発見記録

フランスの歴史と文学

市長さんの三色綬

2007-03-29 17:03:17 | インポート

Echarpetricolore_1 図は「ボナパルト、エジプトのベイ(オスマン帝国時代の地方長官)に三色綬を与える」 (国立民衆芸術・伝統美術館 Le Musée national des arts et. traditions populaires) Source : Base Joconde

きっかけは、リベラシオンの記事 N'est pas le ?candidat des maires? qui veut... 26 mars 2007 だった。大統領候補の一人ジェラール・シヴァルディ氏が「市町村長の候補」le candidat des mairesを名乗っているのは事実と違うとして、AMF(全国市町村長会)が訴えを起こした。AMFは特定の候補を支持しない。誤解を招くからやめてくれ。
シヴァルディ氏は石工親方で、マイヤックMaihac(地図)村長。元社会党、無所属、トロッキスト系PT(労働者党)の支援を得る。欧州統合に反対、全国で36.000のコミューンと公共企業、政教分離を守れ!をスローガンとする。(evene.fr のBiographie de Gérard Schivardi
さて「リベ」の写真で氏が肩から掛けている三色のあれは一体何というのか。
écharpe tricolore (代議士・市町村長の)三色綬 (Le Dico 白水社)
式典など特別の機会に掛けるものらしい。市町村長のは金の房、助役用のは銀の房で値段も違う。(mâts.drapeaux.PLV

掛け方にも決まりがある。エクサン=プロヴァンス市会議員リュシアン=アレクサンドル・カストロノヴォ氏(PRG 左翼急進党)のブログ(30 janvier 2007 De quoi écharper le maire)は、写真の市長は綬を?le bleu au col?(青が襟に接するように)でなく、赤が上になるように掛けている、これは間違いだという。

他の二人の女性議員の掛け方が正しい。しかし議員がこれを掛けるのは、市長が不在で代理を務める場合に限られる。彼女たちもルール違反をしている。市会議員が車のフロントガラスに三色のステッカーcocardeを貼っているが、これも国民議会の議員にしか認められていないという。

マリーズ・ジョワサン=マジニ市長はUMP所属、国民議会議員との兼職。サイトhttp://marysejoissains.com/

もともと「旗竿から青、白、赤の順」?bleu, blanc, rouge, à partir de la hampe?が決まりだから、青が上に来るほうが「論理的」だと言われればなるほどと思う。しかし国民議会議員の場合は逆に赤が上らしい。100年以上続く伝統だと、これはタルン選出の議員フィリップ・フォリオ氏(UDF)が書いている(Port de l'écharpe tricolore)。市長兼国民議会議員の場合、?c'est le mandat national qui prévaut.?(国民からの委任が優先される)、市民よりも国民の委任を受けた者として、この向きにするわけだ。

カスロトノヴォ氏のブログに戻りよく見ると、下に「細かいことを言いすぎるのはすごく体に悪い」trop de pointillisme nuit gravement à la santé と題したマリク・メルサリ氏(ヴィトロール市助役 共産党)のコメント。兼職のジョワサン=マジーニ市長の三色綬には、何ら問題がないという。
しかし、とカスロトノヴォ氏の反論、問題の写真は結婚式を撮ったものだ。彼女は市長、officier d'état civil(戸籍管理責任者)としてあの場に臨んでいるのである。なるほど。


サルコジ氏の騎士叙任adoubement ニュース記事の中世

2007-03-24 22:38:13 | インポート

Jacques Chirac adoube Nicolas Sarkozy
Dans une brève allocution télévisée, le président a annoncé son soutien au candidat de l'UMP. Nicolas Sarkozy quittera le gouvernement le 26 mars prochain. (Marianne - 21 mar 2007
ジャック・シラク、ニコラ・サルコジを騎士叙任
テレビで放映された短い声明で、大統領はUMP候補への支持を表明した。ニコラ・サルコジはこの3月26日に内閣を離れる。

ちょっと前には Sarkozy pas encore adoubé サルコジ、いまだ騎士叙任を受けず(RTL 12/03/2007

「封土」fief (選挙地盤 fief électoral)「宗主」suzérain 「臣下」vassal 「逆臣(裏切り者)」félon など、フランスの政治報道には中世社会を思わす表現が見受けられる。

手か剣の腹で軽く肩を打つ「騎士叙任」adoubementの儀式。は「ランスロの騎士叙任式」(BNF) 

『トリスタン・イズー物語』(ベディエ編 佐藤輝夫訳 岩波文庫)で、トリスタンは父と母の死により、生後まもなく臣下の軍将ロワールに引き取られる。7年経ち「トリスタンを婦女たちの手からひきはなすべきころ」が来て、ロワールは盾持ちécuyerのゴルヴナルにトリスタンの騎士教育を任せる。

ゴルヴナルは、数年のうちに、およそ公達たるものの必ず心得おかねばならぬ、諸芸の道を教えた。彼は、槍や剣や盾や弓を扱う術や、投石のわざを授け、広い濠をも、一とびに跳びこす法も教えた。彼はまた、虚言と叛逆とはいっさいしりぞくべきものであり、弱い者をたすけ、ひとたび誓った約束は、必ず守るべきものであることを諭した。さらに、彼はいろいろな歌のうたいかたや、琴の弾きかたや、狩猟のしかたをも教えた。

信頼のできる人間が代父parrainを務める。小姓pageから盾持ち、やがて20歳になった青年が騎士と認められるのが「叙任」だった。(Fabrice Mrugala氏のmedieval.mrugala.net  中世用語集 L’adoubement du chevalier

前日から斎戒沐浴、礼拝堂で代父に付き添われ夜を徹して祈る「徹宵(てっしょう)祈祷」veillée d’armes、これも「一大事の前夜」の意味で(Veillée d’armes au Parlement européen Le Web de l'Humanité)用いられる。

日本でも疑惑の渦中の人物が「天地神明に誓って」潔白を主張することはあるが、さすがに「ああもう、盟神探湯(くかたち)でも何でもやってくれ!」と口走ったりはしないようだ。今度は?ordalie?(神明裁判)の例。

社会党のファビウス氏はいわゆる「汚染血液事件」(首相時代にエイズウイルスに汚染された血液製剤により血友病患者が感染)で他の二人の閣僚と共に責任を問われた。

Sa mise en accusation dans l'affaire du sang contaminé a tout changé en lui. ? Tout. ? A l'un de ses anciens conseillers, il dit un jour qu'elle est pour lui une ? ordalie ?, ce rituel par lequel la vérité se révèle. ? Humanisé ?, ? plus détaché ?, aux dires de l'entourage, il va jusqu'à forcer son naturel réservé dans un livre-confession, Les Blessures de la vérité (1995). (?Trois ministres sur le banc des accusés - La blessure de Laurent Fabius?, Le Monde 06.02.99)
汚染血液の事件で告発されたことは、彼のすべてを変えた。ある日、元顧問の一人に、告発は自分にとってひとつの「神明裁判」、それによって真実が明らかになるあの儀式だと言う。このことで「人間味が出てきた」、「達観するようになった」と周囲の声、告白本『傷ついた真実』(1995)では、生来の慎重さから敢えて踏み出し語ることになる。

(詳細は「汚染血液問題で元閣僚裁かれる」OVNI 01/03/99

大統領や閣僚の刑事責任を裁く共和国法院は、最終的にファビウス氏とジョルジーナ・デュフォワ元社会問題・国民連帯相を放免、エドモン・エルヴェ元厚生副大臣は有罪、ただし罰を免除された。

『トリスタン・イズー物語』第12章「灼鉄の裁き」で、不義の罪に問われたイズーは、焼けた鉄を手に持つことで身の潔白を明かさねばならない。

・・・鉄は真っ赤に灼けていた。彼女は熾の中に両の素手を突っ込んで、鉄を握った。それから九歩あゆむと、それを投げすて、掌をあけて、腕を十字にひろげて立った。みれば彼女の掌は、梅の木の生梅よりも綺麗であった。
 このとき、すべての人々の胸の奥からは、神をたたえる感嘆の叫びごえが天にむけてどっと上がった。

『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』にはこの種の裁きのパロディがあるというが(”Parodies of trials by ordeal”Wikipedia)「灼鉄の裁き」でのイズーの策略も、神明裁判の冒涜すれすれである。最初adoubementで画像検索した時、いちばんおかしいのはこの写真だった。

英語のordealは「つらい体験、苛酷な試練」の意味でごく普通に用いられる。Cat recovers after river ordeal (CBBC April 28 2006)  は、スコットランドで袋に詰め川に投げ込まれた子猫が泳いで岸までたどりついたという子供向けニュース。
神明裁判では「火の裁き」以外に「水の裁き」も行なわれた。言葉の古層は、記者にも読者にも、どの程度意識されているだろう。
フランスで政治家の「後継者」をdauphin(王太子)と呼ぶように、言葉の歴史的意味が希薄化し、単に比喩として用いられる時、翻訳もむずかしくなる。冒頭の見出しも、「ニコラ・サルコジに支持を表明」のほうが、ぱっと見た時のまぎらわしさは避けられる。その代わり表現の面白さは消えてしまうだろう。


作家トロワイヤの死(2)

2007-03-20 10:21:52 | インポート

トロワイヤの訃報を知らせる記事がお決まりのように言う「SOFRESの世論調査でフランス人がいちばん愛する作家」、1994年の調査(France 2)だとすればこれは別物かもしれないが、?Une étude SOFRES - France-Loisirs - " le Monde " Les millionnaires de la lecture?(LE MONDE | 22 juin 1990)には

Henri Troyat est " l'écrivain français le plus important du vingtièmèsiècle ". Telle est l'opinion de nos concitoyens. Les personnes interrogées avaient la possibilité de citer cinq noms. En fait, très peu l'ont fait _ par hésitation ? par ignorance ?, _ la plupart se limitant à un ou à deux. L'auteur de la Gouvernante française, qui figurait à la onzième place dans la liste des livres les plus lus cette année, est cité par 11,1 % des personnes interrogées, loin devant Camus (7 %), Sagan (6,3 %), Sartre (5,8 %), Sulitzer (5,4 %), Bernard Clavel (5,3 %), Pagnol (5,1 %), Decaux (4,6 %). Viennent ensuite Bazin, Malraux, Bourin, Deforges, qui précèdent Mauriac et Simenon.

アンリ・トロワイヤは「20世紀でいちばん重要なフランス作家」である。これがフランス人一般の意見だ。回答者は作家を5人まで挙げることができた。実際にはそれだけ挙げた人はごく少数で―迷ったのか、知らないのか―ほとんどは1人か2人にとどめている。今年最も読まれた本のリストで11位だった?La Gouvernante française?(フランスから来た女性家庭教師)の著者を、回答者の11.1%が選んでいる。カミュ(7%)、サガン(6.3%)、サルトル(5.8%)、シュリッツェル(5.4%)、ベルナール・クラヴェル(5.3%)、パニョル(5.1%)、〔アラン・〕ドゥコー(4.6%)。次に〔エルヴェ・〕バザン、マルロー、〔ジャンヌ・〕ブーラン、〔レジーヌ・〕ドゥフォルジュ、これにモーリアックとシムノンが続く。

ランキング上位にはプルーストもセリーヌもジッドも挙がらない、フランス人の「文学的記憶」は「この上なく移ろいやすい」という。今ならどんな結果になるか。年代や社会階層による違いもあるだろう。ジャンルとしての伝記の人気も、一時ほどではない。

トロワイヤの?Juliette Drouet ?(Flammarion, 1997)は、先行する伝記(Gérard Pouchain et Robert Sabourin,?Juliette Drouet ou la dépaysée?)からの盗用があるとして1998年、訴訟を受けた。パリ大審裁判所では無罪(2000)、しかし控訴院判決はトロワイヤと出版社に罰金の支払いと本の販売停止を命じる(2003)
翌年、トロワイヤが破棄院への抗告を取り下げたのを受け、アスリーヌがブログで取り上げた( Troyat avait bien recopié

寄る年波に(彼は1911年生まれだ)伝記の執筆に必要な調査の努力とエネルギーを欠くようになり、自身の『ジュリエット・ドルーエ』を書いた時には、いささか同業者からの剽窃をやりすぎた、とでも言おうか。 
(・・・)従って、アカデミー・フランセーズの最古参者に規約の第13条、「名誉を重んじる者にふさわしくない何らかの行為を会員が行なった場合、過ちの大きさにより出席停止か除名とする」を適用するような無粋で執拗そのものの行ないは、誰もしないはずだ。

大きな反響を呼んだ事件ではなかった。抗告取り下げもLe Mondeは記事にしていない。伝記作家アスリーヌは「同業者」としての自負と自戒の念をこめたのだろうが、コメントも(このブログにしては)少ない。

トロワイヤは高齢でそれが無理になるまで、原稿を立って書いた。伝説的な書き物台écritoireを前に執筆中の写真がParis-Match記事(ページ下)に。
写真が撮影されたブロメイユの別荘を、トロワイヤは?La Dérision?(笑うべき、取るにたらぬもの)と名づけたという。虚無の感覚が、ロシア革命と亡命の体験から来ることは、自身繰り返し語っている。『仄明かり』 Faux jour の出版に際して筆名トロワイヤを名乗ることさえ、青年レフ(レオン)・タラソフには何か特別の重さで感じられたようだ。

彼はパリの電話室で、三分足らずの間にアンリ・トロワイヤとなった。電話の相手は、原稿に目を通し虜(とりこ)になったプロン社のモーリス・ブールデル。「ペンネームを使うことをお勧めします。タラソフはよくない」 思案する、略してみる。タラ?トラ?「レオン・トロワイヤはどうでしょう」、青年は提案する。「レオン?もっと良いのがありませんか」と編集者は迫る。「それならアンリは?」口ごもりながらレオンは言う、まったくの思いつき。
『仄明かり』の著者は筆名で電話室から出た、ぺてんを働いたような激しい感情から、どんな時にも逃れられないだろう。本の成功、「ポピュリスト大賞」の受賞まで、時間はかからなかった。しかしこの権利剥奪、呪い、力を奪われることの眩暈(めまい)は、トロワイヤの主人公たちすべてに付きまとうだろう。( "Cette fragilité têtue, humiliante, indomptable" par Jean-Louis Ezine, Le Nouvel Observateur) 

『蜘蛛』(福永武彦訳 新潮文庫 1951)の訳者あとがきには

『蜘蛛』の中にある虚無的な絶望感は、日本の小説からは縁の遠いものだが、戦後の日本の読者にとっては必ずしも縁遠くない。作者が、そうした若いインテリゲンチャの救いのない悲劇を作品として構想したことに、どういう意味を見出せばいいか。

主人公の青年ジェラアルは、部屋に閉じこもって英国の探偵小説を翻訳し、「悪」についての哲学論文を書いている。
三人の姉妹がやがて結婚し家を出て行くのを何とか妨げようと、青年は躍起になる。

そしてジェラアルは思い出した。子供の頃、姉妹に近づいて彼女等を陽気に笑わせているような奴は、誰でも皆ひどく虫が好かなかったことを。ある時エリザベエトが、同じ年頃の少年と一緒に自転車に乗って遊びに行ったことがあった。その時ジェラアルは窒息して死ぬつもりで押入れの中に忍び込んだ。運よく人が彼を見附け出してくれた。彼は広間の長椅子の上に寝かされた。そして母親が冷たい水に浸した手拭で、彼の顔をやさしく撫でてくれた。「どうしてあんな処に隠れたの」 彼は決してそれに返事をしなかった。(p.123-124 漢字・仮名遣い一部変更)

ジェラアルは過去を追慕する、「彼には姉妹たちが必要だったのだ。姉妹たちがいなければ彼は生きて行くことができない。昔は高らかな声と、優美なドレスと、長い髪とに充ちていたこの家も、今は人生が潮のように引いて行った後の、幽かに潮の香を伝えるにすぎない貝殻となるのだろうか。」(p.231)

アルフォンス・アレかトポールなら、一人の変な男の物語として、ずっと短く効率の良い作品に仕上げただろう。青年の策略は、何かもっと不条理で、唖然とさせるものでないといけない。猫のように音を立てず家の中を歩くジェラアルが妹を驚かせるところ、母親の死と埋葬、それらの断片は、より「幻想怪奇」的に書かれた『蜘蛛』を想像させる。
バロニアンのフランス幻想文学史(J.B.Baronian, ?Panorama de la littérature fantastique de langue française? Stock, 1978)は「大衆的幻想ルネサンス」の見出しで、トロワイヤの短編集?Le Geste d’Eve?とその先駆けとしての?La Fosse comune?(邦訳『ふらんす怪談』)を、フレデリック・ダールの?Histoires déconcertantes?)→拙文などと一括りにしている。

前出エジーヌの記事に出てくるトロワイヤ1942年の長編?Le Mort saisit le vif?(死者は生者をとらえる)(*1)では、「あまりスケールの大きくない作家が、知られざる天才の未亡人と結婚し、故人の作品を自分の名で発表する」 

疑惑と裁判は、トロワイヤ晩年の静かな生活を乱しただろう。しかし過去に書いた物語を思わすような事件の到来には、運命的なものを感じたのではないか。

19世紀末から20世紀半ばにかけ、宿命論と黒い笑いを共通項に、ある文学的系譜を描くことができる。ダールの短編集に序文を書いたフランソワ・リヴィエールは、そのことに気づいていた。

(*1)本来は法律用語、「相続人は死者の遺産を直ちに与えられる」といった意味。小説の内容をほとんど忘れているのでこの訳で適当かどうか。『蜘蛛』訳者あとがきでは「死者は生者を掴む」


作家トロワイヤの死

2007-03-08 21:20:20 | インポート

トロワイヤの死ボードリヤールの死、同じ「リベラシオン」の記事でも読者コメントのつきかたが、はっきり違う。

記事が言うように今やトロワイヤはフランス人にとって「おばあちゃんのごひいき作家」 le chouchou de leur grand-mère なのか?

A part l'Araigne, prix Goncourt 1938, huis clos familial, les titres des romans de Troyat ne viennent pas spontanément à l'esprit. En revanche, demandez autour de vous, la fréquentation de telle ou telle de ses biographies a laissé de bons souvenirs.
1938年のゴンクール賞受賞作、出口のない家庭悲喜劇『蜘蛛』を除けば、トロワイヤの小説の題は、ぱっと思い浮かばない。その代わり、あなたのまわりの人に尋ねてごらんなさい、伝記作品のあれやこれやに接し、快い思い出になっているはずだ。

Quid.frの記事には小説と伝記合わせて100冊余りの著作リスト、関連リンク。

「アンリ・トロワイヤはロシア生まれのフランス作家であるが、いわゆる前衛的な観念や手法を用いず、手堅い伝統的なロマネスクをつくるので、一部に根強い支持者を持っている」(澁澤龍彦『怪奇小説傑作集 4』創元推理文庫)
ガエタン・ピコンの『現代フランス文学の展望』(02/13)に、トロワイヤの名はない。シムノン同様、旧来の小説形式を守る作家として、名前ぐらいは挙がりそうに思ったが。

1930. Léon Tarassoff a dix-neuf ans lorsque, sur les conseils d'André Maurois, il envoie son premier manuscrit à la NRF. De Jean Paulhan, il reçoit cette réponse étonnante : " Je ne sais si je m'habituerai à votre style, ni si votre style s'habituera à moi. " Déçu, il propose son récit à Robert de Saint-Jean, rédacteur en chef de la Revue hebdomadaire, qui le couvre d'éloges et le publie immédiatement. " Qui devais-je croire, ne cessera de se demander le jeune écrivain, celui qui m'encensait ou celui qui me montrait la porte ? Cette question n'a jamais été résolue pour moi. "
1930年。レオン・タラソフは19歳、この年アンドレ・モロワの勧めで最初の原稿をNRFに送る。ジャン・ポーランからは驚くべき返事―「私は貴方の文章になじめるでしょうか、そして貴方の文章は私になじめるものでしょうか」 落胆してその物語を週刊誌「ラ・ルヴュ・エブドマデール」主筆ロベール・ド・サン=ジャンに見てもらうと、絶賛し、すぐに掲載してくれた。「誰を信じればよかったのか」、青年作家は自問し続けるだろう、「褒めちぎる人か、追い帰す人か。私にとってこの疑問はいまだに解けていないのです」
(?Henri Troyat, l'éternel débutant ? Le Monde 23/04/04 )

永遠の新参作家トロワイヤ? 無用の謙遜とも思える言葉だが、

?Le succès ne signifie rien. Je sais de quoi je parle : au matin de ma vie, j'ai vu mes parents tout perdre sur un revers du destin, j'ai retenu la leçon. Je suis un homme d'ombre et de travail. ?
成功は何も意味しません。自分の体験から言うのです。人生の初めに、両親が運命の逆転回〔ロシア革命〕で何もかも失うのを見、教訓としました。私は陰と仕事の人間です。
(?Henri Troyat, la fin d'une histoire russe ? Le Figaro 05/03/07)

Pierre Ier, Alexandre III, Nicolas II,… ses biographies somptueuses qui se lisent comme de purs romans ont jeté un pont entre la France et la Russie, entre la littérature et l’Histoire, changeant le regard de générations de lecteurs séduits par son style et la richesse de ses récits.
ピョートル一世、アレクサンドル三世、ニコライ二世、生粋のロマンとして読める壮麗な伝記は、その文章、物語の豊かさに魅了された何世代もの読者に、別の目で物を見ることを教え、フランスとロシア、文学と「歴史」の間に、橋を架けました。(ルノー・ドヌデュー・ド・ヴァーブル文化・コミュニケーション相

トロワイヤは1960年のアカデミー・フランセーズ入会演説で、前任者クロード・ファレールへの讃辞を、こんなふうに切り出す。

Par une nuit chaude et immobile du mois de juillet 1896, dans le dortoir du navire école le Borda, un élève, tourmenté d’insomnie, sauta de son hamac, s’habilla en silence, et, laissant ses camarades assoupis dans leurs nacelles de toile, telles des chauves-souris suspendues au plafond, alla se réfugier dans l’amphithéâtre des conférences.
1896年7月の暑い、すべてが停止したような一夜、海軍実習船ル・ボルダの共同寝室で、一人の生徒が眠れぬ苦しさに、ハンモックから飛び降り、黙々と服を着、天井からぶら下がった蝙蝠のように布のゴンドラで熟睡している仲間たちを残して、会議用階段教室に逃げ場を求めた。

海軍士官でもあったファレールの人生を、トロワイヤは聴衆を惹きこんだはずの巧みさで物語る。コクトーの入会演説が一種の綱渡りなら、こちらは故人の作品と生について、確かな見識を感じさせる。作風は正反対のファレールとロティを、経歴が似ているというだけで一緒にしたがる傾向にも、批判を挿む。

1932年5月2日、「復員作家協会」l'Association des Ecrivains Combattants のブックフェア会場で、ポール・ドゥメール大統領が銃撃を受け殺される。犯人は白系ロシア人だった。 トロワイヤは「悲しみと恥と怒り」を感じる。この時居合わせた一人の作家が、大統領を守ろうとして弾を受け負傷した。冒頭で述べられたこの逸話の、負傷した作家がファレールであることは、終わり近くでさりげなく明かされる。

Pareil aux vieux conteurs arabes qu’il avait rencontrés, Claude Farrère a voulu, jusqu’à son dernier souffle, imaginer des fables et les répandre autour de lui pour notre délassement. À une époque où trop d’écrivains croiraient déchoir s’ils n’apportaient au monde un message politique, mystique, esthétique ou social, il a eu le naïf courage de n’être qu’un romancier.
クロード・ファレールは彼が出会ったアラブの老いた語り部のように、生涯お話を想像し、広く分ち与え、私たちを楽しませようとしました。あまりに多くの作家が、世界に政治的、神秘的、美学的あるいは社会的なメッセージを送らねば沽券にかかわると信じていそうな時代に、ただ小説を書く人間でいるという素朴な勇気が彼にはありました。

 ブロメイユBromeilles(地図)に別荘があったトロワイヤは、ロワレ県会サイトのインタビューでも

Au fond, il y a dans tout écrivain et surtout dans tout romancier l'enfant qui ressort, l'enfant qui a besoin de se raconter des histoires et d'en raconter aux autres. Je pense que pour être écrivain, il faut avoir une énorme somme de naïveté car il est nécessaire de croire à ses personnages. Il faut être un peu dévissé pour ça.
実際すべての著作家、特にすべての小説家は、大人になっても内部の子供が顔を出します、その子は自分に、他の人に、お話がしたくてたまらないのです。著作家であるには途方もない素朴さが必要です、作中人物を本気で信じなければならないのですから。それには少々頭のねじがゆるんでいないといけません。

サロートの言う「不信の時代」にあって物語る楽しみ、素朴さを擁護すること。それはしかし前出「フィガロ」記事の、伝記と小説を対比した発言? La biographie me repose, elle me frustre aussi beaucoup. Je préfère les dangers du roman. ? (伝記は〔小説からの〕休息になりますが、また不満も大きい。私は小説の危険のほうを好みます)と並べてみるべきだろう。自由だが不安を孕み、技術を要するが技術だけでも足りない、大人の仕事としての創作。


捨て子のユートピア

2007-03-03 11:09:18 | インポート

メルシエは『十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ』で書く。

こういう捨て子たちをみな兵隊にしようと提案する者もいた。野蛮な計画だ!子供を育ててやったからといって、その子を戦争の犠牲にする権利があるのだろうか?子供を育てておいて、その子に血を流すことを求め、その意志に反して自由を奪い取ろうなどという慈善は、非人間的な慈善ではないか。全市民が無差別に兵隊になるのならともかく、誰ひとりとして兵隊として生まれついている者などない。(岩波文庫 (上) p.356)

Lisieux電子図書館のDELRIEU, André : Les Enfants-Trouvés, (1831) は例の「回転式捨て子受け渡し口」の記述も興味深いが、次の箇所が注意を引く。

...Mercier assure, dans son Tableau de Paris, qu’on parla long-temps du projet d’embrigader l’hospice, et de baptiser soldat tout enfant-trouvé. C’eût été une éducation à la Frédéric, la conscription au ventre. Le projet échoua, comme tant d’autres.
メルシエは『タブロー・ド・パリ』で、養育院を軍隊化し、すべての捨て子を兵士と名づける計画が長い間、評判になったと明言する。〔実現すれば〕フリードリヒ〔2世〕風の教育、お腹の中からの徴兵となっただろう。計画は失敗した、これと似た多くの計画と同様に。

メルシエは別のところ(p.358)で言う、「プロシャでは、未婚の母も皆自分の子を育てる、しかも堂々と育てている。自然の厳かな務めを果たしている彼女らに、侮辱の言葉を浴びせかけるような者は、罰せられるそうである」メルシエは、こういう気風を国民に植えつけたことを「哲学王」フリードリヒの業績と讃える。
並行してDelrieuも、「ああ!なぜ私たちはスペイン人プロシャ人でないのか!もしそうなら、子供が≪拾われ≫るようにと、女たちがわざと子捨てをするのが見られるだろう。マドリードでは、すべての捨て子は嫡出子とみなされる。その結果私生児が路上にひしめいている。プロシャでは、兵士たる君主(prince soldat)従って住民をいたわることにも長(た)けたフリードリヒ大王の治世に、未婚の母たちは人目もはばからず授乳をし、社会的にも既婚婦人に並ぶ扱いを受けた。それはギリシャ人のやりかたの再興だった。フリードリヒが哲学君主として知られたことも急いで付け足しておこう。筆者はプロシャに旅したことはない。だがこの大王の人道主義的寛容は、廃れてしまうかもしれない」

捨て子の兵士化を「野蛮」と呼ぶか肯定的に捉えるかの違いがあるが、二人が共にこの「哲学君主」に言及していることは(まだその意味はよくわからない)重要な気がする。

「計画」がいつ、どんな人に提唱されたのかメルシエの文でははっきりしない。しかし捨て子を、父親のない一人の「国家の子」とする、これはユートピア文学ではおなじみの発想でなかったか。

レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの書簡体小説『ポルノグラフ』(植田拓ニ訳 「ユートピア旅行記叢書」(15) 岩波書店)には、公共の売春施設=共同体「パルテニオン」の構想が示されている。「施設で生まれた子供の境遇」(p.69)に箇条書きにされた中から引けば、

(四)両親に認知されないすべての子供は国の子供と見なされ、かかる者として将来は国に奉仕する。言いかえれば、彼らは国に奉仕する体格の持ち主とされるはずである」(五)すべての子供は、八歳で最初の選抜を受ける。体格のよい子供は、幼年期から訓練される軍隊の構成員になると定められる。この軍隊は王国のあらゆる慈善施設にひしめく孤児の参加を得て、農民義勇軍を補完する。