きょは、ジャン・フィリップ・ラモーを聴いていた。
フランスの作曲家で、1764年に没している。
フランスは、ラヴェルやドビュッシーが出現するまで
音楽不毛の国などと言われた。
ラモーがいるじゃないか。驚くべき前衛。
... 甘い旋律であるのに、それをパルスで散らかして
こわしていく。クラヴサン曲集の中には、現代に
通じるアヴァンギャルドが胎動している。
ぼくは、マルク・ミンコフスキーが管弦楽でやった
CDで、ラモーを再発見した。それを
クラヴサンで聴き直したり、好きなピアニスト
ニコライ・ペトロフの鍵盤音で聴き直したりした。
これは、音楽の正統が未分化であったころの
暴く音楽なのではないかと、驚いた。
そのあと、試みに、ダリウス・ミヨーのチェロ協奏曲
を聴いてみた。ラモーから径庭一世紀以上。
ラモーの伝えに忠実でもあった。ミヨーもまた
エリック・ドルフィーの甘美な浪漫に似て
アヴァンギャルドでもある。泣きなのに泣かずに
暴いていく。爆、していく。そんなフランスの
やくざな音楽なのだなあと感じた。
そして、ラモーの肖像画を見る。
なるほど、ちょっとパンク。
ああ、ちょっとだけ、、ドルフィのヨーロッパライブを挿んで聴いていました。
冒頭、甘美なフルート。彼のバスクラ奏法の根本は、フルートの奏法に培われていたと思った。
アルトは、割と正統でもある。バスクラ(バスクラリネットね)では、現代音楽を意識したのだろうけど、見事のジャズの傘を着ていた。その意味でも、パーカーの嫡子。
★
西洋の歴史音楽を傍観したときに、
バッハ、モーツァルトそしてベートーベン、ブルックナー、マーラーの山脈は巨大です。
その山脈の頂には、ベートーベンのラストソナタが、びりびり鳴り響いているように思えます。
ベートーベンの交響曲でよく思うのは、1番から8番まで完璧な、ポップ性を追求して、ある程度彼の中で満足していたようなのです。
それが9番合唱で、破たんします。「やっちゃった」て感じで。
その分、彼の近代いや、現代は、後期弦楽四重奏や
ピアノソナタの狂気で補完されていたのですね。
すごいマッケッターでありマネジャーです。この優れた点は、ブラームスにいたっては、ただコンサバティブ、つまり真面目にふりもどされていい加減に溶解してしまいます。
ブルックナーもマーラーもシェーンベルクもだめでした。
案外、ひたひたとベートーベン的に行使していたのは、メシアンなのかもしれません。
その意味では、フランスで、ある種気骨として出現してきたのは、
メシアンといってもいいかもしれません。
フランスの作曲家で、1764年に没している。
フランスは、ラヴェルやドビュッシーが出現するまで
音楽不毛の国などと言われた。
ラモーがいるじゃないか。驚くべき前衛。
... 甘い旋律であるのに、それをパルスで散らかして
こわしていく。クラヴサン曲集の中には、現代に
通じるアヴァンギャルドが胎動している。
ぼくは、マルク・ミンコフスキーが管弦楽でやった
CDで、ラモーを再発見した。それを
クラヴサンで聴き直したり、好きなピアニスト
ニコライ・ペトロフの鍵盤音で聴き直したりした。
これは、音楽の正統が未分化であったころの
暴く音楽なのではないかと、驚いた。
そのあと、試みに、ダリウス・ミヨーのチェロ協奏曲
を聴いてみた。ラモーから径庭一世紀以上。
ラモーの伝えに忠実でもあった。ミヨーもまた
エリック・ドルフィーの甘美な浪漫に似て
アヴァンギャルドでもある。泣きなのに泣かずに
暴いていく。爆、していく。そんなフランスの
やくざな音楽なのだなあと感じた。
そして、ラモーの肖像画を見る。
なるほど、ちょっとパンク。
ああ、ちょっとだけ、、ドルフィのヨーロッパライブを挿んで聴いていました。
冒頭、甘美なフルート。彼のバスクラ奏法の根本は、フルートの奏法に培われていたと思った。
アルトは、割と正統でもある。バスクラ(バスクラリネットね)では、現代音楽を意識したのだろうけど、見事のジャズの傘を着ていた。その意味でも、パーカーの嫡子。
★
西洋の歴史音楽を傍観したときに、
バッハ、モーツァルトそしてベートーベン、ブルックナー、マーラーの山脈は巨大です。
その山脈の頂には、ベートーベンのラストソナタが、びりびり鳴り響いているように思えます。
ベートーベンの交響曲でよく思うのは、1番から8番まで完璧な、ポップ性を追求して、ある程度彼の中で満足していたようなのです。
それが9番合唱で、破たんします。「やっちゃった」て感じで。
その分、彼の近代いや、現代は、後期弦楽四重奏や
ピアノソナタの狂気で補完されていたのですね。
すごいマッケッターでありマネジャーです。この優れた点は、ブラームスにいたっては、ただコンサバティブ、つまり真面目にふりもどされていい加減に溶解してしまいます。
ブルックナーもマーラーもシェーンベルクもだめでした。
案外、ひたひたとベートーベン的に行使していたのは、メシアンなのかもしれません。
その意味では、フランスで、ある種気骨として出現してきたのは、
メシアンといってもいいかもしれません。