ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

きらきら眼鏡〜船橋の自主制作映画

2018年04月21日 | 映画•映像
船橋の作家の作品を元に、全国ヒットを狙う映画ができ、この秋にもリリースされるらしい。題して本の題名通りの「きらきら眼鏡」。

そのポスターがオフィスの近くにある料理店の窓に貼ってあった。気になったのは、そのコピーだ。
「自分の人生を愛せないと嘆くなら、
愛せるように自分が生きるしかない。」

???、意味不明の内容である。基本、コピーというものは一瞬で人々に理解させ、訴えるものでなければならない。これはその逆手を行ったものか?

まともに受け取れば、「自分が描き、願った通りの人生として歩めていない=挫折しかかっている現実の自分がいて、欲求不満で『こんなはずじゃなかった、嫌だっ』とわめいてもしかたがない。これでもマアマアの人生だと、到達水準を下げて身の程わきまえて生きるしかないでしょう?」、と受け取れる。

まぁしかし、これは健全な精神過程である。「青年よ、大志を抱け」と言われても、高校野球のように優勝はほんの一握りの人しか居ず、ほとんどの人は成功はできないのが現実である。どこかで現実を受け容れ、妥協しなければならない。

問題は現実を知ることにある。スポーツをする人は、常に勝敗という結果があるので、嫌でも己の力量を知らされる。つまり正しい自分の力を、勝敗という結果でわかることでもある。だから個人的な体験として、スポーツマンには、精神を病んでいる人が少ないと感じる。

全くの独断だが、精神を病むとは、自分の真の姿が、おそらくは霊的に偽られ、混乱させられている状態の人なのかも知れない。映画のコピー風に言えば、現実の自分を愛せないわけである。だから、愛せないには愛せない理由があり、その理由を一つ一つ困難だが、解いて行くしかない。しかしそれは、非常に困難な作業である。

ところがすごい解決の道を私は知っている。
イエス・キリストという、かつて人となってこの世に来た神が居た。このイエス様はこう私たちに言っている。
"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"(マタイの福音書 11章28節)

この神の子という超絶対的な存在が、十字架にかかってまで私たちを徹頭徹尾愛してくださった。今は天に居てとりなしてくださるこの方は、つたなく愚かで、哀れなこの私を安心して任せることができ、どこまでも受け容れてくださり、慰めてくださる。その時私は、こんな私で良かった、そう心から思える。イエスの愛の中で私は私を受け入れ、愛することができた。
私は私から解放され、自分を受け容れることができ、癒やされたのだ。

あなたも如何ですか?



ケパ




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