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1日1冊108円・・・・・・最近そうでもない。

役立たずの哲学 菱沼孝幸 2008年11月1日 文芸社ビジュアルアート

2015-05-08 08:57:12 | 108円
役に立たないこと=人に大切なこと
役に立つことのみを重視する考え方は、本来の人のあり方からすれば異質。
人間の経済活動において効率ばかりを優先してきた結果が、今の深刻な社会現象や自然環境の破壊につながっているのだから――。
「役立たず」「無駄」とは何かを考える。
帯より。
白状すると、「紳士の言い逃れ」「ツチヤの軽はずみ」的な本かと思って手に取った。
ごめんなさい、真面目な本でした。


はじめに

 役に立たないことこそが、人間にとって真に貴重なことなのではないだろうか。むしろ、役に立つことのみを重視する考え方こそが、本来の人間のあり方からすれば異質なのではないか。この本は、そんな問題意識から書いたものである。
『真に』『本来の』・・・なるほどな。


第一章 学問

『学問のすヽめ』

 私は歴史の教師だが、生徒たちから「昔のことなんか勉強したって、何の役にも立たないじゃないですか」と、よくいわれる。役に立つかどうかが、すべての価値の基準になっているようである。
『教師にしても生徒にしても、即時的に役に立つことにしか学問の意味を見出していない』と続くんだけど、上記の『よくいわれる』ことに著者がどう回答しているかは書いてない。現状を嘆くだけ。
ここは「私はこう答えている。~」(どやぁ)だろうが!
アンタの授業がツマンネ」って言われていることを分かれよ!舐められすぎだろ!



前尾繁三郎

 前尾にとっての学問は、決して役に立つものではなかった。むしろ、自己に不利益な結果をもたらすものであったといえる。なまじ学問や教養があるために、頑なに理念や筋道にこだわり、小器用に立ち回ることができなかった。学問には、役に立つことばかりではなく、自己に不利益をもたらすという側面もあるようだ。あるいは、それが学問の本質なのかもしれない。
『教養人らしく』『頑固に筋を貫くところがあった』が故に、結果として『総理総裁候補としての政治生命』が終わった政治家・前尾繁三郎氏の話。(参考:Wikipedia)
「派閥議員に対する面倒見がよくない」「政治献金をした人に礼を言わない」「約束を破られたことに抗議しない」・・・教養があるからこその問題なんかね。『学問や教養があること』は柔軟性を失うことと引き換えなのか・・・?
学問を実際に役立てることができなかった人のように見える。



高貴な生と凡俗な生
スペインの哲学者オルテガの主張からの考察。
曰く、『環境に無理じいされるのでなければ、決して自分以外のものに目をむけることはない』のが『大衆人』『凡俗な生』で、『つねに自分を超克し』『現在の自分よりも自分を高めていこうとしている』のが『高貴な生』らしい。
 こうした状況が典型的に現れているのが、現代の日本ではないだろうか。試験のためということにしか学問の意味を見出せない者が多いのではないだろうか。学校で半ば強制的に与えられた知識を受容するだけで、自ら積極的に学ぼうとする姿勢が乏しいのではないだろうか。自分に満足し、自分を高めようとしないのだから、読書をしない者も増えてくる。読書をしたとしても娯楽のための読書であって、自分を高めるための読書ではなく、さらに高いレベルの本に進もうとはしない。結果的には、学力の低下が問題になっているのが現状である。
ちょーっと待って、今菱沼さんがいいこと言った!
読書をしたとしても娯楽のための読書であって、自分を高めるための読書ではなく、さらに高いレベルの本に進もうとはしない。
実に困った傾向ですナー。
しかしどういう本が『高いレベルの本』なのかという問題が立ち塞がる。
発行部数?でも売れてる本は「大衆人」にウケた本じゃねぇ?


 学問とは、決して役に立つことばかりではない。むしろ、学問をすることで自分に不利益になることもある。学問によって人格を高めようとする人、学問によって真理を追究しようとする人、純粋に学問に情熱を傾ける人、学問をしたことによって義務感や責任感を強める人にとっては、学問や教養は自分に不利益なものとして作用するだろう。しかし、学問とは本来そうしたものだという共通理解が、教える側にも学ぶ側にも必要とされているのではないだろうか。役に立つことしか学問に求めない態度は、学問をする意味、学問の真の喜びを見失わせてしまうだろう。実学重視の日本の教育のあり方こそが、今日における学力の低下、学校の荒廃の一因となっているのではないだろうか。
第一章締め。
問題提起と考察で終わった。「だからこうしようず」は無いのねー。



第二章 経済と道徳

鈴木久五郎

 若くして大金を獲得した点、有力企業を買収しようとした点、金があれば何でもできると考えていた点など、鈴木久五郎と堀江貴文氏はよく似ていると思う。歴史を学ぶことに何らかの世間的な効用があるとすれば、過去の出来事を教訓とすることによって表面的な現象に惑わされなくなるということであろう。
こういうのを生徒に話せばいいのにねー?

ただ『堀江氏が再び時代の寵児として復活することはないであろう。』と書いてるけど、逮捕から10年近くたった今も消えてはいない。\(^o^)/経験者として、さらに10年後には並ではない会社を運営していると予想してみる。
「やらかした若者が復活するのは無理」ってのは老害思考だよなぁ・・・。



利に惑ふはすぐれて愚かなり

 私は、財産や利益を否定するものではない。ただ、利に惑っての手段を選ばぬ金儲け第一主義や、みせびらかしのための俗悪な消費を不道徳と考えるのである。こうした考えは生徒たちにも伝えていきたいと思っている。しかし、それはおそらく生徒たちにとっては何の役にも立たないことであり、社会生活を送る上では不利になることなのであろう。
第二章締め。
『伝えていきたいと思っている』という割に諦めが感じられる文章だな・・・。
やる前から諦めんなよ!



第三章 品格

『二百十日』と『彼岸過迄』

 人付き合いがうまいということは、処世の術に長けているということである。しかし、処世の術に長けている実利的人間に品格を感じることはできない。むしろ、処世の才を剥き出しにする人間は、下品な印象を与えるであろう。
『下品な印象を与える』人間を『人付き合いがうまい』人間とは言わないだろjk。


無用の用

 世間的・世俗的な利害得失を超越し、世間的・世俗的な価値を低く見る生き方は、世俗の塵にまみれた人間にとっては奇異で美しいものに感じられる。そうした奇異な美しさこそが、品格の高さなのではないだろうか。
第三章締め。
『奇異なもの』には美しさより恐怖を感じる人の方が多いんじゃないか・・・?



なんとなく素人っぽいというか、ブログで読めそうな文章。
読み終わってから著者のプロフィール見たら「出身」「現職」「検定何級」。
文章の雰囲気(≠良し悪し)も、プロとアマでは違うんだなぁ・・・。

そして「素人っぽさ」より気になったのは、全体通して嘆きと諦めが感じられること。
「○○故に××ではないだろうか」(まぁどうにもならないだろうけど・・・)。
ほとんどこんな感じだから、「hmhm」止まりで「wktk」が無かった。

どうも数日前の(自主規制)系の本を読んだ時とはイラつきの種類が違うように思う。「バカスwww」でも「ふざけんなksg」でもなくて、「諦めんなよ!・・・諦めんなよ・・・」って感じ。哀しいか。
落ち込んでるときに読むと引きずられるかもしれない要注意本。



1時間遅く始業・・・お、思ってません!「どうせなら今日も休みでええじゃないか」なんて思ってませんから!
明らかに読書速度も記事の作成速度も落ちたから、この6連休はあまり嬉しくなかったかもしれない。6日間でやったことは本棚を組み立てただけ・・・だと・・・。


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