世の中は95%の凡人と5%の支配層で構成されている。が、5%のために世の中はあるわけではない。平凡な人々の日々の営みが社会であり経済なのだ。しかし、その社会には支配層が流す「若さこそ価値がある」「友情は無欲なものだ」といったさまざまな"嘘"が"常識"としてまかり通っている。嘘を見抜けるかどうかで僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる。自由で平凡な人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。裏表紙より。
ズバッといきそうな感じがする!
第一章 オヤジ論――オヤジになることは愉しい・・・『デマゴギー』?
若さに価値などない
この世界には、いつの間にか僕らがすっかり信じ込まされたデマゴギーが飛び交っている。例えば、「若さにはかけがえのない価値がある」という言説だ。
(参考:デマゴギー【(ドイツ)Demagogie】の意味-国語辞書-goo辞書
⇒デマあー「デマ」の語源なんだー。
hmhmなるほどなー・・・んだってー!?
無意味に消費する若者たち著者は例としてファッションを挙げる。
ではなぜそんなデマが流布されるようになったのか。何の目的があって、そんなデマで若者をだまそうとするのだろうか。結論から先に言うと、それは「若さは価値」という考えが、ある種の経済効果を生み出すからだ。
曰く、若者は『単なる消費者に堕している』ことに気づかずに『大量生産品』を『得意気に身にまとっている』が、『オヤジたちはそんな無駄なものに金を使わない』『若者をだまして、経済効果を狙っている方である』。
ところが若者の目には、ダサい格好をしたオヤジたちが腐って見える。「ああいうふうにはなりたくない」と思う。自分たちの個性と信じているものの正体が実は、その軽蔑するオヤジたちが功名に仕掛けたものだったとも気づかずに、である。若者は「これが無いと時代に乗り遅れちゃうぞ☆(まぁ俺らはこんなの要らんけどな)」という連中に乗せられている・・・!
だからあえて言おう、ユニクロこそ最強であると!
世間にはびこるデマゴギー・・・またズバッときよった・・・!
専門学校というシステムがあるが、あれはシステム自体が虚飾だと、僕は思っている。
看護師や保育師は『業界側に受け入れ態勢が整っている』とした上で、映画のような『小さな業界』については『アルバイトでもして、実地で学んでいくほうが手っ取り早いはずだ』と述べる。
映画監督である著者がそう言うなら、少なくとも映画関係はそうなんだろう。
だったら映画の専門学校は何のために存在しているのん?
だが、専門学校にニーズはあると思う。それは、専門学校に通う生徒ではなく、その親、つまりオヤジ側のニーズである。へぇ?
例えばこんなケースだ。本当は、高校を出たら子供に地元で就職してほしいと願っている親がいる。だが、子供の方は映画監督になるなどと夢を見ている。本気で監督になりたいのであれば、どんな手段を使ってでも業界入りすることは可能なはずなのに、どうもそれほどの熱意はなさそうだ。かといって「お前には才能も熱意もない。とっとと就職しろ」と強制したら、反発して家を出るかもしれない。・・・はっ!?い、いかん!すぐに引き返せ!
そこで登場するのが専門学校だ。どうせろくに勉強などしないはずだし、そのうち熱も冷めて帰ってくるだろう。二年くらい子供に夢を見させてやってもいいか、といった具合だ。
「親が自分の夢を理解してくれた」と思っている専門学校の生徒は今すぐブラウザバック、いやAlt+F4だ!何をしとるフォックス、早く!
だが、通っている子供の方は、こんな親心のために叶わぬ夢を抱き続けることになる。映画専門学校に入ったのだから、映画監督になれるかもしれないといった自己幻想の中でもがくことになるのだ。しかも、世間では「若さは無限の可能性」などと言われる。だから、若さを持っている自分には可能性がある、と思い込むことになる。映画専門学校という大人の理屈で成り立つ虚飾の中で、「若さの可能性」に翻弄され、自分の本質を見失ったまま、ほんとうは可能性などない「可能性」にしがみつく。そして夢破れて故郷に帰る。若者たちの思いを置き去りにして、学校運営というシステムと経済行為だけが肥大し、親と学校の共謀による幻影を子供たちは見せられているだけではないのか。GYAAAAA!!!
・・・確か.hackの小説で、ほくとの「中の人」が似たようなことを独白してた。小説を書きたくて専門学校に入ったけど、何年かして専門学校は「生徒をその気にさせておくだけの場所」だと気付いたとかなんとか。どこにやったかなぁ。
だから、僕が若者に言えるのは、「今の自分は何者でもないし、平凡な人間なのだ」とまずは気がつくことが重要だということだ。本来の意味の可能性はむしろ、そう気づいたところから始まる。映画専門学校を出れば映画監督になれるかもしれないといった漠然とした幻想ではなく、本当に自分がやりたいことを見据え、そのために今自分がやるべきことは何かを見定めることから、やり直すべきなのだ。「専門学校に行けば何とかなる」と考えるのは、「漠然と大学へ進学する」のと大して変わらない訳か・・・うむむ・・・。
オヤジを目指して生き抜け「いきぬき」で「息抜き」が最初に出た。
若者たちは自分の若さに何の価値もないと知っても、絶望することはない。若さそのものには価値がないとしても、無知な若者が一日一日と年を重ねて、この世界で生き抜き、やがては一人前のオヤジになっていくことには、かけがえのない価値があるからだ。
もっと休めということかーいやー仕方ないなー。
第二章 自由論――不自由は愉しい『結婚』『子供』『両親』と挙げて、不自由とは『他人の人生を抱え込むこと』との結論に至る。
他人の人生を抱え込むことは不自由か
自由とは不自由の反対である。だから、「自由は何か」を考える時、とりあえず「不自由とは何か」を先に考えると、都合がよさそうだ。不自由とは何か、を考えてみよう。
ひとりで生きることは本当に自由かフゥー!!
さて、だいたい不自由の正体が分かった。だから自由とはその反対ということになる。結婚はしない。子供も持たない。親の面倒などもってのほか。たったひとりで生きていくことが最高の自由。自由ほど価値のあるものは人間世界には存在しない。つまり孤独こそが、この世の最高の価値だ。
最高に「ハイ!」ってやつだアアアアア
ひとつの結論が出たが、もちろんこの結論は間違っている。「青春は価値」というデマゴーグの歴史は古いが、「ひとりでいることが最高の自由」という言説は、最近になって流行し始めたデマのひとつである。なん・・・だと・・・。
前章でも述べた通り、若さには「価値」がない。しかし、それはあくまで社会から若者一般を見た場合の「価値」である。もし、ひとりの若者に恋人がいたとすれば、その恋人から見た場合、彼、もしくは彼女には限りない「価値」がある。親から見た時、子に価値がないはずはない。前章では個々人の「価値」について述べたつもりはない。/(^o^)\
逆に言うと、たったひとりで、誰とも関わりを持たずに生きようとする若者がいたとすれば、その人間は社会的にも、そして個人としても価値がないということになる。
続いて「猿の子孫である我々」とか「ごろ寝のオヤジ」とか「分身の術」とか、まぁいろいろあってからの~
動機を持たない人間は自由ではない逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃ・・・ダメだッ!
ここまで論を進めると、この章の冒頭で自由と呼んだものと、今ここで言っている自由とは、少し意味が違ってきていることに気がつかれるだろう。自由とは状態のことではない、と述べたが、自由とは常に「動機」とセットになっている言葉なのである。
ある人間が何かをしたいと望む。それがどのくらい自在にできるかどうかが、自由と不自由の分かれ目なのである。何もしたくない人間や社会とのつながりを放棄した人間に、そもそも自由はない。他人と関わりたくない。だから他人から逃げる。これを自由とは呼べないことは、ここまで読み進んだ読者にはお分かりいただけると思う。
すり寄る子犬を抱きかかえよこいつは大変だ!
あなたは何も捨てていないようで、実は大きなものを捨てている。少なくとも、何も選択しないうちは、何も始まらない。何も始めないうちは、何も始まらないのだ。
子犬は単なるたとえ話であって、これは人生のあらゆる局面に言える真実だ。もっといい女の子が現れるかもしれないと、いつまでも彼女を作らないようでは、いつまでも彼女は作れないし、いつまでも結婚できない。いつまでも結婚しなければ、いつまでも子供が生まれない。
今すぐ粘土を買いに行かないと!
他者を選び取り、受け入れることが人生「見方を変える=味方を変える」、なんつって。
つまり、人生とは常に何かを選択し続けることであり、そうすることで初めて豊かさを増していくものであって、選択から逃げているうちは、何も始まらないのだ。このことは後の章でも見方を変えて論じることになると思うが、要は選択する、つまり外部のモノを自分の内部に取り込むことを拒絶してはダメだということだ。
他者をいつまでも排除し、自分の殻の中にだけ閉じこもっていては、本当の自由を得られないことはすでに述べた。結果的に結婚していようがいまいが、そんなことはどうでもいいことだ。ただ、「いつだって結婚くらいはしてやる」「他人の人生を背負い込むことぐらいはできる」という気概を持って生きていなければならないということなのだ。熱くなるべきところなんだろうけど・・・どうやらボクは重傷らしいな。
全7章。2章までで文字数4000超え、今の俺にはとても1日でまとめられない。明日も読み直して続きを書こうそうしよう。
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