Jean-Yves Le Naour The Living Unknown Soldier (Arrow Books)
英訳本。原題 は?Le soldat inconnu vivant?
1935年、?L’Intransigeant?紙に連載された記事は、第一次世界大戦中に記憶を失い、いまだ身元の知れない男の物語だった。1918年2月1日、リヨンのブロトー駅をさまよっているところを見つけられたという。たどたどしく口にした名から、仮にアンテルム・マンジャンAnthelme Manginと呼ばれた男は、早発性痴呆dementia praecoxと診断され、ロデス(ロデーズ)の精神病院には16年以上いた。記憶を取り戻すことのないまま、1942年パリのサン・タンヌ病院で息を引き取る。
記事の「さまよっていた」は正確でなかった。ドイツから、同様に精神に異常をきたした捕虜たちと共に送還されたのだ。著者ル・ナウルは真偽ないまぜの新聞記事、またバルザック『シャベール大佐』やアヌイ『荷物のない旅行者』(1937年初演)などの文学作品を挙げ、「生きた無名戦士」をめぐる物語の形成過程をたどる。
第一次世界大戦が終わった時点で、行方不明のフランス軍兵士は30万人以上いた。捕虜の帰還と遺体捜索が進むにつれ不明者の数は減って行く。だが塹壕戦の死者を捜すのは、容易でなかった。本書が引く「祖国のために死んだ息子の父母の会」会報の数字では、1919年から39年までにおよそ7万人の遺体が発掘された。
第一次世界大戦は「砲弾(シェル)ショック」と呼ばれる戦争神経症の患者を生んだ。記憶を喪失した兵士も、アンテルム・マンジャン一人ではなかった。挿絵として収められた?Le Petit Parisien?紙の広告には、マンジャンら6名の顔写真に収容先、身体の特徴などが付記される。マンジャンの場合が特異なのは、わが子、わが夫だと信じる家族が続々と現われたことだ。しかしマンジャンは誰と会ってもほとんど反応を見せない。そもそも意思の疎通が困難な状態だった。ロデスの病院施設は前近代的で、開放病棟も設置されていなかったが、マンジャンは特別待遇、快適で風通しの良い個室を与えられた。いわば有名人であり、結核の初期で治療が必要だったからだ。
一人の人間を、何組もの家族が奪い合う。争いは法廷に持ち込まれる。最終的には、有力候補であるピエールとジョゼフ、モンジョワンMonjoin父子(ジョゼフの兄オクターヴは1914年にドイツの捕虜となり、16年以後音信を絶っていた)に、マンジャンが夫マルセルだと信じるリュシー・ルメーLucie Lemayを始め、それぞれに強い確信を持った数家族が挑む構図となった。
オクターヴ・モンジョワンは捕虜収容所でやはり早発性痴呆の診断を受け、1918年1月31日、捕虜を帰還させる列車に乗車した。ドイツの資料でこのことが確認され、オクターヴ・モンジョワンとアンテルム・マンジャンの同一を疑う余地はなくなった。1937年11月にはロデス裁判所がこれを認める。ルメー夫人らは、判決を不服としてモンペリエ控訴院に訴えるが1939年3月敗訴。しかし同年にはモンジョワン父子ともに亡くなってしまう。破棄院での審理は開戦により中断。
出生率減少を憂うフランスでは、ナチス・ドイツのように精神障害者の強制不妊手術や抹殺こそ計画されなかったが、戦時の配給制の下、精神病院の患者は十分に食糧が与えられず飢えに苦しんだ。患者がゴミを漁るような状況で、自発的に食事を取ろうとさえしないマンジャンが生き延びることは難しかった。衰弱死したマンジャンはパリの郊外バニュー墓地の共同墓穴に葬られる。憤りの声も上がり、1948年になって故郷サン=モールSaint-Maur-sur-Indreの墓地に、オクターヴ・モンジョワンとして埋葬された。
マンジャンの運命は、裁判以後忘れ去られて行った。終章で著者はそのわけを考える。まず謎が解けたことで、世間の興味が薄らいだ。だが忘却には、より深い意味がある。凱旋門下の「無名戦士の墓」に眠る兵士は、名前も家族もないことで、すべての死者を象徴し得た。名前を持ったマンジャンは「生きている無名戦士」のステイタスを喪失したのだ。
フランスにとって第一次世界大戦の勝利はあまりにも苦いものだった。おびただしい数の死者に対して繰り返される儀礼。喪失と衰退と、帰還しなかった者への深い負い目の感覚は、長く尾を引いた。1918年の英雄が死んだ兵士だとすれば、1944年の「解放」で始まる新たな時代には、雄々しく野蛮と戦い勝利したレジスタンスの闘士、生きた英雄が求められていた。