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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

白馬フイルムフェステバル

2019年02月08日 | 映画•映像

白馬スネルゴイキャンプ2日目に

『第9回白馬クリスチャンフイルムフェステバル』

が行われますが、その作品がYouTubeから順次アップされています。👇

http://atv.antioch.jp/hcff2019/

是非ご覧になってください。

💮ドキュメンタリー

💮 ドラマ

💮 ミュージックビデオ

💮 CM

4部門にさまざまな作品が応募されてます。

このなかで、どの作品がノミネートされ、28日に発表されて、どの作品が賞を取るのかしらと、私は今見始めました。皆様も是非ご覧ください。

ドルカス

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イスラエルダイジェスト

2018年11月20日 | 映画•映像
2018年11月🇮🇱イスラエルチームダイジェスト映像が、こちら👇に出来ました。



イスラエルチーム
チームの二週間の様子が10分20秒でわかります。映像を是非ご覧になってください。

さらに
blog ケパとドルカスの10月30日では、



イスラエルチームの様子

からチームblogが👀開きます。そちらからも是非振り返りご覧になって下さいね。
今回のチームは、90名以上でしたので、中々全員は確認出来ないかもですね〜

ドルカス




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映画「ヒットラーと戦った22日間」(原題 Sobibor)

2018年09月22日 | 映画•映像

この映画はホロコースト(第二次大戦中に、ナチスが行ったユダヤ民族抹殺)関連の映画であって、この分野では「シンドラーのリストなど」数々ある中での、劇場公開中の最新版である。題名の絶滅収容所ソビボルは下の図の通り、ポーランド領だがウクライナの国境近くにある森林地帯のただ中にある。ナチスの作った収容所の規模としてはビッグ3に入る規模である。

このホロコーストによって六百万人以上のユダヤ人が犠牲になったと言われている。キリスト教の求道者であった高校生時代、書籍「アンネの日記」まではまだ良かったが、「夜と霧」では心が痛み、吐きそうになりながらも最後まで読まずにはいられなかったことを思い出す。文明の最先端にいた国が「どうしてこんなことを?」と、解決できない問いを突きつけられたようだった。


映画の方であるが、今回の映画までに私たちが観た映画は、「シンドラーのリスト」「ライフ イズ ビューティフル」「戦場のピアニスト」「サウルの息子」「ユダヤ人を救った動物園 ヤンとアントニーナの物語」などがある。

実話再現の映画なので、ストーリーは手が込んでいない。舞台となったソボビル強制収容所は、唯一収容所の収容者が大反乱を起こし、全員が大脱走した所なのである。この不名誉な事実に驚愕したナチスは直ちにこの収容所を閉鎖したほどである。

大脱走は計画的に綿密に行われた。軍事面と組織化面で、それぞれに卓越したリーダーがいたからである。リーダーの指揮通り、ナチス親衛隊の将校たち主だった者を暗殺してから始まった。
しかし最後のテロップで、全員で400名、脱出の際100名が撃たれて殺され、逃げた現地人に150名が殺されたと出た。現地人に、と言うのにびっくり。かなり残念な数字である。

映像によるインパクトにうながされて、今回あらためて「どうしてこんなことが」と考えてみた。

このホロコーストを行ったのはナチスであり、そのの背景はナチズムである。いま欧米ではトランプ大統領のような自国中心主義、移民受け入れ反対、反ユーロという、いつか来た道が再び大きな運動になりつつある。いわばナチズムという悪夢の再来のようである。
だからここでナチズムと言う国家主義を、もう一度短くおさらいをしたい。

ヒトラーは1919年の段階で「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」であるという書簡を記しており、その著書『我が闘争(1925-1926)』では「ユダヤ人問題の認識と解決なしには、ドイツ民族体再興の企ては無意味であり、不可能である」と書かれている。ヒトラーは入党前に記した最初の政治的書簡で「ユダヤ人とは即ち、無条件に人種であり、決して宗教団体などではない」という認識を示していた。(以上ウィキペディア)

ここで<人種>という言葉に注目していただきたい。人種的にすぐれたドイツ民族(アーリア人種)と、こじつけた理由で「劣等民族」としたユダヤ人とは、どちらが勝つか相譲れない関係であり、どちらかが生きるか死ぬかの闘争であると定義している。このような狂信的な人物がなんと、世界でももっと民主的なワイマール憲法下、一国の第一党となり、直ちに憲法を停止し、言っていることを実行したのである。この背景には1929年に始まった世界大恐慌がある。第1大戦の敗北で莫大な負債を負わされたドイツは、国全体がどん底に突き落とされ正常な判断ができなくなっていた。またユダヤ人多くが金融業に就いていたのも拍車をかけたようだ。

そして決定的な理由として、科学立国のドイツがユダヤ人撲滅の正当化する理屈として、進化論を奉じていたことである。現在では人類は単一の種であって、人種というのは存在しないことがわかっている。が、当時や私の若い頃まで白人種、有色人種と平気で差別していた(アメリカでお店の入り口、バスの乗車口など)。確かに青い目の遺伝子、金髪の遺伝子があることから、種とは関係ないものをナチズムは民族間の優劣に応用したのである。

もし神がアダムとエバを創られたという、聖書の信仰に堅く立っていたならば、民族抹殺のようなナチズムの狂気は見分けられたはずである。それゆえ、まったく検証も証拠もないにも関わらず、ドイツ人の信仰は科学的に見える進化論の毒牙にかかり、非常に衰えていたのである。
なお付け加えれば、ユダヤ人こそ聖書のローマ人への手紙11章24節
あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。
によって、ユダヤ人こそ神の祝福を受けるべきオリーブの台木であって、ユダヤ人でないクリスチャンこそ接ぎ木された野生種であることを認識すべきであった。本末転倒とはこのことである。

しかしまた、神の計画は計り知れない。この天文学的な犠牲者を出したユダヤ人は、聖書の地、イスラエルに帰ろうというシオニズム運動がますます盛んとなり、二次大戦後の1948年に、国を失って二千年後、聖書の預言通りついに独立を達成した。これは隠れキリシタンどころではない、実に驚くべきことである。



ケパ





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映画「きらきら眼鏡」〜喪失感がテーマ

2018年09月14日 | 映画•映像
映画にはどのシーンも、身近に私たちが目にしている船橋の景色があって、あらためて親しみを覚えた。しかし実際に映画を観るまで、よくあるご当地映画に近いものだと思っていた。が、なかなかどうして、内容のあるお薦めできる良い映画だ。これは原作がしっかりしているためなのだ。だからこの映画はかなり良作に仕上がっている。(船橋だけ7日から。他地域は15日から)

(以下はWeb上のあらすじ紹介文である。)
愛猫を亡くし、喪失感にうちひしがれていた立花明海は、西船橋の古書店で普段は読まない自己啓発系の本を買う。すると、中に元の持ち主の名刺が栞代わりに挟んであり、明海が最も心を動かされたフレーズにはすでに傍線が引かれていた。気になった明海は意を決して名刺の「大滝あかね」に連絡をとる。
初版発行: 2015年11月22日 著者: 森沢明夫(下は原作の表紙)

この愛猫が映画では、三年前の海難事故で主人公の恋人が死んだことに置き換えられている。題名のきらきら眼鏡とは、《(悪いこと、つまんない日常でも)ものごとをキラキラ輝かしいもののように見る心の眼鏡をかける》という意味らしい。良いこと探しのポリアンナ物語現代版であろうか。

映画では、古本の持ち主だった女性(大滝あかね)の彼氏がガン患者だった。で、あかねは彼氏が死ぬかも知らない恐怖に備えようと、事故で彼女を失った明海に関心を持つのだった。どのようにして、喪失感から解放されたのだろうか、と。

この映画は死ぬことを恐れ、のたうつあかねの恋人。長年の恋人を失うことを恐れるあかね、すでに過去のことなのに、その喪失感に魂の抜け殻のように生きている主人公(明海)が絡み合う。

今の多くの日本人は信仰もなければ哲学もない。生きていることだけが全てで、不思議なことに、必ず死ぬのに死後のことは考えようとしない。
だから題名の《きらきら眼鏡》とは、最愛の人が死んでしまう喪失感に、どうやってこれから生きていけるのか、今にも壊れそうな自分を鼓舞し無理して、何とか踏み留まろう、支えようとしている姿なのだ。しかしそれは、所詮自分の努力では限界があって、次第にバレバレとなる。

この映画を観て、神を信じ、真に感謝することができる私たちクリスチャンの絶大な恵みを思った。クリスチャンは永遠のいのちを与えられ、今の命は天国のための準備のような時間なのだから。決して強がりではなく、死は天国への凱旋なのだ。また聖書にクリスチャンは「望みのない他の人(神を信じない人々)のように悲しまない」(1テサ4:13)とあるのは、天国でもとのように会える希望があるからです。
しかし信仰のないほとんどの日本人は、死が迫ると生にしがみつくしかない。それでも死は無理やり迫ってくる。その恐怖はどんなに大きいことだろうか。

生き残された人も、クリスチャンのように、また天国で会えるという希望がない。映画のように支え合える出会いがあればまだしも、だがそれも本当の解決ではない。ああ、主よ日本にリバイバルを❗ 日本人に本当の永遠のいのちが与えられますように。





ケパ







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映画「パウロ」

2018年09月12日 | 映画•映像
真に信仰の証を問う映画が出た。肉の命と霊のいのち、そのどちらを選ぶのか?と。これは転びの「沈黙」と対極を為す映画だ。

皇帝ネロは、ローマの大火を当時、新興宗教だったキリスト教徒のせいだと決めつけて(スケープゴート化、実際はローマの都市改造のためにネロが焼き払ったと言われている)、徹底的にジェノサイド(虐殺)を行った。初期のキリスト教徒が受けた迫害でも最大級のもので、パウロは聖書で確かだが、伝承でもペテロまで殉教したとしている。つまりキリスト教最大の両使徒を失った迫害でもあった。
捕らえられたキリスト教徒は、街路灯代わりに街のあちこちで燃やされ(これは事実としても、その強烈な匂いの故、私は実際には街の外れだと思っている)、又はコロッセオで大衆の見せ物としてライオンの餌代わりに殺されて行った。

この映画は大火の首謀者として捕らえられたパウロを、その牢獄にルカが幾度も潜入訪問して、使徒行伝やそのほか、パウロ書簡と呼ばれる口伝筆記をしたとする設定だった。
しかし厳密にはこのルカの役割設定には幾つか無理がある。パウロ書簡や使徒の働きは、その多くがコリントやエペソという長期逗留先で書かれたものであり、遅くともかなり出入り自由であった初期のローマ幽閉時に書かれたものである。時代考証的に映画にマッチするのは、テモテ第二ぐらいである。

まっ、あまり細かいことは言うまい。冒頭に書いた通り、これは真に信仰を問う、迫真の映画であって、ご利益宗教的に教会に通っている自称クリスチャンには、ハードルが高い映画である。映画でルカがコロッセオで囚われている同信の友に語っている「殉教の死は一瞬であり、その先に永遠のいのちが待っている」は真実である。実際今でも、クリスチャンは世と永遠のいのち、その両方を選ぶことはできない。

試写会で泣いている人もいたが、私たちの群れ、主の十字架クリスチャンセンターの人は泣かないだろうと思う。常日頃から殉教の祈りをし、備えている群れなので、これは当然起こることとして、覚悟しているのだから。
とは言え、この映画は断然、実際に映画館で観られることをお薦めする。私も経験するのだが、家庭のビデオで観るのは勿体ない映画だ。

しかし1点、どうしても気になるところがある。それはサウロの時代(まだイエス・キリストと出会わず、むしろ迫害者であった時)に、自分が迫害した人々に悪夢で苦しめられるシーンだ。サウロが証人となったステパノの血、ユダヤのあらゆる所でクリスチャンを迫害し、その代表のようないたいけない少女や人々の姿が、しばしば悪夢としてパウロを苦しめていたとして、そのシーンが連続する。しかしこれは明らかに間違っている。

〈あり得ない悪夢〉パウロはキリストにあって罪の赦しを受け、信仰によって義とされることを繰り返し聖書で説いている。その彼がどうしていつまでも、自分が神を知らない時に犯した罪に縛られていることがあるだろうか?そうならばまさに、パウロは不実な嘘つきである。以下、パウロが書いた聖書何カ所を御覧頂き、この映画の誤りを正したいと思う。

"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。"
(ローマ人への手紙 8章1節)

"この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。"
コロサイ人への手紙 1章14節

"こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。"
ローマ人への手紙 5章1節

"私は以前には、神を冒涜する者、迫する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。"
テモテへの手紙 1章13節


もう一つ。囚人管理のローマ軍の長の娘を癒すエピソードが添えられているが、これが少し疑問である。単に医者としての技術で娘を治しており、そこに何の信仰も祈りもなかった? ただ必要な物を取りに行かせ、医術だけで治しているのである。パウロがルカが癒せると、神に示されたと言うのもハッキリしない。なんじゃらほい?である。

この製作者は明らかに奇跡とか、癒しということを避けている。これは新生し神の力を体験していないと言うことだろう。それとも多数派である福音派を意識して、彼らに迎合してこうなったとでも言うのだろうか?

それでどうして殉教をまともに扱えるのだろうか。それが残念ではある。

以下をクリックすると予告編です。
映画「パウロ」の予告編

ケパ



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試写会「パウロ 」

2018年09月11日 | 映画•映像
いのちのことば社から試写会のお知らせがあり、今日午後に予約申し込んで、


既にもう一方の会場は満席ということで、今回も、いのちのことば社に来ました。

2時からの上映です。上映時間には、会場は満席〜

鑑賞した後には『特別価格 前売鑑賞券』の委託があり、10枚チケットを預かりました。鑑賞券の必要な方、是非教会アドレスまでご連絡ください。


私達も是非映画館の大スクリーンで、もう一度鑑賞したいと思ってます。
パウロの話すことばは、聖書のみ言葉、そのもの❣️でした。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
コリント人への手紙 第一 13章4節 新改訳2017


ドルカス




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映画「ワンダー 君は太陽」

2018年06月19日 | 映画•映像

昨夜は遅くなったので失礼してます。深夜の時間で映画「ワンダー 君は太陽」を鑑賞していたからだ。

これはR・J・パラシオ 他の原作「ワンダー (Wonder)」を土台にした作品だ。映画での物語は主人公のオギー、10歳。生まれながらの遺伝子疾患のため、頭蓋骨の変形を矯正する「再建」の手術を27回も受けた少年である。
だから素顔は誰もが振り返る容貌となった。もちろんそれは、本人には苦痛である。十歳までは母のホームスクーリング(これは日本で1例を上げれば「チア・ジャパン」が該当する、きちんとしたカリキュラムを持った個人教授)で、普通の生徒以上に学んできた。

しかしそれも十歳となれば限界があるのだろう。外の世界、つまり普通の子が通う学校に、生まれて初めて行こうとするところから、この映画は始まる。これは私は非常に自然だと思った。十歳からは児童の社会性の発達が著しくなる。またそれに伴って正義感とか、良心も成長する。オギー自身も自立した考えを持てる年齢でもある。この年齢ともなれば、容貌だけでない面、心の面に皆が気づく年頃なのだ。(主役オギーのジェイコブ・トレンブレイは「ルーム」15年にも出た名子役)

映画ではたった短いワンシーンだったが、オギーをここまで育てた母(ジュリア・ロバーツ)が、家のコーナーにセットしたミニ教室で、淋しさにうなだれるシーンがあった。ここまで全身全霊をかけて、母親と教師を両立させてきた困難な日々を、一瞬でわからせたシーンだった。
余談だが、二人の学び舎と言えるそのシーンのセットに、元教師としての私は「半端ない、すごい本気度の教室!」と、つい感嘆してしまった。

映画は学校に通い始めたオギーが、集中する奇異な視線にもめげず、お決まりのいじめにも負けず、その持ち前の明るさと聡明さで次々と逆転して行く展開だ。それはすごく感動的で、隣のドルカスはポロポロと涙が。(原作の表紙)

私も素直に映画に没入すれば良かったのだが、この小学校は明らかに公立ではない、かと言って都市にあるようなエリート私立でもないような・・・・? と違和感に悩んでいた。「奨学金」「神に感謝する」とか「(いじめた子の退学にあたって)私たちは寄附をしてきたのに」と映画のセリフがあったからだ。「奨学金」「寄附?」「退学?」は私学のものだからだ。すると「そうだ、教会立の私立小学校だ」と思いついた。

日本では義務教育において、私学がごく少数しかないが、アメリカでは多くの私学がある(1割程度)らしい。そのほとんどは教会立のもので、進化論ではなく創世記を教える。道徳を宗教の時間にしている。オジーはそこに行っているのだ。映画では触れられていないが、この学校には、下記の聖書の言葉が根底にあって、オジーを受け入れたはずである。
また、いろいろな困難や問題も描かれているが、それを正面から解決して行く理想的な夫婦や校長、担任教師が描かれている。生徒間の人権感覚もレベルが高い。わが国と一日の長があると観じさせられた。やっぱりキリスト教国は違う、と。

"私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。"
(エペソ2章10節)



ケパ





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映画・万引き家族

2018年06月12日 | 映画•映像

カンヌ映画祭で、最高のパルムドール賞を受賞した是枝監督の「万引き家族」を観に行った。

映画に関心のある方は、ぜひ映画館で観ておくべき作品だろうと思う。一言では言えない、いろいろ考えさせられる映画であり、問題を投げかける映画でもある。

 

この映画を観て、直後は「良い映画」と思ったが、一日経ってもうちょっと思い出すとまた考えが変わって来た。最初に感じたのは人間と人間の関係が濃縮する家族、それは血縁の絆が中心に考えられているが、そうではないことを提起している。互いが受け入れ合い、支え合って、必要として正直に生きれば血縁にまさる家族なんだと・・・・。

だから映画では、実の両親から虐待され、冬の寒いベランダに出されている「じゅり」を救出するシーンから始まる。「じゅり」は次第に柴田家の同情と愛を得て、かけがえのない一員として暮らすようになる。祖母の年金だけでは足りない父と息子は、息の合った万引きを繰り返す。孫の「亜紀」はマジックミラー越しの風俗店で働いている。唯一妻だけがまともにクリーニング店で働くが、それも「じゅり」を露見させないために人減らしの憂き目にあってしまう。

この家族は犯罪を重ねていても、おばあちゃんの家で暮らす全員には、家族としての愛が溢れている。そのピークが半年たった夏の海水浴を家族で楽しむシーンだ。しかしそれも、おばあちゃんの死と、息子の万引き失敗から崩れていく。そして次々に明るみに出る家族の秘密。

 

私は是枝監督をけなしたいとは思わないが、海外には受けても、これは日本では基本的に受け入れられない部分がある映画だと思う。「じゅり」を虐待する夫婦、娘亜紀の失踪を偽り取り繕う家族。血縁家族のおどろおどろしさを目一杯見せつける。加えて正当防衛とされたが前夫を殺した妻、その妻と正式に結婚していなかった前科のある万引き夫の組み合わせだ。最後に分かる息子の翔太すら、松戸のパチンコ店から連れ出した子という設定なのである。偏見、と言われるかも知れないが、これは通常は有り得ない異常な設定だ。この彼らが傷を舐め合うように、仲良く幸せに暮らしている・・・なんてことは、普通に考えるならあり得ないでしょう。

だから私は、本当の家族とは、と問題提起したように見えるが、実は実際にはあり得ない、非常に作為的な家族で提起している、と感じてしまう。 その日暮らしで、過去に大きな傷を持っている者同士が、しかも万引きという犯罪を重ねる家族なのに、果たしてあんな風に思いやり合え、優しく睦みあえるものだろうか。それはちょっとしたブラック・ジョークである。または、いつか壊れることが分かっている、その直前の全員による思い出作り家族ごっこなのかも知れない。これは映画でしかつくれない、超ユートピア物語に見える。

 

真の家族って何だろう?を描こうとした是枝監督の意図はわかるものの、どうしても世の中のあらゆる悲惨なパターン、それあぶり出したような無理の作り過ぎ、その不自然さが拭いきれない。 ただし秀逸な場面がある。発覚後、この家族の虚構が警察の取り調べによって、一枚一枚剥がされていく。誘拐、殺人、死体遺棄・・・が、主演の妻役の安藤さくらが、刑事に問いかけられて答えに詰まって泣くシーンがある。台本にない、意図的なぶっつけ撮影らしい。これに見事に対応しての演技力に感嘆した。この安藤のシーンだけでも、この映画を観る価値があると思った。

 

 

 

ケパ

 

 

 

 

 

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ピーターラビットの映画

2018年05月18日 | 映画•映像
今日からこの映画を観ることができるようになった。つまり私たちは初日を待っていたわけである。

ビアトリクス・ポターのこの絵本は、娘たちへの贈り物として買ったのが三十数年前。このような小さな絵本セットで、絵も装丁もかなり凝っていた。たちまち子ども達はこの絵本のファンになった。懐かしい絵本だ。

映画は私が読んだのとかなり異なる展開で、ピーターがリーダーとして、マグレガーさんの跡継ぎとしてやって来た甥っ子と、しっちゃかめっちゃか戦うシーンが笑えた。
しかしいくら何でも、うさぎ退治にダイナマイトみたいな爆弾を投げまくるとか、最後にはピーターが起爆装置を押してピーターたちの家のある大木を爆発で倒壊させる・・・など、これはちょっとあり得なさ過ぎ、やり過ぎの感がした。「あり得ない」シーンを連発して笑いを取ればいいって言うものではないような。この映画は、作者のビアトリクスらしさ、愛らしい動物物語とは異なる世界だ。
しかしまあ、単純におかしくておかしくて、近年になく私は笑ってしまったけど。

【うさぎで想い出した閑話休題】
(1)どこの学校にも飼育小屋があって、うさぎを飼うのがほとんどだと思うが、職務上飼っていた者として、私はうさぎが苦手だった。かわいい生き物だが基本、土の中で住んでいる。またあの繁殖力は脅威である。手をこまねいていると、5、6匹ぐらいだったのが、すぐさま地面が見えなくなるほどうさぎだらけになる。それで困った教頭先生がうさぎをこっそり埋めてしまい、結局、自分が処分される事件も起こった。

(2)広島県に大久野島という島があって、元は旧軍の毒ガス製造の秘密基地があった島だ。そのため意図的に無人島にされた島で、戦後は野外活動などで使う国民宿舎ぐらいしかなかったのに、今ではうさぎ島として有名である。島中、うさぎである。というか、うさぎのフンを踏まずに歩くことができない。経緯を聞くと、ただ単に天敵が居なくて、何らかの理由で捨てられたうさぎがここまで爆発的に増えたとのことだった。パイ肉にするマグレガーさんも、島にはいなかったようだ。

ケパ



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きらきら眼鏡〜船橋の自主制作映画

2018年04月21日 | 映画•映像
船橋の作家の作品を元に、全国ヒットを狙う映画ができ、この秋にもリリースされるらしい。題して本の題名通りの「きらきら眼鏡」。

そのポスターがオフィスの近くにある料理店の窓に貼ってあった。気になったのは、そのコピーだ。
「自分の人生を愛せないと嘆くなら、
愛せるように自分が生きるしかない。」

???、意味不明の内容である。基本、コピーというものは一瞬で人々に理解させ、訴えるものでなければならない。これはその逆手を行ったものか?

まともに受け取れば、「自分が描き、願った通りの人生として歩めていない=挫折しかかっている現実の自分がいて、欲求不満で『こんなはずじゃなかった、嫌だっ』とわめいてもしかたがない。これでもマアマアの人生だと、到達水準を下げて身の程わきまえて生きるしかないでしょう?」、と受け取れる。

まぁしかし、これは健全な精神過程である。「青年よ、大志を抱け」と言われても、高校野球のように優勝はほんの一握りの人しか居ず、ほとんどの人は成功はできないのが現実である。どこかで現実を受け容れ、妥協しなければならない。

問題は現実を知ることにある。スポーツをする人は、常に勝敗という結果があるので、嫌でも己の力量を知らされる。つまり正しい自分の力を、勝敗という結果でわかることでもある。だから個人的な体験として、スポーツマンには、精神を病んでいる人が少ないと感じる。

全くの独断だが、精神を病むとは、自分の真の姿が、おそらくは霊的に偽られ、混乱させられている状態の人なのかも知れない。映画のコピー風に言えば、現実の自分を愛せないわけである。だから、愛せないには愛せない理由があり、その理由を一つ一つ困難だが、解いて行くしかない。しかしそれは、非常に困難な作業である。

ところがすごい解決の道を私は知っている。
イエス・キリストという、かつて人となってこの世に来た神が居た。このイエス様はこう私たちに言っている。
"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"(マタイの福音書 11章28節)

この神の子という超絶対的な存在が、十字架にかかってまで私たちを徹頭徹尾愛してくださった。今は天に居てとりなしてくださるこの方は、つたなく愚かで、哀れなこの私を安心して任せることができ、どこまでも受け容れてくださり、慰めてくださる。その時私は、こんな私で良かった、そう心から思える。イエスの愛の中で私は私を受け入れ、愛することができた。
私は私から解放され、自分を受け容れることができ、癒やされたのだ。

あなたも如何ですか?



ケパ




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