発見記録

フランスの歴史と文学

生きている無名戦士

2008-03-31 06:46:35 | インポート

Unknownsoldier Jean-Yves Le Naour The Living Unknown Soldier (Arrow Books)

英訳本。原題 は?Le soldat inconnu vivant?

1935年、?L’Intransigeant?紙に連載された記事は、第一次世界大戦中に記憶を失い、いまだ身元の知れない男の物語だった。1918年2月1日、リヨンのブロトー駅をさまよっているところを見つけられたという。たどたどしく口にした名から、仮にアンテルム・マンジャンAnthelme Manginと呼ばれた男は、早発性痴呆dementia praecoxと診断され、ロデス(ロデーズ)の精神病院には16年以上いた。記憶を取り戻すことのないまま、1942年パリのサン・タンヌ病院で息を引き取る。

記事の「さまよっていた」は正確でなかった。ドイツから、同様に精神に異常をきたした捕虜たちと共に送還されたのだ。著者ル・ナウルは真偽ないまぜの新聞記事、またバルザック『シャベール大佐』やアヌイ『荷物のない旅行者』(1937年初演)などの文学作品を挙げ、「生きた無名戦士」をめぐる物語の形成過程をたどる。

第一次世界大戦が終わった時点で、行方不明のフランス軍兵士は30万人以上いた。捕虜の帰還と遺体捜索が進むにつれ不明者の数は減って行く。だが塹壕戦の死者を捜すのは、容易でなかった。本書が引く「祖国のために死んだ息子の父母の会」会報の数字では、1919年から39年までにおよそ7万人の遺体が発掘された。

第一次世界大戦は「砲弾(シェル)ショック」と呼ばれる戦争神経症の患者を生んだ。記憶を喪失した兵士も、アンテルム・マンジャン一人ではなかった。挿絵として収められた?Le Petit Parisien?紙の広告には、マンジャンら6名の顔写真に収容先、身体の特徴などが付記される。マンジャンの場合が特異なのは、わが子、わが夫だと信じる家族が続々と現われたことだ。しかしマンジャンは誰と会ってもほとんど反応を見せない。そもそも意思の疎通が困難な状態だった。ロデスの病院施設は前近代的で、開放病棟も設置されていなかったが、マンジャンは特別待遇、快適で風通しの良い個室を与えられた。いわば有名人であり、結核の初期で治療が必要だったからだ。

一人の人間を、何組もの家族が奪い合う。争いは法廷に持ち込まれる。最終的には、有力候補であるピエールとジョゼフ、モンジョワンMonjoin父子(ジョゼフの兄オクターヴは1914年にドイツの捕虜となり、16年以後音信を絶っていた)に、マンジャンが夫マルセルだと信じるリュシー・ルメーLucie Lemayを始め、それぞれに強い確信を持った数家族が挑む構図となった。
オクターヴ・モンジョワンは捕虜収容所でやはり早発性痴呆の診断を受け、1918年1月31日、捕虜を帰還させる列車に乗車した。ドイツの資料でこのことが確認され、オクターヴ・モンジョワンとアンテルム・マンジャンの同一を疑う余地はなくなった。1937年11月にはロデス裁判所がこれを認める。ルメー夫人らは、判決を不服としてモンペリエ控訴院に訴えるが1939年3月敗訴。しかし同年にはモンジョワン父子ともに亡くなってしまう。破棄院での審理は開戦により中断。
出生率減少を憂うフランスでは、ナチス・ドイツのように精神障害者の強制不妊手術や抹殺こそ計画されなかったが、戦時の配給制の下、精神病院の患者は十分に食糧が与えられず飢えに苦しんだ。患者がゴミを漁るような状況で、自発的に食事を取ろうとさえしないマンジャンが生き延びることは難しかった。衰弱死したマンジャンはパリの郊外バニュー墓地の共同墓穴に葬られる。憤りの声も上がり、1948年になって故郷サン=モールSaint-Maur-sur-Indreの墓地に、オクターヴ・モンジョワンとして埋葬された。

マンジャンの運命は、裁判以後忘れ去られて行った。終章で著者はそのわけを考える。まず謎が解けたことで、世間の興味が薄らいだ。だが忘却には、より深い意味がある。凱旋門下の「無名戦士の墓」に眠る兵士は、名前も家族もないことで、すべての死者を象徴し得た。名前を持ったマンジャンは「生きている無名戦士」のステイタスを喪失したのだ。
フランスにとって第一次世界大戦の勝利はあまりにも苦いものだった。おびただしい数の死者に対して繰り返される儀礼。喪失と衰退と、帰還しなかった者への深い負い目の感覚は、長く尾を引いた。1918年の英雄が死んだ兵士だとすれば、1944年の「解放」で始まる新たな時代には、雄々しく野蛮と戦い勝利したレジスタンスの闘士、生きた英雄が求められていた。


フォークランドの鯨 ピエール・ブール La baleine des Malouines

2008-03-17 09:46:16 | インポート

Pierre Boulle, La baleine des Malouines (Julliard, 1983)
『フォークランド戦争―" 鉄の女 "の誤算』(サンデー・タイムズ特報部編/宮崎正雄編訳 原書房 1983)

Locationfalklands 1982年春、英国とアルゼンチンとの間にフォークランド諸島の領有権をめぐり戦争が起こる。ピエール・ブールの小説?La baleine des Malouines?(「マルヴィナス(フォークランド)の鯨」)は翌年に刊行された。

洋上の英国艦隊に、最高司令部から緊急連絡が入る。エディンバラ公は王立鳥類保護協会の集まりで、海軍に警告を発された。「注意なさい!鯨目( 鯨・いるか)はレーダーではよく潜水艦のように見えます」(? Attention ! Les cétacés apparaissent souvent sur les radars comme des sous-marins.?)世界自然保護基金総裁としての発言だった。
折りも折り、駆逐艦「デアリング」Daringの艦長クラーク少佐は当直士官の報告を受ける、レーダーが未確認物体を検知した。艦にはフォークランド出身の元捕鯨船乗組員ビョーグBjorgが同乗する。北欧系で、捕鯨の英雄時代を知る祖父の物語を聞き育った。退職後は英国でイルカの訓練師に。作戦行動のガイドとして雇われたのだ。
物体がレーダーから消えた。マッコウクジラなら、1マイル以上潜れるんだ―ビョーグが鯨の知識を披露する。物体が雌と雄、二頭のシロナガスクジラだとわかるまでのサスペンス。

シャチの群れに襲われ、鯨の一頭は死ぬ。もう一頭が、助けを乞うように艦に接近して来る。少佐はためらった末、シャチへの一斉砲撃を命じる。鯨の目は「ほとんど人間のよう」、駆逐艦に「なつき」、「犬のようについて来る」。
「マルゴおばさん」と呼ばれるようになった鯨の体に、びっしりと寄生虫がつく。海軍の「騎士たち」は大掛かりな掃除作戦に取り掛かる。グルカ兵(山岳戦に強いネパールのグルカ族出身)が、鯨の体によじのぼる。
艦隊がフォークランド島に近づくにつれ、緊張が高まる。鯨が何かをおもちゃにしていると思えば、機雷だ!掃海に協力し、上陸作戦のさなか、海に投げ出されたビョーグを救った鯨は、最後には旗艦空母を敵の魚雷から守るため命を捨て、ヴィクトリア十字勲章を授与される。
海には古来から魔物が潜む。将校から兵士まで艦隊挙げての鯨熱を、海軍大将はenvoûtement (呪術、魅惑、とりこにする)と呼ぶ。自然保護や環境・エネルギー問題に皮肉な目を向けることの多かったブールだが、辛辣さは抑制され、珍しく無垢な、気持ちの良い作品になっている。
エピグラフにも用いられたエディンバラ公の警告は、創作ではないようだ。

Philip Fears Whales Will Perish in Conflict
SPECIAL TO THE NEW YORK TIMES
Published: May 12, 1982
The Duke of Edinburgh expressed his regret today that the conflict over the Falkland Islands would probably lead to the death of many whales.

''The British task force in the Falklands area obviously has to protect itself against submarines,'' he told a meeting of the Council for Environmental Conservation. ''Unfortunately for the whales they return an echo which is like that of a submarine. I can only assume that a great many ofthem have been killed as a result.''

http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CEFD61438F931A25756C0A964948260&sec=&spon

領有権争いは19世紀にさかのぼる。『フォークランド戦争―" 鉄の女 "の誤算』(サンデー・タイムズ特報部編)によれば1820年にアルゼンチンの艦隊がフォークランド諸島を占拠、26年には植民が始まった。しかし1833年、英国の砲艦が来襲、アルゼンチン守備隊は島を撤退。建国まもないアルゼンチン共和国の威信は、大きく傷ついた。
英国政府は1852年、「フォークランド諸島会社」に設立勅許を与えた。事業内容は主に羊の放牧。1978年に島を訪れた記者は書いていた、「良かれ悪しかれ、フォークランドは会社の島なのだ」
第二次大戦前には領有権をアルゼンチンに与え、英国が借り受ける「租借」案が協議された。戦後も交渉が行なわれたがまとまらない。1976年アルゼンチンに軍事政権が成立して情勢はにわかに緊迫する。英国による占領150周年の1983年1月までにアルゼンチンが何らかの行動に出ることは、あらかじめ予想された。にもかかわらず、英国の情勢判断は「救いようがないほど楽観的」だった。外務省も、海外情報を評価し首相に伝える「統合情報委員会」も、十分に機能していなかった。
アルゼンチン側にも読み違いがあった。英国の行なった二つの決定(南ジョージア島の南極観測基地の廃止、流氷哨戒艇エンデュランス号の廃船)から、英国はフォークランド諸島を守る気が薄れたと判断した。英国は誤まったメッセージを与えてしまった。もっと明確に武力行使の意志を示すべきだった。これは「起きなくてもよかった戦争」だった。

戦いに勝ち、サッチャー政権の支持率は一気に上昇した。しかし英国側にも多くの犠牲者が出た。敵空軍への優勢を確保しないうちにフォークランド諸島に上陸するのは、軍事的に無謀だった。英国とアルゼンチンの空軍には「タカとムクドリ」の力の差があったが、必死のムクドリは予想以上に手ごわかった。

英空軍の垂直離着陸機「ハリアー」は、ふいに高度を上げる飛行法「ヴィフィング」viffing で、アルゼンチンのミラージュ戦闘機との空中戦に「圧勝」する(もっともWikipediaはこの点、留保をつける)。軍事マニアでなくても興味を引かれるところだが、『鯨』には「ハリアー」や「エグゾセ」の名は出てこない。ブールが南ジョージア島攻略をわずか5行で片づけるのは、早く鯨との遭遇に進みたいからだ。鯨、鯨!

海軍大将が言う、アメリカ海軍なら、レーダーが検知してすぐ、鯨に火の雨を降らせていただろう。英国的性格の不思議、これは『戦場にかける橋』(関口英男訳 ハヤカワ文庫 1975 原著は1952年刊)と『鯨』に共通の主題である。