わが家の猫のコール。猫としてただそこに居るだけけで、
わたしたちは愛おしんでいる。去勢手術の後遺症で、首が斜めになったままになった時、わたしたちはほんとうに心を痛めた。でもどんな状態のコールになろうと、かえってわたしたちの愛が高まったから不思議だ。
猫にはもともと望むべくもないけれど、何か役に立つ働きをしてくれるから、とか、ずば抜けて美しいから(モチロン親バカだからイケメンでステキな被毛で、なんていい優しい性格だ…とは思っているが)ではない。そうでなく、飼い主であるわたしたちがコールから必要とされていること・・・・あれこれ心を砕き、世話をさせてもらっていることが実は喜びと心の支えになっている。
神様と人との関係にも似たことが言える。人は自分一人で大きくなったなんて勘違いをしてはいけない。人間の親の出来ることはわずかだ。一人一人が「どんなにか神様に世話をやかせて心配かけて、それで自分はここまで来れた」と感謝すべきである。それが真実だし、それが神様の喜びなのだ。猫が何のてらいもなく飼い主に甘えたりするように、素直に神様に謝るべき事は謝り、そのまんま甘えていいのだ。父なる神の子なのだから。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ 18:3)
だからと言って、さらに神様に心配をかけてやろうとしてはむろん、いけない。そしてもし、心から神の「お役に立ちたい」と願うのなら、親はもうタマンないのだ。どんなにかあなたを愛し、慈しまれることか! (ケパ)