聖書---それは神の言葉であり、人類へのメッセージである。しかし単なるメッセージではなく、驚くべきメッセージである。
聖書なかりせば、教会やキリスト教はもちろん、今日の世界を無かった。自由、平等、人権はキリスト教の価値観である。
ただしその聖書に、多様な接し方があることは認めなければならない。私は聖書が全部か、または部分的、断片的に神の言葉だとする「揺れる土台」の教会信仰の中で長く生きた。ただその中にあっても私は、個人的に全体が神の言葉として信じていたが、聖書の記述の食い違う個所にイマイチ確信が持てないでいた。
しかし信仰を持って三十年して神にふれられる体験をし、カリスマ派になってからは、なんと愚かなことで迷っていたのかと思う。聖書は全体が神の言葉であって信仰により、筆者である聖霊によって読むのである。
すると新たな読み方に遭遇するようになった。信仰の書であるから、信仰的な受け取りを最優先し、ある意味で論理を無視して読み取れば良し、とする読み方である。いわゆる「示し」的な読み方である。この場合、論理的な読みを「ロゴス」と言い、示し的な読みを「レーマ」と考えても良いかもと思う。しかし実際にはレーマであっても、御心の正当なレーマかが問われる。
わかり易くするため、その一例を挙げたい。
"バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。"(マタイの福音書 11章12節)
このみ言葉をもとに、「皆さん、天の御国が危うくなっています。イエス様の時代、天国は実は危うかったのです。私は今朝、御国が敵から守られるよう、皆さんと共に祈ることを示されました」と語った説教者がいたとします。(こんなメッセージを聞くと、ミヒャエル・エンデ作の「はてしない物語」、映画の「ネバーエンディングストーリー」を私は連想してしまう。そこでは想像の世界が激しく攻められ、危うい)

これは説教者が「示されました」と言っている限りにおいて、その方への示しをとやかく言うことはできない。示されたことは個人的な示しで他者がとやかく言えるものではないからだ。しかしそれが一旦メッセージとして、自分以外の人びとに語られるとなれば、「証」としてならともかく話は別だ。
なぜなら、この説教者の理解は聖書全体から言っても誤った受け取りであるからだ。神の国が激しく攻められている? そんなことはありえない。「いや、そう書いてあるじゃないか! 」確かにその通り記述してあっても、違うのだ。
聖書全体を何度も読み、神様について程度の差はあっても分かりつつある方なら、「御国は激しく攻められています……奪い取っています」に違和感を覚えられるのではないだろうか。私たちが永遠に住む天の御国がそんな所だなんて・・・そんな馬鹿な」と。神は全能であり全知、永遠であり、十字架でサタンに勝利された、何よりも愛のお方です。そんな馬鹿な、と。

この箇所は「バプテスマのヨハネの日から今日まで」がポイントになる。それまで黄泉の国の深い淵で分けられていた、アブラハムの懐と呼ばれる天国的な世界が、キリストの十字架と復活で、天のエルサレムという神の国になった(ルカ16章19節〜を参照)。バプテスマのヨハネは旧約時代の最後にして偉大の預言者であって、彼はメシアが来られたと言う福音の先備えである。
そしてこの時代の人々は、何とかして新約の、罪が完全に赦される恵みの中に入ろうと、激しくまるで奪い取るがごとく望み、祈っていた。幼子イエスを祝福したシメオンや女預言者アンナスはその代表と言ってよい。福音と十字架の恵み、それは何とバプテスマのヨハネより偉大だったから。(マタイの福音書 11章11節を参照)

またその上述の様子は、まだ薄暗い明け方、囲いの中に閉じ込められた羊達が牧者を待ち、たっぷりの露を含ませた若草を食べたさのあまり、牧者が開ける門の前で押し合いへし合い、一番先に我先に出ようと争っている様子を連想ささる。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」と言い表しているわけだ。(ミカ書 2章13節参照)
このように、聖書全体から違和感を感じること、それを大切にし、神に祈り解き明かしを求めることが正し聖書理解を得、神の奥義を学ぶことになる。特に説教者は示しだからと言って、よく吟味をしないで語ってはならないと思う。
聖書を読むこと、そして示されることは、大切な恵みだ。ただ、預言に限らずどんなことでも吟味すること、本当に神から来たのか、は忘れてはならないことだ。
神の言葉を取り次ぐ説教者なら、自分への示しや受け取りを語る時に、それが本当に他者に適応するものなのか、絶対に祈りと吟味が必要です。自分は罪ある人に過ぎないのであって、誤り易いし、もしそんな所があったとしたら、悔い改め、信者に自分の誤りを公表訂正する謙虚さが、かえって神に義とされ、引き続き用いられて行くポイントだと私は思っています。
自戒をこめて、ケパ
聖書なかりせば、教会やキリスト教はもちろん、今日の世界を無かった。自由、平等、人権はキリスト教の価値観である。
ただしその聖書に、多様な接し方があることは認めなければならない。私は聖書が全部か、または部分的、断片的に神の言葉だとする「揺れる土台」の教会信仰の中で長く生きた。ただその中にあっても私は、個人的に全体が神の言葉として信じていたが、聖書の記述の食い違う個所にイマイチ確信が持てないでいた。
しかし信仰を持って三十年して神にふれられる体験をし、カリスマ派になってからは、なんと愚かなことで迷っていたのかと思う。聖書は全体が神の言葉であって信仰により、筆者である聖霊によって読むのである。
すると新たな読み方に遭遇するようになった。信仰の書であるから、信仰的な受け取りを最優先し、ある意味で論理を無視して読み取れば良し、とする読み方である。いわゆる「示し」的な読み方である。この場合、論理的な読みを「ロゴス」と言い、示し的な読みを「レーマ」と考えても良いかもと思う。しかし実際にはレーマであっても、御心の正当なレーマかが問われる。
わかり易くするため、その一例を挙げたい。
"バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。"(マタイの福音書 11章12節)
このみ言葉をもとに、「皆さん、天の御国が危うくなっています。イエス様の時代、天国は実は危うかったのです。私は今朝、御国が敵から守られるよう、皆さんと共に祈ることを示されました」と語った説教者がいたとします。(こんなメッセージを聞くと、ミヒャエル・エンデ作の「はてしない物語」、映画の「ネバーエンディングストーリー」を私は連想してしまう。そこでは想像の世界が激しく攻められ、危うい)

これは説教者が「示されました」と言っている限りにおいて、その方への示しをとやかく言うことはできない。示されたことは個人的な示しで他者がとやかく言えるものではないからだ。しかしそれが一旦メッセージとして、自分以外の人びとに語られるとなれば、「証」としてならともかく話は別だ。
なぜなら、この説教者の理解は聖書全体から言っても誤った受け取りであるからだ。神の国が激しく攻められている? そんなことはありえない。「いや、そう書いてあるじゃないか! 」確かにその通り記述してあっても、違うのだ。
聖書全体を何度も読み、神様について程度の差はあっても分かりつつある方なら、「御国は激しく攻められています……奪い取っています」に違和感を覚えられるのではないだろうか。私たちが永遠に住む天の御国がそんな所だなんて・・・そんな馬鹿な」と。神は全能であり全知、永遠であり、十字架でサタンに勝利された、何よりも愛のお方です。そんな馬鹿な、と。

この箇所は「バプテスマのヨハネの日から今日まで」がポイントになる。それまで黄泉の国の深い淵で分けられていた、アブラハムの懐と呼ばれる天国的な世界が、キリストの十字架と復活で、天のエルサレムという神の国になった(ルカ16章19節〜を参照)。バプテスマのヨハネは旧約時代の最後にして偉大の預言者であって、彼はメシアが来られたと言う福音の先備えである。
そしてこの時代の人々は、何とかして新約の、罪が完全に赦される恵みの中に入ろうと、激しくまるで奪い取るがごとく望み、祈っていた。幼子イエスを祝福したシメオンや女預言者アンナスはその代表と言ってよい。福音と十字架の恵み、それは何とバプテスマのヨハネより偉大だったから。(マタイの福音書 11章11節を参照)

またその上述の様子は、まだ薄暗い明け方、囲いの中に閉じ込められた羊達が牧者を待ち、たっぷりの露を含ませた若草を食べたさのあまり、牧者が開ける門の前で押し合いへし合い、一番先に我先に出ようと争っている様子を連想ささる。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」と言い表しているわけだ。(ミカ書 2章13節参照)
このように、聖書全体から違和感を感じること、それを大切にし、神に祈り解き明かしを求めることが正し聖書理解を得、神の奥義を学ぶことになる。特に説教者は示しだからと言って、よく吟味をしないで語ってはならないと思う。
聖書を読むこと、そして示されることは、大切な恵みだ。ただ、預言に限らずどんなことでも吟味すること、本当に神から来たのか、は忘れてはならないことだ。
神の言葉を取り次ぐ説教者なら、自分への示しや受け取りを語る時に、それが本当に他者に適応するものなのか、絶対に祈りと吟味が必要です。自分は罪ある人に過ぎないのであって、誤り易いし、もしそんな所があったとしたら、悔い改め、信者に自分の誤りを公表訂正する謙虚さが、かえって神に義とされ、引き続き用いられて行くポイントだと私は思っています。
自戒をこめて、ケパ