発見記録

フランスの歴史と文学

カイヨワと『ジュミエージュの苦刑者』

2006-05-24 11:17:35 | インポート

Enerves_2  ルーアン美術館にあるリュミネーÉvariste-Vital Luminaisの『ジュミエージュの苦刑者』Les Énervés de Jumièges (1880)、ロジェ・カイヨワはそれを子供の時、プチ・ラルースの挿絵で見た(カイヨワは1913年生まれ)。

GallicaのPierre Larousse Grand dictionnaire universel du XIXe siècle (p.531)には、

おそらく8世紀か7世紀より遡るものではない伝説によれば、メロヴィング朝の王クロヴィス2世は二人の息子があり、父に背き反乱を起こした。王子たちは敗れ、膝と膕(ひかがみ)の腱を焼く刑を受けた。こうして地位を剥奪され、行動的生活の道は閉ざされると、若い王子たちは修道院に隠棲し祈りと贖罪のうちに余生を送らせてくれるよう求めた。王は苛酷な罰を受けた子供たちを痛く憐れんだ。王妃に考えを聞いた。王妃は、この一件は神意に委ね、神のみが王子らの運命を決するべきだと王を諭(さと)した。これに従い、召使と食べ物と共に二人を舟に乗せ、セーヌ川に沿って流れるに任せた。舟は二人をノルマンディーの、ジュミエージュという所、「窪地や岩だらけの大きな山々に囲まれた」地へと運び、隠者聖フィリベールが王子たちを引き受け、僧服を着けさせ、死して後には墓を立てさせた。修道院の堂々たる廃墟に、今もその跡が残っている。

654年聖フィリベールにより創設された修道院は、クロヴィス2世と王妃バチルドの庇護を受け、王領の寄進も行なわれた。その後の歴史は、破壊と再建の繰り返しだった。
『フランス史』(福井憲彦編 山川出版社)の王朝系図では、クロヴィス2世(在位639-657)には上からクロタール3世、テウデリク3世、キルデリク2世と三人の息子がいる。それぞれが王位に就いた。
修道院には二人の青年の像を伴った墓があり、これこそ正史から抹殺された王子たちだとの解釈を生んだ。
「修道院友の会」のF.Allais氏によるLes Énervés de Jumièges は、伝説とその背景、またこれに批判的な異説を紹介する。

ピピン3世(小ピピン)の兄カールマンの息子たちが、庶子である伯父グリフォと組んで父に反逆、敗れてこの修道院に幽閉された(デュプレシス神父の説)
シャルルマーニュ(カール大帝)に反逆したバイエルン公タシヨンTassillonとその息子テオドンThéodon だとする(マビヨン神父の説)
同じようにこれらの異説を引く上記ラルース辞典の記述からも、19世紀後半には「苦刑者」をあくまで伝説とするのが常識化していたようだ。

カイヨワは同じプチ・ラルースの図版ページで、ジャン=ポール・ローランスの『ロベール敬虔王の破門』L'Excommunication de Robert le Pieux, 1875(Wikipédia 図と解説)にも奇妙に惹かれるものを感じた。

カペー朝第二代目の王ロベール2世(972-1031 在位996-)は信仰厚く敬虔王と称され、異端弾圧にも早くに乗り出した。

破門は結婚問題による。父ユーグ・カペーは王位世襲化を図りまず987年にはロベールを共同王位につけた。父の意思に従い、はるかに年上のイタリア王女ロザラRozala d'Italieを妃とする(988年)が、子宝に恵まれない。ロベールはブロワ伯ウードEude1世の妻ベルト・ド・ブルゴーニュを愛し、ロザラを離縁する。ウードの死(995)にロベールはベルトと結婚を望むが、従姉にあたるため父ユーグ・カペーは反対。父の死後997年に結婚、教皇グレゴリウス5世に破門を受けた(998年) ローマの公会議はロベールに7年間の贖罪を課す。
ベルトに子供ができなかったこともあり、ロベールはやむなくアルル伯ギヨーム1世の娘コンスタンスを妻とする。1010年に至ってもロベールはベルトとローマに赴き結婚の認可を得ようとするが、教皇はこれを許さなかった。
(平凡社世界大百科事典とWikipedia、他にhttp://www.1911encyclopedia.org/R/RO/ROBERT_II_OF_FRANCE_.htmなど。)

しかしどちらの場合もカイヨワは絵の語る歴史的なできごとをまったく知らなかった。幻惑は画家の絵画的技量とも関わりがなかった。イマージュが「驚異のランプ」、「開け胡麻」の役割を果たすには、小さなセピア色の複製で十分だった。
(遺著となったLa fleuve Alphéeによる。邦訳は『旅路の果てにーアルペイオスの流れ』金井裕訳 法政大学出版局)
仏語énervéは多義的で厄介だが、énervationの刑を受けた者の意味でいうのは現代では稀である。(「苦刑者」は金井氏の訳に倣う) 少年時代のカイヨワが「誤解」をしたというのも肯ける。ローランスの作品も「敬虔」と「破門」、矛盾したタイトルが謎の印象を強めた。

リュミネーもローランスも官展派の画家で、ダリがメソニエやブグローを礼讃したことなど思い出す。
ただネットで見られる画像からは、リュミネーやローランスのすべての作品が「苦刑者」のようにカイヨワを惹きつけたか疑問で、たぶん魔術が働くにはいくつかの条件があるのだ。


木靴と浴槽―ラティ『お風呂の歴史』

2006-05-17 09:40:37 | インポート

Sabot2 『失われたフランス語の辞典』 Alain Duchesne/Thierry Leguay Dictionnaire des mots perdus (Larousse 1999)には、古いラルース辞典から取ったという挿絵がふんだんに入っている。

中には変なのもある。本文と切り離された挿絵が、とんでもなく「シュール」に見える、この効果にカイヨワは『幻想のさなかに』(三好郁郎訳 法政大学出版局)で注目したが、Baignoire-SABOT(木靴浴槽)と記された絵は、特に印象に残っていた。

ところがドミニック・ラティ『お風呂の歴史』(高遠弘美訳 文庫クセジュ)に、次の一節がある。

初期の浴槽は、木の幹をえぐって作られた。浴槽が現代とおなじ使われ方をするようになるのは、十九世紀後半である。最初は宗教的な意味合いがあった。とくにユダヤ人のあいだでは、沐浴のための大盥のなかで、水を使って心身を清めることが重要だった。樽職人は、円形ないし楕円形の浴槽を作り、十五世紀の鋳掛け職人は、銅か真鍮で大盥を作った。浴槽ははじめ、サボチエールと呼ばれた。サボは木靴だから、言うなれば木靴型浴槽ということになろうか。浴槽備え附けの鍋で水を温め、洗った灰を石鹸代わりに使った。香草や香料が、個人個人の好みによってさまざま水に加えられた。シャルルマーニュはヴェネツィア原産のアーモンドのパンが大好物だったから、湯に入れて香りを愉しんだという。

サボと浴槽には古くからの縁があるらしい。

検索してみると現代でも写真のようなのがBaignoire sabotと呼ばれている。
シャルロット・コルデーに暗殺されたマラーが入っていた浴槽も、やはりこの「木靴型」とされる。(”... Marat, assis dans une baignoire en forme de sabot,...” http://www.megapsy.com/Revolution/Rev_056.htm )

ラティは『お風呂の歴史』序文で、西欧の「お風呂文化」の着実な歩みを「非可逆的」進歩と見る。「健康の長期化の課程や人間の定住化に対する考察、増大する幸福主義、生活レベルの向上ーそれらが相俟って、徐々に温泉療法という強力な仕組みに変貌していったのである」

しかしその歩みは平坦なものではなかった。本書目次が示すように、ルネサンス以降、意外にも「入浴の衰退」が始まるのだ(この過程は興味深い)

「十八世紀後半、水は見直される」ーマリー・アントワネットには風呂係の女性がいた。フランネルの衣装をまとい、風呂で客を迎えた。「いわばお風呂のサロン」である。
この時代に「木靴風呂」(訳注によれば「座浴用の小さな浴槽。もともと木靴の形をしていた」)が広まったという。発明者「ルヴェル」の詳細はわからない。


水による治療 hydrothérapie

2006-05-13 10:48:12 | インポート

Vous a-t-on conseillé l'hydrothérapie? L'eau froide réussit parfois très bien dans les névroses (FLAUB., Corresp., 1866).
あなたは水治療法を奨められましたか?冷水は時には神経症に優れた効果を発揮します。(フローベール、書簡集 atilfによる)

ノーの小説『敵なる力』の精神病院には水浴病棟 le pavillon des bains があり、患者に冷水・温水浴をさせている。
下剤をかけるpurger また嘔吐剤、食餌療法、シャワー、拘束衣。治療手段といえばそんなところか。
発作を起こしたイレーヌの母親に、町の産科医は刺胳(瀉血)-静脈を切って悪い血を出すーを行なう。
もちろんこれは小説、それもすべてがグロテスクに歪められた作品なので用心が要る。ヒポクラテスの時代からあらゆる症状に対して用いられてきた刺胳には、18世紀以降批判が強まる。19世紀初めには痛風など少数の病気でしか用いられなくなった。(Wikipédia Saignéeの項)

弁護士や裁判官を戯画化したドーミエは医師も標的にする。
水治療法hydrothérapieを調べていて見つけた版画が Le médecin hydropathe 水治療法を行なう医師 () 絵の下に書き込まれた字は読むことができない。

まさに水責めだが、当時は温泉療養流行の時代でもある。

「ヨーロッパに温泉療法が広まったのはローマ帝国の支配によるもので,ゲルマン人の侵入とキリスト教の影響で温泉療法は一時衰退したが,イタリア戦争や宗教戦争に際して傷病者に対する医療効果の大きいことが再認識され,18~19世紀にかけて発展した。温泉療養は金と時間がかかるので,湯治に行くのは上流階級のみであったが,今日では,社会保険の適用によって,多くの人々が療養を受けることができる。治療は温泉医の指導の下で飲用を主とし,期間は2~3週間」(平凡社世界大百科事典)

飲むにしても浸かるにしても水の治療効果への注目があり、中にはいかがわしい擬似医療も現れた。そういうことではないか。

現象はヨーロッパにとどまるものではないようで、この絵()には Quacks Practicing Hydropathy(水治療法を行なう偽医者)と説明がつく。
アヒルの鳴き声「ガーガー」を示す擬音語quackがなぜ「いんちき医師」でもあるのか。語源はオランダ語quacksalver で、自慢げにぺらぺらとしゃべり軟膏を売りつける者のイメージがあるらしい。(The American Heritage® Dictionary of the English Language


敵なる力 Force ennemie

2006-05-11 10:45:59 | インポート

Force_1 久々のサイト更新。ジョン=アントワーヌ・ノー『敵なる力』 第1回ゴンクール賞(1903)受賞作

ゴンクール賞と「反」の構造(1/28)とも重複しますが、この作品にしぼって書くとこうなります。

「飛行機のプラモデルは、72分の1、48分の1が主流」(なごやスギランド プラモデル博学事典)だそうです。本の紹介にも縮尺の問題があり、一つの短篇小説を引用を交え追って行くと、極端な場合原寸に近くなってしまう(ボルヘスの「実物大の地図」)
長編『敵なる力』の要約として、今回のはまだ不十分です。面白くないところはあっさり「戯画的に描かれるブルジョワたちの世界」で片付けているし、総体に第3部は駆け足になってしまいました。骨格だけは示せたと思います。

こちら(ブログ)に置いても差し支えないわけですが、一応、時間をかけて書いたものはサイト、ということにしています。メニューページも更新、とか色々余分の手間はかかりますが。


「歴史の世紀」とジャン=ポール・ローランス

2006-05-08 11:12:58 | インポート

ティエリの『メロヴィング王朝史話』Récits des temps mérovingiensには、ジャン=ポール・ローランス(1838-1921)による挿絵入り版があるらしい。
Gallicaのは挿絵がない。
トゥールーズのMusée des Augustinsのページ()で見つけたのは、Incendie dans les campagnes de Tours トゥールの野の火災

フランク王国がクロタール1世の死後四つに分かれ、アウストラシア王シギベルト1世とネウストリア王キルペリク1世の内戦が行なわれていた6世紀。シギベルトの領地であったトゥールに、キルペリクの長子テウデベルトの軍が迫る。テウデベルトは残虐な作戦を行なった。「トゥールの住民たちは、城壁の高みから、町の四方あたり一面に立ちのぼって近くの村々の炎上を告げている雲のような煙を眼にして、おそれおののいた」(第2話 小島輝正訳 岩波文庫 上巻)
城壁は、ヴィオレ=ル=デュックが復元したカルカソンヌの城壁に基づいて描かれているという。

西欧の芸術家が古典古代に強い関心を持ち、ユマニストまた考古学者を兼ねることは19世紀以前にも珍しくなかった。中世に人気が集まるのはロマン主義以降だろう。
ゴーティエは青年時代、飼い猫を中世風にChildebrand(キルデブラント?)と名づけた。(Ménagerie intime p.8 )
ボアローが詩の中でこの名前をからかったたのに反発、わざとつけたもの。Childebrandはピピン2世の子、カール・マルテルの兄弟で、サラセン人をフランスから駆逐するのに功績があった。(Answers.com) 
褐色に黒の縞の、堂々とした虎猫で、古代ギリシア風のユリシーズUlysse(ロジェ・グルニエの愛犬!)のような名よりは、野性味のあるChildebrandのほうがよほどぴったりしたとゴーティエは言う。

歴史が自立した「学」となるには、中世趣味の類では不十分だったに違いない。
しかしティエリが序文で、シャトーブリアン『殉難者』Les Martyrsとの出会いを「フランクの戦士の歌が私の心に与えた感銘は、何かこう電気にでもうたれたようなものであった」と語るように、19世紀のある時期、歴史叙述と詩は無縁のものではなかった。

オーギュスタン美術館では1998年にローランス展が行なわれ、この時の記事がある。その作風をロマン主義の歴史家たちに比したHistoriens du XIXe siècleには

Parmi les historiens du XIXe siècle, Jean-Paul Laurens apparaît surtout sensible à l'influence de ceux dits " du Réveil ", c'est-à-dire de cette période romantique empreinte d'enthousiasme, de goût du drame et d'esprit libéral. Si, pour reprendre le propos d'Augustin Thierry, il est alors admis que c'est " la vérité de la couleur locale qui doit être le propre de l'histoire ", le même souci se retrouve d'une autre façon dans les travaux du peintre.
Sa manière semble parfois donner un équivalent pictural de la formule de Jules Michelet  : " l'histoire est résurrection ", résurrection palpitante et tangible du passé. Laurens reste de ceux reconnus pour avoir su l'exhumer avec le plus de force (Saint Jean Chrysostome et l'impératrice Eudoxie. Pareillement anticlérical, Michelet a d'ailleurs, le premier, cherché à réhabiliter les victimes de l'église, notamment ces Albigeois traités dans plusieurs tableaux..

(ジャン=ポール・ローランスは19世紀の歴史家の中でも特にいわゆる「覚醒期」、つまり熱狂とドラマ愛好と自由の精神とに溢れたロマン主義時代の史家に影響を受けたようだ。この時期、オーギュスタン・ティエリの言葉を借りれば「地方色の真実が歴史の本義たるべし」と是認されるとすれば、やり方こそ異なれ同じ配慮が画家の作品にも見られる。
画家の流儀は、時にジュール・ミシュレの名言「歴史とは蘇(よみがえ)りである」(すなわち過去の生き生きした、じかに触れることのできるような再現)を、そのまま絵画に置き換えたかのように見える。ローランスは今日も、過去をもっとも力強く蘇らせた者として認められている。(『聖ヨハネス・クリュソストモスと皇后エウドクシア』)同じように反教権主義のミシュレは、真っ先に教会の犠牲者、特にアルビジョワ派の復権に努めたが、ローランスはいくつもの作品で異端アルビジョワ派を描いている。)

『検邪聖省(教皇庁の部局、異端糾問を司る)の審問官』Les Hommes du Saint-Office 1889()や『拷問台』 Le Chevalet 1911()など宗教裁判所を描いた絵がある。
ローランスは南仏Haute-Garonne県の村フルクヴォーFourquevauxに生まれた。13世紀、カタリ派異端弾圧のため行なわれた進攻「アルビジョワ十字軍」は、北仏勢力による南仏ラングドックの制圧でもあった。