発見記録

フランスの歴史と文学

これは三面記事ではない ? Ceci n'est pas un fait divers ?

2007-08-09 18:01:05 | インポート

Besson Philippe Besson, L'enfant d'octobre (Grasset, 2006)

叢書「これは三面記事ではない」? Ceci n'est pas un fait divers ?の1冊。巻頭に、現実の事件を「小説に再構成」した、一部登場人物の発言は作家の創作と注がつく。

1984年10月16日の夕刻、ヴォージュ県の村レパンジュLépanges-sur-Vologne(地図)で、4歳の男の子グレゴリ・ヴィルマンが突然いなくなる。母親クリスティーヌがグレゴリを車に乗せ帰宅、家の前で遊ぶように言ってアイロンをかける間のできごと。その夜、西南西のドセルDocellesで、ヴォローニュ川から手足を縛られた子供の遺体が引き上げられる。

翌朝、父親ジャン=マリに匿名の手紙が届く。「お前が嘆き悲しんで死ぬのを楽しみにしてるよ、チーフ」 ? J'espère que tu mourras de chagrin, le chef. ?  
ジャン=マリは自動車座席製造工場で、工員から短期間で職工長になった。4年前、低家賃住宅から高台にある新居に移る。電話と手紙による執拗な脅迫が始まったのはその頃だった。
通称「グレゴリ事件」l' affaire Grégoryについてはネットにも動画を含め多くの資料がある。ジャーナリストや事件に関わった警察・司法関係者による本も、何冊か出ている。大方のフランス人とは違い当方の知識は漠然としたもので、本書に沿ってその経緯を整理してみる。

激しい性格のジャン=マリは、家族の中にも敵を作りがちだった。憲兵隊は18日、「ヴィルマン一族」le clan Villemin 70人を集め、筆跡鑑定のため書き取り dictée を行なう。
11月1~2日、ジャン=マリの従兄弟で紡績工場の職工長ベルナール・ラロッシュが、義理の妹ミュリエルに告発される。
ミュリエルはコレージュの帰り道、ラロッシュの車に乗せてもらった。遊んでいるグレゴリにラロッシュが声をかけてから、川べりに着き凶行に及ぶまでを、ミュリエルは物語る。
5日、エピナル裁判所予審判事ジャン=ミシェル・ランベールはラロッシュを告訴。
7日にはミュリエルが早くも証言を撤回。12月には声と筆跡の鑑定結果が形式上の不備で無効と。
入れ替わるように、グレゴリの母親に疑惑の目が向けられる。11月22日、判事は事件当夜のアリバイ確認のためクリスティーヌを召喚。
1985年2月4日、ラロッシュは保釈。
同22日、クリスティーヌの妊娠が公表される。
3月29日、ラロッシュに子供を殺されたと信じるジャン=マリは、ラロッシュの家に赴き、口論の上、相手を射殺。
7月5日、判事はクリスティーヌを殺人罪で告訴、身柄を拘留。しかし16日にはナンシー控訴院弾劾部が保釈の決定を。
9月30日、ヴィルマン夫妻の第二子ジュリアン誕生。
1986年末、控訴院弾劾部が今度はクリスティーヌの重罪院移送を決める。彼女は数日後自殺をはかるが未遂に。弁護士は上告、翌87年3月17日、破棄院は上の判決を破棄。
若くて未経験なランベール判事に代わり、以後ディジョン控訴院長モーリス・シモンが予審を行なう。老練なシモン判事は、すべてを一から見直す。
最終的に1993年2月、ディジョン控訴院弾劾部が「証拠の不在」により不起訴の判決を。クリスティーヌの無罪は公式に認められた。
ジャン=マリにはラロッシュ殺害の罪により同年12月、コート=ドール重罪院で懲役5年(うち執行猶予1年)の判決。未決拘留33ヶ月を裁量し、12月27日条件つきで釈放される。

現在夫婦はエソンヌの村に住み、ジャン=マリは元の会社の技術者として働く。
また2000年には手紙の切手についた唾液のDNA鑑定が行なわれるが手掛かりは得られないまま、2001年4月予審は終わる。

事件のまとめならこんな小説仕立てでない「本格ノンフィクション」に頼るべきかもしれない。しかし基本的事実は創作を加えていないようである。

世論とメディアの加熱、先走り、また初動捜査を行なった憲兵隊やランベール判事の責任、これらの問題指摘は、たぶん先行する本でもなされているだろう。この本は必要だったのか? (続く)


最新の画像もっと見る