しているのである。

最後に、ひとつの皮肉に注意を向けて本節の結論としたい。わたしの言語についての最初期の説明、つまり「言語行為」において、わたしは言語を説明するのにゲームと他の制度的現象の類似性に訴えることを試みた。言語がいかにゲームに似たものであるかを示すことによって言語を説明しようとしたわけである。それが今や、わたしはゲームや他の非言語的制度的現象の存在が言語によってのみ説明されると主張しているのである。言語を説明するのにゲームの類比に訴えてはならない。なぜならあなたがゲームを理解するのは、あなたがすでに言語を理解している場合だけだからである。

このパラグラフにはサール「言語行為」への参照が挿入されているが、これは省略する。

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5-5c (ver. 0.1)

2010年04月14日 | MSW私訳・Ⅱ
5-5 さらなる問題

問4: なぜ言語は特別であり、単にあまたある社会制度のひとつではないのか(承前)

わたしは制度的現実は宣言型言語行為によって創出され、宣言型言語行為に似た機能をもつ表象(これもやはり言語行為と考えられる)による存在の継続において維持されると主張した。しかし言語それ自体は宣言型言語行為によっては創出されない。本節では「なぜ言語と他の社会制度の間には非対称性が存在するのか」を問う。そして、なぜ言語が他のすべての制度の基礎であるのかを示すことによってその問いに答えることを試みようと思う。

まず最初に言語と他の制度の違いを最小化することを、一方にある明らかな類似性に注意しつつ試みてみる。ふたつのことが際立っている。まず「XはYと見なされる」の構成的規則は言語でも非言語的制度的事実においても同じように機能するように思える。実際、我々はバラク・オバマが合衆国大統領であると見なし、それと同様に「雪は白い」を日本語文[原文は英語]と見なすのである。いずれの場合もある種の地位機能が創出されている。さらに、我々は「雪は白い」という発語を、雪は白いという意味の文と見なす。もうひとつの明らかな類似性は、遂行文(performative)による非言語的制度的事実の創出は、宣言型言語行為による[言語的な制度的事実の]創出と同じように機能するように思えるということである。「ここに戦争を宣言する」と「ここに会議は延期とする」はそれぞれ、戦争とか延期とかの制度的事実を遂行的に創出する。ムスリムの国では、男は遂行的発語によってその妻と離婚することができるのだそうである。彼はただ小石(水晶?)を3つ投げる間に「離婚だ」と3回言えばいいのだそうだ。同様に、「ここに来て会うことを約束します」「この部屋を出て行くよう要求します」はともに遂行文である。前者は約束、後者は要求である。ただし注意すべきことは、これらの例において我々は2種類の遂行文を見たのだということである。それらは「言語的遂行文」と「外言語的もしくは非言語的遂行文」と呼ばれることになる。言語的遂行文は言語的行為(liguistic act)、約束や要求などの言語行為を創出し、非言語的遂行文は実際は言語的(結局は言語行為だ)であるが、離婚とか延期とかの、他の種類の制度的事実を創出することができる。

言語的と外言語的あるいは非言語的制度的事実の間にはどんな違いがあるのだろうか。まず注意すべき相違点は非言語的制度的事実はその存在のために言語的表象を必要とするということである。だから、そのように表象され、またそれらの表象が集合的に認識され受容されている限りにおいて、オバマは大統領であり、わたしは大学教授であり、このクルマはわたしの財産である。しかし日本語[原文では英語]文はそれが日本語文であるためにさらなる言語的表象を必要としない。仮にそうだとしたら無限退行のようなことになるだろう。しかし誰かは言うだろう。「そうだ、しかしあなたの観点が無限退行に陥るという事実はあなたの観点を反駁するものかもしれないが、それは言語と外言語的制度的事実の区別の証明ではない。あなたはまだ区別をつけていない」と。区別をつけるためには、わたしは意味の概念を導入しなければならない。この場合意味は記号や標識に充足条件を課すものである。意味の概念を導入すると、構成的な定式を非言語的制度的事実へ適用する方法は、それを文に適用する方法とはまったく大きく異なるものであることがわかる。オバマを合衆国大統領と見なすとき、それは見なしの操作を特定する。我々は彼をそのように見なすためには何かをしなければならない。しかし我々が「雪は白い」という文の発語を、雪は白いという意味をもつ文と見なす場合、この「と見なす」は操作を特定しない。そうではなく、発語を特定の文と見なすという事実は発語の意味するところを構成する。文の意味は、その適正な発語それ自体がすでに相当する文の意味を構成するものとしてある。しかし「オバマは大統領である」という文の発語はそれ自体としてはオバマを大統領にすることを構成しないし、彼が大統領として存在することを構成することもない。我々がここで使っている意味の概念はあるものがある発話的様態のもとで命題的内容をもつという概念である。だから「雪は白い」という文は意味がある。なぜならそれは雪が白いという事柄の状態を断定的に表すからである。しかし大統領や私有財産のこれこれについての文はそういう方向で意味のあるものではない。それは何も表さない、つまり表象しない。そうではなくそれはそれがもつ地位機能をもつこととして表象されるのでなければならない。さもなくばそれは地位機能を持つことができない。

遂行文が言語的制度的事実を創出することは遂行文が非言語的制度的事実を創出する場合と大きく異なる。なぜだろうか?会議の延期、宣戦布告、離婚の場合、我々は文の意味に加えてあるものを必要とすることに注意しなければならない。意味を創出する慣習に加えて、適切な人物によって会議の延期、宣戦布告、離婚等々と見なされる文の発語がなされる慣習ないし効果の規則が必要である。ある外部的な慣習、言語それ自体の慣習を超えた、ある外言語的な慣習がなければならない。かいつまんで言えば、約束や要求をなすという場合、あなたに必要なもののすべては、その慣習に沿って言語を用いるような、その言語を話す能力を持つ人(competent)である。しかし宣戦布告や会議の延期、あるいは離婚の場合はそれ以上の何かが必要である。あなたは、外言語的な慣習があなたに相当する制度的事実を創出する権力を与えるような、ある特別な位置になければならない。その特別な権力それ自体は言語によって創出される。だから、戦争・延期・離婚の非言語的遂行文と、約束や要求の言語的遂行文の間の、明らかと見えた並行関係は幻にすぎない。非言語的の場合はそれらがそれらの機能を行いうるために地位機能宣言を必要とする。しかし言語的の場合はそうではない。言語的の場合においては必要とされるのは意味だけである。遂行文の意味はそれ自体、その能力のある話者がその文で言語行為を行うことを可能にするに十分である。地位機能宣言による非言語的制度的事実の創出においては、制度的事実の創出は狭義の文の意味を超えている。これらの場合、我々は言語の意味を意味を超えて作動(go)する権力を創出するために用いるのである。

これらの相違を理解するために、我々が「雪は白い」の発語を相当する文と見なすことと、バラク・オバマを(彼がある条件を満たすがゆえに)合衆国大統領と見なすことを対照させてみよう。「雪は白い」の場合には、発語が文を構成する方法を理解するために、あなたが理解しなければならないのは文の意味を理解することだけである。しかしバラク・オバマの場合は、一連の構成的な準備(provision)が存在する。選挙人の多数を獲得した者は誰であれ次期大統領と見なされる。そして次期大統領が連邦最高裁判所長官の前で宣誓したとき、彼は合衆国大統領と見なされるのである。「雪は白い」の場合、意味は「と見なされる」が起きるために必要なすべてである。それ以上の操作は必要ではない。しかし大統領の場合、「オバマは大統領である」という文はそれだけでは十分ではない。あなたは彼が大統領であると見なすには、ある手続きに沿って見なさなければならない。これがわたしが意味の「構成」に対して「操作」と呼ぶものである。書かれた構成の場合、あなたは現実の操作においてその適用に先立つ外言語的な慣習を持たなければならない。

(つづく)

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5-5b (ver. 0.1)

2010年04月11日 | MSW私訳・Ⅱ
5-5 さらなる問題
問2: いかに手品をやりおおせるか(承前)

人々が認識・受容する制度と制度的事実に関連した理由は、その任意性や制度的現象の不正(injustice)に彼らが気づいている場合であっても、彼らはそこに変化があったためしがないことを絶望している。そう、財産の分配は不公平(unjust)であり、私有財産ということそれ自体にもたぶん何らかの不公平が存在する。だがそうしたことについて個人にできることはほとんどない。個人は制度に直面して無力を感じる。こうした現象については、政治権力についての章でふたたび述べることにしよう。

制度と制度的事実の受容に関連のある、また強力な動機とは、他の人々と同じようでありたい、また集団の一員として受け入れられたいというような、集合的志向性の共有に順応しようとする人間の衝動である。

そのような、わたしが示してきた一般的な理由──自己利害・力の増大・無視・無関心・絶望・順応主義──を超えて、「なにが受容を動機づけるのか?」という問いに対する一般的な答があるとは思えない。個別の制度に個別の動機があるだけである。権力関係にかかわる制度が脅迫的であるとき(政府や政治権力は一般にそうだが)それが合法的かどうかの問いは重大なものになる。権力については第7章でさらに述べることになるだろう。

問3: この説明はどのように基本的要請に整合するか

物理的な実現のない制度的事実の存在ということは、現実世界のすべては物理化学やその他の実体に基礎づけられるべきだという我々の基本的要請に、どうしたら整合させることができるのだろうか。もし、すべての制度的事実はナマの現実に基礎づけられなければならないと考えるなら(そうでなければならないのだが)、抽象的な、あるいは無制約的(free-floating)な存在論をもつような場合[つまりそうした存在]をどう考えたらいいのだろうか。わたしが採用してきた(have been espousing = adopted)基本的存在論の概念によれば、現実世界のすべてを基本的事実に帰着させることは不可能であるに違いないということになる。自立した(freestanding)ものがある。お金、企業、目隠しチェスといったものは、ただ宙に浮いていることなどできない。

※ 束縛もされないが浮いたままということもない、ということだろうか?

この問いについてはすでに暗黙には答が出ている。ここでそれを明らかにしよう。以前に示した地位機能の創出を示す式を結合する際、それはこういうものだった。

我々は「ある地位機能Yは文脈Cにおいて存在し、またそうする中で我々はある人物(または人々)Sと地位機能Yの関係Rを創出する。このときSRYによって(Sは(Sは行為Aを行う)権力をもつ)」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

この光をあててみると、束縛されないY項は常に問題の権力をもつ現実の人間存在に基礎づけられていることがわかる。なぜなら彼らはそれらを持つものとして表象されているからである。だからあなたがお金や企業や目隠しチェスのコマを持つことにおいて物理的実現は必要でない。持たなければならないのはお金の所有者、企業の役員とか株主、またチェスの試合の選手であり、これらに作用する権力創出作用素である。制度的事実は依然としてナマの現実のもとにある。しかしこれらの場合においてナマの現実とは現実の人間存在であり、言語的表象を構成する音や記号である。

要点をかいつまんでみる。存在論的に言って、最小の制度的現実を創出するためには、あなたは厳密に以下の3つを持っていなければならない。

(1) 人間存在(あるいは同様の認知能力をもつ種類の存在)
(2) 志向性。対象物や人に機能を授課する能力をもつ集合的志向性を含む
(3) 宣言型言語行為、つまり双方向の適合方向をもつような言語行為をなすことができる言語

束縛されない地位機能Yがとにかく複雑かつ永続的であるのなら、これらに加えて「(4) 書くこと」が必要である。束縛されないY項の場合は常に、「人間」と「言語」が制度的現実の特別な形態として必要なふたつの現象であるような場合である。他の場合、現実の私有財産とか運転免許とか結婚した夫婦とかの場合は、地位機能を割り当てることのできる物体、もしくは特別の物性をもつ人間存在[!]が必要である。

問4: なぜ言語は特別であり、単にあまたある社会制度のひとつではないのか

直観的に、我々がそれについて考え始める以前には、言語は最初の社会制度だと思える。政府・財産・結婚・お金はないが言語はあるといった社会を想像することはできる。しかし政府・財産・結婚・お金はあるが言語はないといった社会は想像することもできない。直観的に、理屈以前のモンダイとして、我々はみな言語がなにがしか制度的現実を構成するものであることに気づいている。その仕事はてんで駄目だとわたしが思うような著者たちでさえ「言語が社会的現実を構成する」という文は認めるだろう。実際、わたしはアリストテレス以後の誰もが[※この文に「哲学者は」という限定はついていない]このことを認めるはずだと思っている。問題は「厳密に(exactly)どうやって」言語が社会的現実を構成するのかを言うことである。厳密にどんな言語行為の形態によって制度的現実が創出されるのか、厳密にどのような現実の存在論的地位が創出され、それによって厳密にどんな言語行為が維持されるのか、である。これらは厳密に(precisely)わたしがこの本で答えようと試みている問題である。

(つづく・・・またしてもコピーを切らしてしまった。晩飯食ったらコンビニへgo!だ)

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5-5a (ver 0.1)

2010年04月08日 | MSW私訳・Ⅱ
第5章 制度と制度的現実の一般理論:言語と社会的現実

5-5 さらなる問題

今や我々が一般理論を語るに際しては、次のような問いに答えなければならない。

1. これをやる上で重要な点は何か?我々はいかにしてこれらの制度や制度的事実から利益を得るのか?
2. どうしてこんな手品をやりおおせるのか。我々は無から現実を発明しているかのようである。
3. 我々の制度的現実の説明はいかにして基本的な要請、つまり人間の制度的現実と制度的事実が単に世界の基本構造と矛盾しないだけでなく、その基本構造の自然な成長でなければならないという必要と出会うのか。
4. どうして言語は特別であって、単にたくさんある制度のひとつではないのか。
5. 書かれた言語の特別な役割とは何か。
6. 制度的事実が存在するためにはそう信じられていなければならないとしたら、どうして新たな制度が、それも唐突に(surprising)見出されるということがありうるのか。社会科学において驚くべき(surprising)発見は可能なのか?
7. 制度的事実についての文の論理形式とは何か。また、それらには明らかに外延性(extensionality)が欠如しているということをどう説明するのか。
8. 制度的現実の創出における想像力の役割とは何か。

いくつかの問いにはすでに暗黙に答を出している。しかしここではそれらを含めて答を明らかにしよう。

問1: 地位機能と権利義務力

なぜ我々はこんなことをやるのか、である。なぜ我々は、お金だ政府だ財産だ大学だといった綿密な制度的構造を創出するのか。人間の制度すべてを貫く単一の目的というものはない。そして実際、制度的現実はほとんど人間の現実それ自体と言っていいほど多様に存在する。しかし、わたしはそう主張してきたのだが、すべての(あるいはほぼすべての)制度を貫くひとつの共通要素ならある。それはさまざまに異なったやりかたで人間の力を増大させることを可能にする構造だということである。お金のない生活とはどんなものであるか。学校、財産権、なかんづく言語のない生活とはどんなものかを考えてみてもらいたい。何人かの社会理論家は、制度的事実は本質的に拘束的なものだと考えていた*。とんでもない間違いだ。

* Durkheim, Emile, The Rules of Sociological Method, George E. G. Catlin (ed.), trans. Sarah A. Solovay and John M. Mueller, Glencoe, II.: Free Press, 1938.(デュルケーム「社会学的方法の規準」(岩波文庫))

実際に社会制度の中には拘束的な要素がある。たとえばあなたは選挙で選ばれることなしに大統領にはなれないし、持ってもいないお金を遣うことはできない。野球で4つのストライクを持つことはできない[その前に三振、バッターアウトだ]。しかし、お金や野球はまさしく我々の力を増大する制度である。わたしは権力作用素(power operator)の一般形式は次のようなものだと主張してきた。

  我々は認識する(Sは(SはAを行う)権力をもつ)

だからたとえば、大統領は議会を通過した法案を拒否できる権力を持っている。対する議会はさらにその拒否を上書きする権力を持っている。わたしは制度的構造によって創出されるすべての権利義務力がこの構造を持ち、この基本的な権力創出作用素に対する論理演算の結果として扱えると主張する。したがって、もしわたしが駐車違反切符を受け取り、きっちり50ドル払う法的義務がわたしに生じると、わたしは負の権利義務力すなわち責務をもつことになる。以上は次のようにあらわされる。

  我々は認識する(not(Sは(not(Sは権威に50ドル支払う))権力を持つ))

普通の日本語で[原文は英語で]言えば、わたしは払えとされた金を払わずにいる権力を持っていない、となる。また、わたしが野球のバッターとしてツーストライクを取られていたら、少なくともわたしの権利義務的地位の一部は条件的である。つまり「もうひとつストライクを取られたらアウトだ」。わたしは条件的な負の権利義務力を持っている。

制度的現実の創出における要点の全体は、それ自体に価値がある特別な地位を物体なり人々なりに授けることではなく、人々の間に権力関係を創出し調整することだ、ということを常々記憶にとどめておこう。人間の社会的現実は単に人々と物体についてのものではなく、人々の活動や権力関係、それも単に支配(govern)ということばかりではない、それらの活動を構成する権力関係についてのものである。

※どう見てもフーコーの影響だよなあ、こういうのは。

問2: いかに手品をやりおおせるか

この本における解説(解明)の主たる戦略は、奇妙かつ著しい(strange and striking)と思えることをありふれたことにすることを試みることである。制度的現実の最も奇妙で最も著しい特徴とは、制度的事実の創出に先立つ制度的なものは何もないということである。その創出も本当にただ言葉、言葉、言葉でしかない。だからこう問わなければならない。なんでそんなことがありうるのか。我々はどうしてこの手品をまんまとやりおおせるのか。これがただの手品でないというのはどういうことなのか。この問いに短く答えると「我々はそれを人々が受け入れる限りにおいてやりおおせる」ということになる。制度的な事実の集合的な認識・受容がある限りそれらは機能する。それらは権利義務力からなり、権利義務力はそれが受容されている限り機能する、ゆえにそれらは機能する。もちろん、それらはしばしば、警察や軍隊の力に背後を支えられているに違いない。しかし警察や軍隊はそれら自体が地位機能の体系である。

しかし、この答えは我々を悩ませている問いには答えていない。我々が手品をやりおおせるとき、人々がそれを受け入れていることによって我々はそれをやりおおせるというだけである。そうだとすればそもそもなぜ人々が制度と制度的事実を受け入れるのかが問題になるわけである。これに対する最も一般的な答は、人が考えつくような制度の多くは我々の力を増大させることによって我々に利益をもたらすように機能するからだというものである。言語やお金のように、多くの制度は誰もが大きな関心を持つものであり、人が合理的にそれらを拒絶する方法はまず知られていない。しかしそのような、いくつかの制度が万人の関心を引く傾向があるという程度の曖昧な観察を超えたところに「人々がなぜ制度を受け入れるのかの問いに対する一般的な答えはない」ということがある。実際、人々が喜んで受け入れ、不正な取り決め(arrangement)となるであろうようなあらゆる種類の制度が存在する。人が思い浮かべるのはさまざまな階級構造であったり、多くの社会における女性の地位の低さであったり、お金・財産・権力のあまりに不均衡な(disproportionate)配分のことである。しかし、それらの場合の大部分に共通した特徴は、制度的事実を受容するに際して人々は典型的に何が起きているのかを理解していないということである。彼らは私有財産を、私有財産を割り当てる(allocate)制度を、人権を、人間の創出したものとしての政府を考えない。彼らがそう考える傾向にあるのは、それらを物事の自然な秩序の一部として、彼らがお天気や重力を当たり前のものと見なすのと同じように当たり前のものと見なすことである。しばしば実際に彼らは制度が神のご意志の帰結であると信じている。したがって、たとえば彼らは人々は「創造主によって侵すべからざる権利を与えられている(造物主によって譲渡不能な権利を附与された)*」存在であると信じている。

* [アメリカ合衆国]独立宣言。全文の和訳はたとえばここで読める。

制度がいかに創出され、また機能が実際にそれらが機能することをいかに促すのかについての一般的な理解があるのかどうか、わたしにはまったくわからない。それらの多くは信念に基づいており、その信念は超自然的なものであって、わたしはそれらの信念はほとんど確実に誤りだと思っている。とはいえそれらの制度でさえも、批判的な分析がなされずに当たり前のこととみなされる場合にもっともよく機能する傾向にある疑わしい信念(お金や政府などである)にもとづいて形成されたものではない。カール・マルクスが指摘したように、「王は他の人々が彼に服従する関係にあるがゆえに王である。他方の彼らは、彼が王であるがゆえに彼らが服従するところを想像する」*

* Marx, K., Capital: A Critical Analysis of Capitalist Production, London: Swan Sonnenschein & Co., 1904, vol. I, 26n.(マルクス「資本論 第I巻」)

(つづく)

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5-4 (ver 0.1)

2010年04月05日 | MSW私訳・Ⅱ
第5章 制度と制度的現実の一般理論

5-4 制度的現実の持続的な維持:さらなる地位機能宣言

我々はこれらの作用素が実際の社会で作動できるようにするために集合的志向性と機能の割り当ての両方を必要とする。制度的現実が集合的に認識もしくは受容されていない限り、また成員がその地位機能が帯びている権利義務論を理解していない限り、制度的事実が人間理性に宿る(lock into)ことはありえないし、欲望によらない行為理由がもたらされることもない。たとえば、財産権の集合的認識・受容の何らかの形態がなければ、また成員がそもそも「権利」という概念を持っていなければ、私有財産の体系は機能するはずがないし、明瞭(intelligible)になることもないのである。

実際の複雑さは特殊な特徴をもたらすだろう。たとえば、あなたは既存の制度的構造の中の制度的現実に対して分離された認識・受容の態度を必要としていない。あなたが野球の制度を受容したとして、ホームランとか一塁打について別に受容する必要はない。あなたはすでにあなたが制度を受容したことに束縛されている。問題があるとすれば認識論的なことだけだ。それはほんとに一塁打なのか?彼は本当に犯罪を冒したのか?野球には審判が、刑事犯罪には法廷があるのはこのためである。構成的規則の体系を所与として、問題の行為は実際に規則の中にあるのだろうか?体系はいったん成員によって受容されると、体系内の事実の受容に彼らを束縛する。なぜなら体系は定常的宣言型言語行為の集合からなり、問題の制度的事実を構成するものと見なされるこれらの宣言型言語行為によって設定された条件を満たしているからである。

力を創出する作用素のほかに、我々は地位機能の継続された存在と維持を目立たせる(mark)集合的認識・受容の作用素を必要とする。

我々は集合的に認識・受容する(Sは力(SはAを行う)をもつ)

ちょうど我々が地位機能の創出と、もとの地位機能宣言のスコープ内の力関係を含めなければならないように、我々は今や地位機能と集合的認識のスコープ内の力関係をともに維持しなければならない。だいたいのところこんな風に。

我々は集合的に認識・受容する(CにおいてYが存在する。SはYにRだから(Sは力(SはAを行う)をもつ)

普通の言葉で言えば[是非そうしてもらいたいところだ]、我々は地位機能Yが文脈Cにおいて存在し、かつ人間主体SはCにおける地位機能Yに対してある特定の適切な関係Rのもとにあるので、我々はさらに、SがAを行う力を持つこと、行為は地位機能Yによって決定されるということを集合的に認識する。直観的に言えば制度的事実の創出と維持の要は力(power)だということであるが、装置の全体──創出・維持・結果における力──はただ集合的な受容・認識がある場合にのみ作動する。

わたしは地位機能の創出が地位機能宣言によってなされるものだということは十分に明確であると思う。自明とまではいえないが、もうひとつ真だと思えるのは、地位機能の継続された存在は地位機能宣言のように作動する表象を必要とするということである。なぜか?制度の中にある制度と制度的事実は継続された認識と受容を必要とするからである。なぜならそれらはそのように認識・受容されている限りにおいてのみ存在するものだからである。認識・受容をしるしづけることは継続された制度と制度的事実の使用であり、これは相当する語彙の使用を必要とする。受容は明示的な言語行為の形態をとる必要がなく、また熱狂的な支持から渋々黙認することまでの間のあらゆる場合でありうる。これが、わたしがしばしば「認識・受容」という表現を用いる際に制度や制度的現実がそれらの継続された存在を必要とするという態度の内訳によって是認(approval)することを意味するわけではない、という注意書きを加える理由である。言語行為の形態における認識は宣言型言語行為のように機能する。たとえ言語行為が宣言型の形態をとっていなくてもである。地位機能の語彙を使用し続けることによって我々は地位機能を補強(reinforce)する。シャツや靴とは違って、制度はいくら使っても目減りしたりはしない。対照的に、結婚・私有財産・お金といった制度の継続的な使用は制度を強化するが、「使用」はそれを話すことを必要とし、そのハナシは制度内の制度と制度的事実の双方を維持強化するように機能する。

人は革命とか改革主義運動であるとかの活動における語彙の役割を知っている。彼ら[革命家とか]は地位機能の体系を変えるために語彙を理解しようとする。フェミニスト達は「淑女」とか「紳士」といった語彙が、彼女たちが拒絶しようと欲する権利義務論にかかわるものであることを正しくも理解していた。ふたたび言えば、ロシア共産党の党員たちは人々が互いを「同志」と呼び合うことを欲した。それは新たな地位機能を創出し、古い地位機能を破壊する手段としてであった。語彙の継続使用は既存の地位機能を維持し増強する。この現象を見るもうひとつの方法は、地位機能をしるしづける語が、相当する地位機能それ自体が浸食されるにつれて、どんな風に次第に使われなくなって行くかを見ることである。「未婚婦人(spinster)」という語はアメリカの古い法典の中で異彩を放っているが、現在普通の会話ではこの語は耳にしなくなっている。わたしはわたしの講義の中で「自分がミコンフジンだと思う人はいますか」と訊ねてみたところ、おっかなそうな(fierce)中年女性たったひとりが手を挙げる勇気を持っていた。同様に「独身男性(bachelor)」という語も、ここで書いているような道筋で、つまりその語に結びついた地位機能の衰退に伴って死語になって行くかもしれない。そのように、下向きの適合方向(言葉→世界)を持つ語彙の日常的な使用は、時間の中で地位機能の持続と存在においてすでに上向きの適合方向(言葉←世界)を累積してきたものなのである。

もしこれが正しければ、その存在における言葉の漸進的な黙認による地位機能の創出と、同じ地位機能の継続された存在との間にかっちりした分割線は引きようがないということになるだろう。「今やこの石の線は境界になった」「ビルは我々の真の長になった」と言うことを「我々は引き続きこの石の線を境界と認識する」「我々は引き続き我々の長としてビルを認識する」と言うことと区別するような特別な点は何もないのかもしれない。

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5-2-1c/5-3 (ver. 0.1)

2010年04月02日 | MSW私訳・Ⅱ
5-2-1 制度的現実の創出(承前)

石の線から境界を創出することは非常に単純な権利義務論を生み出す。法人の創出は多くの人々が互いにかかわりあう、ものすごく複雑な権利義務論を生み出す。後者を書き言葉なしに行うことのできる存在[生物]の種は論理的に存在可能である。しかし我々人類には不可能である。上で挙げたふたつのような、綿密に書かれた構成的規則の集合や、やはり綿密に書かれた法人の活動記録がないところで法人の存在を創出し、維持し、それらの活動にかかわることは不可能である。

これらの3つのタイプは3つの異なる論理形式を示す(exhibit)ように思われる。3つのすべてに共通するような構造があるだろうか?地位機能を創出する作用素(operator)の基本形式はこうである。

我々は「文脈Cにおいて地位機能Yが存在する」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

3つの形式はこの原理から自然に生じてくる。最も単純な場合は単純に地位機能を人やモノに授課する場合、たとえば石の線を境界にするの例である。それを文字にして綴ってみるとこうなるだろう。

我々は「文脈Cにおいて対象Xは地位機能Yをもつ」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

完全な形で綴ればこんな風になろうか。

我々は「Xは地位機能Yをもち、したがって文脈Cにおいて機能Fを行うことができる」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

ただし、忘れてはならないのは、機能それ自体は権利義務力の集合として綴られるだろうということである。他の形式は構成的規則と束縛されないY項を含む。それらを綴ってみよう。構成的規則は次のようになる。

我々は「条件pを満たす任意のxについて、xは地位機能Yをもち、文脈Cにおいて機能Fを行うことができる」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

この形式が合衆国大統領から、有罪を宣告された犯罪者や野球の一塁打までを被覆(cover)する。

最もややこしい場合は、たとえば法人を創出するというような、束縛されないY項の場合である。法人を可能にする法はそれ自身が他の宣言型言語行為を行うことを可能にするひとつの宣言型言語行為である。順を追って見て行こう。法は次の形式になる。

我々は「条件pのある特定の集合を満たす任意のxについて、xは文脈Cにおいて、宣言型言語行為によって地位機能Yをもつ実体を創出することができる」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

したがって、わたしが引用した条文において、条件pは自然人とか法人とかその他の存在である。またそうした実体は宣言型言語行為によって法人を創出することができる。だから法は他の宣言型言語行為を権威づける宣言型言語行為である。そしてあなたが実際に法人を創出すると、以下のようになる。

我々は「文脈Cにおいて機能(複数)Fをもつ実体Yが存在する」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

我々はそのようにしなければならない。なぜなら、我々は単に機能が存在するというだけではなく、その機能をもつ実体Y(法人)の存在を特定する必要があるからである。たとえその実体が言われるところの「架空の(fictitious)」実体であったとしてもである。重要なことは、そのような場合において独立した既存のXは存在しないということである。あるのはただ地位機能Yをもつ実体すなわち「法人」の創出である。「法人」は実体の名前であるとともに地位機能の事実存在(existence)でもある。束縛されないY項のすべてがこの形になるわけではない。銀行が単純に、自分が持ってもいないお金を貸すことでお金を創出する[信用創造の]場合、宣言型言語行為は次のようになる。

我々は「地位実体Yは機能Fとともに存在する。そしてジョーンズ氏へのお金の貸し付けにおいて、銀行は『貸付たお金の一定割合は、以前には存在しなかったがいまや存在する』という宣言型言語行為によってそれをその場合とする」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。(お金の創出についてはあとでさらに詳しく述べる)

石の線、王、法人、お金などがどこからどうして私有財産、政府首脳、大学、祝日、カクテル・パーティ、運転免許取得者、国家、あるいは合衆国陸軍、マフィア、アルカイダ、Squaw谷スキー・チームなどになって行くのか。これらの場合のすべてにおいて、宣言型言語行為による地位機能の創出が存在する。神様は「光あれ!」と言って光を創造することができる。我々には光を創造することはできないが、それに似たある著しい能力を持っている。我々は「境界になーれ!」「長子が王になーれ!」「法人あれ!」というに等しい何かを言うことによって境界を、王を、法人を創出することができる。

5-3 言語行為と権利義務力

これらの例を念頭に置くことで、我々は今や制度的現実の存在の創出と維持についての一般原則について述べることができる。厳密に必要なのは3つの素概念である。

  (1) 集合的志向性
  (2) 機能の割り当て
  (3) 構成的規則を含む地位機能宣言を創出するに十分豊かな言語

第3章では集合的志向性について説明し、機能の割り当てについてもなにがしかを述べた。第4章では言語がいかにして権利義務論と宣言型言語行為へ進化しうるかについて説明した。

「構築」を書いたとき、わたしは制度的事実の創出と維持における第三の要素は、単純に、それによって地位機能をくっつけ(attach)、また「XはCにおいてYと見なされる」式をもつ構成的規則もしくは手続きの存在に等しい(amounted)と考えていた。そのときわたしが自問しなかったことでいま自問してみるのはこんなことだ。言語行為論の観点からして、その手続きとは厳密に何か?えーと?ふたつの根本的に異なる場合がある。「雪は白い」という文の字面上の発語は、雪は白いという言明をなすものと見なされる。単にそういう意味なのである。それ以上の言語行為論は必要でない。しかし特定の種類の紙の何枚かを20ドル札(の何枚か)だと見なす場合、我々はそれらを宣言型言語行為によてt20ドル札にしている。宣言型言語行為は何かをそう見なすことでその場合にする。つまりその場合だと宣言することによってその場合にする。この非対称性を理解することは、言語の本性と制度的現実の本性を理解することにおいて本質的である。それについて本章の後の方でさらに述べよう。

地位機能のすべての授課が「XはCにおいてYと見なされる」の形を持つわけではない。というのも、しばしば、法人や電子通貨の場合のように、我々は地位機能と権利義務力を創出するが、それが人やモノに対して直接それをくっつけるわけではないことがあるからである。これらはバリー・スミスによって「束縛されないY項」と呼ばれている。*

* Smith, Barry, "John Searle: From Speech Acts to Social Reality," in John Searle, Barry Smith (ed.), Cambridge: Cambridge University Press, 2003, 1-33

そういうわけで、「XはCにおいてYと見なされる」式はひとつの形ではあるが、唯一の形ではない。制度的現実の創出における最も一般的な論理形式とわたしが呼ぶものの実際はこうである。

我々(またはわたし)は「ある地位機能Yは[文脈]Cにおいて存在する」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

これを行うことの全体が権利義務力を創出するので、我々は宣言型言語行為のスコープの中でそれらの力の創出を詳記することも必要としている。それはこんな風になる。

我々(またはわたし)は「ある地位機能Yは文脈Cにおいて存在し、またそうする中で我々(またはわたし)はYとある特定の人物(または人々)Sの関係Rを創出する。このときSRYによって、Sは行為(のタイプ)Aを行う力をもつ」という宣言(declaration)によってそれをその場合とする。

余分な(extra)節を追加することの要点は我々が単に地位機能Yをそれら自身のために創出するだけではなく、それらを創出した地位機能Yに割り当てることによって現実の人々に力──正の、あるいは負の、条件つきの、あるいはその他の──を割り当てもする、ということを明確にすることである。これらの関係は問われている地位機能のタイプとともに変化する。大統領の場合であれば、その人物と地位機能Yの持ち主は同一である。お金の場合は、人物はお金の所持者(possessor)である。私有財産の場合、力を授かるのは私有財産の所有者である。法人の場合、特定の人物が特定の権力と責務をもつ。ここまでは地位機能を創出する作用素を導入し、それから作用素のスコープの中に、地位機能にくっつけられる力を導入した。次の段階は地位機能の認識がその作用に対して本質的であるような形式を示すことである。

我々は集合的に認識する(YがCにおいて存在し、かつ、なぜなら(SRY(Sは力を持つ(SはAを行う)))

集合的認識に対して権利義務力の機能することを可能にするためには、地位機能の存在とそのSに対する関係が集合的認識のスコープ内になければならない。

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