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歴史模擬授業(第26回 大正時代①第一次世界大戦)②-6 大正デモクラシー  

2010年12月26日 12時16分48秒 | 歴史☆模擬授業

歴史模擬授業26回 大正時代です。大正デモクラシー・普通選挙・関東大震災

詳細は12月23日の記事①をご覧ください。

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「では、今日は第一次世界大戦後の日本の状況を見ていきましょう。

で、その前に、明治の終わりのころに、国会が開設されたところから、日本の政治を見ていきましょう。」

「あ、そういえば、国会開設以降、日清・日露戦争~第一次世界大戦と、外交のことばかりやって

内部の政治の歴史を習ってなかったね。」

「事件をそのまま順番に覚えうだけでなく、国内の政治・外交などに分類して理解しているのはエライね!」

「えへへ。」

「国会が開設されて、議会を中心とする政治は始まったけど、いぜんとして政府は

、薩摩や長州などの一部の出身者によって成り立っていました。

だから、明治の終わりから大正時代にかけて、

もっと、国民中心の民主主義の政治を!という声が高まりました。」

「そうだよね。

 だって、帝国議会の衆議院の議員は選挙で一般市民から選ばれるけど、それだって選挙権に制限が

あったもんね。」

「直接国税15円以上納める満25歳以上の男子だったね。」

「しかも政府(内閣)のトップである内閣総理大臣は、一般市民の意見を参考には選ばれていなかった。

だから、選挙で多く選ばれた人が属している政党の人が押す人を内閣総理大臣にしてしまえば、

間接的に国民の意見は反映されることになるでしょ。これこそ民主主義でしょ。」

「あ、たしかに。ロシア革命のときに民主主義についても習ったからわかるよ。」

「なので、そのときの政府に対して国民や政党が批判するようになった。

 憲法で述べている内容と、現在政府がしていることは違うじゃないか!

 憲法では民主主義の内容が述べられているんだから、政府は憲法に基づいて政治しろ!とね。

このように憲法に基づく政治(立憲政治)を守ろうと主張した運動のことを、

護憲運動(ごけんうんどう)と言います。」

「憲法を護って(まもって)ほしいと求める運動だから、護憲運動という名なのね。」

「そうそう!言葉の意味をしっかり考えているね!

 この護憲運動を起こしていた人には、尾崎行雄(おざきゆきお)や犬養毅(いぬかいつよし)などがいます。

 尾崎行雄は、護憲運動および次に出てくる普通選挙・政党政治の確立に努めたので「憲法の神様」と

呼ばれることで有名です。

 犬養毅は昭和時代でまた出てくるので、そのときにね。」

「はい。」

「また、護憲運動をしている時期に、吉野作造(よしのさくぞう)は、

民本主義という、国民に主権を、つまり民主主義を唱えてた。

さらに、政治の方法も、一定年齢に達すれば、お金があろうとなかろうと、

だれでも選挙権を無条件で得られるという普通選挙を実施し、そ

れによって、選挙で選ばれた議員が入っている政党から

内閣総理大臣や政府を動かす人々を選ぶべきだ、ということを主張しました。

このようなことを主張する運動を

普通選挙運動と言います。」

「ほえー。」

このように、護憲運動や普通選挙運動など、より民主主義の政治を目指そうとする(明治末期から)大正時代の社会の風潮を大正デモクラシーと言います。

ちなみにデモクラシーとは民主主義のことです。」

「ここらへんて、民主主義のことがわからないと意味がわからないね・・。

 だから、ロシア革命のときに、先生は民主主義についても説明したんだね。」

「そういうことね。ここらへんは、小学生の政治国際や中学の公民などを習うとわかりやすいわよ。」

「はい。歴史って地理も公民(政治国際)の知識もないとなかなか理解できない、総合的な科目なんだね。」

「そうなのよね。地理も公民(政治国際)も経験しないと理解できないものも多いから、

 すっごくむずかしいものなの。大人になると余計感じたんだけど、社会って、すっごく奥が深く、難しい。」

「だよね。」

「だから、簡単、丸暗記科目だと、馬鹿にする人たちは、社会の根本がわかっていないんだろう、な

 と思うことがある。逆に、生徒で、「社会が理解できない!」「むずかしい!」と言ってくる子は、

 「おまえは社会の能力があるぞ!」といつも、ほめるようにしています。

 「むずかしい」と思うってことは、それだけ理解しよう、社会の根本を考えようとしている姿勢のあらわれだから。

 よく先生たちは「簡単だがや。」と生徒を馬鹿にして終わる人もいて、

せっかく芽を出しかけた生徒の社会の力を伸ばせない状況になってしまい・・。

私は少しでも、芽を出した生徒を伸ばしていきたいな~と思っています。」

「ほえー。難しいと思う=馬鹿、ではないんだね!難しいと思う=成長する始まり、なんだね。」

「そういうこと。もちろん、努力はして成長はするので、その努力は必要用不可欠だけどね。。」

 

「ではでは、話を元にもどします。

大正デモクラシーの風潮は、多くの人々に広がっていきます。

民主主義の根本には「自由」「平等」の精神があります。

だから、当時は、差別されていたり、不当な労働を強いられていたりする社会的弱者たちが、

「自由」と真の「平等」を求めて、行動するようになります

どのように行動するかというと、同じ身分の人たちが団結して、同盟が結社などのグループをつくり、

世の中に訴えるというやり方。」

「そんなんだ。」

「たとえば、労働者は、労働争議(ろうどうそうぎ)というのをつくり、

そのあとで労働者たちで同盟を結び、戦った。

日本は資本主義だから、どうしても社長(会社)の力が強い。

でも、労働者だって人間だ!

だから、あまりに無理難題をつきつけた労働条件(たとえば、安い賃金で、

ご飯もあたれらず、一日中、命の危険な仕事をさせれる、とか。)に対しては労働者だって

抗議という形で戦おう!とする。その戦い方は、労働争議という労働者たちであつまって会議をします。

そして、団結して、労働条件の向上を訴えようとしたの。

1920年には、労働者が集まって決起をした、メーデーが行われ、翌年、日本労働総同盟という、今で言う

労働組合がつくられました。」

「そうなんだ。」

「また。農業の中でとりわけ苦しかったのは小作人。

自分の土地を持たず、土地を持っている地主の言うことをきかなきゃいけないから。」

「会社でいうと、地主さんが社長、小作人が労働者って感じなんだね。」

「地主さんが良い人の場合だったら、それでかまわないけど、

地主さんの中には小作人にとって安い賃金で、

厳しいことをさせるだってある。

それって、「人間みな平等なのに、なんで虫けらみたいな扱われ方をしなきゃいけないんだ!?

弱い身分なら弱い身分なりに戦おうではないか?!」と小作人はおもうようになります。

それで、小作争議というものを起こしたり、神戸では日本農民組合の結成大会を開いたりと、

全国の農民の団結を目指しました。」

「労働者が労働争議を開き、農民は小作争議などを開いて、 団結してがんばるようになったんだね。」 

「そういうことね。ではでは、次。

まだ、当時差別されていた身分があるよね・・。選挙権がまったくない人々。」

「えーと・・・女性?」

「そう、女性。この大正デモクラシーで、「女性」だって「人間」だ!男女平等を目指そう、という風潮

が高まりました!」

「おおおおおお!」

「そこで、女性の地位の向上をめざす運動がおこった。

そのときの中心人物は、平塚らいてふ(ひらつかたいちょう、と読む。平塚雷鳥とも書く)や、市川房枝(いちかわふさえ)。

平塚たちは、青踏社(せいとうしゃ)という結社をつくりました。

この青踏社の宣言が良く出るので覚えておきましょう。

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性はである。」と。」

「?」

「太陽って自ら輝くでしょ。でも、月って太陽と言う別のものからの光で輝いているでしょ。」

「あ・・ということは、女性は昔は自ら輝いていたけど、今は他の人からの光でしか輝けない。」

「つまり、この時期の女性は男性によってしか輝けなくなった、ってことだね!」

「そういうこと。つまり、女性の個性は認めらなく、とにかく男性に従えば良い。

相手の男性の評価が、そのまま妻や娘の評価になる。

そんなのおかしいでしょ!人はそれぞれ違うんだから!」

「そうだよね!」

「だから、この最初の言葉は、

本気で女性が「1人の人間」として社会に羽ばたこうとする強い気持ちが感じられるの。」

「ほえー。」

「でも、当時はなかなか受け入れられなくって、なかなか女性は社会に受け入れられなかった。」

「今でも、女性差別は残っているもんね・・。」

「また、もう1つ、差別されていた人々がいた。それは、「(ぶらく)」と言われていた人々。

彼らは江戸時代に、「えた」「」という士農工商の身分にさえ入れてもらえなかった、身分。

彼らの身分は、明治時代の解放令でなくなったんだけど、依然、差別されていた。

だから、大正デモクラシーで真の「平等」を求めて、

1922年で京都に全国(ぜんこくすいへいしゃ)をつくり、

運動をおこしました。」

「大正デモクラシーというのは、政治では憲法に基づいた普通選挙による政党政治を、

民衆はそれぞれの身分(地位)に応じて、真の「平等」を目指して、頑張っていった時代なんだね。」

「そうなの。だから、私はこの時代を勉強するよ勇気をもらえる。

いまは、差別されていても馬鹿にされても、真の「平等」と「自由」を求め、がんばろう!と思えるの。」

「ほえー。」

 

「はい、では、次は大正デモクラシーによって政治に大きな動きが見られます。

そこをやりましょう。

ではではここでちょっと復習。第一次世界大戦で好景気になったんだよね。」

「そうそう。今日はそこからいきます。(つまり第一次世界大戦中のものからになる。)

 第一次世界大戦で日本は好景気が続いていく。

で、好景気のときは、みんながどんどん物を買うし、高くても売れちゃうので、

 物価が値上げる傾向にあるんだよね。で、そんな矢先に、ロシアで1917年に・・。」

「あ、ロシア革命がおこった!」

「そうしたら、日本はどうしたっけ?」

「連合国といっしょにシベリア出兵をした!」

「よく覚えているね。そのシベリア出兵を見越して、米商人や地主たちが米の買い占めをしたの。

そうしたら、世間で売っている米が少なくなるでしょ。それで米の値段が急激にあがった。」

「米は生活に欠かせないものだから、あまり値段があがると辛いよね。」

「でしょ。なので、それで、米の値段を引き下げろ!と、

1918年7月に富山県魚津の主婦たちが、

米の県外への積み出しを実力でとめて、米の安売りを求める事件がおこったの。」

「主婦たちが!?強い!」

この事件をきっかけに、全国で、米の安売りを求めて、激しい行動をおこす事件がたくさんおこったの。

 その事件を総称して、米騒動と言います。」

「そうだったんだ・・・。」

「で、この米騒動をきっかけとして、日本の民主主義は発展したのです。」

「え?どんなつながりが・・?!」

「この米騒動は、約50日続いて、労働者や差別に苦しむ人々も多数参加するように

なって、かなり大規模なものになった。それで、軍隊が出動して米騒動をしずめた。

しかし、このようなやり方をした内閣は多くの国民の批判にあって、当時の

寺内内閣は倒れたの(寺内正毅(てらうちまさたけ)が内閣総理大臣を辞めた)。」

「そうだったんだ。」

「それで大正デモクラシーの中で主張されていた1つ、普通選挙による政党政治が実現していくの。

まず政党政治

日本で最初の本格的な政党内閣(議会で多数を占める政党員から内閣が組織される)ができます。

そのときの内閣総理大臣が、立憲政友会という政党の総裁(トップ)の原敬(はらたかし)。

原敬率いる内閣では、ほとんど立憲政友会から選ばれたの。

このように政党内閣によって行われるような政治形態の政党政治と言います。」

「ほえー。」

「そのあと、1925年に、ついに普通選挙が実現するの。

当時の内閣総理大臣は、加藤高明(かとうたかあき)。

普通選挙法が定めれ、

選挙権は、納税額に関係なく、満25歳以上の男子、に与えられたんだ。」

「おー、一定の年齢に達すれば、日本人の男性なら誰でも選挙権が持てたんだね。」

「納税額に関係ないので、普通選挙、という名称なのです。

この時期の選挙権の条件もよく入試に出るので覚えておきましょう。」

「でも、まだ女性には選挙権はないんだね・・。」

「そうなのよね。平塚らいてふ達ががんばっていたときもあったけど、

まだまだ女性差別は続いていたということなんだよね。

だからまだまだ、真の「平等」な民主主義には遠いね・・。

でも、まあ、ひとまず納税額に関係なく政治に参加できるようになったのは大きな第一歩だから。」

「はい。」

「ただ、普通選挙法同じ年に、治安維持法(ちあんいじほう)という「自由」「平等」とは間逆の法律も

政府が定めます。」

「?」

「全員の男性が選挙権を得るということは、

 社会主義者の人々(男性)も選挙権を持っているということだよね。

 社会主義というのはロシア革命で話したけど、労働者に主権を与えたものだから、

 日本でも、社会主義になる人物も多かったの。

 しかし、資本主義を良しとする日本政府からしたら社会主義者は困る存在。

 なにせ、日本でも社会主義革命がおこったりでもしたら自分たちは失脚する。」

「たしかに・・。」

「だから、選挙をして、社会主義者が議員の多数を握るのを防ぐという意味合いもあって、

治安維持法を制定し、社会運動を取り締まったの。

現在の政治を改革しようとしたりする運動などを取り締まって、資本主義の日本を維持しようとしたのよ。」

「そうだったんだ・・。でも社会主義者そのものが悪いものじゃのにね・・。」

「よく入試で、「普通選挙法と同時期に定まった法律は何か、答えよ。」という問題がでるので、

普通選挙法と治安維持法はセットで覚えましょう。」

「はい。」

「あと、よく勘違いして覚える子がいるので、確認しておくね。

 米騒動をきっかけとして実現したのは、

 1918年の原敬による日本で最初の本格的な政党内閣および、政党政治。

 で、何年かたった、1925年には加藤高明内閣によって、普通選挙が成りたつ。

 その際に、普通選挙法と治安維持法が定めれます。

 

 よく、普通選挙法まで原敬のころだと思う子がいるので気をつけて。

 実は、原敬は普通選挙が実現する前の1921年に東京駅南口で暗殺されてしまっています。」

「そうだったんだ・・。」

 

「また、第一次世界大戦が終わったあとは、ヨーロッパの国々の産業も回復してきたため、

日本が輸出する量がすくなり、日本は不景気になった。」

「戦争という特殊な状態のときを利用して日本はお金をもうけていたから、戦争が終われば、

もうけれなくなるものね・・。」

「そのため、銀行や会社、工場が次々に倒産する。また、先ほど話した米騒動で社会も混乱している。

 ・・そのような状態のときに、日本に大打撃を与える災害がおこった。」

「え?」

「それが、1923年9月1日関東大震災。」

「大きな地震が!」

「そう、地震で建物は、壊れるし、地震に伴う火事で焼けてしまったり、

多くの死者を出してしまう。住みかを失ってしまう人や、

工場や会社が壊れ、会社運営だってできないところだってある。」

「地震はすべてを破壊するおそろしいものだもね・・。」

「しかも、おこった場所が、政治・経済の中心地の関東地方。だから、打撃もすっごく大きい。」

「・・・。」

「で、このような災害のときに、人々って精神的に不安になって、

デマやうわさに流されて、過激な行動をしてしまう傾向があるの。(全員ではないけど)。

そんなときに、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる、とか、社会主義者が暴動をおこそうとしている、

というデタラメなうわさが流れ、そのデマにだまされて、

日本の軍隊や警察が多くの朝鮮人や、社会主義者などが捕えられたり殺害されるという悲劇もおこった。

実際に朝鮮人や社会主義者はそんな計画たててないのにだよ!」

「震災ってのは、起こった後も落ち着いて行動しなきゃいけないんだよね。」

「そう。だからこれは謝っても謝ってもつぐないきれない罪だよね。

二度とそのようにうわさによる悲劇がおきないよう、

今後、もしかして私たちは大きな震災にみまわれることもあるかもしれない。

 でも、そのときに、うわさに流されて過剰防衛(相手を必要以上に攻撃する)をしたりしないで、

 落ち着いて行動しようね。」

「はい!」

「関東大震災のような多くの悲劇を今後もたらさないように、

現在は、関東大震災がおこった9月1日を「防災の日」の日として防災訓練をする日になっています。」

「学校でも夏休み明けの始業式の日に行うね!あれは、関東大震災がおこった日だったんだ。」

「ではでは今日はここまで。上の資料のまとめもみてみて。(ただし、これは私独自のまとめ方なので

それをご了承のうえご覧ください。)

今度は大正時代のまとめ、文化を行いますね。」

「はい!」

 

ーーーーーーー

 

世界の国々の関係は、あくまでイメージであり、それが絶対ではありません。

各個人で当てはめたり、差別的な見解でみないようお願いいたします。

また私は社会主義を批判しているわけではありません。

 

また、 わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

 



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