発見記録

フランスの歴史と文学

ヴィオレット・ノジエール、メグレ警視と出会う

2006-11-29 17:07:03 | インポート

デスノス、犯罪、連想でヴィオレット・ノジエールViolette Nozière(1915-1966)が思い浮かぶ。
18歳の時、ガス自殺に見せかけ両親の殺害を謀る。父親は死亡、母は命を取りとめた。ブルトンは彼女に捧げる詩(人文書院版集成 4)を書いた。シュルレアリストたちの詩や絵を集めたViolette Nozière(Ed.Nicolas Flamel, Bruxelles, 1933)まである。

裁判の終わりに母親が慈悲を願ったにも関わらず、ヴィオレットは死刑を宣告される。しかしフランスでは1887年のJeanne Thomas〔不詳、夫と共に自らの母を殺害〕以来、女性が実際にギロチンにかけられる例はなかった(トマは死刑台でヒステリー状態に陥って倒れ、執行人は髪を掴んで引っ張らなければならなかったという)。
1934年クリスマス、ルブラン大統領の恩赦でヴィオレットの刑は無期懲役に減じられる。
The French Have a Way... With Murder By Edward S. Sullivan (Police Detective magazine Vol. 7, No. 4, August 1953)
http://www.trussel.com/maig/noziere.htm

ヴィオレットの画像はと検索すると、シャブロル監督の映画Violette Nozière(1978)絡みが多い。
イザベル・ユペールは同監督の『主婦マリーがしたこと』Une affaire des femmes(1988)でも主演している。
「主婦マリー」のモデル、Marie-Louise Giraudは1903年生まれ。「労働・家族・祖国」がスローガンのヴィシー政権時代、違法であった堕胎を数多く行ない、密告を受ける。死刑は1943年7月30日に執行された。
フランスで女性が死刑になった最後の例として有名だが、実際にはその後もLucienne Fournier(1947年12月11日)Germaine Laloy(1949年4月21日)が死刑に処された。(Le Monde記事 L'affaire Marie-Louise Giraud " Assassin de la patrie "
04.09.88 )

犯罪実話"The French Have a Way... With Murder"は検索で見つけたが、スティーヴ・トラッセル氏のサイトにある。それも道理で、ヴィオレットを尋問するのがメグレ警視のモデル(の一人)とも目されるギヨーム刑事 Inspector Marcel Guillaumeなのだ。

Paris-Matchの記事「蘇ったメグレ」Maigret réssuscitéの写真で、マグリットの紳士のような山高帽、口髭の人物。この記事は昨年、マルセル・ギヨームの回想をまとめた"Mes Grandes Enquêtes criminelles. Mémoires"の出版を機に書かれた。


デスノス『切り裂きジャック』(2) ジョゼフ・ヴァシェ

2006-11-26 20:34:00 | インポート

デスノスは1923年Eugène MerleのParis-Soir紙に出納係として入社、後に記者となる。(年譜

メルルはシムノンとも関わりのある人、複数の新聞、雑誌を創立した。
Paris-Matinalへのデスノスの寄稿は1927年7月から翌年2月まで。

千葉文夫『ファントマ幻想 30年代パリのメディアと芸術家たち』 (青土社)がいくら探しても出てこない。デスノスの犯罪読み物にも、文脈を与えてくれるはずなのに。

『切り裂きジャック』収録の記事連載は、1928年1月29日に始まる。サン・ドニで女性のばらばら殺人が起き、猟奇的犯罪に注目が集まる中での企画。英国の「切り裂きジャック」と、フランスの連続殺人者ジョゼフ・ヴァシェを対にしていた。
イゼール県ボーフォール(地図)で農家の子として生まれたJoseph Vacher(1869-1898)は暴行と殺人を繰り返しギロチンにかけられた。野宿か農家の納屋で眠り、物乞いをしながら各地を転々、犯行を重ねる放浪者。

大家族(兄弟姉妹が15人)、神秘家的な熱い信仰を持つ母、マリスト修道会での下働きと教育、リヨンで接したアナーキズム思想、軍隊で受けたいじめ。それらはヴァシェの人間形成にどの程度影響しただろう。
リヨン出身のベルトラン・タヴェルニエ監督によるLe Juge et l'Assasin(1976)はヴァシェをモデルにした。(Wikipédiatueurenserie.orgの各記事による)

「フランスの切り裂きジャック」とも呼ばれたというが、日本人にもおなじみのご本家とは、知名度に差があるようだ。英国の連続殺人者が伝説化されたのは、残虐さや犠牲者の数だけでなく、「謎」の要素、霧のロンドン、ヴィクトリア朝のアンダーワールド、といった道具立てによるところが大きいのではないか。犯人が「仮面の紳士」と決まったわけではないが、何よりそれは「想像の英国」にぴったりとはまる犯罪なのだ。


ロベール・デスノス『切り裂きジャック』

2006-11-24 22:14:55 | インポート

伝説の殺人犯のモンタージュ
 「切り裂きジャック」で英警察(東京新聞)

Jack the Ripper's face 'revealed' (BBC NEWS)

犯罪捜査のエキスパートの言葉からは、かなり正確な犯人像を描けるとの自信が伝わってくる。
ルネ・レウヴァンRené ReouvenがAlbert Davidson名義で書き「ミステリ批評家賞」le Prix Mystère de la Critiqueを受賞した?Élémentaire, mon cher Holmes...?(Denoël, 1982)も、この事件を題材にしていた。

Desnos_1 ロベール・デスノスの?Jack l’Eventreur ?(Allia, 1997) は、1928年、デスノスが大衆紙Paris-Matinalに連載した記事をまとめたもの。40年前ロンドンで起きた連続殺人を物語るが、犠牲者を11名とする。一例を除き女性たちの名前までは挙げない。
Wikipediaは被害者を1888年8月31日の メアリ・アン・ニコルズに始まる5名(確実に切り裂きジャックの犯行とされる)と、フェアリー・フェイ (1887年12月26日に殺害)以下の「推定」被害者に区分する。

連載途中で、デスノスはW.W.と署名された速達郵便を受け取る。
切り裂きジャックの正体を知る人物W.W.は、匿名厳守を条件に会って話そうと言う。

「読み物」には違いないが、徐々に虚実が判然としなくなる。Paris-Matinalの記事には切り裂きジャックの恋人による肖像デッサンが添えられていた。青年は横顔で、はっとさせる繊細な顔立ち。頭は剃り、額は広く、長くて真っ直ぐな鼻。上唇は薄く、下唇はより厚い。顎が出て、喉仏も飛び出している。全体として、ダリの描いた「想像のロートレアモン」()を思わせるという(刊行者の注)

デスノスはこの頃、アンドレ・ブルトンとは距離を置きだしていた。ただ「驚異」 le merveilleux 「途方もない偶然の一致」 coïncidences extraordinaires など、言葉遣いにははっきりとシュルレアリスムの匂い。切り裂きジャックは一人の優雅な「ダンディ」である。都市、犯罪、悪の英雄、19世紀以来のある嗜好が、この文章にも継承されている。 


青年フローベール(?)の肖像

2006-11-23 15:19:36 | インポート

ピエール・アスリーヌのブログ(Madame Bovary, c'est lui ?)でも取り上げられていたフローベール(?)の肖像写真()、11月18日に競売にかけられたはず。
オークション会社Artcurialのサイト http://www.auction.fr/cp/artcurial/で「結果」résultats を覗く。 Anonyme - Portrait de Gustave Flaubert, circa 1846  Estimé : 40 000 / 60 000 ?となっているが、落札価格がない。買い手がつかなかったのか。

パリで発見されたダゲレオタイプを、アメリカの詩人で写真の批評・研究者John Woodが買う。ウッドは?Flaubert, Love, and Photography?(The Southern Review, March,1994)で、1846年にルイズ・コレが彼女の肖像画を送ったのに応え、フローベールもこの写真を撮らせたとの説を。後ろに見えるのはルイズ・コレの肖像画の一部ということになる。

フローベールは1821年生まれ。1845年頃とされる素描(Desandré〔不詳〕作)がある。
これまで知られた肖像写真は1860年代初め以降のもの、1850年エジプトでマクシム・デュ・カンが撮ったものは遠距離からで、顔立ちが問題の写真と似ている・いないを言うのはむずかしい(Yvan Leclercルーアン大学教授)
真偽について懐疑的なジュリアン・バーンズの論点は、(1)とても25歳とは思えない禿の進み具合(2)顔がほっそりしすぎ(3)事実そんな風に撮影された写真なら、フローベールはどこかで、何らかの形で言及しているはずだ(4)フローベールは写真嫌いで知られ、デュ・カンにもわざわざ遠くから撮らせた(5)写真の出所・来歴、所有者とルイズ・コレとの関わりがはっきりしない。ウッドは上記の文で15年ほど前、パリで見つかったとしか書いていない。

(Un portrait controversé de Gustave Flaubert LE MONDE | 30.10.06 )
http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0,36-829035,0.html


ル・クレジオ『アフリカのひと―父の肖像』

2006-11-17 19:57:12 | インポート

ル・クレジオ『アフリカのひと―父の肖像』(菅野昭正訳 集英社)には、父ラウルが医師として赴いたアフリカで撮った写真が収められている。
しかし父の肖像写真は一枚もない。

代わりに、言葉によるいわば「書かれた写真」がある。英領ギアナへ船で旅立った頃の父について、「この時代の数少ない父の写真には、スポーツマンふうの身ごなし、品のよい着こなし、三つ揃いのスーツの上着、固いカラーのワイシャツ、ネクタイ、チョッキ、黒革の靴の、逞しい男が見える」(p.67)

ポート・ハーコートの埠頭で、ル・クレジオの前に、それまで見たどんな男たちにも似ていない「異邦人」として現れる父も、埃だらけの「黒革の靴」を履いている。「父は厳しく、無口だった」(p.120-121)

『アフリカのひと』L'Africainを第一巻とする叢書は、?Traits et portraits?と題された。
「線」「筆致」「顔立ち」「特徴」、様々な訳語が当てられる?traits?の集まりが、肖像を生む。バルザックはムッシュー・ゴリオの目鼻だち、衣服(「ヤグルマギクのような薄青地の燕尾服」)を、念入りに描いてみせた。(『ペール・ゴリオ』鹿島茂訳 藤原書店)
ゴリオの癖(戸棚(アルモワール)を「下層民ふうに」オルモワールと発音する)、ラウルの話しかた(「フランス語で話すと、モーリシャス島の歌うような調子になり、・・・」)、それらの細部が一人の人間の像を浮かび上がらす。この点はバルザックでもル・クレジオでも変わりがない。
違うのは何か。下宿屋に越してきたゴリオを、ヴォケール夫人は「カササギのような鋭い目」で観察する。「・・・ゴリオの肉づきのいい出っ張ったふくらはぎも、また長くて四角の鼻も、この未亡人が高く評価する実直な性格を物語っているように感じられた。なによりも、愚直で間の抜けた丸顔がそれを証明していた。これこそ、精神はすべて感情でしか表現しえない体格頑丈なけだものに相違なかった」
確信に満ちた観相学者として、夫人は鼻の形や丸顔がある「性格」を物語ることを疑わない。体をパーツに分解し、一つ一つを読みとく。
観相学的素描は、時にはグロテスクな戯画に似る。ヴォケール夫人の「顔はといえば、年寄りじみた丸ぽちゃで、その真ん中からオウムの嘴のような鼻が・・・」

『アフリカのひと』は、父の顔を語らない。いや「父は厳しく、無口だった」から、私は確かにある表情を思い描く。それで十分ではないか。

「アフリカ、それは顔よりは身体だった。感覚の激しさ、欲望の激しさ、季節の激しさ」(p.19-20)とル・クレジオは書く。
「私はこの顔を嫌っていたのではないけれど、それを無視し、避けていた」(p.13)、鏡と写真を忌避する傾向があったと言う彼にとって、アフリカは顔の消滅する、「身体の王国」(p.22)だった。

母の姿が印象的なロジェ・グルニエの?Andrélie?にも、彼女が老いて後の写真はない。