発見記録

フランスの歴史と文学

学校の悲しみ―ダニエル・ペナック Chagrin d'école 

2008-01-31 06:44:17 | インポート

Daniel Pennac,  Chagrin d'école (Gallimard)

cancre 劣等生 (原義は「カニ」)
crack (1)競馬の人気馬 (2)できる子、名人 ~ en mathématiques 数学が・・・
fort en thème (悪い意味で)優等生、ガリ勉 文字通りには「thème(母国語から外国語への翻訳練習)に強い子」

昨年ルノード賞を取ったペナックの本、裏表紙に少年時代の通信簿のコピー。どの科目もクラス平均を大きく下回る。フランス語ぐらいは得意でもよさそうだが、平均14,2に対して7、英語には先生のコメント、?Parle beaucoup, mais pas un mot d’anglais?(よくしゃべるが、英語はひとこともなし)
ノートに書いたいたずら書きの再現(p.31)では、b の文字が徐々に小さな人間に変身し、走り出し、水に飛び込む。
14歳の時、初めて入った寮から母親に宛てた手紙(p.43)  ?Moi aussi j’ai vu mes notes, je suis écoeuré, j’en ai plein le dot [sic], ...?(ぼくも点数を見ました、いやになります、もう沢山です〔原文のまま(dotはdosの誤まり)) いちいち「原文のまま」と付記し、誤りだらけの文を引く。よくできる三人の兄と自分を比べ、少年は母親に訴える、これ以上「殺戮」le massacreを続けるのはやめて、ぼくを植民地に行かせてください。軍人の家系で、ペナックはカサブランカで生まれた。どこか遠い、「世界の果て」への亡命の夢。

できない子は、なぜできないのか。貧困や社会的なハンディを背負った子供もいる。ペナックの父はポリテクニーク出身、母は専業主婦、教養ある家庭。環境の問題ではなかった。
この本は「なぜ」の社会学的分析より、まずできない子の「わからないという苦痛」la douleur de ne pas comprendreを問題にする。
自分を「ゼロ」nul として意識し、怠ける理由を見つけるのばかりうまくなり、いよいよだめになって行く心理的な過程も、仲間と「群れ」bandeを作りたがるわけも、ペナックにはよくわかる。それは彼自身と、教師として接してきた子供たちの物語だ。
著名人が、実は劣等生だったと告白するのは、決して珍しくない。むしろそれは普通の道を歩まなかったしるし、一種の「勲章」になっている。彼らの言葉を信じられるのは、その背後に真性の痛みが感じ取れる時だけだとペナックは言う(p.95)。

s’en sortir (窮地を)切り抜ける 何とかうまくやる

わが子が?s’en sortir ?できるか、ペナックの母親は、絶えず息子の将来を案じてきた。もうすぐ百歳になる彼女に、ペナックの兄ベルナールは、弟が有名作家として出演したテレビ映画を録画し見せる。それでも母は、同じ不安を口にする。?Tu crois qu’il s’en sortira un jour ? ?(p.14) 

1959年に劣等生だった子供は、1969年から教職に就く。
―Si ce que vous décrivez de votre cancrerie est vrai, pourrait-on m’objecter, cette métamorphose est un authentique mystère ! (p.95)
「もしあなたがお書きの劣等生ぶりが嘘でないなら」、と反論されるかもしれない、「この変身はまことの謎ですね」

しかし成長期の十年は大人の十年ではない。寮生活を始めたことで、両親への嘘やごまかしにエネルギーを費やす必要がなくなった。
救い主として現われた何人かの先生。まず第3学級(中等教育4年目)のフランス語の老教師は宿題をやってこないペナックに、小論文の代わりに小説を書かせる。週に一章、主題は自由だが、綴りに誤りがあってはいけない。ペナックは創作に夢中になる。辞書を頼りに、綴りを確めながら。トマス・ハーディを耽読していた頃で、それは暗くて救いのない運命論的物語だったはずだ(p.98)。

Je m’en moque. 知るもんか。
Je n’y arriverai jamais. ぼくにはとてもできそうにない。

「副詞的代名詞」などと呼ばれる?en?と?y?は、?Ça y est.?(うまくいった、よし)のように、何を指すのか明瞭でないことがある。ペナックは生徒たちと一緒に、こういう単純だが謎めいた言葉の解明に取り組む。?en?で表わされる、できない子たちの日常。そこから未来へと抜けだし(s’en sortir)、成功する(y arriver)ことが、できるだろうか。

先生が出席を取る。生徒たちの答え、? Présent ?, ? Présente ?―そこに「いる」こと、absent(不在の、放心した)ではなく。教師にもprésenceが求められる。そうして初めて教室は「現在をそのままに生きる」vivre le présent comme tel 場になる。先生にも、生徒たちと常時「い」続けることはできない。「別の場」ailleursを求めて、ある女性教師は弦楽クワルテットでチェロを弾く。

フランスでも時代と共にさまざまな教育論が現われ、教師もその都度新理論に影響されてきたと思われる。ペナックの語調がいらだたしげになるのは(p.143)おそらくそういう事情があるのだろう。書き取りdictéeが「反動的」だという議論に対しては、敢然とこれを擁護する。ペナックは書き取りが大の苦手だった。しかしそれが始まる一瞬、何が読まれるのかと好奇心をそそられたものだ。

生徒のひとりニコラが言う(p.146)、ぼくは書き取りでは零点しか取ったことがない。他にも同じような子供がいる。
聞いていたペナックは、即興の文章を書き取らせる、? Nicolas prétend qu’il aura toujours zéro en orthographe...?(ニコラはいつも正書法で零点を取るだろうと言い張る・・・)
他の子供たちのこともうまく文中に織り込んで興味を持たせ、しかも文法の要点チェックになるような内容でなければ。先生はすばやく頭を働かせる。
毎日の書き取りは、クラスの日記のようになって行く。辞書の早引き競争。指名した子に書き取りの問題を作ってこさせる、「6行の文章で代名動詞が2個、avoirを伴う分詞が1個、それから・・・」

本を書き出した時、ペナックは友人たちに警告された。近頃の子供は、昔の子供とは違う。それに彼が教師を辞めて12年ほど経つ。その間にだけでも学校は変わった。
若い先生たちに?Nous ne sommes pas formés pour ça ! ?(私たちはこんなことのために養成を受けたんじゃない)と悲鳴を上げさせるような状況。子供をしつけられない家族。一部の学校での暴力。スカーフの着用のような「宗教の回帰」、先生たちが監督surveillantやカウンセラーといった専門家の手を借りたくなっても無理はない。
しかし、とペナックは考える、困難なしに教育ができると考えるのは、つまり理想の生徒を想定しているのだ。逆に劣等生こそ普通だと思うのが、教育の知恵というものだろう。生徒にすべてを、何よりまず勉強の必要から教える者がいなければならない。それが教師の役割なのだ(p.274)。

父親のおじ、ジュールはコルシカの村の小学校教師だった。忙しい栗の収穫期、親は子供に授業を休ませたがる。するとジュールおじさんは、無理やり子供を学校へ「さらって」enlever行くのだ。おじさんのおかげで、フランスには何世代もの教師、郵便屋、憲兵、官吏が生まれた。公教育の父とされるジュール・フェリーと奇しくも同名のおじさんは、「人食い鬼」ogreを連想させないだろうか。

Si c’est une légende, je l’aime. Je ne crois pas qu’on puisse concevoir autrement le métier de professeur.(p.26)
伝説だとしても、私はこの話が好きだ。教授の仕事を別な風に考えることができるとは思わない。

「ジュール・フェリーの子供」の死を、ペナックはおよそ1975年頃と位置づける。昔の子と今時の子が一番違うのは、「彼らは兄さんのお古のセーターを着ていない」(p.283)ことだ。「郊外」の少年たちも、靴やジーンズはブランドものに惹かれる。消費社会化した先進国の教師は「お客様である子供」l’enfant-client(p.286)を相手にしなければならない。

時々語り手ペナックの分身、「劣等生であった私」が現われて、遠慮なくツッコミを入れる。長年の、多くの人たちとの対話、そして自問自答の末に書かれたことが感じ取れる。逸話と卓抜な比喩で語りかける円熟した技量、ベストセラーになったのも肯ける。フランスの今時の学校を見てきたわけではない評者には、教育の現況についてペナックの叙述で十分かどうか、何とも言えないが。「伝説」として、この本はプレヴェールの詩『劣等生』と並ぶ価値を持つだろう。
Hommage à Jacques PREVERT : Le cancre
http://mortain.free.fr/Culture/Prevert/prevert6.htm


ブックフェアへの旅は「コレステロール列車」で

2008-01-20 17:58:25 | インポート

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2007年10月26日、ゴンクール賞の最終候補作品はコレーズ県ブリーヴ・ラ・ガイヤルドで発表された。
市では毎年秋、ブックフェアla Foire du Livreが開催される。パリのle Salon du Livreに次ぐフランス第二の大きな催し、2005年には10万人以上が集まり、会場のla Halle Georges Brassensには400人を上回る作家が顔を見せた(Evene.fr-Foire du livre de Brive 2005)また同じ機会に「フランス語大賞」le Prix de la Langue françaiseなど数多くの文学賞の発表が行なわれる。
1985年から、「書籍列車」le Train du Livreに関係者が大挙して乗り込み、パリからブリーヴへ向かうのが恒例となった。

Dans le ? train du cholestérol ?, surnom donné à la rame spécialement affrétée de Paris à Brive pour amener les 350 auteurs et éditeurs à qui l'on sert, dès 11 heures, un repas pantagruélique, avaient pris place quatre jurés : Françoise Chandernagor, Didier Decoin, Bernard Pivot et Robert Sabatier, ainsi que quelques membres d'autres prix. Bravant l'épais brouillard, Edmonde Charles-Roux avait choisi la voie des airs.

? Jusqu'au dernier moment, les jurés sont prêts à changer d'orientation ?, a averti Didier Decoin qui a communiqué la liste finale, comprenant cinq noms, au lieu des trois ou quatre habituels. Signe de la richesse de la rentrée mais aussi de l'atermoiement des jurés ?
(?Derniers indices des prix? Le Monde 02.11.07)

「コレステロール列車」とあだ名されるのは、350人の作家と出版者を運ぶためパリからブリーヴまで特にチャーターされた列車、車内では11時になるとすぐパンタグリュエル並みの豪勢な食事が振舞われる。4人のゴンクール賞選考委員が乗車していた。フランソワーズ・シャンデルナゴール、ディディエ・ドコワン、ベルナール・ピヴォ、ロベール・サバティエ、他の文学賞の委員たちも。濃い霧を物ともせずエドモンド・シャルル=ルーは空の旅を選んだ。
「最後の最後まで、選考委員は方向転換する用意がある」と注意を促した上でディディエ・ドコワンが発表した最終候補には五つの名前、例年なら三つか四つのところだ。豊作の秋のしるしか、選考委員の時間稼ぎか?

ジョナサン・リテルが受賞した2006年とは違い、ずば抜けた作がないとの前評判があった。またこの警告どおり、11月5日には候補に残らなかったアメリー・ノートン(Ni d’Ève ni d’Adam)が1票を得ている。

1985年から95年まで、ゴンクール賞最終候補作発表はブリーヴから近いホテルLe Château de Castel Novel で行なわれた(コレットが『シェリ』や『青い麦』を書いたのもこの城館。コレットはその頃、最後の所有者の一人、上院議員で「ル・マタン」紙主筆アンリ・ド・ジュヴネルと結婚していた)

この慣例もそれ以後は中断していた。Wikipediaによればゴンクール賞の最終候補発表日が早められたためという。
 
2007年のブリーヴでの発表が、どんな意味を持つのかはわからない。文学賞がひしめくこの季節、関連日程にも賞の間の競合関係が絡んでいるらしく、ややこしい。

そもそも「コレステロール列車」が気になり調べ出したわけだが、エリック・オルセナがブリーヴを? Cholestérol City ?と呼んだという。オルセナは1988 年に L'Exposition colonialeでゴンクール賞を取っている。1998年からアカデミー・フランセーズ会員。
ブリーヴ市のLe Prix de la Langue françaiseは1986年創設、選考委員の内訳を見るとアカデミー・フランセーズとアカデミー・ゴンクールの会員が大半、アカデミーへの「反」を標榜して設けられたはずのゴンクール賞だが、両者が仲良く並ぶことに今では何の不自然さも感じない。文学賞は年毎にめぐってくるフランス的祭事なのだ。


ゴンクール賞の制度改革案

2008-01-17 21:20:21 | インポート

2006年のゴンクール賞はジョナサン・リテルJonathan Littellの? Les Bienveillantes ?が受賞。投票では10票中7票を得た。2007年は、11月5日、ジル・ルロワGilles Leroy ?Alabama Song? に決まる。?Alabama Song?は8票中4票しか得ていない。この日は選考委員ミシェル・トゥルニエとフランソワーズ・マレ=ジョリスが健康上の理由で欠席。高齢化はアカデミー・フランセーズと共通する問題でもある。数多くの新刊小説に目を通すのが負担になりだすことは、まだそれほどの年寄りではない私にも想像がつく。
12月以降、毎月の例会で改革案が出されている。すでに昨年からベルナール・ピヴォの提案で、無記名投票でなく、各々が理由を述べての口頭の投票un vote oral argumentéが行われた。順番はくじ引きによった。停年か、任期を定めるという案も。自身84歳になるホルヘ・センプルンは、80歳以上の者は辞表を出するよう提案。出版社での職務から報酬を得ている人は、選考委員にしない(現在これに該当する者はいないという)
Le Goncourt remet le couvert (Libération.fr 10 janvier 2008)

恐らく改革の必要が感じられだしたのは昨日や今日のことではない。前に引いたブレネールの本(1982)には、当時出ていた案として
(1) 才能発見の賞les prix de découverte ではなく、声価をあらためて認める賞 les prix de consécration(モディアノ『暗いブティック通り』(1978)のように)への転換。あるいは二つの賞の併設。
(2) 対象をその年刊行の小説に限らない。あるいはノーベル文学賞のように、作家の作品全体に対して贈る(モディアノが2000年にポール・モーラン文学大賞を受けたのも、この「全体への評価」だった)
(3) 年に一度でなく季節ごと、でなければ春と秋に授与する。アルマン・ラヌーの案だが、威光prestigeが失われると反対された。

ブレネールは1903年から40年までの受賞者を一覧し、ゴンクール賞はこの輝かしい時代の最良の作家を決まってrégulièrement見過ごしてきたと言う。「ジッド、ラルボー、アラン=フルニエ、ジロドゥー、〔ジュール・〕ロマン、マックス・ジャコブ、ジューアンドー、コレット、マルタン・デュ・ガール、シャルドンヌ、モーラン、コクトー、モーリアック、モンテルラン、ジオノ、アラゴン、シムノン、ベルナノス、グリーン、エーメ、セリーヌ、クノー、サルトル、カミュ、ユルスナール」

逆に受賞した作家の多くが今では忘れ去られている。アカデミー・ゴンクールの選択が歴史による認証を受けたのは、発見ではなく、声価を定めるconsécrationの賞として与えられた少数の例に限られる。プルーストの場合がそうだった。(Brenner, Tableau de la vie littéraire en France d'avant-guerre à nos jours

アカデミー・ゴンクールの規約変更は、なかなか難しいらしい。まず会員同士の合意が得られにくい。ヌリシエが懐かしむような友情、知的な共犯関係は、失われつつあるのか。管轄官庁(内務省と文化省)がゴー・サインを出し、国事院で承認されてようやく決まる。アカデミー・ゴンクールは「なかば国家的制度(機構)」une institution quasi nationaleなのだ。(前出「リベラシオン」記事) ゴンクール兄弟は今日の姿を予想できただろうか。


Je m'en vais en douceur フランソワ・ヌリシエ アカデミー・ゴンクールを去る

2008-01-15 10:33:28 | インポート

前回引き合いに出したフランソワ・ヌリシエ(1927年生まれ)は、ゴンクール賞の審査を降りることになった。
Le Figaro - François Nourissier :
?Je m'en vais en douceur?

Propos recueillis par Étienne de Montety
09/01/2008 
2003年の?Prince des Berlingot?では、自身のパーキンソン病との闘いを初めて明らかにしていた。
賞の審査に当たる「アカデミー・ゴンクール」の会員に1977年選ばれ、1996年から2002年までは議長。小説は自伝的作風ということだが、馴染みがない。最近では特にミシェル・ウエルベックを高く評価、新作発表のたび論議を呼ぶウエルベックの応援団長(?)としてその名を記憶したのは、私一人ではないだろう。

2005年のゴンクール賞はフランソワ・ヴェイエルガンス?Trois jours chez ma mère ?に与えられたが、ヌリシエはこの年9月、早々とLe Figaro magazineでウエルベック『ある島の可能性』を推し、投票を予告。有力会員ヌリシエが個人的に「宣伝」を行なうことに、社会党のクロード・アレーグル元教育相がL‘Expressで疑問を呈した。L'Express du 15/09/2005
Houellebecq à tout prix?


Le Monde.fr - La dernière passion de François Nourissier   LE MONDE | 09.01.08 | (これは05年の記事の再録)

関連性があるようなないような逸話を、ジャック・ブレネールの本で見つけた(Jacques Brenner, Tableau de la vie litteraire en France d’avant-guerre à nos jours, Luneau Ascot Editeurs, 1982 La comédie Goncourtと題した章にある)

1968年にはユルスナール『黒の過程』、アルベール・コーエン『選ばれた女』Belle du Seigneurが刊行された。しかしゴンクール賞を争ったのはベルナール・クラヴェルの?Les Fruits de l’hiver?とヌリシエの?Le Maître de maison?である。

ゴンクール賞に先んじて、まずパリ市文学大賞le Grand Prix littéraire de la Ville de Parisが?Les Fruits de l’hiver?に与えられた。文学賞審査員は同一作のダブル受賞を嫌う。クラヴェルのゴンクール受賞は遠のいたかと思えた。
しかしベルナール・ピヴォがLe Figaro littéraireで素っ破抜きをやる。パリ市文学大賞受賞はルイ・アラゴンが市議会の「進歩的」議員に働きかけ投票させたらしい。友人ヌリシエの「邪魔者をどける」ための手だった。悪名高い文学賞裏工作の一例。

結局10名による投票でクラヴェルとヌリシエが各5票を獲得。2票分の権利を持つ議長ロラン・ドルジュレスがクラヴェルに票を投じ、受賞作が決まった。5分後、アラゴンのアカデミー辞任が知らされた。

「この事件の妙味は」、とブレネールは注釈する、「クラヴェルの本は、アラゴンにとってスターリンが世界のあらゆる希望を体現していた頃、彼が熱烈に擁護したあの『社会主義リアリズム』に属することだ。逆にヌリシエの?Le Maître de maison?は、田舎の家を所有したパリのブルジョワ青年の精神状態をあらわにする。プロレタリア文学から何と遠いことか!(これはただ事実を言うので、賛辞にも悪口にもなるものではない)
ベルナール・クラヴェルはごくありふれた人物に私たちを引き合わせ、彼らに興味を持たす術を心得ている。二人の老人、退職したパン屋とその妻、戦中から戦後まもない頃だ。彼らと共に古い世界が死に、生まれてくる新しい世界を彼らはまったく理解できない。証言、社会学的記録とも言える、しかし特定の時代の小さな町の、慎ましい人々 les petites gensの暮らしの、優れた証言、堅実な記録である。
その書法は誠実、ただクラヴェルは言語を道具として使うのに、ヌリシエは楽器のように言語を奏でるとでも言おう。クラヴェルでは大事なのは物語である。ヌリシエでは文体が読む者を引き止める。クラヴェルとヌリシエの対立は、アカデミー・ゴンクールを分つ二つの流れをはっきりと示していた。《人生の一片》派と《華麗なる一節》派である」(L’écriture est honnête : on dira seulement que Clavel se sert du langage comme d’un outil, tandis que Nourissier en joue comme d’un instrument de musique. Chez Clavel , c’est l’histoire qui compte. Chez Nourissier, c’est le style qui retient. L’opposition Clavel ? Nourissier mettait en évidence les deux courants qui se partagent l’Académie Goncourt : les partisans de la tranche de vie et les partisans du morceau de la littérature.)

そういうふうに整理できるのか(もちろん四半世紀も前の本である)、検証しようとすれば大変なことになる。ただここでも「文体」が問題にされていて、前の話とつながる。
原理的に文学を考える必要を、感じないわけではない。ただその種の本に取り組む忍耐力を、どうも私はなくしてしまったらしい。逸話を拾うことで、切れ味鋭い理論には到達できなくても、省察もどきにはなるのではないか。そう考えている。


「文体」の憂鬱 グラック『アルゴールの城にて』

2008-01-08 21:58:25 | インポート

暮れに亡くなったジュリアン・グラックは、その文体styleが最大級の讃辞を受ける作家だった。
「フィガロ」のフランソワ・ヌリシエによる追悼文 Julien Gracq un style français
François Nourissier de l'académie Goncourt 24/12/2007
には、特別の興味を持った。

ヌリシエが5年前、シムノン生誕100年を機会に書いた文章がある(Ecrivain ou romancier ? Le Figaro Littéraire, 9/1/03)
「文体」を持たない小説家romancierシムノンが、琢磨された「文体」が生命である著作家écrivainたちと対比され、後者の典型としてヌリシエが挙げる作家の一人がグラックだった。
このブログでも以前取り上げたが(2005.11.10)それはお祝い気分に水を差す、しかしどきりとさせる文章だった。

サルコジ大統領グラックを悼むという記事(nouvelobs.com )の"l'un des plus grands écrivains français du XXe siècle"は、ジッドがシムノンを讃えた"un des plus grands romanciers du XXe siècle"を思わせるが、écrivainとromancierの違いが気になってしまう。

やはりグラック哀悼の声明を出したフランソワ・バイルーのサイトでは、あるコメントに「グラックを読んだ政治家がいるとしたら、それはまさにあなただ。当然サルコジは読んでなんかいない」( "S'il est un homme politique qui a lu Gracq, c'est bien vous. Evidemment, Sarkozy ne l'a jamais lu.”) gracq, bayrou, louxor et karl marx Posté par : synergie
これはinculte(無教養な)を検索キーワードに加えてみたら出てきた。

自分のことを棚に上げてはいけない。唯一フランス語で読んだのは『アルゴールの城にて』だが、二外で基礎を終えた程度の頃、何十日もそれこそ雲の中を行くよう、人文書院版は品切れになっていた。あの時どこまで理解できたことか。

生田耕作は『紙魚巷談』(倒語社)で『アルゴル城』からの原文を引く。「古城付近の暗い林道をアルベエルとハイデが散歩するくだり」で、くっきりとしたイメージの浮かぶところだが、引用箇所の最後に来ると、俄然難しくなる。

Parfois,un oiseau traversait comme une flèche l’exaltante avenue, et sa particulière et alors surprenante immunité frappait l’esprit à l’égal de l’énervante gymnastique d’un passereau sur un fil électrique, dans toute la durable longueur de son passage à travers ce qui paraissait à l’oeil le moins prévenu une des authentiques lignes à haute tension du globe.

時たま、一羽の小鳥がこの緊張した並木道を矢のように横切って去った。心得ぬ者の目には文字通り地球の高圧線の一つとさえ見えかねないものを横切って飛び去るかなり長い時間のあいだ、小鳥の特殊な従って驚くべき免疫性は電線の上の雀の苛立たしい体操にもおとらず精神を叩きのめすのだった。(生田訳 訳書の傍点強調は太字で代用)

ときには一羽の鳥が矢のようにこの興奮にみちた並木路を横切り、その独特な、しかもその場にふさわしからぬほどの身軽さが、まるで電線にとまった雀の体操が見る者をはらはらさせるのと同じに、うっかり見れば地球の本物の高圧線の一つとも見えるものを横切って行く、その通過時間のあいだ中、人を驚かす。(安藤元雄訳 白水uブックス)

安藤氏は訳者あとがきで、

しかしグラックを真に彼自身たらしめているのは、何よりもまず、その特異な書法であるように私には思われる。というよりも、この書法そのものが作品の主題をになっているのだから、もうもはやそれは単なる修辞論や文体論の枠をはみ出して、むしろ話法論や物語論のレベルで検討されるべきものとなっているのではあるまいか。

大変なことになってきた。しかし「書法」と「文体」が区別されていることに注目。「この文章は、俗に言う美文とは違う」にも。

ヌリシエが追悼文の後半で特に言及するのが「戦争についての感嘆すべき本」、『森のバルコニー』Un balcon en forêt なのは意外だった。

Aucun autre récit de guerre ne m'a fait l'effet du Balcon de Gracq. À mon estime, rien de Genevoix, Montherlant, Drieu ne l'approche. Aucune querelle ne vaut que ces pages soient oubliées.
他のどんな戦争の物語からも、グラックの『バルコニー』ほどの印象を受けなかった。私の見るところ、ジュヌヴォワやモンテルラン、ドリュの作にも匹敵するものはない。どんな論争も、グラックのこれらのページを忘れさせることがあってはならない。

シムノンと戦争というテーマで書いた時、『バルコニー』の邦訳にも目を通した。現代史と関わる作品が稀な著者の例外的作品。この点シムノンの『離愁』Le trainと共通する。私の記憶の中では、映画『バルジ大作戦』でアルデンヌの森をドイツの戦車が進んでくる場面(こちらは戦争末期だが)も、『離愁』や『森のバルコニー』も、混然となっている。