発見記録

フランスの歴史と文学

マルセル・パニョル『ユダ』(4)

2006-07-31 21:42:49 | インポート

「異邦の男」は重要な役どころで、 ジャン・セルヴェJean Servais (1912-1976 フィルム・ノワールで映画通には知られた人らしい)が演じた。
エリコのEbenezerの息子、Ebionと名乗る男は過越しの祭りをBéthel(エルサレムの北10キロの辺と推定される Wikipédia)の家族と祝うため、ジェリコを明け方に発ち、雄ラバが引く荷車とここまで来た。
ユダの生家は、百人隊長の台詞(「エルサレムから6里のこの砂漠に」dans ce désert à six lieues de Jérusalem 派遣されてきた)がおよその位置を示す。
エリコからLibaniaまで石ころだらけの砂漠を歩いた男は、足に傷を負っている。ユダの父シモンは、今夜はうちに泊まり、祭りを共に祝うことを奨める。
男は家族が待っているからと断り、シモンは足の傷につける自家製軟膏を取りに行きかける。

異邦の男、とつぜん身を屈めシモンにささやく。
異邦の男 あんたに伝えたいことがある。
シモン わし一人にかね?
異邦の男 そうだ。
シモン 子供たち、出なさい。出たら戸を閉めて。
異邦の男 いちばん下の子を農場の屋根に上らせなさい。その子にしっかり見張りをさせるんだ。あのけだもの(ローマの兵士)たちが戻って来るかもしれん。
シモン オジアス(Ozias)、お前が行け。
子供たち、レベッカ(ユダの婚約者)出て行く。シモン、異邦の男を見る、男は微笑んでシモンを見ている。
異邦の男 息子に会いたいか?
シモン(ひどく興奮して)知っておいでか?
異邦の男 ああ。
シモン 仲間かね?
異邦の男 いいや。今朝、砂漠の入口付近(?aux portes du désert?)で会った。警吏が道を封鎖していて、一座はばらばらになったところだった。わしは荷車の、干草の下に息子さんを隠した。ここまで来て、停めてくれと言われた。わしは車を停めた。
シモン こんなことがあるものか?神がご家族を祝福されますように!倅はどこに?
異邦の男 あんたの声を聞いておるはず。
貯蔵室(cellier)の戸が開く。一人の男が入って来る。痩せているが背は高く筋肉質の体。微笑して一歩踏み出す。

イエスに裏切りを命じられユダが動揺すると、異邦の男はユダに問いかけ、共に考え、挑発し、最後の決断に至るまでの導き手となる。大祭司カイファが兵士と登場してからはシモンやレベッカも交え、激しく交錯する声。

利倉隆『ユダ イエスを裏切った男』(平凡社新書)にはフランスに限ってもアナトール・フランスとモーリアック、様々な文学的ユダが紹介されている。近代西欧はなぜかユダという人物に惹かれてきた。福音書は単に金銭欲によると片付ける行為に、神学的意味づけや心理的動機探しが行なわれる(二次元のユダ像に、みなが躍起になって奥行きや陰影を与えたがるような奇妙さがそこにはある)
ド・クインシーのユダ論などと違いパニョルの『ユダ』は、何より戯曲である。観客を釘付けにするはずの、徹頭徹尾演劇的な構想力にこそその才能は示されている。


マルセル・パニョル『ユダ』(3)

2006-07-28 06:55:01 | インポート

家捜しをしてもユダは見つからず兵士たちが引き上げた後、「異邦の男」l’étrangerと呼ばれるジェリコの男と共に、ユダが現れる。
三年ぶりの再会。右の頬を打たれれば、左の頬を出せ。ユダの伝えるイエスの教えは、一つ一つ家族や隣人を驚かせる。
ユダは過越しの祭を律法が定めるように家族とでなく、イエスと仲間たちと祝うため、エルサレムに引き帰すと言う。父の怒り。
しかしユダは戻らねばならない。「先生」le Maîtreは喩えで話すのを好むが、何か大きな出来事が迫っているのだ。これが最後の過越しの食事になると先生は言われた。
父は息子が理解できない。イエスと仲間の居場所を密告するよう奨めさえして、ユダは苦笑するしかない。

第2幕で深夜ひそかにエルサレムから戻ってきたユダは、ひどく動転している。先程のユダとは別人のようだ。
「異邦の男」との対話で、その晩何が起こったのかを明かす。

晩餐の席での師の言葉。「あなたがたの一人は、私を裏切るだろう」 みなが口々に私ですか?と聞くが返事はない。ユダの?Maître ,est-ce moi??(先生、私ですか?)にイエスは言った、?C’est toi, tu l’as dit.?

新共同訳・マタイ26,25は、「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさか私のことでは』と言うと、イエスは言われた、『それはあなたの言ったことだ』」

仏訳の一例 La Bible(traduction Louis Segond 1910 ) 
Judas, qui le livrait, prit la parole et dit: Est-ce moi, Rabbi? Jésus lui répondit: Tu l'as dit.
.
問題は?tu l’as dit?で、
Tu l’as dit [ Vous l’avez dit]. 《話》君〔あなた〕の言うとおりです。 (白水社・現代フランス語辞典)

BibleGateway.comの英訳 New International Version
Then Judas, the one who would betray him, said, "Surely not I, Rabbi?"
      Jesus answered, "Yes, it is you."
とし、注釈でOr "You yourself have said it"

いずれにしてもパニョルの作品では、それはユダを裏切り者と明確に名指す言葉なのだ。

異邦の男 他の人たちは、先生の言葉が聞こえたのか?
ユダ はい、大きな声で(à haute voix)申されたのですから。
異邦の男 それで彼らはお前に飛びかかったのか?
ユダ 誰一人身動きをいたしませんでした。口を聞くことさえできなかったのです。
異邦の男 先生を守ろうとしなかったのか?裏切り者が、裏切りを行ないに出て行くのを止めようとしなかったのか?
ユダ そうおっしゃるのももっともです。なぜだか私にもわかりません。
異邦の男 で、お前はどう言ったのか。
ユダ 何も言えませんでした。雷に打たれたようでした。先生が合図をし、私はおそばに行きました。その時先生は、小声で申されました、「お前がなすべきことを、即座になせ」(?Ce que tu dois faire, fais-le vite! ? ) 私は後ずさりしながら退出しました。外は夜でした。


マルセル・パニョル『ユダ』(2)

2006-07-25 06:12:53 | インポート

Web Gallery of Art では、TitleにJudasとつく絵は4件しかない。Text検索で「最後の晩餐」や「キリスト捕縛」などの画題による絵が53件。福音書がユダについて伝えることは限られている。

パニョルの戯曲では、イエスの弟子となる前にユダが陶工として月いくら稼いだか、婚約者レベッカに託した貯金は、と度々お金の額が示される。それはすべてパニョルの創作だが、無意味な数字ではない。『マタイによる福音書』は、いわゆる「裏切り」の代償にユダが受け取った金を30デナリオンとする。

イエスの墓を前に、他の使徒たちに糾弾される場面で、パニョルのユダは反論する―その程度の(ここでは「三週間分の給料」)のために、私が三年間随(したが)ったイエスを売ると思うか?

図 レンブラント『30デナリオンを返すユダ』

この金はユダに付きもののようになっているが、パニョルはそれが大した額でないと盛んに強調する。「裏切り」の動機は、ただの金銭欲ではない、そう主張したいのだ。

『ユダ』の序文では、福音書の「ベタニアで香油を注がれる」を取り上げる。マルコからは(14)の次の部分を引く。

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられた時、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女をきびしく咎めた。(聖書の引用は「新共同訳」による)

このエピソードはマタイ、ヨハネも伝えているが、ヨハネだけは無駄使いだと憤慨した人物を「イスカリオテのユダ」と名指す。しかもヨハネは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と、他にはない告発をする。

パニョルは言う、「法廷を前にしてなら、聖ヨハネは(まだ聖人ではなかったが)、判事に問われただろう― 
『あなたはユダが金入れから盗むのを見たのですか?兄弟たちになぜ知らせなかったのです。なぜ彼らのうちの二人とあなたは食い違うのですか。被告はあなたに反訴請求を行ない、偽証罪で有罪にすることもできるんですよ』」

ルナンも『イエスの生涯』(忽那 錦吾、上村くにこ訳 人文書院)で、ヨハネがユダを「ひどい悪人」に書いていることに不信を抱く。「私はむしろ、何か嫉妬か内輪もめがあったと考えたい」
無駄を惜しむ会計責任者ユダ、ルナンは「職務に積極的なあまり、彼は会計の利害を、ほかでもないその会計の目ざす事業よりも大切と考えるようになったのではないか。管理者としての彼が、使徒としての彼を抹殺したのではないか。(中略)このような狭量な節約は、この小さな団体の内で、ほかにもいろいろ悶着を生じていたのではなかろうか」と書く。損得に敏感なユダが「わずかばかりの金銭」のため、「役得」を犠牲にしてまで主人を売るのは不自然だ。この論法も部分的にはパニョルと重なる。
パニョルのユダが最後に預かった金を使徒たちに返す時一息に述べる長台詞は、マグダラのマリアの金いくら、棕櫚の聖日に私が乞食をして得た金は、と並べていく収支報告、残る金額314デナリオンの入った金入れを、もう自分には必要ないと突き出すまでを啖呵とか大見得と呼ぶのはふさわしくないが、「ぐっと来る」ところには違いない。

利倉隆氏の『ユダ イエスを裏切った男』(平凡社新書)には、ユダの「裏切り」の謎が、多くの文学者を引きつけてきたことが示されている。それらに交じってパニョルの提出した答えを、うまく行くか、とにかく一度整理してみたい。


マルセル・パニョル『ユダ』

2006-07-21 20:40:13 | インポート

エルサレムに近い農場、紀元32年、過越の祭りの朝。
暖炉の前に老人シモン(ユダの父)、そこへユダの婚約者レベッカが、ローマの兵士の来襲を告げる。
猟犬を連れ、ユダを捕まえに来た兵士たち。百人隊長と十人隊長は、老人を見下ろすように背が高い。
 
問いに答えるシモンとレベッカの言葉から、ユダの肖像が浮かぶ。美男で、足が長い。八人の子の長兄、わずかな財産を少しでも弟たちに残すため、自分は陶工に弟子入りした。
エルサレムで「学のある連中」と付き合い出し、ユダは変わった。読み書きを覚え、頭は思想で一杯、ラビのように滔滔(とうとう)としゃべる。いつのまにやら預言者に出会い、家にもふっつり顔を見せなくなった。「福音」を伝えるため、預言者と旅に出る、そう羊飼いに言付けてよこした。

パニョルの戯曲『ユダ』(Marcel Pagnol, Judas)は1955年10月6日Théâtre de Parisで初演。ユダはレーモン・ペルグランRaymond Pellegrin(1925―)が演じた。(写真、主な配役などmarcel-pagnol.comのJudas

1975年モンテカルロのEd.Pastorellyから出版された『ユダ』には、晩年のパニョルの回顧的序文を付す。

公演の前から偏狭な一部カトリックは、福音書を偽りユダの名誉回復を行なうためパニョルは「ユダヤ人インターナショナル」から巨額の金を受け取ったと、あらぬ噂。原稿に目を通してもらったユダヤ教大祭司le Grand Rabinは、福音書の叙述を忠実に追い過ぎると批判。舞台を見ないうちから反ユダヤ・プロパガンダと決め込む者もいた。

それでも「口コミ」la ?presse parlée?で評判を取り、ある土曜には満員札止めの盛況、電話をもらってパニョルは飛んで行く。舞台裏では有頂天、これは当たる!
二日後、第二幕を終え喝采を浴びて退場したペルグランが突然失神。医師は二週間の安静を命じる。代役として控えていたロジェ・リュデルRoger Rudelが慌てて衣装を着、何とか舞台を勤め上げた。
客の入りはがた落ち、しかしリュデルの演技は日に日に進歩、芝居の慣らしrodageを終えた一座も、見事にこれを支えた。
客数もそこそこに増え、後はペルグランの全快を待つばかり、しかしある晩、芝居の終わり近くで、リュデルは高熱と激しい腹痛に襲われる。また救急車、盲腸炎だった。

もう一人新人俳優を使ってみたが明らかに力不足、急に観客が減り一座は気力を失う、それに演劇人は迷信深い。相次ぐ災難に、誰もがこの芝居は不吉だと感じ出す。
「実際のところ、演劇作品の失敗は、しばしば容認するのが難しい、いつも神秘的な理由をつけて納得するのである」「キリスト教とユダヤ教、両方の信者に断罪され、信仰を持たない者の興味をそそらず、この芝居が成功する道理がなかったのだ」(続く)


ジャン・ドレーと病院から逃げてきた男

2006-07-13 21:59:57 | インポート

フロランス・ドレーはネルヴァルをめぐる回想=エッセーを、こんなふうに書き出す。 

 On sonna à la porte. Il ne devait pas être tard puisque je ne dormais pas. J’allai ouvrir, j’aime toujours ouvrir. Un homme tremblant demandait le professeur Delay. Il n’est pas là, dis-je, mes parents sont sortis. L’homme hocha la tête puis la laissa tomber comme devant un grand malheur. Soudain désolée que mon père ne fût pas là, je le fis entrer. Il s’assit sur la banquette, sous le tableau de la dame à la rose. Aujourd’hui tout ça a disparu. (Florence Delay, Dit Nerval, Gallimard, 1999 )

 ドアにベルの音がした。夜遅くではなかったはずだ、目を覚ましていたのだから。ドアを開けに行った、私はいつもドアを開けるのが好きだ。一人の男が震えながらドレー教授に面会を求めていた。いません、私は言った、父と母は出かけました。男はうなずき、次いで大きな不幸を前にしたように、がっくりとうなだれた。父がいないことが急に申し訳なく、私は男を中に入れた。彼は坐った、薔薇の貴婦人の絵の下の、長い腰掛けに。今はそれらすべてが消え去った。

フロランスの父ジャン・ドレーJean Delay(1907-1987)はパリのSainte-Anne病院に精神医学の講座を持つ。病院から逃げてきたと言う男は狂人に違いない。穏やかそうな様子に、彼女はそれほど恐怖を感じない。「それに幼い頃、私は病は治るものとひたすら信じていた」Et puis, petite, je ne croyais qu’aux guérisons. 

男は教授に会いたいと訴える。

―Il faut absolument qu’il sache, qu’il ordonne d’arrêter les électrochocs, je deviens fou. Ils m’en ont fait…
Le mot ne m’était ni inconnu ni familer mais au pluriel, un tel pluriel, je le vis littéralement. L’inconnu qui tremblait avait reçu je ne me rappelle plus combien de chocs électriques dans la tête. La porte donnant sue le bureau de mon père était heureusement fermée : sur la cheminée, à côtè des photographies de Gide et de Renan, se trouvait celle du professeur Cerletti, l’inventeur.

「どうしても先生には知っていただかないと、電気ショック療法をやめさせていただきたい、気が狂ってしまいます。あの人たちは私にそれを・・・」
私にとって未知でも、親しみがあるわけでもない言葉、しかし複数で、こういう複数形で用いられ、文字通りの衝撃的なイメージが浮かんだ。震えているその見知らぬ男は頭に、何度と言ったか覚えていないが、繰り返し電気ショック療法を受けたのだ。幸い父の書斎に通じるドアは閉まっていた―暖炉の上に、ジッドとルナンに並んで、発明者チェルレッテイ教授の写真があった。

ドレー『人間の精神生理』(三浦岱栄訳 文庫クセジュ1970 原題La psycho-physiologie)は第1章で精神生理学を「身体と精神とのあいだの関係を客観的に研究する学問」「身体―精神間と精神―身体間の相関関係および相互作用をしらべる科学」と規定する。それは心理学を生理学に、精神を生理に還元する思想的態度と見なされがちである。しかし「精神生理学はひとつの科学であって、哲学ではないのだ。それはいっさいの哲学的仮説を排除するものであるがゆえに、まさにそうであればこそ、いっさいの哲学と両立しうるのである」
精神生理学は方法として「内省」を排除しない。ドレーは心理学を「外部から観察できる運動、刺激とそれに対する反応の研究に制限しようとした」行動主義を批判する。
電気ショックに言及するのは第4章「精神心理学の実際的応用」の「Ⅲ 治療」―
臨床家は「身体療法と精神療法を甲乙のない技術によって駆使」せねばならない。進行麻痺や甲状腺不全による精神障害に対しては、心理療法をどれほど巧みに行なっても効果がない。ペニシリンや甲状腺エキスの投与だけが有効なのは証明されている。顔の腫れ(甲状腺不全)のような身体症状を伴うこれらの例と違い、純然たる精神症状に限られ、しかもショック療法が「奇跡的効果」を挙げることから「身体的に決定されていることが疑いの余地のないもの」がある。

精神的苦痛によって押しつぶされている、あの憂鬱病患者がそうである。夜も昼も絶望感にさいなまれ、過去の後悔と未来の不安のうちに、われとわが身をすりへらしてゆく憂鬱病患者は、過誤と処罰だけを望み、原始社会の人柱のように、共同社会のいっさいの罪を一身に引きうけて、これを贖うことを望んでいるようである。苦悶はいよいよ高まって死への願望となり、あるいはさらに、妄想が少しでもそこへ押しやるならば、自殺もまたあまりに甘いと考え、永遠の苦痛をうけることができるために、不死とならんことを願うにいたることさえある。しかるに、これらすべての幻想を離散させるのに、数回の電撃療法で事足りるのである。一般には第三回目から、多くともせいぜい第四回目から、精神的な風土が一変してしまう。苦痛は和らぎ、心は平和になり、苦悶はその束縛をとき、数回の施術の後で、感情的気分は正常となり、この感情障害の知的反映にすぎなかった妄想は消失する。悲劇的感情・後悔・恐怖・罪悪感・空想的犯罪などは、数回の電気痙攣の前に屈服したのである。・・・

邦訳『人間の精神生理』は1952年刊の訳書の改訂新版。原著は1945年(?)に出版され、その後増補改訂を経ている。

サンタンヌでは47年に「精神病と脳の臨床講義」の主任教授となり、神経生理学から精神分析、精神薬理学まであらゆる分野の専門家を擁するチームを築き上げた。52年にPierre Denikerと向精神薬クロールプロマジンの効果を報告するなど、現代精神薬理学の開拓者として知られる。
http://www.servier.com/pro/html_news_home/download/Delay/Delay.pdf

En mai 1968, les tenants de l'antipsychiatrie qui prône la séparation de la psychiatrie et de la neurologie, occupent son bureau. Amer, il démissionne discrètement de ses fonctions hospitalières pour revenir à son autre vocation, celle d’homme de lettres (il est l’auteur d’une biographie du romancier André Gide publiée en 1952).  http://picardp1.ivry.cnrs.fr/Delay.html
1968年5月、精神医学と神経学の分離を唱える反精神医学の信奉者たちが研究室を占拠。苦い思いで、そっと病院関連の役職を退き、もう一つの天職である文学者に戻る(彼は1952年刊の作家ジッドの伝記の著者である)