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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

船橋聖会が間近

2018年01月16日 | 祈り
私たちの主の十字架クリスチャンセンターでは、新年度の初めを11月としてますので
新年度に入って初めての船橋聖会が、今週にあります。



前半 18:00~
Gifts J.GOSPELminiコンサート
後半 19:00~
船橋カリスマ聖会
講師
東京アンテオケ教会牧師 パウロ秋元師
をお迎えして、聖会が開かれます。

お近くにお住いの方、是非出かけください。皆様をお待ちしてます。

また、聖会はオンラインライブです。
一緒にご出席下さい


ドルカス

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祈りに、すごい勘違いをしていた

2017年12月29日 | 祈り
クリスチャンが日々、神様に祈るのは当然だが、時々矛盾を感じる時がある。

《委ね、安んじていなさい》
心の中の心配事、悩みや不安等から、祈りに導かれて祈ると「すべてを知っている私(神)を信頼し、心配しないでいなさい」と示されることがある。あまりしつこく祈ったら、かえって自分の不信仰を露呈してしまうような気がし、できるだけ心配しないようにしようと思うことがある。神に感謝し、すべてを委ねて平安で泰然としていたい、と。
✝️ あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。(1ペテ5:7)


《祈り、祈りを積み上げる》
しかし、逆のことを示される時がある。それは「祈りを積み上げなさい」と示される時である。先だってのコンサートでTrueVineの素子さんは「小児麻痺で不自由な息子の左足が癒やされるよう、奇跡を求めて、親子で祈りを積み上げて行った」話を聞いた。ご承知のように結果、息子のシオン君はバドミントンの選手になったり、普通に歩ける青年になったと言う奇跡が起こったのだ。

この話を聞いて、改めて「祈りが神の手を動かす力だ」と私は強く示された。
✝️いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)

《では、どっちが本当?》
では平安で安んじているべきなのか、それとも祈りに祈るべきなのか?どちらなのだろうか、その夜私が答えを求めて祈ると、翌朝、目が覚めるかどうかの呆然としているうちに、次のような示しが来た。


「祈るべきです。祈りに祈って、祈りの中から与えられる確信に立ちなさい。平安とは、祈りの中から与えられる確信そのものです」と。吟味してみたが、個人的にはすごく納得した。そうだ、その通りだと。

神は全知であるが、次のようなみ言葉がある。
✝️何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリビ4:6)

神は確かに全てを知っておられるが、それでも私たちの祈りに、それがどんなにしつこくても、嫌がられたり、不信仰だと思われることはない。神との関係で、私たちが思い煩うことはない。おそれることはないのだ。遠慮なく、父の許に行ってどんなことでも祈ろう。まして心を痛め、呻いて祈ることに、父もまた共に重荷を負ってくださるのだ。私たちが祈りで来ること、それを待っておられるのが父なのだ。

父なる神は、私を愛してくださっている。私はものすごい勘違いをしていた。




ケパ




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10月15日

2017年10月15日 | 祈り
お早うございます。
肌寒い朝の主日の朝です。

昨夜は5時間かけて帰宅。疲れてバタン。入浴あたりからの記憶なし。ブログアップも出来ず、感謝しました


二人のとてもなごやかな暖かい挙式と披露宴を共に過ごせました。
昔を思い出す事がたくさんありまして、何を書いて良いのかですが、祝福でした。

聖書の言葉に
ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです
マルコ 10:8


そのように歩んで欲しいと祈ります。


さあ、今日も教会では主日礼拝。
ぜひオンラインでご一緒に。また、保存もされますので、後程にもお聴き頂けます。

ドルカス



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イスラエル、エルサレムの平和を祈る

2017年10月02日 | 祈り
昨日、新宿で「エルサレムの平和のために祈る集会」に参加してきた。そこでは世界各地から祈っている人たちのライブ中継があった。そのひとり、チェコのマレックさんのスピーチが心に残った。彼とはほんの数週間前にスロバキアなどで会っていた。彼は言う。「エルサレムの平和のために祈っており、具体的に祈ろうとしているが、情勢が目まぐるしく変わるのでどのように祈ったら良いのか、分からなくなっています」と言いながら、実際には力強く祈ったのだった。確かに数週間前には神殿の丘で、イスラエルの警察官が二人殺されたりしている。(オリーブ山から現場の神殿の丘を望む)

そこで今日は私なりに、エルサレムの平和はどういう事で、今、何を祈ったら良いのかを整理してみたい。

先ずエルサレムの平和とは二つの意味がある。それは首都としてのイスラエルの国、ユダヤ人の事を意味している場合と、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教の聖地ー神殿の丘を巡って場合である。通常はこの二つの事柄が混合して祈られている。つまり現実の国と神の国とが入り混じっているわけだ。だから何を祈っていいのかと戸惑う。(左がジャック・ヘイフォード牧師)

昨夜の集いでのこのお二人のビデオメッセージを観る限りでは、もともと発起人のロバート・スターンズ牧師(右の人物)は現実の国派であり、ジャック・ヘイフォード牧師はいずれの側にくみしない、神の国派と見えた。当初からこの「エルサレムの平和のために祈れ」は二人三脚だったのだろう。一方、同じ流れだがヨーロッパECI代表トマス・サンデルさんのビデオメッセージにおいては、この両方を体現していた。つまりエルサレムの平和は、メシアがエルサレムに入場される時に実現すると言ったので神の国派かと思ったが、それ以外は徹頭徹尾現実の国派であって、イスラエルを支援すべき義務がクリスチャンにはある、と言った。確かにこれが今の私たちの現況なのだと言えよう。(サンデルさん)

ここからは現時点での全く私的な解釈である。
ユダヤ人が描いているエルサレムの平和が実現するのは、それは神殿の丘に今在る黄金ドームを何とかして、第三神殿を建てた時であろう。なぜならユダヤ人はそれまでは決してあきらめないからであり、その時まで「嘆きの壁」で嘆き続けることになるからだ。
六日戦争で神殿の丘を含め旧エルサレムを手に入れたイスラエルは、隠忍自重かつ、虎視眈々とすべてを整えてひたすら第三神殿建設の時を待っている。今や丘は警察権を含めてイスラエルのものである。それでも今回警察官が殺されたように、イスラム側からは占領であって決して容認されているわけではない。
イサクを捧げた岩の上に(つまり昔のイスラエルの神殿の在ったところに)真上にイスラムのモスク(黄金のドーム)が光り輝いている。ムハンマド(マホメット)がメッカから一夜のうちに飛んでここに立ったという聖地である。これに手を付けるならば、イスラエルは全イスラム諸国と、そしておそらくは全世界が戦う第三次世界大戦に突き進む可能性が高い。これはイスラエルもよく分かっている。

そこでこの不可能を可能にするのが、反キリストであると聖書の黙示録は示唆している。中東和平条約の実現、つまりユダヤ人にとってのエルサレムの平和とは、反キリストの時代にあり、それはクリスチャンにとっては艱難時代の始まりと同時に、本格的なリバイバルの始まりをも告げる終末の時を告げることになるものだ。
そして、おそらくは反キリストの偽りは、束の間の和平を吹き飛ばし、エルサレムは北を中心とする周辺の国々から攻められていく。第三神殿を願うユダヤ人の平和は、決して成就しないようだ。

では真のエルサレムの平和は、やはりイエス・キリストの再臨の時しかないのであろうか? その通りだと思う。ただ、この艱難時代の始めの三年半、おそらくユダヤ人のほとんどがメシアが実はイエス・キリストであったことがわかり、ことごとく悔い改めてクリスチャンになるはずだ。私たち日本人とかがクリスチャンになるのは、唯一の神とはどういう事か、聖書は・・・などかなり大変だが、ことユダヤ人に限って全然楽である。
なぜなら、もともと同じ神を信じている。ただイエス・キリストが本当にキリスト(メシア=救い主)であったこと、そして律法ではなく信仰義認を受け入れれば良いだけなのだから。

神の知恵と計画は、到底人知の及ぶところではない。だから私の思いなど浅はかなもので、後にそれを思い知ることになる。けれども愚か者の一つの道程として述べてみたい。エルサレムの真の平和は、ユダヤ人がメシアニック・ジュー(イエスがメシアであることを受け入れたユダヤ人=つまりユダヤ人クリスチャン)になることである。これは聖書で預言されている。
そうなればもはや神殿は絶対的なものでは無い。第三神殿を取り壊すか、あるいは神殿の存在にこだわらなくなるはずだ(クリスチャンがそうであるように)。そうなればこの聖地をイスラムとの共存のシンボルにすることが可能になる。私はまた、イスラムの人々が、唯一の真の神を求める願いを持って祈ってほしいと願う。
多くの人が再臨は混乱と争いの決着をつけるべく起きると思っているようだが、果たしてそうだろうか? そうではなく、地上に争いではなく、神の到来を待ち望む平和がもたらされており、つまりすっかりお膳立てができた上で、そしてラッパの音と共に、輝かしいキリストが再びオリーブ山に再臨され、エルサレムに入城されるのではないかと。

だから私たちの祈りは、再臨後の完全な平和である「主よ、来たりませ」と神の国の到来を祈り、またかつそれまで激しい争いが確実な舞台ゆえに、どうにか少しでもエルサレムが、血を血で洗うことにならないように、現実が平和的に推移して行くことを切に祈ることになるのではないか。祈りのポイントはユダヤ人のメシアニック化である。これは決してイスラエルという国だけを支援するのではない。なぜなら一方にくみすることは一方に敵対することになるからである。

ジャック・ヘイフォード牧師がビデオメッセージで「ユダヤ人とクリスチャンの親睦が深まっていること」がどんなに望ましいことかを述べ、繰り返し「ユダヤ人、アラブ人のどちらかが好きとか」では決してないと語られていた。それは神の定めたエルサレムの平和=ユダヤ教徒がキリストを信じて後のキリスト再臨まで、いたずらに血が流れることが無いように、一人でも多くの人がキリストを信じるように祈ることであると思いたい。また平和を願うクリスチャンは、神殿を再建させようとする反キリストに目を光らせ、反対することになるだろう。すると結局、艱難時代に迫害を受けることになるのかも知れないのだが。

エルサレムの平和のために祈れ。
「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。
おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

[詩篇122:6-7]

ケパ



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たわいのない事だけど

2017年09月26日 | 祈り
日曜日、ひと時の休憩時間に外へ出た帰り、
駅デッキ上で見た夕焼けが、とても美しくて、綺麗だった。

西の空


北の空も

振り返ったら

お一人で、凄く控えめだけれど、
優しい歌声の男性。
座られて歌うのは事情があるのだろう。

あの場所で、歌う勇気と力が私は欲しい。
足りない分は、一歩踏み出したなら、きっと神様が与えてくださるはずなの。

新しい歌とともに、ケパとドルカスで、Peaceful で持ち歌を増やして歌いたい。
と思わされた夕方でした。
弱さから逃げるのではなく、前に踏み出す勇気を、天の父に祈り続けよう。

ドルカス





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心の病 考

2017年09月25日 | 祈り
最近読んだ本で、「一般的に、病識の欠如は精神病の特徴である」とあった。関連して、故新井牧師がアンテオケ教会での特設講義において「セルフイメージが・・・」と言われ続けていたのも、このことであると思った。広辞苑で病識を開くと

びょう‐しき【病識】ビヤウ‥
精神的疾患を持つ者が、自分が病気だと自覚すること。神経症の人はこれを持つが、精神病の人ではこれを欠くことがある。病覚。

とある。確かに広島時代、身近に接した幾人かの人々には病識が乏しかった。それが無いためになのか、医師に従うどころか、かえって精神科医を自分で操縦したがった。聞いている私はとんでもないことだと思ったが、結構それが彼らの常識であるらしかった。それではなかなかなおらないわけである。

私は結構スポーツをするので、常に勝ち負けという誤魔化しようも、とり繕いようもない結果がその都度、突きつけられるわけである。半世紀近く経つが、私の知るかぎりスポーツする人に、精神の病の人を一人も思い出すことができない。つまり現実の自分と乖離しないスポーツマンは、心の病になりにくいのかも知れない。と同時に、クリスチャンにも、これまでたった一人にしか出会わなかったのだが。

クリスチャンの割合は0,2パーセントぐらいなので仕方ないかも知れないが、それにしてもこれは「ありのままの自分」を知る、受け入れることの重要性を物語っている。キリスト教は、神の御子イエス・キリストがすべての人間の罪のために十字架にかかってくださったと信じる教えである。
一体全体、教祖というか宇宙と世界を創った存在が、罪深い人の身代わりになって帳消しにしたという教えがあるだろうか❗ 無い。

どんなにスポーツをして、セルフイメージが正しかろうと、それはその競技内だけであって、自分の肉の罪深さが解消されているわけではない。まして親とか周囲の圧迫や期待に、誤った自己像(セルフイメージ)に固執せざるを得なかった病の人々には、十字架は何と素晴らしい福音であることか❗ 十字架だけが罪を完全に赦し、傷を癒し、ありのままの自分を受け入れられ感謝する道を開く。

病める人、己の罪を知る人よ、三位一体の神を信じる教会に来たれ。

 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。(ガラテヤ5:1)




ケパ




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チームはパトモス三日目

2017年07月15日 | 祈り
いまパトモスは三日目の夜。 日本と6時間の時差。

パトモスチームは、今日も
山の中腹にある ヨハネの洞窟の祈りの場で、礼拝ささげてそれぞれお祈りや黙想。風が吹いてる木陰は気持ち良いだろうね。

夕食時には路上ライブです。

行きつけのレストランの前で好意で歌わせてもらえる。

この子はお店のオーナーの孫ちゃん
店の名前と同じ「Pantelis」くん
執り成し組の者達に恵みの一つはblogの写真と、配信データーされる聖会メッセージを聞く恵み
(写真はパトモスblogから拝借してます)

最後に船橋の夕暮れ。パトモスよりだいぶ夕暮れ時は早い。

チームは明日の主日を過ごし、真夜中に再びエーゲ海を渡りアテネに戻ります。

最後まで執り成し祈り続けます。


ドルカス







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2017 パトモスチーム

2017年07月06日 | 祈り
来週火曜日11日から20日まで
2017パトモスチームが派遣されます。


☝️紹介映像見れます。写真タッチしてね

過去7回ケパさんと参加しましたが、今年は祈り組です。

遣わされた一回ごとに、思い出す事があります。
教会の祈り、個々の祈り、執り成しのお祈りによって、チームは帰国します。
その都度に取りなされている恵みを思いました。

特に2016年は、姉と姪と一緒に参加

しかしイスタンブールでは、緊張の走る派遣でした。
暫くはイスタンブール経由は遠慮したい
と‥‥

派遣の一回ごとに神様が、深い祈り、喜び、悔い改め、人との出会いなどなどを教えて下さいます。

今回は執り成しの祈りで参加する事も恵みです。
出発から帰国まで全行程の朝食事を、神に捧げ、祈れるといいな。

それぞれの参加者が家を出る時から家に帰り着くまで、すべての安全と、恵みを祈ります。

チームが支えられたその祈りを
私もしたいと思うのです。

ドルカス




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眼科で

2017年06月13日 | 祈り
昨日上野動物園でパンダベビー誕生。
このニュースを今日もテレビで放映してる。

午後診察に来た眼科の待合室でもホラこの話題!

そう、今日は眼科の予約日でした。

ケパさんは緑内障の進みはないか、
今回は老眼の進みはないか老眼鏡の視力検査でチェック。
老眼は少し進んだようでメガネのレンズ変えなければいけないらしい
それを聞いてぐっとこらえて、感謝した。
そうだ❣️祈るよ〜 そして

メガネ屋さんへ行ったら、レンズ変更する必要がないと言われるようにと、主に祈ろう。さらに癒しがありますように。(身勝手な祈りだろうか?いや、主の働き人。御心ならばそうなります。)

そしてドライアイの私の目は、最近痛むことが時々あるほど調子悪かった。
今回Dr.の診断は
「涙点プラグ注入しましょうか」と???

どうやら、涙が必要以上漏れでないように、
涙の排出口(眼には2つづつあり、鼻に抜けるとか)にシリコンで栓をするらしい。そうすると瞬きする事で涙が眼全体に行き渡り潤い、ドライアイになりにくいと、パソコンのディスプレイで説明してくださった。

今回は右目にその処置が‥‥
面白い治療だね〜どころではなく
ドキドキだったので、素早く

「主よ、私の不安を感謝します。取り除いて下さい。医師の治療をあなたに委ねます」と祈った。
すると
ドクターが「背中を椅子の背もたれに付けて」と言われ、あっ!どうも不安なはずと気づかされ、背もたれに身体を委ねたら落ち着いて、治療が受けられた。

祈ることって🤞いいね。

今夜は痛みもなく、普通に過ごせてる。
さらに、ドライアイが落ち着いてきて、教会での奉仕に支障がなく、パソコンやiPhoneでの仕事が出来るようにと、御心がなりますように。と、感謝して祈った。

主に感謝して主に祈る。日々のどのような小さな事もそのようでありたい。

ドルカス




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天に届くため祈り・・・・私の六つのポイント

2017年06月12日 | 祈り

「クリスチャンは祈ってなんぼ」というのが、私のキモである。※「なんぼ」とは大阪弁風に言う言葉で、祈ってこそクリスチャンとしての価値がある、という意味になる。
また私が好きな
「祈りに導かれるならすべて良し」という座右の銘もある。そこで、今回はふだんの早天などでの、私の祈りの生活の一端を、恥ずかしながら公開したいと思う。ただし順序は必ずしもこの通りではないし、時にいくつか飛ばすこともある・・・・・祈りは基本、解放され自由でなければならないから。(写真は祈りの島、パトモスでの一室で)

 

○主を称えことばで賛美する。これまでを感謝する。

○悔い改めに導かれる。
○主人に仕えるしもべのように、静まって待ち、聞こうとする。「しもべはここにおります。どうぞお語りください」と。
○語られ、示されたことは、正確に聞き取る。曖昧な点があれば、繰り返して確認する(※人と違って主は面倒がられないどころか、むしろ喜ばれる)
○心を知られる主が「願いを言いなさい」と言われるなら(※主はすでにご存知であることを忘れずに)、申し上げる。私が知る必要のないこと以外、主は答えてくださり、教えてくださる(と疑わない)。
○この結果、たとえ注意されようとも、愛を感じ、平安であるならば、主と交わっていたのである。心から感謝する。
映画「祈りの力」では一人きりで狭いクローゼットが、主戦場だった。時にはイエス様のように外で祈るのも素晴らしい。そして家庭での祈り合いも劣らず大切に。この内の一つでも、あなたの祈りの生活のお役に立てるなら。

 

 

ケパ

 

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