発見記録

フランスの歴史と文学

竹と薔薇 アルフォンス・カール

2005-12-31 22:51:30 | インポート

今年も最後の日記。ここ数年再読が主になり、何かをあらためて読むため別の本を、ということが多い。

11/2に既出のアルフォンス・カール『園芸家』に薔薇の話があり、最相葉月『青いバラ』(小学館)を読んだ。Amazonレビューには不可解な酷評もあるが、中井英夫『薔薇幻視』にとどまっていた私は啓発された。マンディアルグの『薔薇と象徴』などが挙がる文献リストも興味をそそる。

さてアルフォンス・カールは自分の名がついた薔薇があるという。Rosa Alphonse Karr’について詳しいことはわからない。

その代わり Bambusa multiplex 'Alphonso-Karr' (通称Alphonse Karr Bamboo スホウチク(蘇枋竹 漢字は「蘇方」などまちまち )というのが見つかった。http://fujibamboogarden.com/light/take/suhoutiku.htm

熱帯性の竹で、株立ちになり、高さ5m、太さ2cmほどになる竹です。竹は全体が黄色で、緑色のタテジマがあり、美しいものです」(〔楽天市場〕竹 千種園芸)http://www.rakuten.co.jp/chigusa/519201/519195/519196/584690/

『園芸家』に書かれた薔薇の育種競争の逸話。1828年のこと、ベリー公爵夫人Marie Caroline de Bourbon-Deux Sicile, duchesse de Berry(1798-1870)  肖像 は自分の手で作った新しい薔薇を、ある高名な園芸家に見てもらう。まぎれもない新種と認定され、Hybride de Rosniと命名された。

二年後、夫人は園芸家に薔薇を分けてあげようと、別の婦人に言付ける。

ところが園芸家の庭には、すでにHybride de Rosniが咲いている。二年前検分を頼まれた時無断で拝借した薔薇の「眼」œil (幼芽、つぼみ)で接ぎ木をしたのだった。

Corot014_022_1 コロー画 ロニーRosny-sur-Seine (Yvelines)のベリー公爵夫人の城 Chateau de Rosny (1840Musée du Louvre

また19世紀からノルマンディ海岸を海水浴の名所にしたのは、ベリー侯爵夫人(ディエップ)とアルフォンス・カール(エトルタ)の功績だという。http://paysdeshautesfalaises.org/page.html?c=1&s=1&p=273


マンディアルグとエルンスト

2005-12-29 21:24:33 | インポート

図 マックス・エルンスト『蛙の歌』Le chant de la grenouille1957

写真 Lee Miller Max Ernst and His Cabagges,1955

Troisième Belvédère 収録の?C’est assez beau comme ça?(1960)でマンディアルグは50年代からのエルンストの変貌に目を向ける。

?…si l’art de Max Ernst, comme la poésie de Baudelaire, a toujours exprimé un immense amour de la nature, toujours aussi, tout comme cette poésie encore, il cède à la tentation de se révoloter contre la nature maternelle et de célébrer l’artificiel ou de s’en inspirer.?

(エルンストの芸術がボードレールの詩のように、つねに自然への無限の愛を表現してきたとしても、やはりこの詩と同様、それはつねに母なる自然に叛逆し、人工を讃え人工に霊感を求める誘惑に抗えない)

エルンストの絵画は時にはこの両極性に引き裂かれ、その美は暗く悲劇的で「『痙攣(けいれん)的』な美」la ?beauté convulsive?となった。しかしこの10年の間に「いわば気候が穏やかになった」(?on dirait que le climat s’est tempéré.?

1952年パリに新しいアトリエを買い、58年からはシノンに近いユイムHuismesの村に住む。これらの事実に注目しながらも、マンディアルグは一部の批評家が作風の変化をもっぱらトゥーレーヌ地方の気候に結びつけたり、ロンサールやデュ・ベレーの詩を引き合いに出すのに我慢できない。

「マックス・エルンストの精神、その火、空気、流体、内部の結晶は、昔も今もプレイヤード派の詩想と似通ったことはなく、私の感じるところ詩的強度は彼らを凌ぐ」(L’esprit de Max Ernst, son feu, son air, son fluide ou son cristal intérieur, n’ont jamais, maintenant pas plus que naguère ou autrefois, eu rien de commun avec l’inspiration des hommes de la Pléiade, son intensité poétique est à mon sentiment supérieur à la leur.)

「プレイヤード派」とかの話になると、ただこうして書き写すことしかできない。ただマンディアルグらしさは出ている。環境に左右されない内的過程への注視、詩と美術を区別しない、ボードレールやモーリス・セーヴ、ブルトン(エルンストの「黒いユーモア」を語るときは『ユビュ王』のジャリ)のような特定の詩人・作家に絶えず言及する。

50年代以降の作には複製さえ見たことのないものが多く、ならばとネットでも思ったほど成果がない。

Max Ernst, Olga’s Gallery  http://abcgallery.com/E/ernst/ernst-4.html

Giornale Nuovo: Max Ernst’s Blues http://www.spamula.net/blog/2004/10/max_ernsts_blues.html

「アポロ的」なキュビスムの画家よりは未来派。フランドル派のような「近眼」の芸術、個々の事物を丹念に描くリアリズムは×。芸術は宇宙=普遍 を志向すべし。ただ「普遍的」universelと「大きい」spacieuxとは異なる。クロード・ロランの画面が見る者を失われた起源の光へと誘うとしても、この静かな世界には力動性が欠けている。光のやってくる源へ近づこうとしないクロード・ロランは「老眼」の画家である。マンディアルグは美術史に残る名画にも手厳しい。

巻頭の?L’art moderne?1968)では次のような対比がある、ダンテやラブレー、モーリス・セーヴのようなルネサンスの文人とマラルメやジョイスらとの間に断絶はない。造形芸術と音楽では一つの「革命」が起きた。セザンヌやロダンさえ現代作家とは別の惑星で仕事をしたように見える。

マンディアルグはタングステン結晶の顕微鏡写真と、エルンストたち現代作家の作品のあるものの類似に気づく。

またエルンストの連作「看板」Enseignesから、自然の石の表面や断面に現れる宇宙や風景に似たイメージを連想する。さらに仮面を描いた作からは昆虫の擬態を。これら「自然の驚異」への興味は『幻想のさなかに』『石が書く』のカイヨワと共通する。

ストリンドベリが1894年に記したことばに、マンディアルグは予言的意味を見る。

?L’art à venir (qui passera comme tout le reste) : imiter la nature à peu près, mais surtout imiter la maniére de créer de la nature.?

(来るべき芸術(これもまた乗り越えられていくだろう)―自然を凡(おおよ)そ模倣すること、だがとりわけ自然が創造するやり方を模倣すること)


東野芳明とマンディアルグ

2005-12-26 11:18:26 | インポート

雑誌「海」昭和469月号(マンディアルグ特集)には東野芳明の『オブジェと想像力のドラマ』が掲載されている。「マンディアルグについてぼくはほとんど語る資格がない」と書き出し、洋書店でも「白ちゃけたあのフランス文学の本の棚はフンといって通り過ぎる」といきなり悪口。

マンディアルグのSugaï (?Le Musée de poche?, 1960)にふれ、菅井汲ら「抽象絵画のラショーモン」世代が日本を売物にせざるを得なかったことへの苦い思いを交えながら、異国趣味ではない菅井の「深い日本」に讃辞を贈るマンディアルグの「微妙なレトリック」には「当時のパリにおける、ジャポネズリーへの反撥と共感が絡み合った複雑な心情」を読みとる。

続く「ざっと拾い読み」したDeuxième Belvédère(『見晴台 第2集』)の紹介では「現代美術の作品の中に、動物、植物、鉱物、あるいは水、火、土、空気の四元素を見出して分析しているところが眼についた。詳しくは分らないが、一種の物性論的なイメージが、マンディアルグの特徴のひとつなのだろうか」

同じ特集の種村季弘『異物と結晶-「ボマルツォの怪物」について』に比べれば当然熱の入れ方は違うが、二つのエルンスト論を要約し、「土」のデュビュッフェ、「鉄」の作家ブーリ(Alberto Burri )、ロベール・ミューラーRobert Muller )というマンディアルグの見方を、「職業的な美術評論家には見られない自由な観点」と評する。

「資格がない」と言いながらさっとこれだけ書ける、プロの文筆家とはこういうものかと素朴に感心した記憶がある。


デュシャンの墓碑銘

2005-12-23 22:42:24 | インポート

さりながら死ぬのはいつも他人ーデュシャンの墓碑銘を好んだ東野の戒名は「菊陰慈芳居士」と美しい   (米倉守『閉じられた蝶番 追悼・東野芳明』 美術手帖06年1月号)

? D'ailleurs,c'est toujours les autres qui meurent. ?を「さりながら死ぬのはいつも他人なり」と訳したのは瀧口修造だという。(石山修武氏「コラム的連載 ある芸術家の再生・光」 )

見事な本歌取りー

さりながら死ぬのはいつも他人なり荻野久作夢野久作

佐々木六戈
黒瀬珂瀾(からん)氏 | しづかに羽をこぼす毎日に引用)

言語遊戯工房OULIPO(ウリポ)のサイト Marcel Duchamp (Hervé Le Tellier) http://www.oulipo.net/oulipiens/MD には

Lors de sa dernière soirée avec les Man Ray et les Lebel, Marcel Duchamp rit : il lit la biographie d’Allais, rédigée par François Caradec. Quelques heures plus tard, il s’éteint. Sur sa tombe est inscrit : ? D’abord, c’est toujours les autres qui meurent. ?
(マン・レイ夫妻、ルベル夫妻と過ごした最後の夜、マルセル・デュシャンは笑う。フランソワ・カラデックのアルフォンス・アレ伝を読んでいるのだ。数時間後、息を引き取る。墓に刻まれた銘は「とにかくも、死ぬのはいつも他人なり」)

検索すると? D'ailleurs,... ?のほうがずっと多いが? D’abord,... ?の例も。

デュシャンの墓はルーアンにある。お墓のことならここ、サイトFind A Grave写真を見つける。やはり D'AILLEURS だった。

フローベールもルーアンで埋葬されたのがわかる。同じ墓地?

Flaubert est inhumé au Cimetière monumental de Rouen, comme son ami Bouilhet.
(Biographie de Gustave Flaubert, @alalettre.com http://www.alalettre.com/flaubert-bio.htm)

Anyone out there who can tell me the exact location of Duchamp's grave ? I thought it was in Rouen.
: Thanx.

Yes, ashes of Marcel Duchamp are in Rouen, in Cimetiere monumental, the famyly grave . If you visit, the keeper will give you the exact location.

(Re:duchamp's burial place http://www.marcelduchamp.net/wwwboardarchive/messages/61.html

Find A GraveでRouen Cemetery検索結果


東野芳明『アメリカ 虚像培養国誌』

2005-12-21 10:55:00 | アート・文化
img047東野芳明氏の死を「美術手帖」で知る(米倉守『閉じられた蝶番』)。一月程度の時差は良いほうで、時には何年ものずれが生じる。雑誌ではずいぶんお目にかかったが本棚には『アメリカ 虚像培養国誌』(美術出版社 1968)一冊。つまりこれは決して真正のファンによる追悼文ではない。

東野氏はパリ滞在中、その美しさを「いささか博物館的」と感じずにいられない。「戦後の焼野原に育ったぼくのような男には、人間の叡智がながい間に徐々に沈殿してでき上がったような都市は、あまりにも凝りすぎ、完成しすぎていた」
「欲求不満」を解消してくれたのがニューヨークだった。東京とニューヨークの「博物館でないエネルギー、猥雑でけたたましく、がたぴししていて、すべてがお互いに不均衡でお互いからはみだしているような面が、ヨーロッパの古都とは違った魅力なのである」(「わが都市遍歴」)

「最近、急速に、その神秘的な特性が若い作家の間で称賛されはじめた、孤独な作家ジョゼフ・コーネルにふれておこう」(「アメリカ美術の神話」)のような部分がある意地の悪い「いまさら」感を引き起こすのに比べ、「馬喰町四丁目九番地」での誕生を起点とする「わが都市遍歴」は再読意欲を誘う。
映画『ヒロシマ わが愛』についての貴重な証言―「一時、東京の青年の間では、独り旅のフランス娘とランデ・ブーをするのに、オリンピック工事で原爆ドームのように化した銀座四丁目の和光の前をえらび、「トーキョー・わが愛」などと名付けるという、けしからぬ遊びがはやったことがある」
「原爆ドーム」の比喩は悪趣味を承知で選ばれている。
良くも悪しくも東野氏らしさを感じるのは、
ここで思い出すのは、先年来日したスイスの電動モビール彫刻の作家ジャン・ティンゲリー(*1)のことだ。かれは機械文明の首都ニューヨークで廃品や古びたボンコツ機械で高さ一〇メートルの塔を作ったことがある。電流を通すと、猛烈な騒音と火炎をあげて、この塔は三〇分で自滅してしまった。題して「ニューヨーク讃歌」。来日したとき、ぼくは、広島の記念公園で、この種の「事件」をやったらと暗示した。しかし、レネの「夜と霧」を知っているかれは顔を青くして、恐ろしくて出来ない、と語った。かれはネヴァダ砂漠で、水爆実験に挑戦(?)する、大爆発事件「世界の終末」をNBCのために敢行したのだが、広島は〈聖域〉であり、「世界の終末」そのものであってこれに手をふれることは出来ない、とでもいうように、かれは首を振った。
「わが都市遍歴」のいわば負の中心が、広島だといえるだろう。「大半の日本人と同じく、ぼくはこの都市と無縁に生きてきたし、むしろ、ここをわれわれの魂のエルサレムとする道程をできるだけひきのばしつづけている、といってもよいかもしれない」と書かれる「ヒロシマ」が。

(*1) Musée Tinguely(仏・英・独語)>LE MUSEE>Jean Tinguely>Biographieに問題のHommage to New York(1960)  Study for an End of the World (1962)の各写真あり。