発見記録

フランスの歴史と文学

グルニエ「ピアフとコクトーが・・・た日」Le jour où Piaf et Cocteau...

2006-08-20 10:02:43 | インポート

写真 Paris-Match 1963年10月19日号 (ebay.fr)

ピアフとコクトーが同じ日に亡くなったのは、グルニエ『別れの時』の短篇Le jour où Piaf et Cocteau...を読むまで知らなかった。

新聞社に勤める「私」は10月11日朝、電話の音で目を覚ます。

?Qu-as tu fait de la nécro de Piaf ? Parce que, cette fois, elle est morte pour de bon.? (ピアフの死亡記事はどうした?今度は本当に亡くなったんだからな)

ピアフは公演の最中に倒れたこともあり、ツアーにはもしもの時に備え記者が派遣されるほど、死亡記事はすでに用意されていた。何度も書き直され、地層のように複数の記者の文体を認めることができた。

語り手の仕事はrewriterで、記者reporterたちの文章に最終的に手を入れる。グルニエ自身、France Soir紙のrewriterだった。

超多忙で、編集室にクロード・プレヴァルClaude Prévalが現れたのも気づかずにいた。クロードは戦前から美貌の女性ジャーナリストとして知られた。レズビアンで、ワグナーの縁者に当たるドイツ人歌手と同棲。今は酒浸りで社内でも「早く言えば、ほされていた」(Bref, elle était au placard.)
夕方、コクトーの死の報せ。ピアフ=コクトー追悼特集のため、詩人と知己だったクロードが記事を任される。コクトーのインタビュー記録を元にするはずだった。しかし真夜中になって、クロードは悪びれるでもなく何も書けていない、インタビューは失くしてしまったと言う。

波乱の多い、どこかはらはらさせるする人物の人生を語り手が付かず離れず見守り、時には窮地を救う。このパターンは今度の短編集の「オスカルの娘」La fille d’Oscarにも見られる。
逸話に富み、光と影の対照が鮮やかで、伝説化にふさわしい人間と、彼らの生を記憶し記録する者。

ピアフは10月10日、南仏グラスGrasseに近い村プラスカシエPlasscassierで亡くなり、死が公表されたのが11日だという。パリで死にたいと望んだ彼女の遺体は、夜の間にブールヴァール・ランヌLannes(16区)のアパルトマンに運ばれ、翌日医師による死亡認定が行なわれた。11 octobre 1963 - La France pleure le même jour la disparition de
Jean Cocteau et Édith Piaf (Hérodote.net)


最新の画像もっと見る