発見記録

フランスの歴史と文学

パンがなければ何を食べるか(2)

2005-10-30 10:56:50 | ことば
フランス革命200周年の1989年7月、パリでは先進7カ国のアルシュ・サミットle Sommet de l'Archeにぶつけるように、「第1回・もっとも貧しい7カ国サミット」が開催された。
高層ビルla Grande Archeに対しl’arche des pauvres(貧者の箱舟)と呼ばれるペニッシュにブキナ・ファソ、モザンビーク、ザイール、ブラジル、ハイチ、バングラデシュ、フィリピンの市民代表が会する。
7月8日にはジル・ペローのイニシアティヴによるデモ、続いてバスティーユ広場で歌手のルノーRenaudたちの大コンサート。「(第三世界の)債務、アパルトヘイト、植民地、もうたくさんだ」をスローガンとする。
『海外メディアの反応 乞食にはブリオーシュ』Dans la presse étrangère De la brioche pour les gueux (Le Monde13.07.89)によれば、この動きを伝える各国特派員の記事でも例のマリー・アントワネットと「パンがなければブリオーシュを」が持ち出された。10日のObserver紙は
Les dirigeants du dixième de la planète qui a réussi économiquement ne peuvent pas se contenter de parcourir les rues de Paris, cette semaine, en offrant des brioches aux gueux qui approchent du carrosse.
(地球の10分の1に過ぎない経済的勝ち組、先進国の首脳は、この週、パリの通りを回り、豪華な四輪馬車に近寄る乞食にはブリオーシュを進呈してすますわけにも行かない)

ちょっと古い記事、Guardian Unlimitedでも見つからない。英文でも「ブリオーシュ」か確かめたいところ。

フローベールはせっせと紋切型を集めた。これなど『辞典』に出てきてもよさそうだが、ない。アルフォンス・カールが風刺的雑誌Les Guêpes(「雀蜂」かWikipediaの記事で訳されているように「悪女」?)で「パンが・・・」を本来マリー・アントワネットの言葉ではなく、「急進派の扇動者」が彼女を貶めようとしたとしたのが(前出Wikiほかいくつかのページを信じるなら)1843年。
Les GuêpesはeBayでその四巻本を一瞥できる、残念ながらGallicaにはない。

Le Monde記事以外、特にCHASSAING Jérome : le Sommet de l'Arche (Paris, 14-16 juillet 1989) http://sung7.univ-lyon2.fr/ETU/arche.htmlを参考にした。




パンがなければ何を食べるか

2005-10-28 07:09:50 | ことば
「美術手帖」(11月号)篠原有司男のインタビュー記事(原田環・文)―渡米した頃は金がなく、段ボール箱を拾ってきて「オートバイ彫刻」の材料に。
「パンがなければ、クッキーを食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの台詞ではないが、材料が買えなければ拾ってくればよいというわけだ。
英米では「ケーキを食べれば」とされているようで、”let them eat cake” mentalityと言えば≪貧しい民衆がパンが食べられないならケーキを食べたら?と平然と口にする特権階級の、大衆との深刻な遊離、シニシズム、傲慢さ、等々を特徴とする心的態度≫のことらしい。
最近のバーバラ・ブッシュ問題発言騒ぎ、
アストロドームに避難している被災者を視察した後で、「あの人たちはもともと最下層の(unprivileged)人々。アストロドームは彼らには十分よ」と見下したような発言をしたことも彼らの神経を逆撫でした。 NIKKEINET(10/3)見捨てられたアメリカ人(安藤茂彌氏)

に関連しても、"let them eat cake" barbara bushで検索すると(結果)かなりの件数。

フランスでブログの普及が政治やビジネスにもたらした変化を伝える記事は題してLet Them Eat Cake -- And Blog About It (BUSINESS WEEK JULY 11, 2005)
虚構の女性Claireが書く「お肌」と化粧品のレポートだったLaboratoires VichyのブログJournal de ma peauは激しい批判のコメントを受ける。Vichyはブログを改装、ブロガーに試用依頼をすることになった。

最初の「美術手帖」の引用は、むしろ「食うものがない人間は鉄を食う」(小松左京『日本アパッチ族』の発想)を思わせる(「オートバイ」がこんな連想を呼ぶのかも)



坑夫たち

2005-10-23 18:20:13 | 歴史
Tièsses di hoie(石炭頭)とワロン語で呼ばれたリエージュの人たち。この地方での石炭採掘は中世に遡る。輸出され、リエージュは石炭産地としてその名を知られることに。(*1)
市に近いブレニーBlényの炭鉱は閉山後、炭鉱博物館Blény-Mineとして生まれ変わった。サイトのTOPページはその誕生25周年を祝う。

労働者階級の博物館なるものがあるらしい。プロレタリアという歴史的に特異な存在が、いつの間にかブルジョワより先に消滅してしまったとでも言うのだろうか。


「ヨーロッパ人の歴史を求めて」クリスチャン・ドブリ岡林祐子訳 ディプロ2003-8
http://www.diplo.jp/articles03/0308-5.html

”Vieux Papa"と呼ばれるシムノンの曽祖父Guillaume Moors(または Moers) (1823-1909)は、もと炭坑夫だった。Pedigreeで一族が会するla rue Puits-en-Sockの家で、曽祖父は薄暗い台所の奥の肘掛け椅子に座り無言でじっと動かない。大柄で、床につくほど腕が長い。
「サンドペーパーのようなざらざらした頬に子供たちはキスをする」「もと坑夫の皮膚には、石炭片を象嵌したようにぽつぽつと青い斑点が残っていた」(Pedigree, Actes Sud版 p.40)

曽祖父を初めとする肖像は→Simenon-Galerie des Portraits

Pedigreeに坑夫たちが群れとして現れるのは、メーデーとゼネストの第6章。長い横断幕には
  POUR LES TROIS-HUIT
市を取り巻く炭鉱や工場から来た労働者は、8時間労働、8時間の休息、8時間の知育と体育を求める。(*2)マムラン家のような市中の住民は、ふだん彼らの労働現場を目にする機会がない。「真っ黒で謎めいた」工場は、ただ列車の窓から一瞥するもの。
Cuir bouilli( 革を熱湯処理で固くした。防具に用いる)のヘルメットの坑夫たちが通りを険しい顔で行進するのを、人々は恐る恐るカーテンの陰から窺う。(同 p.108)

(*1)Les 32 vieux métiers liegeois
http://users.skynet.be/formatage/vieuxmetiers/
(*2)L’Histoire du 1er Mai
http://www.sap-pos.org/fr/histoire/histoire_1mai.htm



Métro, boulot, dodo

2005-10-21 22:22:28 | ことば
sleepWikipédiaの記事はドードー鳥dodoの語源について
...le nom de ? dodo ? serait originaire du néerlandais dodars ou dodoors, qui signifie ? paresseux ? et qui est également à l'origine de l'expression enfantine ? faire dodo ?.


(dodoの名は「怠け者」を意味し、同様に幼児語faire dodo「ねんねする」の元にもなったオランダ語dodarsあるいはdodorsから来るらしい)

連想ゲーム。

「仕事に追われる単調な毎日」ぐらいの意味か、時々お目にかかるフレーズ? Métro, boulot, dodo ?(地下鉄、仕事、ねんね)が、実は詩人Pierre Béarnの作品(*)から取られ、1968年5月、学生叛乱のスローガンの一つになったと知ったのは昨年のこと。
1902年生まれのベアルンは、機械工をしていたこともある。2004年10月27日、102歳(!)で亡くなった。

シムノンのPedigreeで、デジレ・マムランは毎朝勤務先の保険事務所まで歩いて行く。
La rue des Guilleminsの角まで来ると駅の時計が見える。9時5分前。
経営者Monnoyeur氏宅は「切石の大きくて悲しげな家」、la rue Sohetに面した事務所はそのいわば付属。9時2分前、鋲を打ったドアを押し中に入る時、そこには確かに「威厳と特別の満足」がある。デジレは「別の人間、第二のマムラン」になる。コレージュを出てすぐから勤めてきたデジレは、Monnoyeur氏よりも経験がある。
「コートと帽子を取るより先に職場の時計のねじを巻く。時計が止まっているとぞっとする。決して止まることがないよう、なすべきことをなす」
強制されたわけではない。一番に出社するのは気持ちがいいからだ。タイプライターや消しゴム、鉛筆を目にする喜び。
他の社員も出勤してくる。Monsieurで呼び合う。同期のデジレとCaresmelだけは姓で呼ぶ。
デジレは火災保険、Carsemelは生保部、それが給料の差になっている。
妻はデジレが、緑のステンドグラスの窓のそば、気持ちの良い小さな自分の片隅son petit coinを失うのがいやで火災保険部を選んだのだと責める。

帳簿は完璧、計算が誰よりも早い。その出自(「ムーズ川の向こう」の古い商店街)からすれば「インテリ」であり、身内に保険のことで相談を持ちかけられる。
「搾取」や「疎外」といった語で労働を語るなどデジレには思いもよらないだろう。規則正しさと習熟がもたらす満ちたりた気持ち、確かな自分の場があることの幸福。
家の台所に置かれた肘掛け椅子は同じような「自分の小さな片隅」である。妻の意志で始めた下宿の学生が平然と「デジレの椅子」に坐るのは、デジレにとって大きな苦痛をともなう。それは一つの喪失、敗北なのだ。

(*) 1951年の詩集 Couleurs d'usine に収録された Synthèseの最後の節だという。
Au déboulé garçon pointe ton numéro
pour gagner ainsi le salaire
d'un morne jour utilitaire
métro boulot bistro mégots dodo zéro.

http://www.lmda.net/din/tit_lmda.php?Id=4854 による。


ドードー・ミュージアム

2005-10-18 10:08:09 | アート・文化
DODO1検索の偶然、Emmanuel Richon氏のLe musée du Dodo
http://www.palli.ch/~kapeskreyol/dodo/index.phpを見つける。
モーリシャスのlexpress.muの記事http://www.lexpress.mu/display_search_result.php?news_id=39966によると、 リション氏は学芸員muséologue、絵画修復がご専門。著書にはLe voyage de Baudelaire à l'île Maurice et à la Réunion  またボードレールの詩のクレオール語訳など。

モーリシャスのシンボル、ドードーの博物館ができれば観光客も集まりそうだが、予算がない。まずネットで作ってしまおうとなったらしい。

日本にもドードーの絶滅という立派なサイトがある。Le musée du Dodoは各ページが仏語とクレオール語で併記、クレオール語は音声が聞ける。

モーリシャスではクレオール語はこれまで学校で学ぶ言語ではなかった。このヴァーチャル・ミュージアムは教育素材としても現段階では貴重なものだという。
ドメイン名が.chになっている。スイスの女性、リセで化学と生物を教える Francesca Palli さんがwebmasterだからか。(そのプロフィールはhttp://www.palli.ch/~kapeskreyol/divers/francesca.html