発見記録

フランスの歴史と文学

彫像の共和国(5)ベルナール・パリッシーの像

2006-02-26 16:51:01 | インポート

「パリ、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の傍に、現在でもパリッシーの立像があるはずです。向かって右腕に皿を一枚抱え,前掛を半分ほどたくしあげて、帯紐にはさみ、顔は物思わしげに、うつ向いていました。」
(渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』3 ある陶工の話 この章にはavril 1947, juin 1964 と記)
像と作品の写真は
http://www.insecula.com/us/contact/A008294.html
1880年か81年 Louis-Ernest Barrias作 この像はコピーでオリジナルはBoulogne-sur-Seine(現在はBoulogne-Billancourt市)のため制作されたという。
http://www.insecula.com/oeuvre/O0019091.html

市のサイト内を検索、確かにパリッシーの名を付けた広場や劇場がある、それ以上はわからない。

パリッシーとその時代を描くガスカールの伝記 Pierre Gascar, Les secrets de Maître Bernard (Gallimard)を開いてみる。第1章は「武装した十字架」La croix armée 

1532. Sur un socle de pierre, au milieu du parvis de Saint-Caprais, à Agen, se dresse une grande croix de fer hérissée des attributs de la Passion et rendue étrangement barbare par ces instruments de supplice pourtant destinés à ranimer la piété des croyants. Placés comme au hasard, la couronne d’épines, les clous, le fer de lance du légionnaire romain saillent de tous côtés, brouillant les contours mêmes de la croix, qui fait penser à une sorte de herse dressée. Le ragard y cherche le Sauveur et n’y rencontre que des crocs....
(1532年。アジャンのサン・カプレ大聖堂前庭の真中、石の台座の上に大きな鉄の十字架が立っている。「受難」の象徴物が棘(とげ)のようにささくれ立ち、信仰を奮い覚ますことが目的のこれらの刑具のおかげで十字架は奇妙に野蛮に見える。雑然と置かれたように、茨の冠、釘、ローマ兵の槍の穂が、あらゆる方向に突き出し、十字架は輪郭さえ判然としなくなり、一種聳(そび)え立つ落とし格子を思わせる。「救世主」を探しても目に入るのは獣の牙だけだ。)

パリッシーは1510年アキテーヌ地方のアジャン(Lot-et-Garonne県)近く(Lacapelle-Biron村)に生まれた。
ガスカールが宗教戦争の時代の、いやキリスト教の持つある血腥さの象徴にしているこの十字架の写真はCathédrale Saint-Caprais d’Agenなどのページにも見当たらない。
アジャンにはLycée Bernard Palissyがある。1883年建設が決まり93年に完成。

気候が温暖で土地も肥えたアキテーヌ地方は、中世にはカタリ派異端信仰の地でもあった。ローマ人の占領期に始まる地籍区分は、多くの独立小地主を生む。経済的自立と開かれ、明るい風景が育(はぐく)んだ精神的な自由。スタンダールはアキテーヌが北イタリアを思わすと書いたという。

ガスカールはこんなふうにこの地方を素描し、それを「武装した十字架」に象徴されるものと鮮やかに対比する。19世紀に宗教的自由が享受され出すとーすでにルイ・フィリップの七月革命は反カトリック王政、君主制の世俗化を目論んだーアキテーヌはフランス一の不信仰の地となり、現在も「フランスの宗教地図では赤で印(しる)される」

都市風景から象徴的なイメージを取り出すガスカールの手さばきは見事で、パリッシー像も本のどこかに出て来るのかもしれないが今のところ見つからない。
パリッシーは聖バルテルミーの新教徒虐殺を逃れたが、最後はバスティーユで獄死する。
新教徒の総帥で聖バルテルミーの犠牲者となったコリニー提督の像はGustave Crauk作 1889年除幕式。

全体の参考になりそうなのがÉglise Réformée d’Auteuil - Paris protestant 


彫像の共和国(4)象徴戦争

2006-02-24 10:56:38 | インポート

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』6 ある出版屋の話 には次の附記がある。

「モベール広場の〔エティエンヌ・〕ドレ像は、一九三一-一九三二年に私がパリにいた時には、立派に立っていたが、第二次大戦の折、ナチス・ドイツ軍のために取り除かれてしまった。理由は不明である。一九六五年と一九六七ー一九六八年との両度に亘って、パリにいたので、度々モベール広場に行ったが、ドレ像の台座だけが人々の忘却に包まれて不恰好な姿を曝していた。(mars 1970)」

エラスムスやラブレーを出版したユマニスト・印刷業者ドレは、無神論的な思想と言辞により1556年8月3日この広場で火刑になった。その後1889年にドレの像が立つ。

Le 3 août 1896, devant la statue d'Etienne Dolet, place Maubert à Paris, une foule de plus de 20 mille personnes réunies à l'appel de tous les groupements socialistes de Paris, manifeste son anticléricalisme et son athéisme. Ce rassemblement annuel des libres penseurs se heurtera, selon les années, aux autorités qui tenteront à plusieurs reprises de l'interdire.
(1896年8月3日、パリはモーベール広場のエティエンヌ・ドレ像の前、社会主義諸派がこぞって呼びかけ集まった二万人の群集が、反教権主義と無神論を表明する。毎年行なわれるこの自由思想家たちの集会は、年によっては、再三に亘りこれを禁止しようとする当局と衝突するだろう。)

Durant l'occupation allemande, la statue d'Etienne Dolet (ainsi que celle du Chevalier De La Barre) sera déboulonnée et fondue.
(ドイツ占領下、エティエンヌ・ドレ像は(シュヴァリエ・ド・ラ・バール像と同様)撤去・鋳潰(つぶ)しを受けるだろう。)

http://ytak.club.fr/aout1.html

シュヴァリエ・ド・ラ・バール(François Jean Lefebvre de La Barre, 通称(le)Chevalier de la Barre 1746-1766 )は1765年アブヴィルAbbeville(Somme)の橋ポン・ヌフの十字架が傷つけられた事件で、二人の仲間と取調べを受ける。彼らは宗教を冒涜する唄を歌った、「聖体の祝日」の行列に帽子を取り礼をしなかった、これらの証言に加え、家宅捜索でラ・バールの持っていた三冊の禁書(ヴォルテール『哲学辞典』など)が見つかる。
シュヴァリエ・ド・ラ・バールは翌年、パリから送られた五人の刑吏により処刑を受けた。拷問・斬首の上、所持していた『哲学辞典』と共に焼かれる。名誉回復がなるのは革命下1791年のことである。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Chevalier_de_La_Barre

シュヴァリエ・ド・ラ・バール像は、1897年の自由思想家たちの運動によってサクレ・クール寺院後陣前に建立が決まった。
自由思想家の目から見れば、パリ・コミューンの後モンマルトルの丘の上に建てられた寺院は「世界中に革命精神を掻きたてたことで神罰に値したフランスを救済する」"sauver la France qui a mérité le châtiment de Dieu par l'encouragement qu'elle a donné à l'esprit révolutionnaire dans le mondeのを目的とする、反動のモニュメントであり、この像は一つの報復を意味した。
除幕式が行なわれたのは1905年9月3日、「自由思想国際会議」の開催を翌日に控えてのデモには会議の出席者、フリーメーソン団員も混じる。彼らはパリ市役所で出迎えを受ける。国民議会ではこの年政教分離法が可決されようとしていた。
http://www.laicite1905.com/chevalier.htm

http://www.baudelet.net/frsc.htm

シュヴァリエ・ド・ラ・バール像はその後近くの別の場所(le square Nadar)に移された後、ヴィシー政権時代に台座を残して取り除かれた。2001年、l'Association Le Chevalier de la Barre による募金で像は再興された。だが別の組織l'Association Internationale du Chevalier de la Barreは、もとの像と同じように(足元に火刑の薪と『哲学辞典』)、公費で作り直すよう求めているという。
写真と共にhttp://www.atheisme.org/statue.html
 


彫像の共和国(3)アンヌマスのセルヴェ像

2006-02-21 22:37:23 | インポート

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)の第9章「ある神学者の話(a) ミシェル・セルヴェの場合」は、1903年ジュネーヴのシャンペルの丘に建てられた石碑の銘文から始まる。
銘はこの丘でセルヴェが火刑になったことを述べた上「わが偉大なりし/カルヴァンを/崇敬しこれに感謝を捧ぐる/ 子たる我らは/師父の世紀の誤謬なりし/誤謬を糾弾するとともに、/ 聖福音書と/宗教改革との原義に基づき/信教の自由をば/かたく遵奉しつつ、/ここに贖罪記念碑を建立せり」
石碑の写真はhttp://miguelservet.org/Iconography で見ることができる。
「当時『ローザンヌ新聞(ガゼット)』は、「カルヴァンの栄誉のためにセルヴェ記念碑を建立した」と皮肉に評しました。しかし、とまれ一つの贖罪行為でもあったことは事実のようです。だが何の罪に対する贖いのつもりだったのでしょうか?一五五三年に焚刑に処せられたミシェル・セルヴェは、何が故に彼を火刑台に送った人々の子孫によって、数百年後の一九〇三年に至って、贖罪碑を送られたのでしょうか」(同)

同じ時期(1908年)、ジュネーヴと国境をはさんだアンヌマスAnnemasse(Haute-Savoie)にはセルヴェの像が立っている。そのことの意味まで考えずにいたが、上記Iconographyの解説ではもともとジュネーヴに設置されるはずが「宗教的反対により」due to religious oppositionアンヌマスに置かれたことになっている。その後ヴィシー政権時代に一度撤去され、現在の像は新たに作られたものなのはパリのシュヴァリエ・ド・ラ・バール像と共通する。セルヴェが問題的な存在であるのには変わりがなかった。

火刑はカルヴァン派の歴史の汚点、「カルヴァンの生涯で《最も暗い日》」(渡辺一夫)だったように思われる。
1908年アンヌマスのセルヴェ像除幕式には政教分離、信仰と思想の自由を謳うla Libre Penséeのグループばかりでなく、プロテスタントの神学者や牧師もいた。無神論の哲学者Otto Karminが「セルヴェ国際委員会」の名に於いてアンヌマスの牧師André Boegnerの出席を認めたのは、牧師がセルヴェの火刑を不寛容の罪と認めたからだった。セルヴェの死が象徴するものが「自由思想」派とプロテスタントの間のわだかまりを生んでいたこと、にも関わらず対話と共通の敵を前にした共闘が可能であったことを窺わせてくれるのがLa Libre Pensée (「自由思想全国連盟」のオフィシャルサイト)にある2001年の討論でのNicole Bossut氏の発言である。http://librepenseefrance.ouvaton.org/medias/france_culture/fc_irelp.htm 


彫像の共和国(2)敵はサクレ・クール寺院

2006-02-19 11:06:48 | インポート

La_lanterne 反教権主義の雑誌La Lanterneのポスター(1898?)
(サムネイル表示)僧服のコウモリがサクレ・クール寺院の上に。VOILA L'ENNEMI ! 「敵がここに!」と文字。1877年にガンベッタの言った" Le cléricalisme voilà l’ennemi. "(聖職者至上主義こそ敵だ)を踏まえたものか。 コウモリのように描かれているのはリシャール枢機卿François-Marie-Benjamin Richard de la Vergne (1819-1908)らしい。

現在もある種のフランスのサイトでは、サクレ・クール寺院は敵意の的である。 La Commune de Parishttp://lacomune.club.fr/pages/contrib.html にはこの教会の「ヴァーチャル破壊」画像が。
アルフォンス・アレの盟友=分身キャプテン・キャップのアイデアに「モンマルトルの丘を平らにする」があった。
上のページで「コミューンの友」会員の一人がメールに言うように、サクレ・クール寺院は「こんにちフランスで最も原理主義的な教会の一つ」なのか?
無神論者のサイトhttp://www.atheisme.org/では、教会のどこにもはっきりしたコミューンへの言及がないと指摘、身廊右側の寺院建設誓願書の文面と、その真の意味を示す「翻訳」を並べている。http://www.atheisme.org/sacrecoeur.html
誓願書の冒頭 En présence des malheurs qui désolent la France et des malheurs plus grands peut-être qui la menacent encore.(フランスを荒廃させる不幸と、恐らくいまだにフランスを脅かすさらに大きな不幸を前に)
「翻訳」 Pour expier les crimes de la Commune et prévenir de nouveaux troubles anticléricaux.(コミューンの犯罪を贖(あがな)い、新たな反教権主義の騒乱を防ぐために)

ルイ16世は1792年タンプル塔でVœu(誓願)と呼ばれる手紙を書き家族と自分と王国をイエスの「聖心」(サクレ・クール)に奉献し、「聖心」のための教会建設を誓っている。
19世紀を通して聖心信仰の復活が見られた。普仏戦争の時には初めて聖心の旗が戦場に翻る。ドイツの軍靴を逃れたら聖心に献じた教会を建てると誓う都市も現れる。これらの「誓願」の頂点に立つのが、モンマルトルの寺院の建設を認めた「国民の誓願」だった。

Le 25 juillet 1873 le projet de loi tendant à déclarer d’utilité publique la construction d’une église sur la colline de Montmartre est adopté par 382 voix contre 138 à l’ Assemblée. Le 31 juillet, le pape Pie IX reconnaît que par ces faits la France implore la miséricorde de Dieu et lui confirme son ancien honneur de fille aînée de l’Eglise.
「1873年7月25日モンマルトルの丘の教会建設の公共有用性認定をめざした法案が国民議会で382対138票で可決。7月31日、教皇ピウス9世はこのことによりフランスは神の慈悲を乞うものと認め、かつてと同じ教会の長女としての誉れを授ける」
http://www.salve-regina.com/Histoire/Histoire_sacrecoeur.htm

建設の資金は全国からの募金によった。コミューンの蜂起が始まったのがモンマルトル、着工時の大統領マクマオンはヴェルサイユ軍を指揮しコミューン鎮圧に当たった軍人。サクレ・クール寺院建設は議論を呼ばずにいない。批判は(「モスクのよう」といった)美学的なものでもあった。解体をとの意見さえ出た。クレマンソーは、世俗の施設に当てることを奨める。狷介な論争家のレオン・ブロワは「愛する寺院」を擁護する数少ない人間の一人だった。("La montagne sainte de Paris", Le Monde 27/06/95 )

ポスターはユジェーヌ・オジェ Eugène Ogé (1861-1936)作。
イメージ検索結果 ビールの広告などもある。
当時としては大胆に政治家から女優、各国の王や皇帝と、著名人を宣伝広告に登場させたという。http://www.humanite.presse.fr/journal/1998-07-09/1998-07-09-420045


彫像の共和国(1) リベルタンと三位一体

2006-02-17 22:21:12 | インポート

獄中侯爵正装の成蟲(りべるたん)
                       加藤郁乎
句集『球體感覚』の一篇。「侯爵」はサドだとしても「成蟲」に「りべるたん」とルビなのはなぜか(この句集には確か松山俊太郎の評釈があるはずだ)

Libertinは正統的な教説に縛られない「自由に考える人」であり、色好みの「放蕩者」でもある。リベルタンの自由とはとりわけキリスト教(特に「教会」)からの自由だと言えた。
On dit quelquefois d'Un écolier négligent et dissipé, qu'Il est fort libertin.
(だらしなく放埓な学生について、「ひどいリベルタンだ」と言うことがある)アカデミーの辞書第5版 1798
ディドロ『ラモーの甥』冒頭の

...J'abandonne mon esprit à tout son libertinage. Je le laisse maître de suivre la première idée sage ou folle qui se présente, comme on voit dans l'allée de Foy nos jeunes dissolus marcher sur les pas d'une courtisane à l'air éventé, au visage riant, à l'oeil vif, au nez retroussé, quitter celle-ci pour une autre, les attaquant toutes et ne s'attachant à aucune. Mes pensées, ce sont mes catins.http://abu.cnam.fr/cgi-bin/go?neveu2

「私は自分の精神をとことん気ままにさまよわせる。ぱっと浮かんだ考えを、賢明なのもそうでないのも追って行かせる。フォワの小径では若い放蕩者が、蓮っ葉そうで陽気な顔に活き活きした目、鼻はしゃくれた娼婦について行き、また別の女を追いかけ、みんなに言い寄りながら誰にも執心しないのを見る、あれと似ている。私の考え、それは私の娼婦である」

16世紀の医師・思想家、ミシェル・セルヴェの名は写原さんの ちょうど100年前のフランス雑誌瞥見で知った。宗教改革者たちと交流を持ちながらさらに急進的、宗教裁判所のみならずプロテスタントのカルヴァンまで敵に回し、異端信仰を理由に火刑にされたという。
Wikipédiaは、「リベルタン」の思想を古代のエピクロス哲学の再生であり、ルネサンス期イタリアのカルダーノ、パラケルスス、マキアヴェリを経て18世紀哲学者の批判理性に至る流れと位置づける。リベルタンは唯物論的、多くは無神論者、世界は造物主の観念なしでただ理性によって理解できると考える。フランス王政は、王の権力は神から授与された(「神授王権」)との理念に基づく。リベルタンは教会、国家、伝統によって打ち立てられた道徳と宗教を揺るがしかねない危険分子となった。
彼らの無道徳、快楽主義も、神の不在という哲学理念から生まれたものだった。またこれと並行し「懐疑派」の流れもあった。それはアリストテレス=スコラ哲学による固定した宇宙像と自然観を問い直す。信仰と理性の関係もまた厳しく問われることになった。

ミシェル・セルヴェをリベルタンと呼んでいいのかはさて置き、異端扱いが特に三位一体をめぐるものだったことに興味がある。「神の本質は分ちがたい、神においてペルソナの多様はありえない」セルヴェは20歳の時の著書『三位一体論の誤謬』で書いたという。
三位一体がキリスト教の教義の根本にあることは「常識」としてわきまえていても、門外漢にはどうも実感しにくい。
「神は三位のうちの一なりと称する人々あり。彼らは異端者なり」―井筒俊彦『マホメット』(講談社学術文庫)で、マホメットが三位一体を全否定したことを知ると、ああやっぱり、と思うくらいに。「もっともマホメットは三位一体を神とイエスと聖母マリアによって構成されるものと誤解していたのだから今日から見ると話はいささか可笑しくなるが」(同書)

三位一体は教えられる子供にとってもやはりむずかしいものなのだ、そう感じさせてくれるサドの短篇が『哲学教師』L’instituteur philosophe(Hitoriettes,contes,fabliaux p.31)である。先生はデュ・パルケ神父、生徒は美少年ネルクイユ伯爵。
De toutes les sciences qu’on inculque dans la tête d’un enfant lorsqu’on travaille à son éducation, les mystères du christianisme, quoique une des plus sublimes parties de cette éducation sans doute, ne sont pourtant celles qui s’introduisent avec le plus de facilités dans son jeune esprit. Persuader par exemple à un jeune homme de quatorze ou quinze ans que Dieu le père et Dieu le fils ne sont qu’un, que le fils est consubstantiel à son père et que le père l’est au fils, etc., tout cela, quelque nécessaire néanmoins que cela soit au bonheur de la vie, est plus difficile à faire entendre que de l’algèbre et lorsqu’on veut y réussir, on est obligé d’employer de certaines tournures physiques, de certaines explications matérielles qui, toutes disproportionnées qu’elles sont, facilitent pourtant à un jeune homme l’intelligence de l’objet mystérieux.

(教育のため子供の頭に詰め込む知識の内、キリスト教の秘蹟は恐らく最も崇高なるものの一つだとしても、未熟な頭にはそうそう入りやすくない。たとえば、十四、五歳の少年に父なる神と子なる神が一体であり、子は父と本性を同じくし、父は子と云々を納得させるのは、人生の幸福に欠かせないとはいえ、代数を教えるより厄介である。首尾よくやるにはある程度の身体表現に訴え、物を使い説明することもやむをえない、どれほど不釣合いでも、そういう工夫は少年が幽遠なる主題を理解する助けとなるのだ。)

参考記事26 octobre 1553 : Michel Servet est brûlé dans la ville de Calvin http://www.herodote.net/histoire10261.htm