発見記録

フランスの歴史と文学

ダニエル・アレヴィ『わが友ドガ』(3)

2006-12-27 21:42:10 | インポート

ドガとアレヴィ家の人たちが絶交にまで至るのは、ドレフュス事件を通してだった。

パナマ事件が政財界を揺さぶる中、1892年にはエドゥアール・ドリュモンが日刊紙La Libre Paroleで反ユダヤ主義を煽り出す。フランスの道徳的衰退を憂うドガのような人に、すべてをユダヤ人のせいにするドリュモンの論調は、わかりやすく説得的だった。

新聞に連載されるアレクサンドル・デュマの歴史小説を愛したドガは、同じ調子でドリュモンの記事に熱中し、無批判に受け容れた(目の悪いドガは、食事中、女中のゾエにそれらを読み上げさせるのだった)

ユダヤ系のリュドヴィックへの気遣いから、さすがにアレヴィ家では言葉を謹んでいたが、若いダニエルとの会話では遠慮のない意見を述べた。

兄のエリ・アレヴィはユルム街の高等師範学校に在学、そこはドレフュス擁護運動の一つの中心だった。学校の図書館司書リュシアン・エールLucien Herrのおかげで、ダニエルたちは真犯人がエステラジーであること、ピカール中佐の左遷などをいち早く知り得た。

1897年11月、アレヴィ家で過ごした最後の晩、議論をよそにドガは堅く口を閉ざしていた。軍の伝統と美徳を信じるドガには、自分たちの知的な理論立てintellectual theorizingは軍を侮辱するものと思えただろう。ダニエルはそんなふうに感じる。夕食の後、ドガはいなくなった。翌日ルイーズ宛に届いた手紙で交際は絶たれる。

フランス語 intellectuel が「インテリ、知識人」の意味を持つようになるのは19世紀末のことだという。しかもそれは「社会に対して講釈をたれる文人」の侮蔑的ニュアンスを含んでいた。この語を、反ドレフュス派はドレフュス派に投げつける。(ブランショ『問われる知識人』安原伸一郎訳 月曜社 訳者解説 この本からブリュンテイェールの言葉を―「たとえ有名であろうと、小説家(ゾラ)が軍の正義〔軍事裁判〕に関わる問題に口を差し挟むことは、ロマン主義の起源の問題について憲兵大佐が介入するのと同じように、私には場違いなことに思われた」)
ドガの批評家ぎらいを思わずにいられない。アントナン・プルーストがLa Revue Blancheに寄せたマネ回想にドガが示した反応は典型で、特に「・・・プルーストはすべて混同している!やれやれ、文人ときたら!いつでも口出しをしたがる!私たちは自分のことは自分で十分正しい評価ができるんだ」 ‘’Proust confuses the whole thing ! Oh, litterary people ! Always meddling ! We do ourselves justice so adequately. ‘’(イタリックは原文)

ドガとの交遊は、完全に途絶えるわけではない。ダニエルはその後も病気のドガを見舞い、1908年にリュドヴィックが亡くなるとドガはアレヴィ家を訪れる。

透徹した知性の代表のように見られるポール・ヴァレリーが、偽書捏造発覚のあと自殺したアンリ少佐の記念碑設立のため、迷った末にではあるが出資する。(ブランショ、前掲書・訳注22) ドレフュス事件は、文字通りフランスの国論を二分した。ドガとダニエルに似た友情の亀裂は、少なからぬ人が体験したに違いない。


ダニエル・アレヴィ『わが友ドガ』(2)

2006-12-26 07:06:46 | インポート

1895年11月4日の日記。ドガは目の病の悪化で、制作も困難になっている。そのせいか、写真を撮るようになった(本書にはドガ撮影の写真が何点か収録。サイトDegas y la fotografía (スペイン語なので私には読めないが)でそれらがまとめて見れる。特にこのページ ドガはダニエルの母ルイーズとも古くからの友人だった)

ドガの目下の関心は、版画の技法、詩―マラルメ風(?)のソネットも書いている―、ステッキにも凝る。精神の活発さは衰えないが、持ち前の陽気さも、今では唐突な、発作に似た現れ方をし、苦みをおびたものになる。ブエノス・アイレスから妹マルグリットの訃報が届くのもこの頃だ。

憤懣の種には事欠かない。カイユボット(1848-1894)のコレクション遺贈をめぐる騒ぎ。カイユボットは遺言で、所蔵する印象派の絵を国に遺贈したが、すべての作品がリュクサンブール美術館、後にはルーヴルに展示されることが条件だった。しかし印象派に反感を持つ政治家、官展派の画家、大半の批評家が、いっせいに反対の声をあげる。その顛末は、名画デスクトップ壁紙美術館 カイユボット《 パリの通り 雨 》の解説に詳しい。
美術品の修復にもドガは賛成できない。ルーヴルのレンブラント『エマウスへの巡礼者』()は、修復の際に大きな改変が行なわれ、批判を受けたという。美術品が老い朽ちるとしても、それは時間が残した爪痕と共に、そのままの形で愛されるべきではないか?ドガはそう感じる。 ''Time has to take its course with paintings as with everything else, that’s the beauty of it. A man who touches a picture ought to be deported. To touch a picture ! You don’t know what that does to me. These pictures are the joy of my life ; they beautify it, they soothe it. ..''

この日の日記に、初めてドガの「反ユダヤ主義」anti-Semitismへの短い言及があるが、それはルーヴルの管理者たちへの怒りと対になっている。''He became passionately anti-Semitic, violent against the Louvre.'') 官僚や美術ジャーナリズムへの憤り。ドガの「反ユダヤ主義」は、それらと並行して激化したようだ。


ダニエル・アレヴィ『わが友ドガ』

2006-12-25 06:45:34 | インポート

コクトーの話(12/22)には、ダニエル・アレヴィDaniel Halévyの名前が出る。アレヴィ (1872-1962)は歴史家、邦訳に『ニーチェ伝』。ペギーとアレヴィの関連についてはさしあたり何も書けないが、幸い"My Friend Degas"(Mina Curtiss 編・英訳 Wesleyan U.P. 1964 )がある。ドガの言行を書きとめた青年期の日記にもとづくこの本は、アレヴィの晩年に"Degas parle"(1960)として出版された。

バイエルンのフュルト(Fürth)生まれのエリ(1760-1826)に始まるアレヴィ家四代の人々は、音楽や演劇、多方面でフランス文化に足跡を残している。ドガはリュドヴィック(1834-1908)とはリセ・ルイ=ル=グラン以来の友、頻繁にアレヴィ家を訪れるドガを、ダニエルは子供の頃から目にしてきた。"Monsieur Degas has just lunched here."と始まる日記(1888年10月26日)からは、16歳の少年が、ドガを交えての会話をどれほど楽しみにしていたかが感じ取れる。"And Degas lunches are for me the greatest feasts imaginable. In my eyes Degas is the incarnation of all intelligence."
芸術に止まらず、あらゆることについてドガは独特の考えを持っていた。読書好きで、『千夜一夜物語』からいくつもお話を語って聞かせることができた。この日の日記には、再読の意義を説くドガの言葉が記されている。多読よりは選ばれた本の精読をドガは奨める。"You must have five favorite books and never abandon them."
少年の目にドガは、「知性そのもの」the incarnation of all intelligenceと映る。知性とは、どうやら楽しげなおしゃべりの場を最良の舞台とするものらしい。それは好奇心と切り離せず、喜びをもたらす何かなのだ。ここにもアレヴィ家の気風といったものが感じられないだろうか。

1996年、オルセー美術館でアレヴィ家の二世紀を辿る展覧会(”Entre le théâtre et l'histoire. La famille Halevy (1760-1960)”として書籍化)が開催された。Le Monde記事(05.04.96)の見出しは”L'esprit d'Halévy Généalogie d'une séduction” (アレヴィの精神 ある誘惑の系譜学) アレヴィ家が一つの「王朝」を成したとしても、その力と長い生命は、銀行にも産業にも、科学にも政治にも依存するものではなかった。
Non, le champ d'élection des Halévy, du début à la fin, c'est la littérature, la langue française, d'acquisition récente, de maîtrise totale, qui donne à leur génie, comme à leur morale, les traits du classicisme. Même Ludovic, dans les emportements de La Belle Hélène ou de La Vie parisienne, n'a pas un mot de trop, pas une expression déplacée.
(いやアレヴィ家の本領は、終始文学に、身につけて日は浅いが完全にマスターしたフランス語にあった。フランス語は彼らの天才に道徳に、古典主義的特色を与える。リュドヴィックさえ、『美しきエレーヌ』や『パリ生活』〔メイヤックと書いたオペラ台本〕の熱狂の中に、一語たりとて余分はなく、場違いな表現は一つもない。)

(この項続く)


タロー兄弟と、コクトーのアカデミー入会演説

2006-12-22 09:49:43 | インポート

写原さんのタロー兄弟にゴンクール賞(1906) (100年前のフランスの出来事)にコメントを書きかけたら長くなり、こちらで「トラバ」にしました。

ジェローム・タローが亡くなった後アカデミーの会員に選ばれたのがコクトーらしく、『アカデミー・フランセーズ入会演説』(1955 東京創元社版全集V)を読んでみました。なかなか故人の讃辞にならず、じらすのを愉しんでいるような調子です、最近までタロー兄弟の本を読んだことがなかったと打ち明けたり。

「シモーヌ夫人」の名に、あっと思いました。同じ巻の『わが青春記』にも「それからあの笑い声!あの大笑い!何と僕らが一緒に笑ったことか!カジミール・ペリエのオアーズ県内の荘園トリ・シャトーで過ごした夏の休暇のことを僕はいま思い出す・・・」(堀口大學訳 『グラン・モーヌ』は「餓鬼大将」と書いてルビ)

アカデミーの演説など必要でもなければ読む機会がありませんが、ルネ・ユイグのカイヨワへの答礼演説は、もっと整然と相手の業績をまとめ、深い共感と理解の感じられる、模範的なものでした。コクトーのはとにかく話がどこへ行くのかわからない。予備知識のない者には、あまり親切ではありません。

 しかし彼らがラヴァショルを敬愛していたにもかかわらず、『ひよわな運搬人夫』と題された作品の構想や、『フリウリのオルフェウス』の草案を読んでみて、あのエルネストとシャルルはアングレームのブヴァールとペキュシェだとつい思いたくなったことを告白いたします。
 ジャンとジェロームになった彼らは、シャルル・ペギーのナイーヴな夢のように見えました。未来の社会主義の使徒と教父といったところでしょうか。(岩崎力訳 ラヴァショルは悪名高いアナーキスト、エルネストとシャルルは兄弟の本名)

 Mais, bien qu’ils admirassent Ravachol, j’avoue qu’en lisant leurs projets de travail : ? Le Coltineur Débile ? et l’ébauche d’un ? Orphée en Frioul ?, je n’étais pas loin de prendre cet Ernest et ce Charles pour les Bouvard et Pécuchet d’Angoulême.

 Devenus Jean et Jérôme, ils m’apparaissaient comme un rêve naïf de Charles Péguy : L’apôtre et le père de la future cité Socialiste.

http://www.academie-francaise.fr/Immortels/discours_reception/cocteau.html

ペギーやバレス、リヨテ、そういう人たちの居並ぶ世界があり、コクトーも聴衆も、タロー兄弟の場所はそこにあると感じているらしい。

「国道は辿らずに道草を食いながら」 sur le chemin des écoliers et sans suivre la route nationale 進むコクトーの話は、一読して楽しさ半分、もやもや半分ですが、刺繍のせいで「緑の」と呼ばれるがあの礼服は黒だ、そう言っているのは嬉しかったです。疑問を感じていたので。


アラン=フルニエ『コロンブ・ブランシェ』Colombe Blanchet

2006-12-20 10:28:59 | インポート

白い鳩を思わす女性の名を表題にした?Colombe Blanchet?(Le Cherche-midi éditeur, 1990 )は、アラン=フルニエの出征と死により未完に終わる。多少は小説らしい目鼻立ちをそなえた数章を除けば、断片的なプランやノートの集積。巻末解説の、イザベル・リヴィエールの手紙が示す素案は

政治の現実に引き裂かれた地方の小さな町に、小学校の四、五番目補助教員として赴任した新米先生。ジャン=ジル・オーティシエJean-Gilles Autissierは愛を信じ、愛を待ち、求めていた。心逸(はや)り、女性の誠実さを疑わず、若い娘ローランスとのあまりに安直な恋に走るが、じきに彼女は別に何人もの男がいることを知る。失望し傷つきながら絶対の愛を渇望し、求め続け、とうとう見つけた真の若き乙女がコロンブ、教師たちの敵、町長ブランシェの末娘だった。彼女も愛を信じ、愛する人のためにはすべてを捨てねばと信ずる。〔・・・〕二人は一緒に自転車で逃亡、三日間、清らかな子供のように生き、夜は農家の納屋や空き家に身を隠した。しかしローランスの元恋人が二人の追跡を始め、追いつき、報復にジャン=ジルと彼女の関係をコロンブに明かす。ジャン=ジルは自分のように純粋でない、コロンブはそう思うことに耐えられず、許しを与えるが、彼と別れ、入水自殺を遂げる。
悲しい結末だが、創作過程でコロンブは死を免れ、また彼女の妹エミリーが次第に重い役割を負うことに。

エピグラフには『キリストのまねび』から
 Je cherche un coeur pur / et j’en fais le lieu de mon repos.(私は清い心を求め / やすらぎの場所にする) アラン=フルニエが1909年Mirandeの第8連隊にいた時、農家の壁の聖画像にこの言葉が記されていた。

頭に置かれ、比較的読みやすい章では、学校があるのはオーベルニュのVilleneuve-sur-Allier (*1)現在人口960人。本の表紙はピサロの絵 Entrée du village de Voisins (これはパリ近郊らしいが) 時は1892年。ブランシェ町長は共和派、その政敵フージェール兄弟は、カトリックの学校を援助する。ところが公立小学校長のデュクリュゼルは町長への私怨から、フージェール側につく。選挙が近づく中、二月革命を体験した共和派の老人ブラヴァールは自分の酒場で気炎を上げる。老人の姪、女子小学校の先生マリー、妹で酒場の女給役のローランスの顔も見える。
新任教師がやって来たのはこういう所だ。

(*1)この地に足を運んだことは一度もなかったらしい。むしろミランドやエピヌイユが投影された、地図にはない場所と考えられることを解説者は示唆する。