昨日「メッセージ」という映画を観に行った。
突然世界の十二箇所に、無重力のように浮く巨大な卵形のシェル(外観的には新宿駅前のコクーンタワーみたい)が現れ、ヘクタポッド(五本足の個体?)と名付けられた宇宙人が地球人と接触を求める、というものだ。彼らの意図を知るため、言語学者であるルイーズが選ばれ、何十回も交渉して行く中で、彼らヘクタポッドの言語を身につけていく。
少々ネタバレになるが、結局ルイーズは時制を超えたヘクタポッドの言語の習得を通し、未来を知る能力を身につけ、自分の未来を知り、地球を救い、そして三千年後に来るヘクタポッドたちの危機を助けてほしい、というメッセージを受け取る。
面白いというか、ちょっと難解なのはヘクタポッドの墨絵風の円環の字とか、 ストーリーが1回観ただけでは分からない、時間が映画のように時制があちこちしての内容になっていることだ。どうもポイントは未来を知る超能力にあるようだ。
この超能力という点で、この映画の本編が始まる前のCMに、日本の「ゴレンジャー」をハリウッド版にした「パワーレンジャー」とか「スパイダーマン」「トランスフォーマー」などがあったことだ。どの映画でも共通して、選ばれし者が超能力を付与された結果、正義のために戦い、危機的な地球を守るという、ヒーローになる夢物語だ。
これらの映画を楽しんでおられる方には水を差すようで申し訳ないが、昔の超能力は鉄人28号、鉄腕アトムであり、宇宙から来たスーパーマンであって、人間ではなかった。それが今ではただの人間に過ぎない者が、超能力を与えられて特別な存在になる設定が多い。この普通の人間が特別な力を持つ者になるという発想は、実は聖書から出てきていると私は思う。
聖書では、今で言う超能力と言える人たちのことの物語であふれている。これらの人たちは、新約聖書的に言えば「聖霊の賜物」であり、聖霊を通して働く神の力である。例えば過去、モーセはエジプトで十の災いの奇跡を行い、幾百万の民を連れてエジプトを脱出したものの、追っかけてきたエジプト軍に追い詰められ、最終的には海を分け、乾いた地を歩かせて脱出を成功させた。続けて後を追ったエジプト軍は海の底で戻ってきた水で全滅した。また預言者エリヤは何年もの干ばつを予告し、バアルの預言者たちとの対決では天から火を降らせて勝利した。これらの人物は、ただ神に聞き従っていただけで、そのスタイルは預言者である。
現在でも神から預言の賜物を与えられた預言者は、他の人の心の秘密をあばき、これから起こるべきことなどを警告したり予告をする。これからの終末の時代には、奇蹟の賜物といって、かつてのモーセのように海を分けたり、また死人をよみがえらせたり、山を動かしたりの大奇蹟を行う人も出てくることだろう。(神の働きは私たちの祈りをも通して)
しかし勘違いしてはならない。これらの聖霊の賜物としての力は、祈りを通し、すべて神の意思から来て、教会を通して働くものであって、人は基本的にメッセンジャーボーイ程度に過ぎないものなのだ。すべての栄光を神に帰す、神に選ばれた謙虚な器を通してのものなのだ。だから私から見れば、ハリウッド映画で多い超能力・・・・専用のスーツを着るだけで超能力者になる・・・・は、いかにも正義のために使うよう見せかけようとも、基本的にはサタン的に感じるのだ。
人によっては「なんで娯楽をそんな風に観て、楽しめないの?」と思われるかも知れないが、聖書はこのようなヒーローを待望する民衆が、致命的な外傷にもかかわらず自らの力で生き返るヒーロー、・・・・一種の超能力者である反キリストの世界支配を容認することまで載っている。自己中心に舵を切ったアメリカ。ポピュリストが大きな力を持つようになった今の世界・・・・ちょっと前までは、だれがこうなると想像できただろうか。愛が冷え、戦争があちこちで噂されるようになった今の世界だからこそ、ヒーロー待望論には注意すべきだと私は思う。
ケパ
突然世界の十二箇所に、無重力のように浮く巨大な卵形のシェル(外観的には新宿駅前のコクーンタワーみたい)が現れ、ヘクタポッド(五本足の個体?)と名付けられた宇宙人が地球人と接触を求める、というものだ。彼らの意図を知るため、言語学者であるルイーズが選ばれ、何十回も交渉して行く中で、彼らヘクタポッドの言語を身につけていく。
少々ネタバレになるが、結局ルイーズは時制を超えたヘクタポッドの言語の習得を通し、未来を知る能力を身につけ、自分の未来を知り、地球を救い、そして三千年後に来るヘクタポッドたちの危機を助けてほしい、というメッセージを受け取る。
面白いというか、ちょっと難解なのはヘクタポッドの墨絵風の円環の字とか、 ストーリーが1回観ただけでは分からない、時間が映画のように時制があちこちしての内容になっていることだ。どうもポイントは未来を知る超能力にあるようだ。
この超能力という点で、この映画の本編が始まる前のCMに、日本の「ゴレンジャー」をハリウッド版にした「パワーレンジャー」とか「スパイダーマン」「トランスフォーマー」などがあったことだ。どの映画でも共通して、選ばれし者が超能力を付与された結果、正義のために戦い、危機的な地球を守るという、ヒーローになる夢物語だ。
これらの映画を楽しんでおられる方には水を差すようで申し訳ないが、昔の超能力は鉄人28号、鉄腕アトムであり、宇宙から来たスーパーマンであって、人間ではなかった。それが今ではただの人間に過ぎない者が、超能力を与えられて特別な存在になる設定が多い。この普通の人間が特別な力を持つ者になるという発想は、実は聖書から出てきていると私は思う。
聖書では、今で言う超能力と言える人たちのことの物語であふれている。これらの人たちは、新約聖書的に言えば「聖霊の賜物」であり、聖霊を通して働く神の力である。例えば過去、モーセはエジプトで十の災いの奇跡を行い、幾百万の民を連れてエジプトを脱出したものの、追っかけてきたエジプト軍に追い詰められ、最終的には海を分け、乾いた地を歩かせて脱出を成功させた。続けて後を追ったエジプト軍は海の底で戻ってきた水で全滅した。また預言者エリヤは何年もの干ばつを予告し、バアルの預言者たちとの対決では天から火を降らせて勝利した。これらの人物は、ただ神に聞き従っていただけで、そのスタイルは預言者である。
現在でも神から預言の賜物を与えられた預言者は、他の人の心の秘密をあばき、これから起こるべきことなどを警告したり予告をする。これからの終末の時代には、奇蹟の賜物といって、かつてのモーセのように海を分けたり、また死人をよみがえらせたり、山を動かしたりの大奇蹟を行う人も出てくることだろう。(神の働きは私たちの祈りをも通して)
しかし勘違いしてはならない。これらの聖霊の賜物としての力は、祈りを通し、すべて神の意思から来て、教会を通して働くものであって、人は基本的にメッセンジャーボーイ程度に過ぎないものなのだ。すべての栄光を神に帰す、神に選ばれた謙虚な器を通してのものなのだ。だから私から見れば、ハリウッド映画で多い超能力・・・・専用のスーツを着るだけで超能力者になる・・・・は、いかにも正義のために使うよう見せかけようとも、基本的にはサタン的に感じるのだ。
人によっては「なんで娯楽をそんな風に観て、楽しめないの?」と思われるかも知れないが、聖書はこのようなヒーローを待望する民衆が、致命的な外傷にもかかわらず自らの力で生き返るヒーロー、・・・・一種の超能力者である反キリストの世界支配を容認することまで載っている。自己中心に舵を切ったアメリカ。ポピュリストが大きな力を持つようになった今の世界・・・・ちょっと前までは、だれがこうなると想像できただろうか。愛が冷え、戦争があちこちで噂されるようになった今の世界だからこそ、ヒーロー待望論には注意すべきだと私は思う。
ケパ