この度も渋谷のヒューマントラストで表題の映画を観た。平日火曜日の昼間にもかかわらず、大方七割方の入りで驚いた。映画を観れば、それも納得する素晴らしい映画であった。そしてかのストーリーがフィクションではなく、事実に基づいた映画であるのがすごい。

すでに試写会の段階であらまし伝えてあるので、今回は重複しないよう特筆すべき点をお伝えしたい。まずこれはノンクリスチャンの方にぜひ、観ていただきたいということ。
多くの方は神は存在しない、奇蹟なんて見た事もない(いや、あると言うのは、どうせ大げさに言いふらしているか、インチキっぽい)と常識や、これまでの経験から判断されている。私もそうだったし、クリスチャンになってからでも、「奇蹟?そんなことは起こらない」と思っていた。つまりバリバリの聖霊派以外のすべての人に観ていただきたい映画だ。(下の写真は映画ではなく、事実を証明する実際の家族で、メガネの少女が本人)

今回新たな視点で見ると、この映画は以下の二つの事を言っている。
一つは「すべてに神の御手(奇蹟)があった」こと。
主人公の母親は(おそらくマスコミにイチイチ語るより、共同記者会見の場として教会での証しの場を選んだ)語っている。「奇蹟は(・・・10メートルぐらいの高さを頭から落下して、首などの骨折一つなかったこと、ほとんど望みが無かった難病がそのショックで瞬間的に癒されたこと以外に)、いたるところにありました。奇蹟は満ち溢れていた」と。
これが分かるようで、少し分かりにくかった。私なりに解釈すると、奇蹟(=神の手、神の業)は娘を思いやるボーイフレンドの優しさに、シカゴ子ども病院の受付け係が意を決してDr.に話したことに、レストランのメイドの慰め手の出現したことに、飛行機の搭乗券の発券にも、小さなことのすべてにあったということ。
神を信じない人は、これらすべてを偶然で処理し、そこに何の意味も見出さない。それらに繋がりは何もない。しかし神を信じる者には、上記に挙げた一つ一つのそれまでのことの何一つ欠けても、最後の大奇蹟に至ることはなかった。だから娘の病、苦しみ、それらを通して神の綿密で周到な恵みの計画が、今となっては私は分かりました。私は本当に不信仰で間違っていました、という悔い改めの証言なのである。
二つ目は、どうしてある者は死に、ある者は(奇蹟的にでも)癒され生かされるのだろうか?その生死の分かれ目、神の御心とはなんだろうか? この問いに正しく答えられる人間は、おそらくいない。
しかし間違っている可能性が高いが、想像し類推することはできる。小児ガンで早逝した少女の父親が証言したように、十字架をプレゼントされ神を信じた少女は、苦しまずに、平安に死を迎えることができた。人は生まれたからには、必ず死ぬ。神を信じなければ死は怖いもの、恐ろしいものであり、苦痛は避けられない。しかしむしろ天に行ける希望の道となれば、痛みより喜びがある。この少女の死は、その父親をして奇蹟を信じる(つまり天国があり神は存在する)者に変えた。
奇蹟によって生かされ証しすることに神の御心があり、(奇蹟が無いようにも見える)天に召されることにも、大きな奇蹟、神を信じるという神の計画と最善がある。だから神を信じればわかることに、神はご自分を信じる者のそれぞれの人生に、最善のことしかお出来になれないお方なのだ。それが、それぞれの人生にある奇蹟でもある。
ケパ

すでに試写会の段階であらまし伝えてあるので、今回は重複しないよう特筆すべき点をお伝えしたい。まずこれはノンクリスチャンの方にぜひ、観ていただきたいということ。
多くの方は神は存在しない、奇蹟なんて見た事もない(いや、あると言うのは、どうせ大げさに言いふらしているか、インチキっぽい)と常識や、これまでの経験から判断されている。私もそうだったし、クリスチャンになってからでも、「奇蹟?そんなことは起こらない」と思っていた。つまりバリバリの聖霊派以外のすべての人に観ていただきたい映画だ。(下の写真は映画ではなく、事実を証明する実際の家族で、メガネの少女が本人)

今回新たな視点で見ると、この映画は以下の二つの事を言っている。
一つは「すべてに神の御手(奇蹟)があった」こと。
主人公の母親は(おそらくマスコミにイチイチ語るより、共同記者会見の場として教会での証しの場を選んだ)語っている。「奇蹟は(・・・10メートルぐらいの高さを頭から落下して、首などの骨折一つなかったこと、ほとんど望みが無かった難病がそのショックで瞬間的に癒されたこと以外に)、いたるところにありました。奇蹟は満ち溢れていた」と。
これが分かるようで、少し分かりにくかった。私なりに解釈すると、奇蹟(=神の手、神の業)は娘を思いやるボーイフレンドの優しさに、シカゴ子ども病院の受付け係が意を決してDr.に話したことに、レストランのメイドの慰め手の出現したことに、飛行機の搭乗券の発券にも、小さなことのすべてにあったということ。
神を信じない人は、これらすべてを偶然で処理し、そこに何の意味も見出さない。それらに繋がりは何もない。しかし神を信じる者には、上記に挙げた一つ一つのそれまでのことの何一つ欠けても、最後の大奇蹟に至ることはなかった。だから娘の病、苦しみ、それらを通して神の綿密で周到な恵みの計画が、今となっては私は分かりました。私は本当に不信仰で間違っていました、という悔い改めの証言なのである。
二つ目は、どうしてある者は死に、ある者は(奇蹟的にでも)癒され生かされるのだろうか?その生死の分かれ目、神の御心とはなんだろうか? この問いに正しく答えられる人間は、おそらくいない。
しかし間違っている可能性が高いが、想像し類推することはできる。小児ガンで早逝した少女の父親が証言したように、十字架をプレゼントされ神を信じた少女は、苦しまずに、平安に死を迎えることができた。人は生まれたからには、必ず死ぬ。神を信じなければ死は怖いもの、恐ろしいものであり、苦痛は避けられない。しかしむしろ天に行ける希望の道となれば、痛みより喜びがある。この少女の死は、その父親をして奇蹟を信じる(つまり天国があり神は存在する)者に変えた。
奇蹟によって生かされ証しすることに神の御心があり、(奇蹟が無いようにも見える)天に召されることにも、大きな奇蹟、神を信じるという神の計画と最善がある。だから神を信じればわかることに、神はご自分を信じる者のそれぞれの人生に、最善のことしかお出来になれないお方なのだ。それが、それぞれの人生にある奇蹟でもある。
ケパ