発見記録

フランスの歴史と文学

フランス勤工倹学とリヨン中仏大学

2008-02-28 17:40:24 | インポート

(前出『フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流』とリヨン市図書館のL’Institut Franco-Chinois de Lyon (1921-1946)による)

勉強に集中するため、何長江(かちょうこう)は同じ中国人学生のいる大都市を避け、サン=セルヴァンSaint-Servan-sur-Mer (現在はサン=マロの一部)の学校を選ぶ。教会学校だが校長は共産党員、総合的な中等技術学校で、工場も付設されていた。夏休みにはパリで働く。臨時工から街のごみ掃除までやった。第一次大戦で荒廃した北部の町で「現場の片づけ」もした。中国の留学生は二派に分かれていた。「一派は、官費留学生と裕福な自費留学生である。もう一派は、すなわちわれわれ勤工倹学生であった」
勤工倹学は理念の上では画期的なものだった。中国の軍学校や外国語学校で近代的教育を受けたわけではない、また富裕家庭の子でもない青年に、海外で学ぶ機会を与えた。技術的・専門的知識、免状の取得よりも、彼らが「慎ましい生活と辛い仕事に固有の習慣と生活様式を習得し、同時にフランスに固有の進歩的・共和主義的価値と理想を、自然に身につける」l’acquisition d’habitudes et modes de vie propres à une vie frugale et au dur labeur, tout en s’imprégnant des valeurs et des idéaux progressistes et républicains (Le mouvement travail-études ) ことが目的とされた。
しかし不況下、工場閉鎖の相次ぐフランスで、学生が職を見つけられず窮乏化するのも無理はなかった。強固な財政基盤を持たない中仏教育会は、結局本国からの援助が頼り、学生の力になることができない。青年たちが思想的に一様だったとは想像し難いが、中には十月革命に影響を受け、直接行くのが困難なソ連の代わりにフランスに来た者もいた。勤工倹学を提唱し中仏教育会を設立した呉稚暉(ごちき)や李石曾(りせきそう)さえ、何長江の目には「フランス資本家の走狗」に過ぎない。彼らと勤工倹学生との間には、明らかに政治的な開きがあった。中国とフランスの協力で開設されたリヨン中仏大学 (l’Institut Franco-Chinois de Lyon 里昂中法大学 )は、激しい衝突の舞台になる。

絹織物の産地リヨンは、中国と古くから経済的文化的な縁がある。リヨン大学には1900年から極東文明の講座が設けられていた。李石曾たちとしては、学生が政治活動に気を散らさず勉学に励むのに、パリよりも適していると考えたようだ。リヨンの西、丘の上の、もともと兵舎だった建物が校舎になる(Fort Saint-Irénée 写真はLyon historique ? Les remparts de Lyon に) 初代校長は呉稚暉と決まった。開校が迫り、規約が明らかになるにつれ、入学を認められるのが中国国内の試験合格者(何長江によれば、官僚や富豪の師弟ばかり)だと知り、勤工倹学生は激怒した。1921年秋の「リヨン進撃」la marche sur Lyonとして知られる抗議行動は、校舎の占拠、武装警官の出動に至る。行動に参加した学生の大半が中国に強制送還された。入学試験がフランスに住む中国人対象と限られるのは、1920年代末のことである。
リヨン中仏大学は終始財政難に苦しむが、1946年までに登録された学生の数は473名に上る。名簿(PDF) 「彼らの中の多くはその後帰国して働くことになり、多くが我が国の科学界、教育界と文化の芸術界の中堅の力にな」った。(神州学人---里昂中法大学??始末 
Exciteの中→日自動翻訳による)

第二次大戦後フランスは国の復興に取り組まねばならず、中国では国民党と共産党の内戦が再燃する。大学のこれ以上の存続は困難だった。1946年10月1日、石貞德  Shi Zhende という化学専攻の女学生が登録されたのが最後になる。

大戦中から大学も図書館も、活動を停止していた。建物はフランスの軍事病院に、またリヨンのゲシュタポ諜報本部に徴用された。 この間、図書と大学の文書記録を隠し守ったのは、中仏大最後のフランス側会長でリヨン大学中国語学科教授ジョルジュ・デュバルビエ(Georges Dubarbier 1888-1972 邦訳に『近代中国史』文庫クセジュ 1955)である。蔵書はその後le Fonds chinoisとしてリヨン市図書館に移管された。

本来「西学」を学ぶ場に、定期刊行物を含む多分野の中国語書籍が集まった経緯は定かでないが、この時代の中国の知的状況を反映した貴重な記録になっているという。詳細は、IFLA(国際図書館連盟)2006年ソウル大会での発表 From the “Library of Chinese students in France” to the “Chinese collections of the Lyon Municipal Library” (Valentina De Monte, Bibliotheque municipale de Lyon )(PDF)


移民の波 中国からベルヴィルへ

2008-02-23 21:10:03 | インポート

前回の『ベルヴィルの小学校教師』(1984)には、Lee-Quo という華人少女が登場する。サイゴン生まれ、小柄で「縄跳びをする時でさえ、お辞儀をしているように見える」子。初めて見る黒人少年を物珍しく感じても、「東洋風の作法を教えられている」ので、口には出さない(p.114)。FaridaやMamadouたちの間で、Lee-Quoは特別目立たない。しかし古くからベルヴィルを知るティエリー・ジョンケが『ベルヴィルの静かな日々』 Jours tranquilles à Belleville(2000)で「黄色い台風」と書くほどに、中国系の人たちは街の表情を変えて行ったに違いない。

1980年頃からベルヴィルには中国系住民が急増した。第一の波は、華僑を多く出している潮州(広東省)の出身者。旧インドシナ(カンボジア、ラオス、ベトナム)から難民としてフランスに来た彼らは、中華街のある13区の高層アパートが一杯になるにつれ、ベルヴィルに住み始める。経済的にも力を持ち、よく組織されていた。多くがフランス語を話す。フランスで生まれるか育った子供たちには、学校生活でも言葉の壁がなかった。

1980年代半ばに始まる温州 (浙江省)からの移民は、第二の波となる。今ではベルヴィルの商業の大半で、彼ら温州人が先頭に立つ。同時に不法滞在者も、温州出身が多数を占める。温州にはまた古くからの移民の伝統があった。近年、民営企業主体の経済発展を遂げてきた温州だが、国家の統制の緩みが、一見逆説的な海外への人の流れを生んでいる。親がまずフランスに出て働き、何年もかけて渡航の費用を返済し、農村部の祖父母に預けてきた子供を呼ぶことが多い。この場合子供はフランスの学校に、たやすく適応できない。

中国東北地区Dongbei からの移民は、第三の波と言える。国営工場が基盤の産業構造が解体し、多くの失業者が生まれた。この地方からの移民は主に女性、「呼び寄せられ」型とは異なり、同胞との絆もあまり当てにできない。

第一次世界大戦中、後方での作業や軍需工場での労働に、フランスは多くの中国人を募集した。一部はそのままフランスに残った。中国からの本格的移民の歴史は、この時に始まる。更に「勤工倹学」Travail-Etudesの運動が起こり、鄧小平のような留学生がフランスで働き・学ぶ。以後、中国の共産党政権成立、フランスのインドシナ植民地解放、中仏国交回復、南北ベトナム統一、鄧小平の対外開放政策、これらの出来事がフランスへの移民に影響を及ぼしていく。

主な参考記事
(1) Belleville à l’heure chinoise (Le Monde, 13/06/2006)
(2) "Pour la communauté chinoise, Belleville, c'est Wenzhou à Paris" ( Libération,13/10/2007 )
(3)Problématique de la scolarisation des élèves chinois en France  (PDF)
(Le Casnav de l'académie de Paris) 

casnav.scola.ac-paris.fr/util/telechargement.php?chemin=conf&Fichier_a_telecharger=scola_chinois.pdf

三つの波という整理は記事(1)に拠る。(2)は、アソシアシオン Chinois de France ? Français de Chine 会長Donatien Schramm氏へのインタビューだが、すでに1888年にはフランスに石鹸石(柔らかく彫りやすいので彫刻や印章に、保温性がありストーブなどに用いる)を売りに来た行商がいたという。また同じ浙江省でも温州と青田?Qingtianの出身者は交わりたがらず、リヨン駅近くの中華街 l’îlot Chalon(1970年代に取り壊された)には、専ら青田?の人が集まったとも。中国各地の出身者が住む、この点でもベルヴィルは特別なのかもしれない。

李石曾 Li Shiceng (1881~1973)は1902年に使節の随員としてフランスに渡り、農学を学ぶ。大豆の研究をし、1908年には中国から労働者を招きパリ郊外のコロンブColombesに豆腐の製造会社を設立した。これも移民の先駆けと言えないだろうか。(ドクター嵯峨の近代中国人物余話その3:李石曾を参照)
李石曾の名を知ったのは、 何 長工『フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流』 (河田 悌一・森 時彦訳 岩波新書、1976)だが、「勤工倹学」の始まりにも李石曾が関わっている。第一次世界大戦中、フランス駐華公使は財政総長(大蔵大臣)の梁士詒に労働者募集の交渉をする。ところが李石曾がフランス政府に献策をした。いわく、梁士詒のような官僚に任せてはいけない、「もしかれらがルンペンや与太者を送ってくれば、仕事ができぬばかりか、フランスの風紀を悪くするやもしれません」 信頼できる人に依頼し「雲南、貴州、四川、広西などという中国西南の各省」で「誠実な農村の子弟」を集めフランスに送り、工場では中国人労働者の教育クラスを開き仏語と「かんたんな国語」、科学の初歩を教えること。もっとも西南各省では人が集まらず、結局は梁士詒がこの「商売」を引き受けた。出かけて行った労働者の多くは華北、山東省の出身者だった。1915年に李石曾の印刷工場と豆腐会社で働く労働者が、察元培、李石曾らの協力で組織したのが「勤工倹学会」である。(『フランス勤工倹学の回想』p.12-14)


ベルヴィルの小学校教師 Maîtresse à Belleville

2008-02-11 20:02:07 | インポート

Christine Bravo, Maîtresse à Belleville (Ramsay, 1984)

クリスティーヌ・ブラヴォは1956年生まれ、20代に4年間パリの公立小学校で教える。「リベラシオン」紙にこの本の元になった記事を連載。その後テレビの世界で活躍することに。
「ベルヴィル・・・赴任令は落ちてきた、ギロチンの刃のように。でも家から1時間なのは悪くない。バス、地下鉄、乗り換え、地下鉄。紫の夜明けの光の中、私は地上に出た。それは私の眼鏡のレンズの色だった。ベルヴィルは目を覚まし、薄紫の歩道沿いに身を揺すり、蚤を払っていた」

新学年初日、群がる親、子供、人の波をかきわけて進む。「この子、あんたのクラスじゃない?」、同僚の声に名札と名簿に目をやる。特別の一日、「発作的涙と馬鹿笑いの中間のような表情」を、彼女はこの日の先生たちにしか見たことがない。
授業中、地下鉄が通るたび轟音と揺れ。受け持つのはCE2(8~9才)のクラス。教師の仕事は大変だ。師範学校の同期生も、かなりの人が早々と辞めてしまった。小学校には女の先生が多い。退職間近の、不満気に口をとがらせた古参教師 les anciennes、次に40~50代の先生、とうに教職に幻滅し、でも学校のことなら何でも心得ていて、謄写版から明るい教室まで独占。若い先生、何人かとは親友になった。けれどもそんな人に限って、他の仕事を夢見ている。

前にいたポルト・ド・ヴァンヴの学校のような「小さな不良」les petits loublardsを想像していたが、初対面のクラスは意外におとなしい、よい子たちに見える。OmarやFarida、多くが移民系と思しき名で呼ばれる子供たち。まだフランス語が話せないSalemとのやり取りでは、兄のChibaniがアラブ語から通訳する。
ほんものの雪を知らない子。クリスマスの話をしても反応がない。ベルヴィルを小説の舞台にしてきたダニエル・ペナックは書いている、「私たちの丘からパリの中心部へ降りていくにつれ、有色人種の生徒は少なくなる。パンテオンの傍らのリセにはほとんどいない。都市の中心では黒人やアラブ人二世の生徒はごく少数で―お情けの比率la proportion de charitéと言おうか―1960年代の白い学校に逆戻りだ」(?Chagrin d’école?, p.283)

Salemは先生の「お気に入り」chouchouになる。一方で、どうにも相性のよくない生徒がいる。R...と呼ばれる劣等生は、椅子を引く音がやたら大きい、書き取りの日付を、絶対に言いつけどおりの位置に書かない。できが悪くても可愛い子 chouchous cancresが過去にはいたが、Rの場合、とにかくすべてが神経に障る。

親に知らせる。そう聞いただけで生徒はめそめそ泣き出す。Rの両親はやさしくない。Rが父親にぶたれるのを想像し、その晩彼女は食欲がなく眠れず、これもあいつのせいだ、とますますRに腹をたてる。

短いスケッチ風の文章が学校生活の場景を捕える。「バリケード」と題する章は書き取りdictéeの話、始まると生徒たちは一斉におしゃべりをやめ、筆記具を銃剣のように構え、見られまいと本を衝立にする。
先生以外の大人たち、婦人用務員les dames de service(掃除から保母や看護婦代わりまでこなす。彼女たちとの友好関係が先生には欠かせない)、消防士(救急警察police-secoursよりも早く来てくれる。学校での事故は、休み時間に多発する)、女性の「衛生監督官」agent d’hygièneは、虱がいないか子供の頭を検査する。食堂(校舎はおんぼろなのに、企業の社員食堂のよう)、トイレ(授業が始まってすぐに行かせてという子。手を洗って拭くものがない、あっても手が届かない)、学校の世界は、近くのプールや市場、クラスの積立金cagnotteで行く映画館にまで広がる。

キャラクター文具、食べられる消しゴム、字の消せるボールペン、ガジェットは子供の注意を散らし、トラブルのもとにも。コンパスだって投げ槍になる。かといって何でも没収するわけに行かない。
彼女の子供時代、罰といえばグラウンド周回だった。上からのお達しで(罰するpunirより予防するprévenirこと)、近頃は罰にも気を使わねばならない。私語や下品な言葉からかっぱらい、ゆすりまで、何に、どんな罰を与えるのか。定まった規則があるわけではない。彼女はその場その場、「フィーリングで」? au feeling ? 決めている。
プールや映画館行きの禁止。これは宣告しても、いざとなると実行がむずかしい。結局一緒に連れて行く。禁止と言われると大袈裟に嘆いてみせる子供も、承知の上で演技しているのだ。

クリスティーヌ・ブラヴォはスペインからの難民である石工を父に、パリで生まれた。ある日の授業中、アントニオというマドリード生まれの生徒と、他の子供はそっちのけで故郷の話をする。
セーヌ左岸しか知らなかった彼女に、ベルヴィルは異郷だった。「この奇妙なパリ」ce Paris étrangeの記録が、1980年代に連載、注目を受けたことに、どんな意味があるのか。子供たちを引率して出かけた市場の風景(麻薬の売人がいる、スイカをただにしてくれるおじさんもいる―?Ti la prends por la classe.Ci por toi i por lis zenfants. Ci gratoui.? )

教室の壁にべたべた児童画を貼りたがる傾向を揶揄して、名画の複製のほうがいいと冒涜的な意見。本の最後でブラヴォ先生は学校を去る。?Belleville, c’est fini.? 言いたい放題も、なかば部外者だからできたのだろうか。彼女はまず一度教師を辞め、子供とメキシコに旅立つ。帰国後、「リベラシオン」がこの企画のため教師資格を持つ女性を募集したのに応募。そういうことらしい。裏表紙のプロフィールではわからずにいた経緯(Christine Bravo ? Wikipédia )。

ペナックの本のいかにも年季の入った感じと、この本は少々趣が異なる。回顧や思索どころではない、どたばたの渦中で記された言葉。にも関わらずこの二冊には、学校の物語の持つ共通の匂いとざわめきがある。