goo blog サービス終了のお知らせ 

ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

映画「メッセージ」から、超能力を考える

2017年06月02日 | 映画•映像
昨日「メッセージ」という映画を観に行った。
突然世界の十二箇所に、無重力のように浮く巨大な卵形のシェル(外観的には新宿駅前のコクーンタワーみたい)が現れ、ヘクタポッド(五本足の個体?)と名付けられた宇宙人が地球人と接触を求める、というものだ。彼らの意図を知るため、言語学者であるルイーズが選ばれ、何十回も交渉して行く中で、彼らヘクタポッドの言語を身につけていく。
少々ネタバレになるが、結局ルイーズは時制を超えたヘクタポッドの言語の習得を通し、未来を知る能力を身につけ、自分の未来を知り、地球を救い、そして三千年後に来るヘクタポッドたちの危機を助けてほしい、というメッセージを受け取る。
面白いというか、ちょっと難解なのはヘクタポッドの墨絵風の円環の字とか、 ストーリーが1回観ただけでは分からない、時間が映画のように時制があちこちしての内容になっていることだ。どうもポイントは未来を知る超能力にあるようだ。

この超能力という点で、この映画の本編が始まる前のCMに、日本の「ゴレンジャー」をハリウッド版にした「パワーレンジャー」とか「スパイダーマン」「トランスフォーマー」などがあったことだ。どの映画でも共通して、選ばれし者が超能力を付与された結果、正義のために戦い、危機的な地球を守るという、ヒーローになる夢物語だ。

これらの映画を楽しんでおられる方には水を差すようで申し訳ないが、昔の超能力は鉄人28号、鉄腕アトムであり、宇宙から来たスーパーマンであって、人間ではなかった。それが今ではただの人間に過ぎない者が、超能力を与えられて特別な存在になる設定が多い。この普通の人間が特別な力を持つ者になるという発想は、実は聖書から出てきていると私は思う。

聖書では、今で言う超能力と言える人たちのことの物語であふれている。これらの人たちは、新約聖書的に言えば「聖霊の賜物」であり、聖霊を通して働く神の力である。例えば過去、モーセはエジプトで十の災いの奇跡を行い、幾百万の民を連れてエジプトを脱出したものの、追っかけてきたエジプト軍に追い詰められ、最終的には海を分け、乾いた地を歩かせて脱出を成功させた。続けて後を追ったエジプト軍は海の底で戻ってきた水で全滅した。また預言者エリヤは何年もの干ばつを予告し、バアルの預言者たちとの対決では天から火を降らせて勝利した。これらの人物は、ただ神に聞き従っていただけで、そのスタイルは預言者である。
現在でも神から預言の賜物を与えられた預言者は、他の人の心の秘密をあばき、これから起こるべきことなどを警告したり予告をする。これからの終末の時代には、奇蹟の賜物といって、かつてのモーセのように海を分けたり、また死人をよみがえらせたり、山を動かしたりの大奇蹟を行う人も出てくることだろう。(神の働きは私たちの祈りをも通して)

しかし勘違いしてはならない。これらの聖霊の賜物としての力は、祈りを通し、すべて神の意思から来て、教会を通して働くものであって、人は基本的にメッセンジャーボーイ程度に過ぎないものなのだ。すべての栄光を神に帰す、神に選ばれた謙虚な器を通してのものなのだ。だから私から見れば、ハリウッド映画で多い超能力・・・・専用のスーツを着るだけで超能力者になる・・・・は、いかにも正義のために使うよう見せかけようとも、基本的にはサタン的に感じるのだ。

人によっては「なんで娯楽をそんな風に観て、楽しめないの?」と思われるかも知れないが、聖書はこのようなヒーローを待望する民衆が、致命的な外傷にもかかわらず自らの力で生き返るヒーロー、・・・・一種の超能力者である反キリストの世界支配を容認することまで載っている。自己中心に舵を切ったアメリカ。ポピュリストが大きな力を持つようになった今の世界・・・・ちょっと前までは、だれがこうなると想像できただろうか。愛が冷え、戦争があちこちで噂されるようになった今の世界だからこそ、ヒーロー待望論には注意すべきだと私は思う。



ケパ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史性を無視するのではなく、生かし切った名画

2017年05月29日 | 映画•映像
先週、アンテオケのブログは「私のおすすめ映画」だった。

そこで私のおすすめは「ヤコブへの手紙」だったが、本当はもう一つあった。

それは「KINGDOM Of HEAVEN(キングダム オブ ヘブン)」だった。後者の作品は十世紀の聖地奪回運動、十字軍の遠征により実在したエルサレム王国の滅亡を描いた作品である。

最近の歴史大河ドラマや武士の映画などの傾向をみると、あまりにも歴史性を無視したあり得ない作り話が多く、鼻白む思いがする。今は過去のものとなったとしても、かつて自分たちがどのような社会規範を持って、人間関係はどんな対応をしていたのか、全く分かってない。現代人にとってそれはどうでもよく、ただ面白おかしくて売れれば、それだけで良いのだろうかと思う。

それを今週の直虎で言えば、小名とはいえ、殿様が領内で財布を盗まれ泥棒を追っかけ回した上、盗賊に囚われて人質になったり、盗賊の首領と1対1で腹を割って話す(そんな馬鹿な話しがある?…男性領主だって単独では決して会わないよ)が堂々と放映されている。

これとは反対に、ドラマである限りは創作部分は避けられないが、それでもごく自然に挿入され、リアル感のある物語作りには引き込まれる。それがこの「KINGDOM Of HEAVEN」だ。
キリスト教についての知識があり、聖地でのキリスト教王国が敗れたハッティーン(ヒッティーン)の戦いを知れば、実に興味深いものだ。特に敵対したイスラムのアイユーブ朝の祖、一代の英雄サラディンを私は知っていたので非常に興味深かった。サラディンは実は、今現在も迫害されているクルドの出身である。(このハッティーン古戦場は、イスラエル派遣で毎年カイザリヤからガリラヤ湖畔のティベリヤへ行く途中にある
「HATTIN」という看板で見ることができる)

ところでこの映画の醍醐味は、十字軍の結果誕生したイスラエル王国の歴史と背景にある。実在の人物の王妃(シビーユ)と、エルサレム防衛の英雄(バリアン)とのラブストーリーが実に巧みに入れ込んであるところがすごいと思う。史実の中にフィクションがリアルに入れ込まれ、そこにいるかの如く夢中にさせられるのだ。
現在はビデオでしか観れないが、この二作品、是非皆さんにもおすすめしたい映画である。


ケパ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画好きな

2017年05月23日 | 映画•映像
今週のアンテオケ教会からの全国教会へ依頼ブログは
私のおすすめの映画全国教会

本来映画好きなケパさんですから
今回のブログ、何も言わずに🙀‥‥一番バッターで載せたよ‥‥はやっ❣️

ここでも、紹介しましょうか、
ケパさんのお好きな〜ベスト5
① ベン・ハー
(大スペクタルには圧倒)
② パッション
(クリスチャン必須鑑賞作品だろう
メル ギブソン新作のハクソーリッジも
期待)
③ ブラザー・サン シスター・ムーン
(⚠️ 見分けの注意)
④ ヤコブへの手紙(フィンランド映画
盲目のヤコブ牧師宛の手紙を代読する
女性は)
⑤ 少年H (邦画の一押し。第二次大戦時
に信仰を守った生活は‥)


お勧めは他にもあって、やや最近では
◎42〜世界を変えた男
(全米野球初の黒人選手の実話)
◎ミッション
(南米におけるカトリック宣教)

ケパさんのオススメは、クリスチャン向けですね〜
も一回くらい、お勧めがあるかと期待してます。

もちろん私も観ました。映画館で、DVDでと色々ね

私のおすすめは、上記では、
邦画「少年H」と
フィンランド映画「ヤコブの手紙」
そして
「42~世界を変えた男」


ドルカス





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美女と野獣・・・魔法使いの映画考

2017年04月27日 | 映画•映像
ハリーポッターと言えば、超有名なイギリスは魔法学校を舞台にした映画。今回観たディズニーの「美女と野獣」は、何とハリポタのハーマイオニー役のエマ・ワトソンが主役である。
私は第一作しか観てないが、2001年の映画だったので、年月を感じてしまった。「白雪姫」「いばら姫」「眠りの森の美女」「アナと雪の女王」など、洋物の童話には魔女が欠かせない。
そして魔女なんて関係無いはずの日本においても、「魔女の宅急便」などに代表されるが、アニ作品に、特に宮崎作品に頻出する。

洋の東西を問わず、今では「美女と野獣」のように、魔法使いは善い人であって、その超能力によって魔法をかけられた者は(野獣の姿に変えられたりして)一時は困難を覚えるが、それは真実の愛を得るための方策だというのが、だいたいのパターンである。そしてこれは、用意周到で実に恐ろしい人心操作、宣撫作であることに、まずほとんどの人が気づかない。

【ここからは、一般の人には、ちょっと難しい内容です】
考えていただきたいのだが、この世には神と悪魔という霊的な存在がある。クリスチャンでも神は肯定しても、なぜかサタンを否定する人がいるほど、サタンは実に巧妙に自分という存在を隠す。だからそんなものは存在しないと見る方が多い。しかし世の中の陰惨な事件やIS(イスラミック・ステート)などをみると、人の心の中に確かに存在するのが判る。もちろん神も、十字架を心から信じる人の中に住まわれている(聖霊の内住という)。

考えてみて欲しいのだが、人間の意思を無視し、受け入れもしていないのに、勝手に野獣や鳥に変えたりするこというのは、どう考えてもまともな相手ではないのだ。
ところが神、聖霊様は決してそんなことはなさらない。神を信じ、十字架の愛に答えようとするあまり「どうか私の中にお住みください。私はあなたに聞き従います」と懇願して住んでくださるのだ。決して人間の意思を無視されず、尊重してくださるのが神である。また人生の重大なことでも、人の意見を尊重し、選ばせてくださるのが神である。全くもって全然、悪魔、悪霊とは異なるのだ。

そして悪魔は、驚くような不思議なワザを行いはするが、童話やアニメのように人を幸せにするのではなく、恐れや不安で人を支配し、破壊的な行動に走らせ、ついには破滅させる。それが目的である。しかし神を信じる者の結果は愛、喜び、平安であって、偽りがなく誠実であり勤勉であって、人々から信頼を得る。確かなことは、その人が変わった、その実で見分けることである。

ヨーロッパの中世のような、魔女狩りは決して繰り返してはならないが、前述の見分けることは大切である。基本、超能力とかワザというようなものは、その人の健全な願いを叶え、必要を見たし、人をして引き上げるものでなければならない。
例えばイエス・キリストが行った奇跡は皆、神を信じ求める人たちの願いをかなえるもので、盲人の目を開け、足萎えを立たせ、今で言う精神の病を悪霊から解放することで癒した(精神の病がすべて悪霊に依るわけではない)。
つまりもう一つの重要な見分けのポイントは、どのような目的で、どのような結果があったか、である。神を信じる人を通しての奇跡は、その人の信仰に応じてなされ、信仰が引き上げられている。つまり、神の栄光がそこにはっきりと証されているのだ。

この時代は映画だけにまだ留まっているように見えるが、だからと言って、魔法使いたちを安易に受け入れてはならないと私は思う。魔法は悪霊の働きである。占いと同様、決して受け入れてはならない。これは頭が固いとか、おかしいと言われるのを承知で言っているのだが、それはサタンの策略から私たちが守られるためである。



ケパ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オンライン配信クオリティアップへの道

2017年04月10日 | 映画•映像
船橋キリスト教会では、オンライン配信を祈り、多くの人に届けたいと祈り続けている。
船橋に開拓教会牧師として赴任して、多くのしなければいけないことがあったが、HPなどはまだしも、オンライン配信については全くの素人で苦戦した。最初はiPhone一つでやっていたのだが、そのうち音が小さい、聞こえにくい、画面に全体的に遠く映ってる・・・などが気になってきた。(ライブシェル)

さあ、それからが試行錯誤の繰り返しで、ライブシェルなどの簡易放送機器を使ったりもした。しかしそれでは送信ファイルの問題で、ライブ以外の保存版が観れないなどの苦情が出た。結局、最終的には、それまで面倒だからと避けていたパソコンを使い、Ustreamの配信ソフト上で、画像と音声を調節しながら配信すると言う現在の形に落ち着いた。何ごとでもお手軽、近道というものより、苦心して、王道を歩むことの方が確かなようである。HPでもビルダーなどのお手軽ソフトは、実はあまりお勧めできない。

しばらくして、クオリティアップのために祈っていると、ソースと言う思いが与えられた。配信においてのソースとは、ブルドックとかオタフクではなく、カメラとマイクである。その一つ一つを小さな教会といえども、可能な限り高品質なものにして行くように、との思いである。

それで最初に取り組んだのはマイクで、コンデンサーマイクという広範囲に高性能で音を拾うものに切り替えた。これを極力雑音の入らないUSBでパソコンに入れ込む。たくさんのマイクをPAで選択的に流すようなことは、私たちのような小教会では不可能だ。だから、一本のマイクによって、会場の音をクリアーに流すことを選んだわけである。礼拝には映像も大切だが、個人的には音声のクリアーさの方が一番大切だと思う。
そこで音のボリュームそのものはまずまず解決したが、マイクからの音をミキサーのゲインで無理に上げているためか、当初より雑音が混じったクオリティの低さが気になっていた。そこを解決しようと、今回はマイク用のプリメインアンプ(図中の上写真のもの)を導入した。結果、かなり満足のいく音質になったと感じた。ギターとかマイクのような低音量の入力ものは、プリメインアンプが必須のようだ。


次なるアップは映像である。これまではWAVカメラといって、スカイプをするために使う程度のカメラで撮っていた。しかしこれでは画像のシャープさ、ズームなどは望めない。それでどうしてもビデオカメラから映像がほしい、と心から願うようになった。

祈り、願っていれば、神様は叶えて下さる。今回はパソコンにUSB3,0のボード(図中の下、写真の物)を取り付けるという作業があったものの、自作パソコンの経験があるので、私にはそれほど苦ではない。
パソコンを開き(上の写真。どのパソコンも車と同じで仕組みは皆、同じ)、電源ケーブルの長さが足りないことを解決しながら、PCI拡張スロットに慎重にUSBボードを取り付けた。ドライバーテストでも3.0を無事認識した。(写真は電源ケーブルを接続、これからこのUSB3,0ボードを本体に差し込むところ)
(インストールに成功し、USB3,0を認識)

最後に、HDMIキャプチャーでビデオカメラからの映像取り込みがこれから待っている。これに成功したら、示されたソースのクオリティアップ計画がとりあえず完成する。全国の配信を検討している諸教会にとっても、人手間と費用を抑えたこの配信方法、一つの参考事例となるのではないだろうか。ハレルヤ、である。

このオンライン配信に、御手のあることを感謝❗




ケパ







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ラ・ラ・ランド」の夢と虚しさ

2017年03月06日 | 映画•映像
アカデミー賞をたくさん得た、一番話題作「ラ・ラ・ランド」を観た。
冒頭部分、高速道路上でのパフォーマンスシーンに、まず魅せられる。もはや実写と見分けられないほど進んだCGがあまりにも多用されているこの時代、この映画はあくまで実写にこだわっているようにも見受けられる。それがハリウッドのスターや音楽での夢を叶えようとする二人の夢と重なって、レトロな世界が完結する、と期待させるところがうまい。

さて、題名のlá-la làndとは辞書で調べると、ロサンゼルスのことであり、夢の国, 現実離れした世界の事であるという。
この点を抑えながらこの映画を観ると、ハッピィエンドにならず、腑に落ちないラストシーンも幾分かは理解できるようになる。それは作品中何度も出てきた〈大人になる)と言う言葉の意味からも理解できるようになる。
女優として、ピアニストがレストランオーナーとして成功するということは、夢の国を卒業するということでもあるのだ。

しかし残念ながらクリスチャンとしては、単なるこの世での、ちょっとほろ苦い成功話であって、全然感動出来ない。なぜなら、(単に信じただけでなく)神を知って生まれ変わり、自分の人生のが永遠の喜びに満たされていくことに比べれば、申し訳ないが、これらこの世の成功話は浮き草の如く、取るに足りないことに思えるからだ。

「たとえクリスチャンであっても、自分の人生を神の計画に捧げようとする人はほとんどいない」とP牧師が最近語った。それがこの群れのことまで含めて言われたのかどうかは定かではない。しかし本当に日々、神の御心を聞き、喜んで従っている人は、P牧師が言われるように、ほんの一握りに過ぎないのであろう。その人には、喜びの泉が、どんな状況の中でも、いつもこんこんと湧き出ているのだ。
確かに言えることは、私にはたとえ二人が結ばれた「ラ・ラ・ランド」であろうと、神とともに歩む人生に比べるなら、言いようのない虚しさからは逃れられないことだ。



ケパ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルドリコ少年

2017年02月14日 | 映画•映像
8日のblog 山本村 で紹介しますと書きましたが、
ルドリコ少年を中心とした26人な殉教迄の旅をアニメにしてわかりやすくしてあります。
以下ご覧になってください。


少年ルドリコと26の十字架

これは昨年の
白馬映像祭受賞作品第1位に選ばれた作品です。
他の作品もご覧になれますよ。

また「26聖人殉教のアニメ映画化」の働きのために、映画ミッションの窪田代表が、ハリウッドチームとして、ロサンゼルスに行かれてます。


ハリウッドチーム
blogも上がってますよ。☝️こちらを見てくださいな

映画ミッションの窪田代表が、ロサンゼルスに行かれてますが、そろそろ帰国です。ハリウッドで制作することを祈ってます。
実現が一歩づつ近づいると、思わされてます。

ドルカス



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「沈黙ーSilent」のコメント

2017年02月09日 | 映画•映像
今回、長崎の西坂公園の奥にある、日本二十六聖人記念館に入って驚いた。入り口に今公開されている映画「殉教ー Silent」 のポスターが貼ってあったからだ。
一度は破門までされた作者の映画である。カトリックにとって日本宣教は、百万近い信者を見捨てざるをえなかった、最大級の汚点であり、傷である。原作が世に出てから半世紀経つが、ローマ法王などバチカンの高位聖職者がそろってこの作品を観たと言うから、作品の価値が受け入れられるためには、ようやくこれだけの時間が必要だったんだなあ、と感じる。

さて、ハリウッドはスコセッシ監督のこの作品、ロケ地は台湾だが、日本人が観てもまったく違和感を感じない、見事なハリウッド製日本的作品である。三時間近い大作なのに、まったく時間の長さを感じさせない濃密な内容であったと皆が言う。今回はいろいろ思い出したことを元に最後のコメントをしたい。(写真は捕らえられた信徒たちとのシーン)


真の残酷シーン
この作品がR12指定となったようだ。確かに拷問とか、処刑シーンがある。しかし私に最も残酷だとは思えたのは、それらではなく、この映画のもっとも平和なうるわしいシーンである。
つまり、捕らえられた信徒たちに司祭ロドリゴがふれあい、教え、励ますシーンである。なぜか。それは檻の中で信徒たちと司祭が一緒にされ、親密さを築かせておいて、それを利用しての恐るべき企みがあったからだ。その狡猾さが、むごい、残酷だと思わさせられる。
こうして親しくなった信徒たちを先ず苦しめ、転ばさせておいて、彼らを愛するロドリゴを死よりも苦しい責め苦に陥れるためであった。自分のためなら殉教を厭わないロドリゴであっても、自分が転ばないために愛する多くの者を犠牲にすることは、出来ない相談だからだ。どうして自分の信仰のために、たくさんの本来自分が守るべき人たちを殺すことなどできようか❗だからロドリゴが踏んだ踏み絵は、殉教よりも辛い十字架である。つまり檻の中での睦まじいシーンほど残酷なシーンは、他にないと思う。


実在のロドリゴ
主人公ロドリゴには確かな実在のモデルがいて、イタリアのシチリア島出身でジョゼッピ・キアラ神父という。映画では若いが、日本に潜入した時は41歳であった。島で捕まり、長崎に護送され、二ヶ月後には江戸に移された。江戸で映画にも登場した宗門改奉行である井上筑後守(イノエサマ)と恩師であったフェレイラの詮議を受け、老中や大老、将軍などからも詮議を受け続けた。

江戸での厳しい詮議を三年受け続けて後、死刑囚であった岡本三右衛門の名前とその妻を娶らせられ、その残りの四十年の生涯を小石川のキリシタン屋敷内で過ごさせられる幽閉生活を送って病死した。彼の人生は転んだバテレンかもしれないが、事実は死よりも辛い生を選んだ、素晴らしい殉教者であったと言えるのではないだろうか。

映画では触れられなかったが、死後彼の妻が墓碑を望み、実に奇妙な墓石が作られた。西洋人や宣教師がかぶる帽子(写真)が墓石の頭に載せられている。これをなんと言おうか、夫の信仰が妻に伝わっていたと見えないだろうか。
この墓は現在は移転され、調布市のサレジノの学院の敷地内に安置されている。(写真はそのお墓)今度、時間が取れれば行ってみたいなと思わされている。




ケパ






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「沈黙-Silent」の最終感想

2017年01月26日 | 映画•映像

あなたはスコセッシ監督の映画「沈黙ーSilent」を観ただろうか?
この映画は日本の17世紀、過酷なキリシタン弾圧を描いた遠藤周作「沈黙」の映画化である。原作を忠実に描いた本作品には、人間がなしえる究極の……苦渋の中での《愛》が描かれている。

理解するために、典型的な型を三つ置いてみたい。判断するのは日本に使命を帯びてきたポルトガルの司祭である。
①司祭は捕らえられ、棄教するよう拷問を受ける。
②司祭が棄教するまで、信徒が拷問される。
③司祭が棄教するまで、先に棄教した元信徒が拷問にされる。(謀りごととは知らず、牢の中で司祭として信徒たちを熱心に司牧する)

①の場合、殉教するのは本人の信仰次第である。
②では信徒なので、苦しみも天国への門と激励することができる。
③の場合、拷問の責め苦にすでに棄教してしまった信徒なので、本来なら所払いにならなければならないはずが、司祭を棄教させるための圧力として拷問されている。

③のこれが難問である。苦しみの余り、血肉の命を選んでしまった信徒を、誰が責められよう。それなのに死に至るまで苦しめられているのは、司祭が棄教しないためなのだ。彼らの命は、司祭が棄教するかしないかにかかっている。

遠藤周作はこの作品で本当に言いたかったことが、私はこの映画を観ることで分かったように思う。頭で想像して考えるのと、リアルな映像化されたシーンを通して考えるのとでは、理解の度合いが違ってくることを思い知らされた。
「たとえ命を失おうとも、キリストを否んではならない」とは聖書の教え(マタイ10:33)である。血肉の体をもってのこの世の命はせいぜい数十年から百年。しかし魂や霊のいのちは永遠である。だから①や②の殉教はキリスト教徒にとっては、最大の恵み、祝福である。実際多くのキリシタンは喜び賛美しながら殉教したのである。それが迫害者側の奉行イノウエサマを頂点とする役人たちに、理解はできないとしても読み取れないはずがない。それで迫害は「殺して除く」という処罰から、重だった信仰者を棄教させ、その恵み・祝福を奪うことが最も効果的な弾圧政策となっていった。(イッセー尾形扮する転ばせの天才奉行イノウエサマ)

③はその中でも最高の棄教方法である。なぜならキリスト教とは「愛」の宗教であって、キリスト自身が常に折りに触れ「神を愛し、自分よりも隣人を愛する」ことを説いていたのである。もし司祭が自分の殉教という恵みに固執すれば、そのために多くの人の命が犠牲になる。つまり、司祭の愛は失われる。棄教すれば、元信徒たちの命は助けられる愛は示されるが、司祭としての使命と信仰とが、また送り出した教会も大きな打撃を受けることになる。どちらを失う方に己をかけるべきか、まさに究極の選択が、「沈黙」のテーマである。(捕まった司祭、棄教を通詞に迫られる)

わたしはこの「沈黙」に言及する度に、当初の「『踏むがいい』は神の声ではない」とか、「これは神に聞き従っての日本渡航ではなかったのだから、神が沈黙されるのは当然だ」の見識が、実はステレオタイプの見方であったと思うようになった。
こうして何日も考えてみると、≪信徒を救うためにたとえ外見的に棄教したとしても、心の中の信仰は決して奪えない≫という原作や、スコセッシ監督の見方に、全面的にではないが、かなり同意する。 ケパ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 映画「沈黙」感想Part2

2017年01月24日 | 映画•映像
この映画について、付け加えたいことがあった。

一つには映画のラストシーンで、つまり主人公ロドリゴ(岡田三右衛門)の火葬シーンにおいてであるが、その遺体の両手のひらの中には、秘かに生涯握りしめていた十字架があった。このシーンは原作にはないもので、最後の最後にスコセッシ監督のはっきりした意図が込められている。
ドルカスが「あれはどう言うことか?」と後で聞いてきたので、「本人が握りながら死んで行ったのか、さもなくば女房が握らせたのだろう」と私は答えた。映画では意図的に無感動に女房が描かれていたが、おそらくそれは、合わせられた手の中の十字架がバレないための偽装ではないかと察せられた。

原作では次のようになっている。
ーーーもうこの国には聞いてくれるパードレが他にいないと、告解を求めるキチジローに対し、「・・・・安心していきなさい」とそれを与えたところからである。
自分は不遜にも今、聖職者にしか与えることができぬ秘跡をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国今でも最後の切支丹司祭なのだ。ーーー

これをスコセッシ監督が映像化させると、この十字架を握りしめての火葬シーンということになる。このことは、何を意味しているのだろうか。
「どんなに迫害やその拷問で信仰を強制し、成功したかに見えても、心の中の信仰を奪うことまではできない」
というメッセージになるのではないか。

十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十

二つに目は「自分のためには死を恐れない」が、「自分が転ばないために、すでに転んだ元信徒が長い時間、穴吊りの刑で死ぬまで苦しめられる」ので、彼らの命を救うために不本意でも転ぶべきかどうか」である。これは究極の選択とでもいうべきものである。
もしこれが「転んでいない信徒」であったなら、苦しめられようと共に天国を目指そうと、耐えることができるかもしれない。励ましあえるかもしれない。そういう意味では心の痛みをあまり感じないかもしれない。しかし転んだ信徒の場合はどうなのだろうか。これは難題である。

結論から言えば、血肉の人間は最後には必ず死ぬのである。血肉の体を失った霊のいのちとその行き先は、それよりさらに、はるかに重要である。とは言っても、血肉の命以上の価値を持っていなかった、信仰を失った元信徒たちにそれが届くかどうかは、大いに疑問である。

わざわざ宣教師に一定の期間、捕らえられた信徒を牢内で司牧させ、心の結びつきを与えた上での奉行イノウエサマの差配は、宣教師の使命である【愛】を逆手にとって棄教を迫る、実に狡猾な高等戦術である。血肉の命と霊のいのち、【愛】とは、どのようにして現され、伝えられていくのか?

「ただ形だけのことよ、軽く踏むだけでよい。そうすれば皆の者の命が助けられるのじゃ」役人のこの問いかけが、映画を観る者の心に迫って来る。神を知らず、神の裁きを恐れない血肉の命がすべての国だからこそ、目的のためには他の人の命をも利用して構わない発想が‥‥出て来る‥‥ことに、同じ日本人の末裔として心からの嫌悪を覚える。

このようなサタンの手に陥らないよう、全クリスチャンは前もって祈って行かなければならない。先ずもって、フェレイラが棄教のいい訳に利用した、「この国の民は、自分の命以上の価値を神に見出さない」‥‥確かにこの国のクリスチャンは未だにこの状態だと思われるので、そうならないように、信仰の油注ぎ、引き上げを祈りたい。主の十字架の信仰が大きく用いられること、これがポイントである。


ケパ







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする