社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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自分が小学生の時、勉強苦手だった理由 その1

2024年06月27日 09時14分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。


長い間、同じ教科を教えたりしていると
いつのまにか、
「できなかったことは覚えているけど
そのとき感じた感情の記憶」
が薄れてきてしまっています。


でも、新たに教えてなかった教科、や、
学校のテストとは直接関係ない内容を
調べる時などに

昔の自分の辛かった思い出などが
思い出すことも。

それについて、お話したいと思います。



私は小学生のとき、
勉強は苦手でした。


みんなが簡単にできることが
すぐにできなかったんです。

先生に教えられた解き方のとおり
解けば、すぐに解けるようなものも
解けなかった。

そのためもあって、
小学5年生と小学6年生のときに
いじめにあいました。   


もちろん、「勉強不得手」という
理由だけでいじめられたわけでは
ありません。


ただ、
多くの人が「できない」部分が
「できない」のなら、

それは「いじめ」には
繋がらないことは多いです。


なぜなら、イジメというのは、
いじめられる子が「少数派」だから、
おこりやすいんだと。

(あくまで、「多い」という話です。)


私は
多くの人が
「すぐにできる」ことが
できなく、
それで、
同級生から馬鹿にされました。

さらに
先生からも
「なんで、他の子はできているのに
お前はできないのか?!」
と怒られ、それでもできないので
先生のいじめの標的になりました

先生からしても、私という存在のせいで
自身の先生としての自己肯定感が
下がったのでしょう。
だから、いじめることで
優位性を示したかったのだろう、と。


でも、それを「教師」がする、
というのが、未だに私は許せないです。

 
そして、勉強関係だけでなく
他の要因も重なり
同級生と先生からのいじめを
受けたのでした。


 
未だに、そのいじめの時期のことを
思い出すだけで
身体が冷たくなり動かなくなることも
多々あります。
それだけトラウマです。

このとき
「勉強できなかったときの感情」は
「勉強嫌い」とはならず

勉強したいのに
みんなが私が
勉強してはいけないと言う

私が勉強できないから、
みんなが私から
勉強を
取り上げようとしている
という、恐怖感でした。


この感情って、被害妄想に見えるかも?と
思います。

被害妄想と思われてもしょうがない、と
思うけれど、
実際によく言われたのは

同級生からは
「おまえは、知恵お◯れ(差別用語)。
だから、勉強しても、どうせ、意味ないよ!」
とか、
先生からは
「そんなに勉強嫌なら、もう授業は受けるな!」など。


これに対しては、私を馬鹿にしたいから、
とか、
先生としては「教室から追い出されたくなければ勉強がんばれ!」の意味で
相手は言ったのかもしれないのは
今だと思うことはあります。
 
でも、同時に、
同級生は差別用語を使っていること、
先生は今だと「虐待」と言われる可能性の
指導をしている、
とも感じます。


なので、相手は私から勉強を奪おうと
していたか?は関係なく、
相手が、不適切な発言はしてたのは
確かです。





今から考えれば私が
小学校のときに
周りから「勉強不得手」と
判断されたこととか
皆と同じにできない」のは
発達障害ASDの起因によるもの
だとは思います。
 

当時は「発達障害」「ASD」の
概念もなかったうえに

基本的に
「子供の行動」は、すべて「母親」の責任、
そして、
「ちえ◯くれ」など差別用語を言っても、
それは言ったほうより、
言われたほうが悪い、という風潮でした。


今から考えたら、なんて理不尽、地獄!!


今は、心療内科も充実し
「発達障害」「ASD」の理解も多くなり
少しは生きやすくなったかな?と思います。

そう、思いますが・・・

1つ気になることはあります。

今でも「発達障害」だと
「小学校で、同級生が簡単に解けるもの、
覚えるものもできないから、中学校は
もっとできないだろう。」と見られて
まうことがあるなー、と感じます。



発達障害だから勉強不得手
なのでなく

発達障害なのに
定型発達者向けの勉強方法で
やっているから勉強不得手
である可能性もあるのでは?
と思うことも多々あります。


(ただ、逆に「ASDは天才」という
一部のASDの人達だけの状況を 
あたかもすべてのASDの子に
当てはめる人もいたりすることも。

天才というのは、一握りの人だから
天才なわけで、
ASDの子が仮にすべて天才なら
もう、それは「天才」という用語を
改めなければいけません。)


ASDでも、勉強が得意、不得意な子、
どちらもいます。


勉強が得意か否か?は
定型発達者、発達障害者とは
直接、関係ない、

勉強関係なら別の理由で
得手、不得手が分かれると思います。

IQは1つの目安ではありますが
IQだって、人間が定めた1つの指針に
すぎなくて、人間って、まだ発見されない
何かの指針で、もしかしたら、さまざまな
得手不得手を図れるかもしれないので、
「IQが低いから勉強が絶対に出来ない」
とは言えないです。
逆に「IQが高いから、小さい頃から
テストで満点ばかり」でもないですし。




私がもし、

小学校のときに
「発達障害」と診断され
「発達障害だから勉強なんかより
身の回りのことをできれば良い。
そして、自分のことを助けてくれる人に
感謝する心を持ちなさない」と
勉強することを取り上げられたら
それも怖いな、と。
(ただ、自分の小学生の時の
差別地獄よりは良いですが。)




私は小学校の勉強は不得手なまま
卒業しましたが、
中学生になって、
自分に合う勉強のやり方で
母に教えられるように、
そうしたら勉強が出来るようになりました。

学校の先生の授業は
家で自習したり
母の家庭教師の授業を受けたりしないと
やはりわかりづらかった。


学校の先生の言うようなやり方では
勉強できないままだったでしょう。

中学生のときは、母にがっつり勉強を
教えてもらいましたが、
高校からは学校のテストは
自分だけの自習で乗り切りました。
(受験対策は、予備校で)


中学生のときに、母に教えられたというと、「自立できない駄目な子と束縛母」と
思われるので、あまり公言はしません。


でも、今から考えれば、母は
「最初から勉強が得意なASD」タイプ
だったから、「ASDの勉強方法」を
教えてくれたんですよね。

それが、私には一大転換期!

親に頼る恥ずかしさ、より、
勉強を絶対に手放したくない!
という気持ちが当時、強かったのです。


そして、高校からの勉強のほうが
楽でした。

もちろん、高校は内容は難しい。

でもね、ストレスがなかったんです。

だって、先生が「やり方の押しつけ」を
しなかったし、テストで点数が悪かろうが、授業で答えられなくても、人格否定をされることはなかったし、
なんといっても、「勉強するのは当たり前」の世界だったから、勉強放棄を促す先生も同級生も存在しない、という安心感があったから。




私は中学→高校、と学力をあげて、
やっと、本格的に自分に確実に合った
勉強方法を確立したのは大学のとき。

大学では、別に勉強方法を教えてくれた
わけではありません。大学なんで。

でも、「この内容の世界は、
こう見るんだよ」と
いう立ち位置を教えてくれました。

そのときに
私が小学生の時から
そういう立ち位置で見たかった。 
いや、見たかった、ではない、
見てたんだ

本来は昔から、そういう感じで見てたけど
それがいけないと、小学校のいじめの頃から
思い込んでた。
でも、学校の先生がそういう視点で
見ようとすると、怒ったり馬鹿にする。
習った内容をすぐにできないと、
いじめられるから、
私は、そこに立って世界を見なくなった。
自分の世界が怖くなったんだ。
と。

それからは、塾や家庭教師のバイトでの
事前準備で
小学生の時、そして、中学、高校のときに、否定してた、自分が本来にしたかった
勉強方法で小学校の勉強、中学、高校の勉強をやりなおしました。


そのやり方を生徒さんに教えると

正反対の反応に。


「先生のおかげで、めちゃくちゃ勉強あがった!」という反応の生徒さんと

「そんなことより、テストで点数を
とれる授業にしてよ!」という反応の生徒さんに

2極化しました。


その時は理由はわからず、で
状況に応じて、授業形式を使い分ける形に
しました。


こちらのブログでは
自分が本来したかった授業にしてますが
仕事だと、違うやり方をすることは
多々あります。


話がズレてきてしまったので
話を元に戻します。


何を言いたいか?というと

「勉強ができない」という理由が
「周りとの差」だけだったら
本当は勉強ができないわけではないかも
しれない、ということを言いたいのです。


とくに「習得スピード」の差。

でも、そういうと、
「定型発達者は速く、発達障害者は遅い」
という意味とは違うんです。


「習得」とは、何種類もあって、
定型発達者の方は、a習得→b習得→c習得、
という順番でやると、最終的なD習得ができ、それができて初めて、次の段階の
d習得→e習得・・・といくことができるけれど、
発達障害者の場合、
c習得→e習得の内容を知る→a習得→b習得→D習得
などになることもあるのです。


小学校ではD習得さえできればよくて、
その第一段階がa習得だから、
aができなければ、先に進ませない。

それで、順番を入れ替えればaは
習得できる、でも、順番入れ替えを
先生が禁止するからできない。

そうなると、最終的にD習得はできない。

それで、
「発達障害者は定型発達者よりも
勉強できない」になるのでは?と。


なので、勉強が不得手かどうか?は
小学生の時は結論をくだすのは危ないと
思います。
私は高校で世界史を習ってからの
ほうが日本史を理解できたので
高校3年生のときか、
大学入学後に
勉強不得手かの
最終的な結論でも良いかも?


・・・というか、そもそも、

「勉強不得手だから勉強しちゃいけない」

「勉強不得手だから、
勉強がストレスだろう

と当事者じゃない人が決断下すこと
そもそもが危険なんですよね。


本人が勉強不得手で
「勉強内容が嫌いだから」で
勉強捨てるのはアリだけど。

また、もし当事者が決めかねる場合は、

「一度勉強の世界から離れる」ことを
してから、もう一度勉強の世界に戻るか、 決めるのもあるかな?と。

小学生の時までは、本人の判断だけでなく
保護者の方の判断も必要だと思いますので。
(さすがに小学生だけで判断を決めるのは危険。)

「勉強不得手だから、得意なことで
大人を安心させないと捨てられる」と
思ってしまい、勉強捨てちゃうのは
その子がもしかしたら勉強を好きになる機会がなくなっちゃうかも?と。




話が長々となってしまったので
続きをまた別記事でアップいたしますね。