すでに何度もドルカスがお知らせしたように、実家の庭に栗の木が数本あって、ちょうど時期らしく実が実っていた。はじけ落ちて、実を散らしているもの。同じようにはじけて、今まさに樹上から落ちようとしているもの。木を揺らすと時期が来たためだろう、簡単にドサッドサッとあちこちに落ちていく。
この時期にこれまで来たことのないドルカスは、思わぬ収穫に大喜びだった。少々トゲが痛かったが、夢中になって集めてみると、ちょっと集めただけでもバケツいっぱいの量である。今度はこのたくさんをどのようにしようか、贅沢な悩みをかかえることになってしまった。
ところで収穫していて気づくのだが、鹿の糞が点々とある。先ほどは、親子連れれらしい鹿が三匹いたと聞いた。鹿は稲の収穫時期に見ることはあったが、この時期に庭先まで来たとは驚きだ。ひょっとして、この豊かな時期にも関わらず、山はあまり食べ物が無いのかもと、少々心配になった。それとも鹿が人里を恐れぬようになったのかも。どちらにしても互いにあまりいいことではない。
鹿も人も時期にならなければ、この恵みには決してあずかれない。自然界の厳然たるルールには何人も逆らえない。二枚目の写真は実家の近くのダム風景を撮ったものだが、一日の内でこのように反射した湖面を撮れるのは、わずかなタイミングでしかない。自然に従い、時がある。
私たちは恵みにあずかり従うのみである。それは何事にも時があり、時には逆らえないことをも教えてくれる。人間世界に対して神の為されることも同様であって、神が語られ、為されることにも全て時があり、それが調和がとれて、万事完全であることを思い知らされる。必要なのは神を信じて待ち望む信仰と忍耐である。それが自分中心に世界が回っているかのような高慢な人間には、できないことだけなのだ。秋の恵み、収穫はそのような謙虚さを教えてくれる。 ケパ