発見記録

フランスの歴史と文学

アリス・キャプラン 『通訳者』 The Interpreter

2008-08-17 11:44:25 | インポート

Kaplan_2 Alice Kaplan, The Interpreter  (The University of Chicago Press)

著者はブラジヤック裁判を扱った"The Collaborator"で知られる。ロジェ・グルニエ(『黒いピエロ』他)、ルイ・ギユー『OK、ジョー』の英訳者でもある。謝辞によれば、ギユーの作品を知るきっかけを与えたのがグルニエだった。第二次大戦末期に米軍の通訳を務めたギユーの日記、軍の文書記録を参照し、存命の関係者や家族に会い、入念な調査の上で書かれた本。

1944年8月、アメリカ第3軍司令官パットンは全部隊にメモを送り、フランスの民間人に対する暴力犯罪増加に、深い懸念を表明した。

にも関わらず事件は起きた。小さな村プリュモーダン(地図)に滞在中の補給部隊兵卒ジェイムズ・ヘンドリックスは、酔って農家に押しかけた。手にはライフル銃を持つ。ブートン家では夫人にキスしかけるのを息子が制し、卵を渡して帰らせた。今度は向かいのビニョン家のドアを叩く。片言のフランス語で「ドイツ人か」("Boches !")と叫ぶ。家の中から返事があるが、彼には理解できない。「開ける、お嬢さん」("Ouvrir, Mademoiselle ! ")を繰り返した挙句、ドアに向け発砲、貫通した弾は主人ヴィクトル・ビニョンを死亡させた。娘ジャニーヌと母親ノエミは、ブートン家に逃げ込む。娘は素早く姿を隠したが、追ってきたヘンドリックスは男たちを銃で威嚇、ノエミを強姦しようとする。必死の抵抗にかなわず退散、キャンプから駆けつけた指揮官らが、ヘンドリックスを麦畑で見つけてMPを呼んだ。

『OK、ジョー』の元になったもう一つの事件は、ブレストに近い町レヌヴァンLesnevenで起きた。ホテルのバーで、レジスタンスの戦士フランシス・モランが、ドイツのスパイではないかと疑われる。飲んでいたレンジャー部隊の大尉ジョージ・ウィッティントンは、庭でモランを射殺する。大尉はノルマンディー上陸作戦で勲功をあげた英雄だった。
フランシス・モランは自称オーストリア生まれ、フランス外人部隊に在籍後、帰化したという。米兵に怪しまれたドイツ訛りも説明がつくが、履歴には謎が残る。事件の日には、英米の軍服をまぜこぜに着ていた。正規軍ではないFFI(フランス国内軍)の兵士は、米兵の目には規律を欠き胡散臭く感じられた。

黒人兵ヘンドリックスは絞首刑を宣告される。ウィッティントン大尉は無罪。ギユーは二つの裁判の対照に驚く。一度も証言の機会を与えられないヘンドリックス。落ち着き払って、雄弁に事件を語って見せるウィッティントン。厳しい反対尋問を受けることもなく、ウィッティントンの物語が、そのまま真実にされて行く。

ヘンドリックスを弁護したラルフ・フォガティ中尉はロー・スクールこそ出ているが、弁護士経験はない。検事のジョゼフ・グリーン中尉はブルックリンの弁護士。
実は証人の誰一人、あの夜の兵士がヘンドリックスだとは断言できなかった。ジャニーヌは法廷で答えたのを覚えている、「闇の中で、黒人をどうやって見分けろというのですか?」 軍の法務局による裁判後の報告には、「フランスの証人は黒人の特徴や顔に馴染みがない」 証人たちに言えるのは、男が黒人だったということだけ。グリーン中尉は質問の際、加害者の人種だけを強調した(「あなたと争った黒人兵士は・・・」)(p.54-55) 

著者は考える、被告の心神喪失を主張することはできなかっただろうか(p.66) アメリカ第3軍は次第に戦争の心理的ストレスに敏感になり、軍法会議にかけられた戦闘部隊combat unit 兵士には、精神鑑定を求めていた。しかしヘンドリックスは( 黒人兵の80%がそうであったように)補給部隊 service unit に配属された。鑑定は必要と判断された場合に限られる。泥酔状態(軍法会議では情状酌量に値するとされないが)も、部隊での「半分気が変」half-crackedとの評判も、法廷で問題にされることがない。経験不足のフォガティの弁護では、辣腕グリーン中尉を相手に、勝ち目はなかった。そのグリーンが、ウィッティントン大尉の裁判では弁護に回る。

『OK、ジョー』でギユーはグリーンをモデルにしたロバート・ストーン中尉を登場させる。初対面から語り手と「ボブ」「ルイ」と呼び合う。明朗で気取りのないアメリカ流。グリーンのヴァイオリン趣味も、ストーンの人物造型にうまく生かされている。
ギユーの英語熱は、少年時からのものだった。サン=ブリューの港で英国の船乗りに話しかけた。13歳の夏には、親しくなったジャーナリストに、英国の家に招待された。1920年代から文芸翻訳で糊口をしのいだ。(Kaplan, P.15)

アメリカの軍服を着たギユーの写真が収録されている。「解放」のさなか、米軍と行動を共にしたことは、新鮮な体験だったに違いない。同時にアメリカ的な法と正義への、違和感のようなものを抱かせた。
通訳の難しさは、ビニョン夫人の証言で際立った。仏語と英語、日常の言葉と、法廷で求められる言い方のずれ。外国人ばかりの法廷に引き出され露骨な質問を受ける女性の辛さを、ギユーは思いやらずにいられない。

連合軍の将校には、住民との接し方のハンドブックが渡されていたという。内向的で、外人嫌いのブルトン人。それらの紋切型に混じって、ブルターニュの女は「生まれつき好色」だとする一節さえあった。
One should not pay much attention to the lapses of Breton women with the Germans ―the race is naturally erotic. (p.21)

ヘンドリックスが訓練を受けたミシシッピー州のCamp Van Dorn では、基地周辺には黒人の入れる飲食・娯楽施設がなかった。北部出身の黒人が多い連隊では、反抗や暴動まで起きている(p.31)
『OK、ジョー』の「私」の疑問、「なぜ黒人ばかりが」に、この本は人種隔離撤廃以前の軍隊で黒人兵の置かれた状況を示すことで答えようとする。

ギユーには語り得なかった部分にも、照明が当てられる。ヘンドリックスの部隊指揮官、ドナルド・タッカー中尉は数少ない黒人将校の一人だった。偏見があるからこそ黒人兵には非の打ち所のない振舞いを求め、法廷では、指揮官としての自分も裁かれているのを意識せねばならない中尉の苦渋を、著者は想像してみる(p.70)

ウィッティントン大尉は英雄として故郷に帰る。ミズーリ大学でジャーナリズムを学び、一時は新聞社を経営、石油の出るおじの地所を遺贈され、ケンタッキー州ヘンダーソンに移り住む。妻アグネスと共に地域のリーダーとなった。1956年、公立学校での人種隔離撤廃に抗議し白人家庭で登校拒否が行なわれた時には、敢えて息子を学校に行かせた。「バイブル・ベルトの無神論者、言論の自由と中絶、ゲイの権利を支持し、政府の介入を忌み嫌った」(p.134) 晩年、事件のことを妻に打ち明けたが、多くを語らなかった。

ロジェ・グルニエによる本書の紹介

Roger Grenier, Introduction to Alice Kaplan’s presentation of THE INTERPRETER


ルイ・ギユー『サリド』

2008-07-29 21:56:10 | インポート

Salido 『サリド』の語り手は、家の壁に無数の新聞の切り抜き、写真、ポスター、ビラを貼っていた。中国での戦争、ウィーンに入るヒトラーの軍隊、イタリアやスペインでの対ファシズム抵抗運動が、「壁新聞」には記されていた。大戦に向かってすべてが走り出した今、駅の陸橋に佇み、サイレンの音を聞きながら、彼は「壁新聞」を引き剥がし、捨てようと思う( Folio, p.27)。

1936年2月にはスペイン、6月にはフランスで、左翼人民戦線政府が成立した。7月に軍部の反乱でスペイン内戦が勃発。レオン・ブルム政府はスペイン政府の支援要請を受けるが、右翼や急進社会党の反対、またイギリスの圧力で内戦不干渉を提唱。ダラディエが首相の1939年2月、フランスはイギリスと共にブルゴスのフランコ政府を承認する。

人民戦線の歴史的敗北の苦味、虚脱感?小説は「私」の思いを、未整理のままに示す。

難民支援を行なう le Secours rougeは共産党系の組織だが、彼は党員ではない。1934年、アストゥリアスの労働者蜂起鎮圧以後、スペインからの政治難民がこの町に来るようになり、支援を始めた。
カタロニアの農民サリド中尉は、フランス語を話せない。特徴のない顔に、目だけが変に鋭い。ル・ヴェルネの収容所(Le camp du Vernet d'Ariège, 1939 ? 1944)に移される前に病院から逃亡、「私」は仲間たちと、彼に力を貸す。サリドはモスクワ行きを望むが、パリの共産党「同志」たちは、彼の処遇を決めかねている様子。直接交渉に赴くサリド、難民受け入れセンターの料理人ゴーティエおばさんla mère Gautierがお供をするが、二人はパリで道に迷う。旅は無駄骨に終わる。

兵役を免除されている「私」は、県の難民受け入れ活動に従事したいと申し出、断わられた。サリド逃亡の件は、語り手と地域の間に齟齬を生んでいた。戦時体制への移行と共に社会参加の道が閉ざされ、「私」は宙に浮いてしまう。 本来の「仕事」に戻る時が来たのか?

戦争の始まりだけを、一個人の視点で書く『サリド』は「奇妙な戦争」と敗北以降を語らない。予兆めいたものを読み取ることは、読者に委ねられる。「これまで」と「これから」の間、空白の地点に立つ「私」―当然叙述は直線的に進まない―、そして何人かの人物の肖像。小説が描くものは、それに尽きる。

1976年、『サリド』と合わせ一巻として刊行された『OK、ジョー』 O.K., Joe ! は、米軍のため通訳を務めたギユーの体験に基づく。1944年夏から秋、連合軍によるフランス解放が進行中の物語。
米軍兵士による住民相手の犯罪、軍法会議の裁き。レイプ事件を起こすのは、判で押したように黒人兵。あっさりと罪を認め、絞首刑を宣告される。どうして黒人ばかりなんだ?「私」の素朴な疑問は、アメリカの軍人を困らせ、苛立たせる。
レンジャー部隊の白人将校が、フランス人を射殺する。黒人兵とは明らかに違った扱いを受けた上、無罪放免された将校の表情に「私」は大口開けて笑う人食い鬼 ogre を連想する(p.272)。

反米小説?「私」と接するアメリカ人は知的で快活、気持ちの良い人物揃いである。シカゴの学徒兵ビルはフランス系で、一番親しくなる。ビルは口癖のように、出征前に聞いた司教の訓戒を引く。? Mes garçons ! Si c’est pour maintenir le monde comme il est que vous allez là-bas, alors n’y allez pas ! Mais si c’est pour le changer, alors allez-y ! ?(p.111 「 諸君!世界をそのままに保つため彼の地へ向かうなら、行ってはならない。しかし世界を変えるためなら、行き給え」)

アメリカ流の理想主義、使命感、衛生観念、道徳的潔癖さ。ビルに言わせれば、黒人は「自分に規律を課す」s'imposer une disciplineことができない(p.199)。「私」は無心な聞き手、観察者として、驚いたり不思議がったりして見せながら、それらを物語る。

ドイツ軍との局地戦は続いている。対独協力者への私刑が行なわれる一方、親独民兵隊の残虐さも追想される。『OK、ジョー』は「解放」の語感とはうらはらの、薄闇の印象を残す。


青い電球 灯火管制の時代

2008-07-23 11:28:20 | インポート

Le dortoir n’était que faiblement éclairé par quelques ampoules bleues. Un vieillard s’etait mis à tousser. Les deux petites filles dormaient profondément, l’une près de l’autre, leurs masques à gaz au pied de leurs lits. La mère douloureuse avait fini par s’endormir et tout était resté calme pendant quelques instants. (Louis Guilloux, Salido suivi de O.K., Joe ! ? Folio ? p.18 )

(共同寝室は、ただ幾つかの青い電球でぼんやり照らされていた。一人の老人が咳をし出した。二人の少女は隣り合いに、自分の寝台の足下にガスマスクを置いて熟睡していた。悲痛な母親はそのうち眠りこみ、しばし何もかもが静まり返った。)

ルイ・ギユーの小説『サリド』の語り手は、パリと北仏から流入する避難民の受け入れセンター le Centre d’accueil aux Réfugiésにいる。第二次大戦が始まったばかりの1939年9月11日を基点に、物語は過去と現在を行き来する。ギユーは生地ブルターニュのサン=ブリューSaint-Brieucで、実際に難民支援活動に関わった。

前夜遅くパリからの列車で着いた二人の娘には、ブラウスに名前と住所を書いた札がピンで留められ、ガスマスクを肩から掛けていた。同じ列車から降りたのは男女の老人たちと、ドイツから来た若いユダヤ系の母親。連れている子供の一人は病気で、病院に運ばれた。 タイトルの「サリド」はこの年の2月、列車で輸送されてきたスペイン共和派民兵のひとり。スペイン内戦でフランコ側が攻勢を強めるにつれ、多くの共和派民兵が国境を超えフランスに逃れた。

問題は、共同寝室を照らす「青い電球」である。同じ開戦直後のパリを描いたジャン・メケールの小説では

C’était la guerre qui bleuissait les lampes et mettait partout des odeurs de caveau. (戦争は灯火を青ずませ、至る所に地下納骨所の臭いを漂わせていた。)

Chaque soir, dans les rues passées au bleu de guerre, les bistrots faisaient le plein. (毎晩、戦争の青に染まった通りで、ビストロは軒並み満員になった。)

(Jean Meckert, La marche au canon Joëlle Losfeld, p.12 )

Dans les trains, les ampoules étaient peintes en bleu pour que les convois ne soient pas repérés par les avions. (飛行機から列車が見つけられないように、車内の電球は青く塗られた。)(Vie des Français sous l'Occupation allemande Wikipédia

『サリド』の受け入れセンターは駅のそばに置かれている。駅付近は標的にされやすかったはずだ。

小松清の回想では1939年9月1日、

午前一一時ごろ、ドイツ空軍がワルソー爆撃をはじめたというニュースが入った。その瞬間から、パリにはタクシーの空車がすっかり姿をけした。戦争になるとは、ほんとうに信じていなかったパリ人は、しばし呆然として手を拱いている有様だったが、気を取り戻すと、いっせいに気が狂ったように身のまわりのものをトランクにつめこんで、われ勝ちに停車場に殺到した。

(『沈黙の戦士』 海原 峻『フランス現代史』(平凡社)から孫引き)

群れを成してのパリ脱出 l'exodeが起きるのは、1940年、いよいよドイツ軍が迫った時だと思っていた。これはその先駆けか。 『サリド』では開戦早々のこの時期、市中に空襲警報が鳴り渡る、訓練のようなものか。行政から一般民衆まで、空からの攻撃を恐れ「防空体制」la défense passiveの構築に努める。

灯火管制と青の連関に気づかせてくれたのは、シムノンの自伝的小説『血統』だった。こちらはベルギー、第一次大戦中のこと。

Il y a trois ans maintenant que la guerre dure et que les vitres des réverbères sont passés au bleu, de sorte qu’ils éclairent à peine ; et quand, à six heures, les magasins ferment leurs volets, on erre dans les rues comme des fantômes en braquant devant soi le rayon dansant d’une lampe de poche.

(もう三年戦争が続いている、街灯のガラスは青く塗られ、ほとんど照明にならない。六時に商店がシャッターを閉めると、懐中電灯の躍(おど)る光を頼りに、亡霊の一団のように路上をさまよう。)(Simenon, Pedigree Labor/Actes Sud, p.462)


『ロジェ・グルニエ、パリの静かな時』

2008-06-27 15:42:59 | インポート

サイトに三野先生のロジェ・グルニエ訪問記・第四弾をUPしました。今回は季刊「流域」からの転載でなく、本邦初公開です。
三野博司 『ロジェ・グルニエ、パリの静かな時』

フランスでもジャン・グルニエとロジェ・グルニエが混同されやすいというお話がありますが、alapage.comでRoger Grenierを捜すと、ジャン・グルニエの本が二冊紛れ込んでいます。
Essai sur l'esprit d'orthodoxie (邦訳『正統性の精神』)
Entretien sur le bon usage de la liberté(『自由の善用について』)

パトリック・ベッソンとフィリップ・ベッソンのようにただ名前が似ているのとは違いカミュ、ガリマール社という共通項があり、余計ごっちゃにされやすいのでしょうか。

去年の秋、ガリマール社のあるセバスティアン=ボタン通りを「ガストン・ガリマール通り」と改名するよう、ガストンの孫で現社長のアントワーヌ・ガリマールがドラノエ市長に要請したと報道されましたが、その後どうなったのかはわかりません。

Antoine Gallimard, PDG des Editions Gallimard, a profité, le 18 octobre, de l'inauguration de la place René-Char (le carrefour de la rue du Bac du boulevard Saint-Germain) pour demander au maire de Paris, Bertrand Delanoë, que la rue Sébastien-Bottin, siège des Editions Gallimard, soit débaptisée et rebaptisée ?rue GastonGallimard?, le père d'Antoine et fondateur de la maison.

http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2244/articles/a358727-.html
ガストンをアントワーヌの「父」としているのは間違い。二代目はクロード。

? Un jour que mon grand-père me demandait ce que je voulais faire plus tard, je lui répondis : “Je serai éditeur, mais j’inventerai ma propre maison.” Il m’a répondu : “Tu sais, Antoine, ce n’est pas si facile”. ? ( Antoine Gallimard,
http://www.reforme.net/archive2/article.php?num=3119&ref=387)

ある日祖父に大きくなったら何になりたいかと聞かれ、答えました、「出版者になる、でも自分の会社を興すんだ」 祖父は言いました、「なあアントワーヌ、それはなかなか、簡単ではないぞ」


Frédéric H. Fajardie (1947-2008)

2008-05-31 17:02:52 | インポート

今月一日、ファジャルディが亡くなった。ファヤルディかもしれない。『ロマン・ノワール』(文庫クセジュ 平岡敦訳)では「ジャ」だが、検索すると『私刑警察』など映画原作・シナリオ関連では「ヤ」の例も。Ronald Moreauが本名、祖母の姓を筆名に借りた。珍しい姓である。(http://www.geopatronyme.com/ ) 

? Tueurs des flics ?(「警官(でか)殺し」)で1979年にデビュー、ネオ・ポラールの旗手と目された作家は、1998年全業績に対して勲章(Chevalier de l'Ordre des Arts et Lettres)をもらっているが、政治家が競ってその死を悼むほどにはえらくなかった。ピエール・アスリーヌのブログを目にしなければ、訃報を知らずにいただろう。

1984年の作? Querelleur ?(←競走馬の名前 )のエピグラフには、シャルル・トレネ? Fidèle ?(忠実、誠実)から最初の二行が引かれる。五月革命世代で、極左のセクトにいたというが、その趣味に不思議に古風な面がある。オフィシャル・サイトFajardie.net の自伝的小文で、青年期の愛読書の中にバルベー・ドールヴィイ(? Le Chevalier Des Touches ?)が挙がり、ははんと思った。

『警官殺し』は1975年に書かれたが、刊行まで四年を要した(Coll.?Sanguine? , Editions Phot’oeil) 出版社はまもなくつぶれる。NéOから復刊された1984年版の裏表紙には、

“ Il y a chez cet auteur qu’il faut absolument lire des phrases que Chandler ou Hemingway auraient pu écrire.” ( Le Point )
“ Fajardie reste, quoiqu’en disent les envieux, la meilleure invention du polar depuis Manchette. ” ( Le Nouvel Observateur )

など二十余りの書評抜粋が並ぶ。チャンドラーを初め「アメリカの偉大な先達」を引き合いに出す褒め方には、時代を感じる。題材、雰囲気、この頃のファジャルディがマンシェット、特に ? Nada ?( 1972 『地下組織ナーダ』岡村孝一訳、早川書房 1975)を連想させたのは無理もない。ただファジャルディ自身はマンシェットとの比較を嫌った。文体の違いを見てくれ、と言う。(前出自伝)
過激な暴力性は、確かに衝撃的だったろう。しかしそれは文体や「調子」ton と不可分のものだった。“Bien écrit. ”(文章が良い)“Un style puissant,rageur. ”(力強い、怒りの文体) “Un nouveau ton furieux et sans pitié” (荒々しく、情け容赦のない、斬新な調子)(上記書評抜粋から) 文庫クセジュの『ロマン・ノワール』には、的確なファジャルディの文体批評がある。

『警官殺し』では黒人一人を含む三人組が、警察官から裁判長、国会議員まで次々に殺害する。芝居がかりの扮装(冒頭の犯行では道化のオーギュストとクラウン、ミシュランのタイヤ男Bibendum)、残忍な手口。ピエール・ヴィダル=ナケのギリシア古代史講義に出ていたファジャルディは、八つ裂きにされるペンテウスの悲劇を甦らせる。「おじちゃん」Tontonと呼ばれる上司(commissaire principal)は、パドヴァーニの亡くなった父の友人。日和見と裏工作を心得た「政治的警察官」policier politiqueでもある。

三人組は既製の左翼セクトには属さない孤立集団。犯行は何かの報復・見せしめを意図したものらしい。拉致された巡査部長は、地下鉄シャロンヌ駅事件(アルジェリア戦争中の1962年、右翼のテロに抗議するデモ参加者が機動隊に襲われ死者が出た)で警官の一人だった。ファジャルディは父親とこのシャロンヌのデモに参加している。

眠れない夜、パドヴァーニ警視は起き出して窓からパリを見る。

 L’idéé me vint alors d’un plan machiavélique : ces tours, cette marée de béton, d’acier et de verre fumé, n’était-ce pas le test suprême, seul capable de séparer les bons des mauvais, les moutons des loups solitaires ? A cette deuxième catégorie appartenaient les tueurs mais aussi Tonton, Ouap, d’une certaine manière Ben Ghozi et d’une autre, ascendente, moi-même.
 Nous allions nous déchirer entre nous et les moutons l’emporteraient sans combattre…

Ouap は飲んだくれの老アナーキスト、Ben Ghozi はユダヤ系の刑事。殺し屋たちと警視、彼の仲間が、ともに「一匹狼」の範疇に入れられる。狼は殺し合い、最後には羊たちが戦わずして勝つだろう。第一次大戦中の反抗兵士も、殺し合いを命じる将軍や、兵役を免れた人たちに憤りを感じていた。

Ouapは偶然犯行を目撃する。生まれてから警察官に口を利いたことのない男は「たれこみ」をためらう。しかし三人組のやり方は残虐で、相手は一人だった。アナーキストにとって治安の維持は思想的な難題となるはずだが、老人は自分なりの正義に基づいて行動する。

警察嫌いの警察小説家は、倫理的なすじを通すために苦心する。警視に作者自身とまぎらわしい特性を与え、殺し屋の一人をわざわざ「フレデリック」と名づけ、最後の警視とフレデリックの戦いを、「私」と分身との対決のように見せる。殺し屋は死ぬが、警視も重傷を負う。同士討ちを避けるため目印につけた腕章もなくし、「組織犯罪取締り班」la brigade anti-gangの連中に殺されかける。銃口を押し当てられながら瀕死の警視は「パドヴァーニだ」の一言を発することができない。
警察官が自己を証明するものを失い、犯罪者と見分けがつかない。同じ事態は、愛する女性を失った飛行士の復讐譚? L’Adieu aux anges ?(1984)でも繰り返されるだろう。

ファジャルディは次第に「ノワール」ではない「ロマン」を書き始める。シムノンの場合にも言えるが、内実の変化と、「黒」の作家を「白」で出す、出版社側の扱いの変化が並行していた。ノワール以後の展開を、とことん追いかけることはできなかった。デュマに比される長編時代小説もあるが読んでいない。私は忠実な読者だったろうか?

第二次大戦終盤、対独レジスタンスの内部抗争を背景にした? L’Homme en harmonie ?(1990)は、南西フランス秘密軍指導者ルロワ=クレマンティの手記と、戦後の取調べ調書からなり、人質を救うためSS将校と取り引きした男の、複雑な人間性を浮かび上がらす。単純明快な正義が成り立たない世界で、読者を挑発し当惑させ、それでもぎりぎりのところで共感を呼び、かっこの良さを感じさせる主人公の創造が、ここでの作者の課題だった。現代史の暗部に執拗に立ち返る性癖は当初からのもので、この点、アミラ/メケールとデナンクスこそファジャルディの同志と呼ぶにふさわしかった。