発見記録

フランスの歴史と文学

アルフォンス・アレ 『パリでの県人録の効用』

2007-04-29 21:20:52 | インポート

アルフォンス・アレ『パリでの県人録の効用』(Utilité à Paris du Bottin des départements)

こんなに親しげに握手を求める紳士が誰なのか、どうしてもわからなかった。
いやかすかに見覚えはあった、どこかで会ったようなのだが、どこで?いつ?どんな状況で?
「攻守入れ替わりましたな」、紳士は陽気に言った。「何年か前にはあなたが私に気づかれたのです、今度は私の番だ。
エルネスト・デュヴァル=ウーセです、トレヴィル=シュル=ムーズの」
私は恐縮するふりをした、やっ、これはどうもお見それしました!トレヴィル=シュル=ムーズで知り合い、次にこうしてパリで会ったエルネスト・デュヴァル=ウーセ氏の顔を、どうして私は思いだせなかったのか?
でもトレヴィル=シュル=ムーズには一度も行ったことがない。
話せば長いこの話、まあ聞いてください。

数年前のこと、ある日友人のジョルジュ・オーリオルとカフェ・ダルクールのテラスで足を止め、一人の紳士がジョッキでビールを飲んでいる、そのすぐ隣りのテーブルに腰を下ろした。
ひどい暑さに紳士は椅子の上に帽子を置いていたので、ジョルジュ・オーリオルには帽子の底の店の名前と住所が見えた、「P・サヴィニー、ラ・アル通り、トレヴィル=シュル=ムーズ」
この種の企てに取っておきの大真面目な顔で、オーリオルは隣の紳士をじっと見た。そしてやたら丁寧に、こう言った。
「失礼ですが、トレヴィル=シュル=ムーズの方ではございませんか」
「いかにも」、紳士は答えた、自分も何とかオーリオルを思い出そうとする。
「ああやっぱり!」とこちらは言う、「間違うはずがない、確信していました。トレヴィル=シュル=ムーズにはよく参ります。友人もおります、御存知かもしれません。サヴィニーという人で、ラ・アル通りの帽子屋です」
「ご存知かって!サヴィニーならよーく知っていますよ。ほら、この帽子はあの男の店で買ったんです」
「おやまあ、ほんとですか」
「そりゃもう、幼な馴染みでね、同じ小学校でした。こっちはポール、向こうはエルネストとお互い呼び合う仲で」
オーリオルと紳士は尽きない話を始めた、トレヴィル=シュル=ムーズのあれやらこれやら、オーリオルはつい5分前まで町の名も知らなかったのだが。
しかし私は仲間の成功が少々ねたましく、彼の冗談の一枚上を行って、くやしがらせてやろうと決めた。
例の帽子の底を一瞥すると、頭文字E.D-H.が見えた。
カフェに置かれた県人録を2分間さがしただけで、E.D-H.氏の姓名を知ることができた。

専売品販売 デュヴァル=ウーセ(エルネスト)、等々。

落ち着き払って席に戻り、今度は私がトレヴィルの男をじっと見て
「人違いならご容赦を、専売品販売のデュヴァル=ウーセさんではございませんか」
「いかにも、エルネスト・デュヴァル=ウーセはこの私。何でしょうかな、伺いますが」
確かにデュヴァル=ウーセ氏は初対面の二人の男に知っていると言われ、きょとんとしていたが、オーリオルのたまげかたと来たら、ぶるぶる瘧(おこり)でもついたようだった。
いったい私はどんな魔法でこの蒸留酒商の名前と職業を当てられたのか?
作戦続行、
「今でもルーの父さんがトレヴィル町長ですか」
(大急ぎで見た県人録に、こう書かれていたのだ、町長―ドクター・ルー 父)
「ではないのです!もう三年前に亡くなりました」
「これはこれは。立派な方で、何よりまず名医でしたな、トレヴィルで重い病気になった時も先生のおかげで、半月と経たない間によくなりました」
「あの人の代わりは、早々には見つからんでしょう」
さすがにオーリオルも私の戦術に気がついた。
席を立ち、すぐに戻ってきた、そして私たちはトレヴィル=シュル=ムーズとその住民について、どんどん話をした。
デュヴァル=ウーセは、呆気に取られていた。
「いやはや」と大きな声で言い、「あんた方はトレヴィルの人を、そこで生まれ45年住んでいる私よりよくご存知だ」
私たちは続けた。
「刃物屋のジョベールはどうしてます。デュランドーは?今でも獣医ですか。ルブデルの後家さんは?まだ「駅ホテル」〔l’hôtel de la Poste もとは駅馬車の宿駅〕をやっていますか?等々」 
早い話、年鑑のトレヴィルに関する紙葉2枚分がこれに費やされた(オーリオルは当世風の蛮行をやってのけた、小型ナイフで巧みに切り取り、1枚を惜しむことなく私にくれたのだ)
デュヴァル=ウーセはすっかり御満悦で、私たちにビールをおごってくれた。すぐ飲み干したがーとにかく暑かったのだ(これはもう言ったか)、知らない土地の話をするほど喉の渇くことはない。
ささやかな祭りの締めくくりに、デュヴァル=ウーセがぜひという美味い夕食をご馳走になった。
新しい友と同郷の人すべてに乾杯をし、夜も更けて12時になる頃、もし誰かがオーリオルと私に向かって、私たちがトレヴィルの全住民と仲良しではないなどと言ったら、そいつはひどい目にあっただろう。

アレのコントは1895年5月11日Le Journal 紙に掲載、短編集On n’est pas des boeufs(1896)に収録。翻訳はAlphonse Allais La Logique mène à tout Les 150 meilleurs contes (Pierre Horay) に所収のものによる。

「カフェ・ダルクール」le café d’Harcourtはサン=ミシェル大通りにあった店か。Tréville-sur-Meuseは(たぶん)架空の地名。
Georges Auriol(1863-1938)については→拙訳「魔法の森」の注。 
Essai sur mon ami Georges Auriol(Wikisource)にもこのコントと似た逸話がある。


ボタン氏の紳士録

2007-04-28 20:05:59 | インポート

bottin 〔商標名〕 1 電話帳 2 ~ mondain 紳士録
(Le Dico 白水社)

―ユットは物思いに耽って髭を撫でていた。短いけれども頬を覆いつくしている胡麻塩髭。澄んだつぶらな瞳がぼんやり虚空を見つめている。デスクの左側に、執務中私が坐っていた柳細工の椅子。ユットの背後には、壁の半分を占めているくすんだ色の木の棚。そこにはありとあらゆる種類のこの五十年間のボタン紳士録や電話帳が並んでいた。ユットはしばしばそれをかけがえのない仕事道具だから、絶対手放さないつもりだと言っていた。それにこの紳士録や電話帳はまたとない貴重で感動的な蔵書となるものであって、なにしろその各頁には今はないずいぶん多くの人間や物や世界がリスト・アップされており、それについて証言するのはこれらの紳士録や電話帳だけだと言うのだ。(パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』平岡篤頼訳 白水社)

 「セバスチァン・ボタン (1764-1853)の肖像」 ジャン=バティスト・ジョゼフ・ヴィカール

「紳士録」の開祖Sébastien Bottin は大革命以前には司祭であったが、革命政府に対する宣誓を行ない、次いで僧職を捨てた。帝政期には知事となる。統計学者でもあった。
1796年にLa Société de l’Almanach du Commerce創立。翌年からボタンの名を取った商業・産業名鑑が刊行された。彼の死後、事業はディドーDidot家が継承、1881年に株式会社Didot-Bottin設立。
この会社が越してきて1929年Beaune通りの一部がSébastien Bottin通りと改名された(
l’Université通りとガリマール社のあるSébastien Bottin通りの交差するところに、ボタンの業績を讃える浅浮き彫りがあるという)

?Le Bottin mondain?は1903年に創刊。12 000のパリの良家を網羅。電話帳をも兼ねていた。会員制で、定期的に会費を支払わないとリストから除かれる。加入は無料だが会員二名による推薦と身上確認が必要。

参照 Wikipédia 

Le Groupe Didot-Bottin http://www.didot-bottin.fr/
Le Bottin Mondain Web版 http://www.bottin-mondain.fr/

もとは商標名だが、?bottin?は今ではより一般的な名称として用いられている。しかしアカデミーの辞書(第9版)にはない。似た言葉?gotha ?(集合的に「名士たち」、ドイツのゴータで発行されていた貴族年鑑Almanach de Gothaにちなむ)は、この版で初めて採られた。

「ゴキブリホイホイ」など日本の例を考えていて見つけたのがサイト「賢い消費者のページ」の「一般名称と登録商標


デュ・バック通りのロジェ・グルニエ

2007-04-25 11:21:50 | インポート

サイトの三野博司先生のロジェ・グルニエ会見記(季刊誌『流域』からの転載)に『デュ・バック通りのロジェ・グルニエ』が加わりました。

先生の文章と写真を地図と照合してみました。

ガリマール社の住所 5, Rue Sébastien-Bottin (Google地図

Quai de Conti(アカデミー・フランセーズ)やPlace Beauveau(内務省)のように地名による換喩が一般化した例は珍しくありませんが、出版社ではまずガリマール社が思い浮かびます。

季刊化された「NRF」の新編集長としてミシェル・ブロードーは

?…j'insiste sur le désir d'ouverture de la revue. Il ne s'agit pas d'être une sorte de bulletin de la rue Sébastien-Bottin et de ne faire place qu'aux auteurs Gallimard.?
雑誌を開かれたものにしたい、これは強調しておきます。一種のセバスチアン=ボタン通り会報、ガリマール社の作家しか入れないような場にするつもりはありません。

? La Nouvelle Revue française ? devient trimestrielle  Le Monde 08.01.99)

スイユ社が一般公募したミステリ短編集はLes crimes de la rue Jacobとして出版されています。


トロワイヤ Le marchand de masques

2007-04-18 21:10:37 | インポート

Henri Troyat, Le marchand de masques (Flammarion, 1994)

ヴァランタン・サラゴスはセーヌ県庁勤務の傍ら、小説を書いている青年。デビュー作『雷』Foudresは売れなかった。第二作『下水の番人』Le Gardien des égoutsでも読者に媚びるつもりはない。友人との食事、父と二人の官舎暮らし、木曜には兄が来る、判で押したような毎日。出版者の勧めで渋々足を運んだ文学サロンで、エミリエンヌ・カリゼーと出会う。彼女は『雷』を読んでいた。

トロワイヤ自身、セーヌ県庁予算課にいた時期がある。職場で創作に没頭し、次長のマドモワゼル・フィルーティエにやんわりたしなめられる青年を、自画像と考えるのは早計か。Sarabosseでは滑稽だと言われ筆名をSaragosseにする。トロワイヤの本姓タラソフTarassovとの類似。

エミリエンヌと彼は、まもなく愛人になる。『下水の番人』出版にこぎつけるのも彼女の口聞き。
妊娠を告げられた青年が結婚を申し出ると、彼女は拒絶する。年齢も、社会的にも隔たりがありすぎた。「なんておめでたいの!」? Quelle naïveté ! ?
彼女は以前からの愛人ラシュロと結婚する。相手はお腹の子が自分のものではないのは承知の上。おめでたい青年に真似のできた話ではなかった。
小説はさんざんの不評、お針娘コリンヌを愛人にしても所詮は代用品pis-allerでしかない。結婚式がすでに行なわれたのを知った日、ヴァランタンは自殺、第一部が終わる。

半世紀を経て、兄の息子アドリアンが第二部の語り手。遺作『内なる富』Richesses intérieuresの公刊をきっかけにヴァランタンは作家として認められた。アドリアンは、伝記執筆のため生前の叔父を知る人たちに会う。老人たちが語る話は、うまく焦点を結ばない。真実に到達できるものかと怪しみ出したアドリアンは、伝記を書く自分を「仮面商人」と感じる。

コリンヌに著書への署名をせがまれ、ヴァランタンが皮肉を込めた献辞「わが愛する唯一の人に」は、真正の愛の証しにされてしまう。誰も彼の自殺の真相を知らぬまま、伝記は書き進められる。

この小説と同じ年、トロワイヤは『ボードレール伝』を上梓。身近な世界を舞台にこの位の分量(180ページ)の物語作品を仕上げることは、伝記からの息抜きの意味を持ったかもしれない。
トロワイヤは『プーシキン伝』を書き終えた後、二通の重要な手紙が発見され書き直しを余儀なくされた経験を持つ。伝記をめぐる寓話といった趣きの『仮面商人』の結末には、虚無感が漂う。

小説第一作から一定の評価を得たトロワイヤには、ヴァランタンのような不遇の時期はなかった。その意味で青年は「もうひとりの私」と言える。
文学青年が自殺するのは1930年代の『蜘蛛』と共通。周囲の人々との交流を描きながら、主人公の孤独を浮かび上がらす。基本のところは変わりがない。長編『蜘蛛』を思い切り圧縮したような感じを受ける。

発表の年には83歳になる。シムノンはもっと早い時期に小説を書くのをやめていた。


Bain de foule 群集に沐浴(ゆあみ)する

2007-04-10 22:09:25 | インポート

二十人ばかりの人間に挨拶したが、そのうち十五人は見知らぬ顔だった。同じ割合で握手をふりまいたが、それも、手袋を買っておくという用心をせずにである。
  ボードレール「午前一時に」(『パリの憂鬱』阿部良雄訳 ちくま文庫)

潔癖なダンディには、手袋は群れの中で自己を守る鎧である。しかしそのボードレールが「群集」(同)では書く。

群集に沐浴(ゆあみ)するというのは、誰にでもできる業(わざ)ではない。群集を楽しむことは一つの業である。そして人類をうまく利用して生命力を大いに飲み食いできるのは、ただひとり、揺籠にあった時、仙女から、仮装や仮面への好みや、己が棲処(すみか)への憎悪や、旅への情熱を吹き込まれた者のみだ。

大統領選が近づくとフランスのニュース記事で見かける?bain de foule? 「(国家元首・政治家の旅先などでの)一般大衆とのふれあい」 (Le Dico 白水社) ボードレールの原詩では? Il n'est pas donné à chacun de prendre un bain de multitude :?なので、この作品が元とは決められないが、Googleのニュース検索でbaudelaire bainを捜すと、あった!

シャルルヴィルの集会でロワイヤル候補が「党組織から自由に」なり「フランス人との直接の絆」を結ぼうとするという記事Ségolène Royal "libre"et soutenue par DSK NOUVELOBS.COM | 17.03.2007 | に

Pour la première fois, la candidate, qui n'a pas manqué de citer Baudelaire, s'est offert un bain de foule au terme du meeting. 

怠りなくボードレールを引用した候補は、集会を終え、初めての群集とのふれあいの機会を持った。

DSKことストロス=カーン氏も一緒に来ていたが、党の支援は得ても党を超えたところに自分を置くと公言するロワイヤル候補とは、どことなく隔たりがある。

広場での集会を優先し、精力的に労働者・父兄・住民と会合を持つロワイヤル候補、ジャンヌ・ダルクさながら「私は旗を手に、真っ直ぐ前へ進む」? J'avance droit devant, le drapeau à la main ?と言う彼女には、DSK氏も一人の「兵卒」でしかない。このあたりの空気を伝えるル・モンド記事(08.03.07)は、「『DSK』には『地獄の一日』 ランボーの生地シャルルヴィルで」? Une journée en enfer ? pour ? DSK ? à Charleville, la patrie de Rimbaud と題されていた。

シラク大統領夫妻は復活祭の週末、南仏ボルム・レ・ミモザの「ブレガンソンの砦」le Fort de Brégançon (歴代大統領が別荘にした)で過ごし、ミサに出席した。

任期最後の滞在とあって、村の人たちは教会を出る夫妻を待ち受けた。「復活祭―シラク夫妻にお別れの群集」Pâques : Bain de foule pour les Chiracs en guise d’adieu (LCI.fr   09.04.07)