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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男

2018年04月19日 | 映画•映像
表題の映画は、観ることに決めていたものの、教会の一連の引っ越し騒動であさってになっていたもの。ようやく一段落ついた今日この頃、やっと観ることができたわけ。

原題が「Darkest Hour」で、これはイギリスが、ナチス・ドイツの脅威にさらされていた危機的な日々をさす言葉だ。具体的にはダンケルクの35万人のイギリス軍の救出から翌年の1941年頃までを指す。

この映画は、チャーチルの首相就任からナチスドイツ軍に侵攻されたフランスのドーバー海峡ダンケルクから連合軍兵士約35万人を英本土に撤退させた、通称「ダンケルクの戦い」までの知られざる4週間を、実話を元に描いたもの。これがまさに世界の運命の分かれ目だった。
もしこの時、相変わらずナチに融和的なチェンバレンやその後継が政権を担っていたとしたら、西欧世界はナチの野望に屈しており、全体主義、共産主義という独裁体制がユーラシア大陸を西から東の果ての日本まで覆っていたことになっていたはずだ。

もちろんその時アメリカは、今のトランプが言っているような、自国一国主義に貝のように閉じこもっていたはずだ。その中でただ一国、チャーチルのイギリスだけが、映画にある通り最悪の状況下でありながら、反ナチスの徹底抗戦の旗を揚げた。やがてアメリカも重い腰を上げて参戦し、やっと時計の針が逆回りを始めたのだ。チャーチルは国内の敵と世界支配寸前の敵を前に、確かに世界を変えた男である。

映画は単なる知識を、生々しい映像化を通して、間接的にではあっても生きたもの、体験にする力がある。今回は特に、どうしてダンケルク作戦の成功が重要だったのかわかる気がした。もし大陸に残した35万の英軍を救出できなかったとしたら、どうなっていたのか?
英陸軍は壊滅的な状態となり、海軍は健在だったとしても、ノルマンディー上陸に始まる、大陸のナチと への反攻には、相当な長い時間がかかってしまう、極めて 困難な戦いになっていただろう。決定的なのは、英軍抜きでアメリカが単独でヨーロッパの戦端を開くことはありえなかったことだ。(世界制服を企むヒットラー)

ダンケルクの崖っぷちから救出した英軍35万は、いわばイギリス軍の中核である。これさえあれば、戦時下国民総動員法によって、徴兵した新兵を短期間にいくらでも養成できるわけである。また戦場においては、指揮官の優劣がしばしば勝敗を決定する。新兵はすぐに養成できても、指揮官は時間がかかる。ダンケルクで救出したたたき上げの35万は、たちまち百万どころではない大軍の源となり、第二次大戦の戦局を左右するものであったかが分かる。

しかし映画は、そのためにカレーにいた5千名の英軍が、ダンケルク脱出の時間稼ぎの犠牲となった悲劇を描いていた。「救援はしない、最後まで戦え」この非道な命令を下したチャーチルの苦悩が、映像を通してリアルに伝わってくる。(何度も映画化されているダンケルク)


しかしチャーチルは歴史を変え、今日の世界を残した。戦後は冷戦という共産主義との戦いもあったが、チャーチル無くしては、今の世界は全く様変わりし、全体主義、共産主義者たちの世界になっていたはずだ。あな恐ろしや❗

ヒトラーの全体主義や共産主義は民主主義を否定するだけでなく、そのバックである宗教(キリスト教)を敵視した。自分たちの恐ろしい思想信条を唯一無二なものとして、国民に崇めさせるためである。それは新興カルト宗教と同じ手法である。
映画ではチャーチルが盛んに、神の護りを説き、たとえ命を失ったとしても、不法な独裁者達に屈して生きるよりはましだ説いた。言葉の力を感じさせた映画である。
ひるがえって見て、やがて滅ぶ自分の命よりも大切なものを見出せないこの日本国民は、自分では気付かないだろうが、不幸だなと感じさせられた映画でもある。




ケパ








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極限の実話 映画「The 15:17 to Paris」

2018年03月06日 | 映画•映像
昨日「15時17分、パリ行き」と言う映画を観た。2015年8月12日というから、今から3年半前の出来事(タリス銃乱射事件)を再現した映画だが、驚くのは当の本人たちか主演していることだ。こんな映画は聞いたことがない。(映画のメイン舞台、タリス号=フランスのTGVと同じで時速300キロ出る)
この事件のことは私はよく覚えていて、9.11の航空機ハイジャック事件の折、唯一目的を達しなかった飛行機と並んで、テロを阻止した出来事だ。しかも鮮やかな勝利だった。(フランス最高の勲章、レジオン・ド・ヌールをシラク大統領から受けた四人)

しかしこの映画の評価が、我々日本人にはイマイチのようだ。特にキリスト教臭さが鼻につくようである。それはそうだろう。「自分の人生には、何か大きな目的があって、用いられるような気がする」とか「人々の幸せのために自分を使ってください」という祈りなど、自分の命以上に大切なものがあり、創造主の計画に生きる、などと全く理解できない国民なので、鼻につき、うさんくさく感じるのだろう。ある意味、情けない日本である。

アムステルダムからパリへ乗客554人を乗せた国際特急列車の乗客を標的とした事件を起こしたのは、銃器で武装したイスラム過激派の男。犯人はAK-47のほかにも複数のナイフや拳銃を所持していた。犯人はシリアへの渡航歴もあるイスラーム過激派の26歳のモロッコ国籍の男(Ayoub El Khazzan アユーブ エル カザン 写真の右の人物)で、ベルギーのブリュッセルに住んでおり、かねて情報機関にマークされていた人物であった。

映画には出てこないが、事件発生を知った乗務員は、乗務員室に逃げ込み、中から鍵をかけて閉じ籠ったことも知られている。見放された乗客は、自分たち全員が殺害されることを覚悟したと述べている。

そんな中で当時23才の幼なじみ3人は、乗客の一人が撃たれた後、「何も考えず」即座に犯人に突進し、負傷しながらも格闘して犯人の確保に成功した。テロリストは300発前後の弾とカラシニコフ小銃を持っていたので、もし3人のとっさの反撃がなかったら、いったいどれほどの犠牲者を出したことであろうか。
この自分の命を救おうとした乗務員と、命の危険を顧みず、犯人に立ち向かった人たちの違いは、信仰の違いであった。真のクリスチャンは、命そのものが大切なのではなく、真の目的のために自分の命があることを知っている。そこが天と地ほどの大きな違いが生じた実話である。(犯人と格闘時に負傷したスペンサー・ストーン)

考えてみてほしい。テロリストは無防備な人々をたくさん殺せば殺すほど良いと思っている。そんなテロリストを前に無抵抗であれば、羊のようにただ殺される順番をおとなしく待っているだけだ。
もし自分の命だけが大切なのであれば、乗客全員の命を見捨てて逃げた乗務員を、誰も責めることができないであろう。この国でも死ぬことが怖くて、ひたすら長生きを願っている人々がほとんどだが、この車掌とどこが違うのだろうか?
そうやって自分の命だけ得ても、結局は死は時間の問題に過ぎないのだが。だから自分の命以上に大切なものを得てこそ、人の命は輝き価値あるものとなるのではないだろうか。ただしそれが真の神の御心以外では、それはまた、残念な結果になるのだが。

【自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。】ルカ17章33節

ケパ

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映画「ユダヤ人を救った動物園 ヤンとアントニーナの物語」

2017年12月15日 | 映画•映像
今日がロードショー(封切り)かと思う表題の映画を観に行ってきた。これはポーランドで起こった実話の映画で、要するにこの日を私たちは心待ちに待っていたのだ。映画の題名が恐ろしく長いが、原題はThe Zookeeper wifeでシンプル。それもそのはず、内容はユダヤ人300名あまりを園内の広い自宅地下室に匿い、その命を救った、勇気ある女性の感動の実話だから。要するにポーランドの反ナチ抵抗運動の一環として、ユダヤ人を救う話である。
私は高校生の時に「アンネの日記「夜と霧」の本から関心を抱いて来た。決して気持ちの良いものではなかったが、ユダヤ人から目を背けることができなかった。映画ではこれまで「シンドラーのリスト」や「命のビザ・杉原千畝」、「戦場のピアニスト」「サウルの息子」などを観た。

この時代、ユダヤ人を助け匿うということは、バレればポーランド人であろうと家族もろとも銃殺されるかアウシュビッツに送られても仕方ない訳で、まさに命懸けである。資産があり、家族がありながら、それができるかということになると、誰もが躊躇せざるを得ないのではないか。映画では、ドイツ兵によってひどく傷つけられた一人の少女の癒やされる過程で、アントニーナの過去も語られていく。その過去が命を懸けて助ける、その伏線になっている。

この映画でもう一つ、私の心に残ったのは、ゲットーのユダヤ人を救出するアントニーナの夫、ヤン園長の働きである。もちろん、ゲットー内の全員を助けられるわけもなく、仕方なく彼らを列車に乗せる手伝いをするシーンが出てくる。
列車は貨車であって、人々をぎゅうぎゅうに押し込んで行く。行先はアウシュビッツなどの強制収容所であることをヤンは知っていた。映画の中で「コルチャック先生」が何度も出てくるが、あまりにも有名な人なのでここでは詳細を省く。(コルチャック先生の実像)彼は自分の孤児たちと列車に乗ることを選ぶのだが、そのあどけない孤児たち一人一人載せなければならないヤンの、苦渋に歪んだ顔が印象的であった。その張り裂けそうな心は、ユダヤ人の マーク、ダビデの星を腕につけているかいないかの理不尽さにあったはずだ。戦後、動物園を再開する時、園長夫妻は建物のあちこちに、ダビデの星マークを描く。この奇異な行動を紐解くならば、このマークで、動物を見に来るべき人間が動物以下のように扱われた時代があった、そのマークを堂々と描くことで解放を喜ぶ、あるいはそれを決して忘れないと言う意味だろうか。(写真は孤児たちの中のコルチャック先生を脱出させようとするヤン)

この映画を通してやはり、共感ということ、自身がつらい体験をもくぐり抜けているということ、これが危機に際して、人間としての真の力になっていると感じさせられる。
私たちの群れも各人、長い間にわたって試練や困難という訓練を受けている。私たちのような寄留者タイプの教会には、美しい会堂や人間的な交わりを求める人々は寄りつかない。ただリアルに神は生きておられる、その信仰だけが命の教会である。だから神が導いた人でないと、そう簡単には定着はしない。

しかし終末の時代、それはまことに不安と混乱の時代であろうが、その時至って真の信仰が、私たちが用いられるのである。それは自転車で動物園を巡回する日々だったはずのアントニーナが、時が来た時には、恐怖という闇に立ち向かい、人間としての真の目的のためにあらゆる手を使って、圧倒的な支配者ナチに立ち向かって行ったように。





ケパ







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映画「地の塩 山室軍平」

2017年11月28日 | 映画•映像

今日、ポレポレ東中野で映画「地の塩 山室軍平」を観てきた。その感想。

(1)卵断ちをして仏に祈る?
卵断ちをして、生涯軍平のことを仏壇に祈り続けた母の願い〜「人様にご迷惑をかけず、ちいとでもええことをするもんになりますように」。これが随所に出てきて、ある意味、その成就として軍平の生涯が描かれている。
これが映画のキモなのだろうが、非常に意見の分かれるところだ。仏とキリスト教の神には何の関係もないし、実際わずかでもあってはならない。しかし人間的な見方をするなら、軍平の人格形成に、母の願いが全く関係なかった、とまでは言えないだろう。けれども私は、こと唯一の神に限って、他の神々を用いるようなことは決してされないと信じる。
それゆえこの映画のキモである母の愛の設定は、まことに汎神論的で、疑問であり残念至極である。付け加えて言えば、軍平の母の祈りから始まるが、その祈りとは、どの神様、仏様なのか?祈りや物断ちは神道風だが、それを位牌のある仏壇の前でしている? 監督の宗教センスを疑うばかりである。

(2)組み手の祈り
この映画では両手の指を組んでの祈るポーズが多い。長い福音派上がりの私は、自分でもしていたし余り気にならない方だが、何だかすごくそのシーンが多く、「自分の力で祈る!」風で、律法的で目立ち過ぎに感じた。この映画での祈りのシーンには、何となく霊性が感じられない。

(3)妻の愛に支えられて
廃娼運動で廓の用心棒たちに軍平が痛めつけられ、おそらく担架などで帰った知らせを聞いた妻の機恵子は、夫が神の使命のために血を流し傷ついたことを平然と「名誉なり」と言い放って、見にも行かない。知らせを取り次いだ女中はその平然さに驚く。
私はこれにしびれた。本心はどんなに飛んで行きたかっただろうかと。それが分からぬようでは困る。男性がもし、ひとかどのことを為すことができるなら、それは支えてくれる妻の存在があったればこそだ。そのような妻は神だけが与えてくださるものだ(体験者)。だから人には誇りは一切無く、すべて良きことは神の栄光に帰する。

ちなみに高円寺駅から環七を南に数キロ下った和田に、桜が美しい救世軍のブース記念病院がある。その庭の一画に礼拝堂があって、礼拝堂をぐるり回ると山室機恵子の像が建っている。機恵子は南部藩の代々の武家で、東京は明治女学校出のエリートだった。だから二人の結婚は、当時としては相当な抵抗があった結婚だったと想像する。そんな女性だったからこそ、日本の貧しき人々のために各種社会福祉事業を興し、使命を貫いたクリスチャンだった。


(4)結局、やっぱり聖霊のパプテスマが働きの土台
映画では軍平が洗礼を求め、すぐには受けられないので、屋根上で雨に打たれて祈るシーンがあった。これは自分で受けたバプテスマだろうと思った。この気持ちは私もすごくよく分かる。教会で受ける洗礼も必須だが、真の信仰告白はこの天雨の中にあったのではないかと思う。
また石井と一緒に松江のバックストン宅で、聖霊のパプテスマの勧めを受け、(神に触れられ)涙を流すシーンがあった。彼のその以後の働きを見ると、聖霊のバプテスマを受けた、神に聞き従うクリスチャンであっただろうことがわかる。聖霊のバプテスマを受けないと、人は聖霊を通し神の御心を知り、それを行う事ができないからだ。
クリスチャン三十年だった私も、ある時点から聖霊のバプテスマを求め、凍てつく河原で、夜な夜な声を張り上げ涙を流して祈った事を思い出す。心を再び熱くされた映画だった。




見終わって、外に出ると五時近く。もう外は暗かったが、心は晴れて明るかった。


ケパ




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映画「ドリーム」

2017年09月30日 | 映画•映像
昨夜、表題の映画を観た。NASAを舞台に三人の黒人女性が差別とそれぞれ戦い、勝利を勝ち取る経緯がこの映画である。
私も十代の頃、このアメリカの人種差別の実態を耳にして怒りに身を振るわせた記憶がある。それはアメリカに行けば自分はColored(有色人種)であり、バスやレストラン、トイレでは黒人達と一緒にされるということに対してだった。今から思えば、それだって差別意識丸出しであり、許されないものだったのだが。

この映画では「神の小屋」でGod役を演じたオクタヴィア・スペンサーが三人の主役の一人である。ケビン・コスナーがNASAの本部長で、偏見のない役どころを好演する。時代はスプートニック・ショックで屈辱に燃えるアメリカの、宇宙開発草創期の時代である。

映画を観ていて特に感じたのは、この映画は1963年のキング牧師の有名な演説「I Have a Dream(私には夢がある)」の実践編が背景になっていることた。私たち日本人にはイマイチ分からないのだが、アメリカ人にはこれはすぐわかることだ。簡単に触れると、アメリカの公民権運動、つまり人種差別への黒人の戦いには、暴力的な路線とキング牧師の非暴力路線とがあった。今日でもこれは完全に解決したとは言えないのだが、それでもColored(有色人種)表示は一切払拭された現在をつくったのは、キング牧師の「I Have a Dream」路線、つまりクリスチャンの非暴力の力だった。

この映画の題名ともテーマとも言える「ドリーム」とは、キング牧師の「私には夢がある・・・・」の、まさにその夢を実現した三人の女性の話なのだ。一人は抜群の数学者でロケット軌道の演算者、一人は卓越した管理職のボス、一人は技術者として、いずれも白人オンリーの壁を打ち破り、ドリームを叶えた英雄的な三人である。

しかし、ここからが大切だと思うのだが、戦ったのは外だけではなかった。家庭内には女性差別があったのだ。三人はそれぞれ苦闘するのだが、結局は働く女性として見事に尊厳と協力という勝利を得る。(※でも、ちょっと内容が出来過ぎの印象がある。)
とは言え控えめな演出ながらその土台には、アメリカの古き良き時代の、クリスチャンとしての信仰があちこちのシーンに垣間見えていた。

この映画は、あのキング牧師の預言的夢が成就した映画である。しかも底辺の女性の力で・・・と言えるのではないか。



ケパ








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三百万人と六百万人の違い

2017年08月15日 | 映画•映像
昨日観た映画は「少女ファニーと運命の旅」は昨年観た「二つの名前を持つ少年」を彷彿(ほうふつ)とさせた。ファニーの方はフランスから中立国スイスへ逃れ、二つの名前を持つ「スルリック(ユダヤ名)」又は「ユレク(ポーランド名)」は、宗旨もカトリックと偽ってポーランド孤児としてナチスから生き延びようとする。

それぞれ過酷な体験をして生き延びるが、意外と知られてないのは、両映画で出てくる「ズボンとパンツを脱がせば、(ユダヤ人かどうか)すぐ判る」だ。これは割礼(かつれい)のことである。

割礼はイエス様も受けられているもので、ユダヤ人男子ならば、誰しもが生まれて八日目には受けなければいけない聖別の儀式である。旧聖書に明確に記されている儀式で、男性である私もまだ実際に見たことはないが、すぐに判別できるほどハッキリしているものらしい。つまりユダヤ人男性は、裸になれば一目瞭然なのである。

――八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない――(レビ記12:3)

二つの映画に特有なのは、バレれば自分の命さえ危ない「ユダヤの子どもをかくまう」ことを、多くの人々がしたことである。もし同様なことが日本で起これば、私たちにそのようなことができるであろうか? 良心と保身のせめぎあいを感じる。

今日は終戦記念日である。わが国が出した戦死者は三百万人と言われているが、ユダヤ人はホロコーストで老若男女併せて六百万人である。彼らは誰ひとり銃を持って戦っていたわけではない。始めはゲットーなどに閉じ込められ、やがて追い出され、貨車に乗せられてアウシュビッツなどの強制収容所如何に運び込まれて殺されたのである。

ナチスが宣戦も布告していない人々にどれほど非道なことをしたか、その象徴がアンネの日記であら、アウシュビッツである。と同時に、ヨーロッパの人々の間に、シェークスピアの「ベニスの商人」にあるような反ユダヤ人感情が底流にあったこと、それをナチスが利用したことも確かだろう。
そうしてみると、何はともあれ身近な特定の国とか民族を排斥したり糾弾するのは、それを利用して政権の維持、野望を成し遂げようとするサタン的な事であることが分かる。また学校でのいじめの問題も、個人レベルで同様である。クリスチャンだけでなく、次の聖書の言葉を心に刻みたい。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:31)

この言葉は言うには易いが、実際には行い難いことだ。だから「私は愛も力も乏しい者です、けれども主よ、このことができるようにさせてください」と祈ることがポイントになるだろう。

付け加えて思うことに、このような映画を観る度に、私たち日本人はイスラエルの建国と、現在の中東問題にもう少し関心を払って行くべきだと思う。日本人のほとんどはハマスやファタハのテロ戦略と、それに乗せられる日本のマスコミの偏向報道しか知らない。彼らがどれほどの恐怖体制を敷き、あらかじめ犠牲者を選んでおいて、彼らをイスラエルの標的にしていることまで、突っ込んだ報道をしようとはしない。
二千年の月日と六百万の犠牲を払ったイスラエルとの、せめて両方のニュースを欧米のように公平に流して欲しい。




ケパ








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映画「ハクソーリッジ」に見る彼我の戦いの違い

2017年07月22日 | 映画•映像
「ハクソーリッジ」は最初のロードショーを観に行き、そしてまた昨夜はこれで終演という、最後の上映の機会に《たまたま》観に行けた。

今回は、映画の内容そのものについてより、若い世代に向けて、かつて父の属した日本軍の戦い方について、少しばかりの弁明をしたいと思う。なぜなら、あまりにもこのままでは旧日本軍が、「卑怯」「残酷」の恥さらしレッテルが貼られそうだからだ。アメリカ人とかつての日本人の、戦いと死生観について違いが、映画に忠実に現れているからである。

◎どうして戦場に横たわる負傷兵たちを、ひとりひとり殺して回っているのか?
→映画の主人公が、敵味方の別なく一人でも多くの命を救おうとする衛生兵なので、これは人道に反するとてつもない残虐行為に見える。果たしてそうだろうか? 私が想像するに、これは「トドメを刺す」と言うのが正しく、死にきれない苦しみから早く楽にさせてあげようという、「武士の情け」ではなかったか。切腹の場における介錯(かいしゃく)もこれと同様である。日本側からすれば、これも人道なのだ。(下の絵は主人公への手榴弾攻撃シーン)

◎降伏しているポーズから、手榴弾攻撃したことについて
→これについては「卑怯」としか思えないかも知れない。主人公のドスもこれで負傷した。しかしよくよく考えてもらいたいことに、旧日本兵とは出征にあたっては「お国のために(父母や家族のために)死んで帰ります」と言うのが前提だった。生還を期せず、死にに行くことだった。それは特攻とかバンザイ攻撃になり、俘虜となるより最後は自決という軍人精神であった。だから南方の島々で圧倒的な敵軍に対しては、勝敗より自分たちが日本の犠牲となって、降伏するより少しでも敵軍に損害を与え、食い止めたい。最後の一兵卒まで、つまり玉砕するまで戦ったのだ。
これはアメリカ人や、西洋人の精神文化とは全く異なるもので、到底理解できないものだった。正直なところアメリカ軍の最大の敵は、自分たちより優れた武器を持ったドイツ軍ではなく、自分たちより装備も兵站(物量)もはるかに劣った日本軍だったと言われている。
この日本軍の視点でいくと、自決するより敵を油断させて、 隠し持っていた手榴弾で敵の一兵でも道連れにしようというのは、あっぱれな軍人精神であったのではないだろうか。
映画で投降シーンが再度あったが、そのシーンには全員褌(ふんどし)だけにされていて、アメリカ軍が即座に手榴弾攻撃を防ぐ対応をしていたのがわかる。
恐らくアメリカ軍を中心とする西欧連合軍にとって、近代的な組織と規律を持って立ち向かってきた、初めて経験する異文化戦争だったのではないだろうか?



ケパ






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映画「ハックソー・リッジ」

2017年06月28日 | 映画•映像
この映画は実話であって、いくら話が来てもも、「真の英雄は死んで行った戦友たちだ」として、生前は映画化を拒み続けて実現しなかったものだ。

この映画はみ声新聞でも紹介されたが、2016年公開のアメリカ映画で、監督は「パッション」のメル・ギブソン。今回が十年ぶりの作品となる。衛生兵として沖縄戦に従軍したデズモンド・T・ドスの実体験を描いた作品である。何しろ沖縄戦最大の激戦地になった前田高地(米軍はこれをハックソーリッジ=ノコギリ状断崖と呼んだ)で、75人の命を救った米軍衛生兵デズモンド・ドスの実話を映画化である。この作品は戦争映画として紹介されているが、私は紛れもなく信仰映画であると思った。

ところでいくつか気になるポイントがあった。先ずセブンスディ・アドベンチスト教会はユダヤ教ではないが、土曜日が聖日である。それから「人を殺してはならないという宗教的信念を持つドスは、セブンスディの教義ではなく、個人的な信念である。それを貫くために様々な試練が来るのだが、私たちの「神に聞き従い、その御心を行う」ことを第一にする信仰とはかなり異なることだ。

ここから後は実際に映画を観ていただくとして、「もう一人、もう一人を助けさせてください」とドスが自分の命以上に神に祈りながら負傷兵を助け出すシーンには息を呑む。戦場は殺し合いだけの地獄そのものなら、武器を持たず、ただ救うだけのドスの姿には心打たれる。

ところで沖縄戦を調べてみて、勝つことが既定の戦いであった米軍は、そのために払った陸・海・海兵の命の代償があまりにも甚大であったことに厭戦気分になる。日本兵はどんな絶望的な戦いであっても決して降伏しない。沖縄本島でこれほどであれば、この上、日本に上陸して本土決戦に応じたら、どれほどのアメリカ人が犠牲とならなければならないか、その数字は想像を絶したのだ。
こうして沖縄戦以降、初めて国土を奪われた日本とアメリカとは和平に向かうことになる。(写真は摩文仁の丘)

と言うことは、沖縄戦で命を捧げた多くの人たちの命も、決して無駄死にではなかった。決して肯定することはできないが、ある意味、平和の礎となったのだ。



ケパ



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予約したから

2017年06月24日 | 映画•映像
「5時半には出掛けるよ。予約したから」って、今日封切りの「ハクソー・リッジ」観るらしい。

その為に必死に、祈りながらメッセージに取り込んでるケパさん。

私? あっ今週は何故か早めに準備してたのよね〜 週報作業

後は少し手直しして、確認もらったら印刷できる。後は帰ってから出来そう。
そんなわけで3時間程出掛けます。

メルギブソン最新作。とても私1人では観れないと思われる映画です。
聖書の、み言葉に立ち(臆病者)と言われながら銃を持たずに戦場で多くの命を救った実話をもとにした映画です。

また、ケパさんコメント❣️あると思います。


ドルカス


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映画「神の小屋」

2017年06月10日 | 映画•映像

金曜日に表題の試写会に行った。

原作は行く前には下馬評で、三位一体のとらえ方に問題があると聞いていた。映画は同名のウィリアム・ポール・ヤングの原作をもとにして忠実に制作されたという。まだ読み終えてないので、映画だけの話になるが、観ただけでは私は問題ないと受け止めた。キリスト教映画という部類では、ある意味、見分けとかいろいろな意味での話題作に入ると思う。 もちろん私はキリスト教界に、この映画の非常に現代的で人間的な三位一体の神のシーンや語りについて、アレルギー的超拒否症状が発症するということも容易に想像できる(私自身がそのようなクリスチャンでもあったので)。しかし聖霊の(バプテスマ)体験がある方なら、そんな拒否症状や違和感なしに、神の容貌に惑わされず、語っているセリフが自身の神体験から、「確かにそうだろう」と正当かどうかがわかるはずだからだ。(写真は原作者)

映画のイントロだけ少々。「愛する末娘を猟奇的な殺人事件で失う」というクリスチャンホームのショッキングな事件・・・・それは犯人への憎悪と、守り切れなかった家族自身の責めという、とてつもない不幸の連鎖を惹き起こしたのだが、この不幸の底に沈む主人公マックに、あの現場となった小屋への一つの招待状が届くところから、物語は本題へと展開する。マックは意を決して出かけ、週末を三位一体の神と過ごすことになるのだ。

あまりネタバレにならないようしたいが、「不幸」というものがどうして神を信じる者(家族)に許されるのか?ということがテーマである。私もそうだったが、家族に病という不幸が襲って来た時、「祝福を受けるはずの家族に、どうして?」と信仰が試され、病状が進行する都度、いっそう揺さぶられた。「神さま、どうしてですか!居るのなら、何とか言ってください!」と叫び続けるようになった。映画でマックは犯人へのたぎる憎しみが抑えきれなく、悲しみの憎悪に支配されてしまっていた。

 

「赦す」ことに、どれほどの痛みが必要なのだろうか。それは自分も赦されていること、憎い相手すらも神は愛してやまないことを受け入れるしかないのだ。 私はこの映画が、傷を負っていて、その傷の癒し=赦し、赦されることが必要な人には通じても、その必要があまりないクリスチャンには、ただご自分の神イメージが崩され、つらいだけになることを心配する。
この映画は神の愛も一つのテーマである。イスラエルの王「マナセ」の話をP牧師がよくされる。偶像礼拝を盛んにし、イザヤ殺しのマナセ王をも神は愛される方なのだ。この神の愛がわかるなら、あなたはこの映画でこころから感動できるはずだ し、赦すことの恵みを受けるはずだ。ただ一つ残念なのは、「感謝」というより積極的、肯定的な信仰が語られていないことだ。(下写真は聖霊役の石田純一の娘すみれさん--クリスチャンになるよう祈りましょう)

  

 

 

ケパ

 

 

 

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