発見記録

フランスの歴史と文学

『日本アパッチ族』と山田捻(ひねる)

2005-11-25 22:27:45 | インポート
―鉄なんか、とてもわれわれの味覚を満足させることができないという食通氏には、ランボウの飢餓の祭典(フェット・ド・ラ・ファム)を読むことをおすすめする。この先覚的詩人は、鉄に対する食欲をはっきり次のようにうたっている。
"食いたいものは / あるにはあるが
 俺の食いたいのは、/ 土や石、
 ディン、ディン、ディン、
 さあ食おうじゃないか、
 空気を岩を / 石炭、鉄を!"

    小松左京『日本アパッチ族』(角川文庫)

 カッパノベルス版(1964)で読んだ時の記憶を確めたいことがあり手に入れたが、山田捻(ひねる)という人物が現れ驚く。
 山田稔が『スカトロジア(糞尿譚)』で一躍有名(?)になるのはもっと後のことだから、「捻」との類似にも気がつかなかったはずだ。

 憲法改正で失業が犯罪になった日本、追放刑を受けた主人公木田は、屑鉄泥棒が食鉄人種化した「アパッチ族」の一員になる。
「インテレ」で政治犯らしく、「高貴な魂」を持つ山田は、流刑地から脱出しようとして死ぬ。「彼は人間であることに、その誇りと執着を賭けていた」 木田は人間であるのをやめることで生き延びる。
 「山田捻」が山田稔のポルトレである必要はないが、それにしてもどんな楽屋落ちが隠されていたのか。 



白髪のモヒカン 

2005-11-24 21:56:11 | ことば
ギューちゃんこと篠原有司男さんが登場!で初めて篠原氏の声を聞けた。
同席の息子さんのお名前が「アレックス空海篠原」、しゃべり出してすぐラップになる、「ラップっていうのは心の叫びだから、彼もいま叫んだわけ、心の叫び」 声も話も若々しい。白髪のモヒカン。

アレクサンドル・デュマはLes Mohicans de Parisという小説(戯曲版もあり)を書いているがどんな話か。仏語でapachesは「愚連隊」とか悪い意味もある、Mohicansすなわち「ネイティヴ・アメリカン」とは限らない(*1)
有名な言葉「女を捜せ」?Cherchez la femme !?は、この作品から来ているという。警察官のJackal(policierなので階級など不詳)が

―Il y a une femme dans toutes les affaires ; aussitôt qu’on me fait un rapport, je dis : On cherche la femme, et quand la femme est trouvée...
―Eh bien ?
―On ne tarde pas à trouver l’homme.

―事件の陰に女ありだ。報告を受けるとすぐ私は言います、「女を捜せ!」
女を捜し、見つかった時は・・・
―どうなります?
―じきに男も見つかります。

(Bernadette de Castelbajac, Qui a dit quoi? Tallandier, 1978)
この本では、デュマは1759年に警察長官lieutenant-général de policeだった?G.de Sartine?の言葉を借りたと注がつく。Antoine de Sartine (1729-1801)か。http://www.public.coe.edu/~theller/soj/ttl/people.html


*1「誰も彼も権力欲・金銭欲に凝り固まった都市の周縁で、恵まれない境遇の者たちが自由と栄光、幸福を勝ち取ろうとする」話、http://www.fnac.com/Shelf/article.asp?PRID=914531&Mn=32&Origin=FnacAff&Ra=-1&To=0&Nu=10&Fr=3自由主義運動のカルボナリ党Charbonnerieやフリーメーソンがからむ。敵役のJackalはchef de police とわかる。



サイト更新

2005-11-23 10:23:43 | ニュース
Pedigree―シムノンからモディアノへ

サイトを始めた頃、シムノンの小説から何冊か再読して、要約+短評をやりました。非メグレの作品はネタバレを気にしなくてもいいのが多いし、古典的単純明快さを備えたシムノンの小説はとにかく早く「コンテンツ」を揃えるには最適でした。一人の作家にしぼらない「よろず屋」として何を書くか、シムノンを選んだのにはそういう実際的理由もありました。
たとえば『ベルの死』La mort de Belleを外したのは、よりミステリに近い作で、核心にふれず評するのがむずかしいと感じたからだと思います。
もっともこの作品が邦訳された時に解説で都筑道夫氏が危惧された、「こんな探偵小説ってあるものか、これじゃ尻きれトンボじゃないか」に類した抗議が、まさに版元に寄せられたと「メグレ警視のパリ」の写原さんから伺いました。
『小さな聖者』Le petit saintは簡単に要約できない本で、これはずいぶん後回しになりました。
Pedigreeも今回ようやくまとまったものが書けて、ほっとしています。中断を挿んだためモディアノと対にしたことが疑問になり、ゼロから書き直す気力もないし、結局延々と時間がかかってしまいました。


Le train-train de l'histoire

2005-11-19 07:08:54 | 歴史
Le train-train de l’histoire :

Vous prenez la ligne à Transnonain 34, vous changez à République V et l’on vous descend à Charonne 62.

Jacques Prévert, Fatras (Gallimard,1966) p.20
( 歴史メトロは繰り返したがる―
1834年トランスノナンで乗車、第五共和国で乗り換え、1962年シャロンヌ駅で下ろされる)

トランスノナン街で1834年4月15日に起きた事件はドーミエの版画で知られる。
虐殺の起きた家 la maison du 12, rue Transnonainの図はここ
共和派の反乱を鎮圧に向かった軍は、家の屋根から銃撃を受ける。踏み込んだ兵士は女子供を含め住人を殺戮。http://www.voltairenet.org/article16797.html
トランスノナン街はその後他の通りと合体し現在のRue Beaubourgに。

アルジェリア戦争中の1962年2月8日、極右OASのテロに抗議し和平を求めるため共産党、統一社会党(PSU)CGTなどの組合はバスティーユ広場に結集を呼びかけた。地下鉄シャロンヌ駅近くで、デモの列を解いた一団に警官隊が突撃。逃げる人々は地下鉄入口に殺到、将棋倒しになる者、警官の暴行を受ける者、8人(9人とも)の死者を出す。

プレヴェールの詩集は66年刊。堀茂樹氏によればシャロンヌ駅の死者はすべてフランス人。この事件が大きな関心を集めたのに、その数ヶ月前、犠牲者の大半がアルジェリア系住民だった61年10月17日の虐殺は長く闇に葬られることになったという。シャロンヌにしか言及しなかった共産党の姿勢も、10月17日の忘却を生んだ理由の一つとされる。

デナンクスの『記憶のための殺人』Meurtre pour mémoireは1999年ガリマール書店の叢書La Bibliothèque Gallimard に収められた。ここで見れる裏表紙には? recommendé pour la classe de troisième ? 現代ロマン・ノワールが日本の中三程度の子たちが対象の本になるのも、この作品の政治的社会的な意味によるものか。

参考記事 サイト17 Octobre 1961 : Contre l’Oubli の Histoire et oubli http://17octobre1961.free.fr/pages/Histoire.htm

この17 Octobre 1961 : Contre l’Oubliは「アソシアシオン」(ただ定期活動は現在休止中らしい)で、カーニヴァルについて調べた時、こういう組織の存在に気がついた。
はてなダイアリーfenestraeさんの置き去りに去れた郊外・燃える郊外(中期的観察 その2) 地域の社会・文化活動の後退は「郊外」の危機がラファラン政権以来の補助削減によるアソシアシオンの「受難」と切り離せないことを教えてくれる。

今度の騒ぎでも警察の「不当な暴力」が報道されてはいる。しかし多くの犠牲者(数十から数百まで諸説あり)、露骨な報道管制・検閲、61年当時と今を安易に重ねるわけには行かない。あれは内戦に近い状況下でのできごとだった。

私にはフランスで今何が起きているかを生々しく伝えることも、鮮やかに分析することもできない。
確かに存在するのは本と画面の文字だけ。
この文も、プレヴェールを最初読んだ時にはCharonneの意味など気にしなかったはず、♪あの時 ぼーくは 若かった という私的感慨が落ちなのである。



一九五五年四月三日の法

2005-11-12 21:26:01 | 歴史
一九六一年、アルジェリア独立戦争はようやく終結に向かいつつあったが、それだけに却って、フランス本土では血なまぐさい事件が頻出していた。(中略)一九五八年から政権に返り咲いていたドゴール大統領は、最終的にはアルジェリアの独立を認める腹をすでに固め、交渉によるアルジェリア問題解決を模索していた。アルジェリアの独立を阻止しようとする極右秘密軍事組織OASによるドゴール暗殺未遂は、一九六一年九月八日に起こっている。その九月、パリで、アルジェリア人・モロッコ人・チュニジア人など北アフリカ系住民が警官のグループに殴られ、体を縛られてセーヌ川に投げ込まれ、死体となって浮かび上がったり、稀には命からがら生き延びるという事件が連日のように起こっていた。                                           
同年の夏の終わり頃からFLNは内部の過激分子のテロ行為を抑制し、十月七日にはそれをいっさい禁止するに到ったが、パリ警視庁は弾圧態勢を強化し、十月五日、パリおよびパリ郊外のアルジェリア系労働者だけを対象に夜間外出禁止を実施した。夜間外出禁止令は明らかな憲法違反だった。一九五八年に制定された第五共和制憲法 (現行憲法) はその第二条に、フランスは 「すべての市民の法の下の平等を、市民の出身、民族、宗教の如何にかかわりなく保障する」と定めているのだから。
  (堀茂樹氏、デナンクス『記憶のための殺人』訳者あとがき)

このあいだからのフランス各地での夜間外出禁止は"la loi du 3 avril 1955" によるものらしい。記事によりこの法をappliquer適用する recourir à ~の力に訴える activerやréactiver (再)活用する、特にこのréactiverがひっかかる。アルジェリア戦争中(1955~1962)とニューカレドニア分離独立派の反乱(1984-1985)時にしか適用されてないという。(Alternative libertaire, Non à l’état d’urgence ! Non à la guerre coloniale !
lois2
Legifranceで探す。慣れないので手間取る。 LOI, 55-385, 1955-04-03, INSTITUANT UN ETAT D'URGENCE ET EN DECLARANT L'APPLICATION EN ALGERIE これこれ、しかし直リンクができない。

追記ー苦労しなくてもttp://www.liberation.fr/page.php?Article=336694
とか、掲載されてるのですね。7 avril 1955と日付けのついた官報のページをPDFで見れるほうが、じかに歴史にふれる感触がある、それだけのことでした。
粘り強さはないので、archiviste気分が味わえればいいのです。