野口英世博士の転職は、焼けどをした左手の治療をしてくれた渡部鼎医師が経営する会陽医院に始まり、黄熱病の研究に没頭したロックフェラー医学研究所に至るまで、6度にわたりました。しかも、その全てが、小林栄、渡部鼎、北里柴三郎、血脇守之助、フレクスナー博士(写真)といった素晴らしい恩師のひとかたならぬ尽力により実現したものでした。野口博士がどれほどの支援をそれぞれの恩師から受けたのかは割愛します。ただ、博士が恩師に対してどのような思いで接しておられたのか、推測できるコメントが残っていますのでご紹介します。それは、苦学生時代から何度も彼の苦境を救ってくれた血脇守之助氏(後の初代日本歯科医師会会長)に向けられたものでした。
「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいかしれません。」
(写真/内閣府hpより 博士のコメント/wikipediaより)