発見記録

フランスの歴史と文学

着物とキモノ アルフレッド・ステヴァンスとジャポニスムの時代

2006-08-28 10:44:30 | インポート

Astevens 写原さんの「ちょうど100年前のフランス雑誌瞥見」ー画家ステヴァンスの死 1906年8月24日で、アルフレッド・ステヴァンスの作品"La Parisienne japonaise"(1872 画像は(c)Mamac&Ced  こちらでもお借りする)を見る。

鏡の使い方が洗練されていて、不思議な魅力がある。
兄のジョゼフ・ステヴァンスについて調べた時は、アルフレッドまで注意が回らなかった(挿絵にどの犬の絵がいいか、そればかり考えていたように思う)

メトロポリタン美術館には"The Japanese robe"
としてこの絵の別バージョンが。

ジャポニスムの時代の絵画・写真で、欧米の女性が日本の着物を身につけたものを年代順に並べてみる。

James McNeill Whistler - La Princess du pays de la porcelaine 1863-1864

Claude Monet - La Japonaise 1876

George Hendrik Breitner - Meisje in witte kimono(「白い着物の娘」) 1894

Paul Burty Haviland - Japanese Lantern 1908

Guy Rose - The Blue Kimono 1909

欧米の女性が、という条件から外れるが
Ruppert Bunny - Madame Sadayakko as Kesa c.1907

これだけ?kimonoをキーワードに探すだけでは、限られてしまう。
とここで児玉実英『アメリカのジャポニズム 美術・工芸を超えた日本志向』(中央公論新社、品切れ、電子本が数種出ている)を見たら、ほんとにいくらでも例がありそうで、とたんに意欲がなくなってしまった。


アルトー『神の裁きと訣別するため』

2006-08-25 21:42:40 | インポート

ロジェ・グルニエは近年、文学史の生き証人、「誰それを知る最後の人」として取材を受けることが多いと言う。
対談集Le droit de se contredireでも、カミュやパスカル・ピアを筆頭に友人知己の思い出を語っている。

河出文庫で読めるようになったアントナン・アルトーの『神の裁きと訣別するため』Pour en finir avec le jugement de Dieuについては、

当時ラジオ局で、大きな騒動がありました。アルトーの番組『神の裁きと訣別するため』です。フェルナン・プーエFernand Poueyがアルトーにこの番組を依頼したのでした。アルトーは、当時としてはべらぼうなテクストを書きました。スカトロジックで反米的で(戦後まもない頃にです)冒涜的と来ています。私は録音に立ち会いました。出演はマリア・カザレス、ロジェ・ブラン、ポール・テヴナンにアルトー自身。アルトーはスタジオにヒステリーの雰囲気を作り出すのに成功していました。女性たち[カザレスとテヴナン?〕は床を転げ回り、マイクも床の上に置かれていました。(Il [Artaud] avait réussi à créer un climat d’hystérie dans le studio.Les femmes se roulaient par terre, on avait mis des micros sur le plancher.)局長のヴラディミール・ポルシェVladimir Porchéが放送を禁じました。放送するべきか否か、著名人を集めた公聴会がありました。皆が声を合わせて、するべきだと言いました。ポルシェが差し止めを撤回しないのはみんな承知しているだけに、言いやすかったのです。(Cela leur était d’autant plus facile qu’ils savaient que Porché ne reviendrait pas sur l’’interdiction.) 海賊版が出回りました。その後、放送も行なわれました。今では騒ぎにもなりません。アルトーに会ったのはこの時だけです。彼は重病で、それからまもなく亡くなりました。

グルニエはラジオの世界をFidèle au poste でも回想している。1947年8月1日、国営ラジオla Radiodiffusion française の文学・演劇番組制作主任となったばかりのプーエは、マルク・ベルナールMarc Bernard(1900-1983)イヴァン・オードゥアールYvan Audouard (1914-2004) グルニエの三人をLa Coupoleに招集して言った、?Je crois qu’on va bien s’amuser.?(さあ面白いことができそうだぞ)

グルニエは、プーエが編集長のLe Clouに記事を書いたことがある。この週刊誌は何号かしか続かなかった。弁護士で絵を描き、アコーディオンも弾くプーエは、戦前からParis Soir紙系列のRadio 37創設を任されるなどの経歴を持つが、「辞職する」?Je démissione.?が口癖、辞めたり首になったりを繰り返していた。

フェルナン・プーエは友人に囲まれないと仕事ができなかった。新しい職に就くたび、幸せいっぱい仕事を始める。愛情と友愛と調和に包まれ、幸福な日々を送る。だが少し雲行きが怪しくなると、すぐ辞職してしまった。彼がやって来て、礼をするダンサーのように両手を広げ、晴れ晴れした顔で「辞めた!」と言うのを、私は一度ならず目にした。

 
オードゥアール、ベルナール、グルニエ。南仏人という以外共通点のない三人組は、週一度の番組Littératureを通して親友になる。テーマ曲はヘンデル「王宮の花火の音楽」から。つなぎのところは、アンリ・クロラHenri Crollaがギターの即興。1947年10月には、グルニエとベルナールがジッド宅まで重い機材と共に録音に出かけた。

『神の裁きと訣別するため』は、1948年2月2日、シリーズ番組「詩人たちの声」La Voix des Poètesで放送予定だった。直前の禁止、5日の公聴会(ジャン=ルイ・バローやルネ・クレール、コクトーなどの面々)、ポルシェは譲らず、プーエはまたしても辞職することになる。

プーエはグルニエたちにLittératureを任せた時、好きなようにやれと白紙委任を与えたが、一つ条件があった。詩人のアンドレ・ド・リショーAndré de Richaudをゲストに呼ぶこと。

アル中で、ほとんど浮浪者のようなアンドレ・ド・リショーが、あるパーティーの最中に浴室でオーデコロンを飲むのをグルニエは見た。
Radio 37でプーエの番組に出たとき、彼はどれほどむきになっても?psychologique?と言えなかった。
スタジオに招かれたアンドレ・ド・リショーは、今度も?psychologique?と言うことができなかった!

あの頃のラジオには、後の時代にはもう見出せない自由があった。グルニエはそんなふうに追想する。結局差し止めになったとしても、アルトーの途轍もない作品が放送一歩手前まで行ったこと自体、時代を物語るものかもしれない。

アルトーたちの声で全体を聞くことができるUBUWEB のhttp://www.ubu.com/sound/artaud.html 
またテクスト http://drone-zone.org/room101/viewtopic.php?t=612&sid=0ff41c467880fd1f168050361ef34f4c

放送差し止めの経緯など河出文庫の宇野邦一、鈴木創士氏による解説と
http://palomar.hostultra.com/monk/programmes/1947-1948.html
を参考にさせていただいた。


グルニエ「ピアフとコクトーが・・・た日」Le jour où Piaf et Cocteau...

2006-08-20 10:02:43 | インポート

写真 Paris-Match 1963年10月19日号 (ebay.fr)

ピアフとコクトーが同じ日に亡くなったのは、グルニエ『別れの時』の短篇Le jour où Piaf et Cocteau...を読むまで知らなかった。

新聞社に勤める「私」は10月11日朝、電話の音で目を覚ます。

?Qu-as tu fait de la nécro de Piaf ? Parce que, cette fois, elle est morte pour de bon.? (ピアフの死亡記事はどうした?今度は本当に亡くなったんだからな)

ピアフは公演の最中に倒れたこともあり、ツアーにはもしもの時に備え記者が派遣されるほど、死亡記事はすでに用意されていた。何度も書き直され、地層のように複数の記者の文体を認めることができた。

語り手の仕事はrewriterで、記者reporterたちの文章に最終的に手を入れる。グルニエ自身、France Soir紙のrewriterだった。

超多忙で、編集室にクロード・プレヴァルClaude Prévalが現れたのも気づかずにいた。クロードは戦前から美貌の女性ジャーナリストとして知られた。レズビアンで、ワグナーの縁者に当たるドイツ人歌手と同棲。今は酒浸りで社内でも「早く言えば、ほされていた」(Bref, elle était au placard.)
夕方、コクトーの死の報せ。ピアフ=コクトー追悼特集のため、詩人と知己だったクロードが記事を任される。コクトーのインタビュー記録を元にするはずだった。しかし真夜中になって、クロードは悪びれるでもなく何も書けていない、インタビューは失くしてしまったと言う。

波乱の多い、どこかはらはらさせるする人物の人生を語り手が付かず離れず見守り、時には窮地を救う。このパターンは今度の短編集の「オスカルの娘」La fille d’Oscarにも見られる。
逸話に富み、光と影の対照が鮮やかで、伝説化にふさわしい人間と、彼らの生を記憶し記録する者。

ピアフは10月10日、南仏グラスGrasseに近い村プラスカシエPlasscassierで亡くなり、死が公表されたのが11日だという。パリで死にたいと望んだ彼女の遺体は、夜の間にブールヴァール・ランヌLannes(16区)のアパルトマンに運ばれ、翌日医師による死亡認定が行なわれた。11 octobre 1963 - La France pleure le même jour la disparition de
Jean Cocteau et Édith Piaf (Hérodote.net)


ロジェ・グルニエ『別れの時』

2006-08-17 10:20:50 | インポート

サイト更新 ロジェ・グルニエ短編集『別れの時』

今年で87歳というお年、新作が出るたび、ああ元気なんだとほっとする。

母を描いた小説 Andrélie が去年発表されていたのは知らなかった。
チェホフの小説を戯曲化したTrois années もこの春出版、上演されたという。

表題短篇のタイトルLe temps des séparationsは、戦争で多くの男女が別れ別れに暮らしているのを、”Nous vivons le temps des séparations ”と青年が言うので、この箇所こ限れば「時」より「時代」と訳するのがふさわしい。未邦訳の本は「(仮題)」とつけたほうがいいかもしれない。


マルセル・パニョル『ユダ』(5)

2006-08-03 11:11:23 | インポート

イエスは銀貨三十枚と引き換えに売られねばならない。旧約の預言書にそう書かれているからだ。

この論法は無茶である。しかしキリスト教が誕生した時期メシアが預言を≪文字通り≫に成就する者として待たれていたことは、マタイ27から想像することができる。

そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」(新共同訳))

多少ともこれに近い唱句はエレミヤでなく、ゼカリヤ11, 12-13に見つかる。パニョルもエレミヤとしているのは、マタイが念頭にあったか。祭司たちがユダにイエスの居場所を教えるよう迫る第2幕4場で

百人隊長 たくさんだ!さあ、どっちかにしろ。鞭と十字架か。それとも自由と金か。(一人の祭司に)銀貨を何枚か見せてやれ、たぶんそれが目当てさ!
カイファ 金貨で二千デナリオンある。
シモン(動転し)金貨で!(近づき、光る金貨を取ろうとする)おお、これは大事にしまっておきましょう。
ユダ さわらないで!
異邦の男 この人に必要なのは銀貨です。
カイファ なぜだ。
ユダ 聖書を成就するために(Pour accomplir les Ecritures.) 預言者は言いました、「イスラエルの子らによって賞金をつけられた者の代価に、彼らは三十枚の銀貨を与えた。」(Ils ont donné trente pièces d’argent, prix de celui qui a été mis à prix par les enfants d’Israel.)
カイファ 「そして彼らは銀貨を陶器職人に与えた、主がお命じになったように」(Et ils les ont donnés au potier, comme le Seigneur l’a ordonné.) 確かにエレミヤ書の唱句だ。しかし陶器職人はどこにいる?
異邦の男、ユダを指し示す。
ユダ 使徒になる前、私は陶器職人でした。
シモン お前は聖書が自分のことを言っていると思うのか?Et tu crois que l’on parle de toi dans les Livres Saints?
異邦の男 いて悪いでしょうか?Pourquoi n’en parlelait-on pas ?
カイファ ならば、聖書を成就しよう。この者に銀貨三十枚を与えよ!
ユダ デナリオン銀貨三十枚に願います、もしお持ちなら。揃えば天の徴(しるし)です、もう疑う余地はございません。
祭司たち各々金入れの中をかき回す、老シモン、じっとしておれず、
シモン ああ、いかん、それはよろしくないでしょう。まともなロバ一匹、そんな値では買えますまい。おのれをメシアと信ずる者に三十デナリオン!(ユダに)びっこのロバの値で売ったりしたら、お前の友だちの名誉を汚すことになる。

(「銀貨三十枚の物語」と呼んでもいいほどに、この金は繰り返し主題化され、聖と俗、悲劇と喜劇を見事に結び合わす。息子には当たり前の暮らしを望む父シモンの、生活者のリアリズム。友を売れと奨めるシモンが決して道義や名誉の感覚を欠いていず、同時にそれが奇妙な数値化を伴わずにいないことがこの場で示される。わずかな身振りや台詞で人物や場面に奥行きを与える技量の、一例にすぎない)

この台詞の間に、祭司たちは金入れの中を探し終える。
祭司1 四枚ある。
カイファ 五枚。
祭司2 六枚足して、十五枚。
祭司3 七枚で、二十二枚。
祭司4 六枚で、二十八枚。
ユダ 三十枚だ!
カイファ 残りは神殿でやる!
ユダ いや、ここで、今。三十枚要るんだ。

(百人隊長が一枚出すが足りないと頑張るユダ)

百人隊長 〔居場所を教えれば〕死罪は免除、自由の身にしてやろうと言うんだぞ、それをお前は銀貨一枚でつべこべ抜かすのか。
ユダ 最後の一枚が肝心、それこそ神の徴(しるし)なのです。皆様方、お持ちではないので?
異邦の男 ここにある。お前のなすべきことを、ただちになせ。
男、最後の銀貨を与え、カイファが数える。
カイファ お前の望んだ額だ。